山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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日本スパイ網ジェームズ情報ネットワーク

日清戦争が勃発する前、日本政府は、計画的な戦争の必要性に応じて、いくつかの緊急情報ネットワークを事前に配置し、その中でも最も重要かつ秘密の一つは、おそらく英国のジェームズが日本の為に設立した情報ネットワークでした。

では、このイギリス人のジェームズは、何者ですか?そして、どのようにこの情報ネットワークを構築しますか?この情報ネットワークはどのような役割を果たしているのでしょうか。

明治5年(1872年)5月28日、ジェームズは日本海軍に正式に採用されました。日本海軍での彼の最初の仕事は、海軍の「筑波(つくば)」の航海指導インストラクターでした。

明治5年6月に天皇南海視察に参加し、明治6年、7年、9年連続で福島、大久保、黒田などの日本高官を海外視察のコンボイに派遣した。

明治9年「高雄丸」に転向。明治10年、日本の「南西戦争」が勃発すると、先駆的な蒸気船「玄武丸」の船長として、政府軍による豊後水路の封鎖と調査に携わっていた。

明治9年、日本海軍横須賀鎮守府顧問に就任。明治12年に「日進」の航海士を務め、翌年11月に日本海軍から解任された。おそらく、日本人はジェームズが日本海軍の発展に追いついていないと考えているので、日本はより高度な海軍専門家を必要としています。

明治15年2月28日に始まり、役1年間、ジェームズは商学校の練習船「明治丸」の2番目の船長を務めた。

この船は練習船として建造され、後に商船学校の練習船として使用されました。

海軍の退役後、イギリスのアームストロング社の代理顧問として、日本の為に「筑紫」「浅間」「磐城」などの軍艦の購買の針を刺し、明治16年にチリ、明治17年にイギリスから上述(じょうじゅつ)三艦を運転して帰国した。

明治19年、日本海軍がフランスから発注した3,600トンの軍艦「畝隣」は、シンガポールから帰国する途中、行方(ゆくえ)がわからないのでそれジェームズは「明治丸」を運転し「畝隣」を探し、苦労して明治20年に3等賞を授与され、22年終身年金を授与されました。

明治25年、逓信省管船局名誉顧問担任。また、三菱商船学校、共同運送協会、郵便運送協会(明治29年ロンドン初の支店長)などを歴任。

この間、ジェームズは日本人女性と結婚し、東京の南品川馬場町に住み、近くの急斜面の建設に資金を提供し、ジェームズ・ポーと名付けられました。ジェームズが日本社会に溶け込んだのは、後に明治政府高官が大胆に中国北洋海軍の情報収集を委託した信頼の土台となった。

明治41年1月、ジェームズは急病を患い(わずらう)、横浜で70歳でなくなりました。生前は仏門に改宗し、死後、

日本の延山久遠寺に埋葬された。

ジェームズは中国でスパイ網を構成する命令を受ける。

ジェームズは日清戦争以前に、日本の為に21年ほど勤め、深く日本人の信任を得ていた。1894年、56歳の時、日本への最後で、最大の貢献の機会が訪れた。
1894年6月13日、日清戦争が勃発する前に、時の日本海軍大臣の西郷従道に緊急にジェームズを呼び出し、じきじきに彼に中国上海などの地に赴き(おもむき)、スパイ網を打ち立て、清国北洋艦隊の動向を探索するように委託した。ジェームズは喜んで、すぐさま承諾(しょうだく)した。
翌日午前、ジェームズは日本の内閣総理大臣伊藤博文と外務大臣陸奥宗光(むつむねみつ)に面会し、彼らに西郷の命令と自ら命令を執り行う手続きなどを報告し、二人の後援を得た。
ただ一般のスパイ(外国人に限らず)がこのような礼遇を受けたことは事情の重大さと日本政府の最高当局の重視していることを物語るものである。
6月14日から17日まで、ジェームズは東京に電報中核機関を設け、専門的に中国情報の暗号電報を受け取り、解読して日本海軍へ送達することに利用した。責任者はユード・ジュール(尤德·焦尔)というイギリス人である。この人のことは不詳であるが、ジェームズの紹介で、東京芝山内(増上寺)に住んでいて、信頼のおける人であった。上海では、ジェームズはS.J.モリスというイギリス人を選び、天津と芝罘から来る電報を転送する責任を負わせた。一連の手続きを完成する(暗号本は駐日のイギリス某商会から購入した)と、ジェームズは6月18日に匆々に出発して、イギリス商船で横浜を離れ、23日に上海に到達した。
6月28日、ジェームズは芝罘に来て、ここで、J.P.ウエイクというイギリス人(ヘルゲソン商会の責任者)を見つけ、彼に北洋艦隊の行動と軍隊の石炭、火薬の積載(せきさい)運輸の軍事情報の探索の責任を負わせた。
6月29日、ジェームズは天津に到着すると、ジェームズ・ウィルソンというイギリス人を指定して通信員として、天津から軍隊に関する運輸,朝鮮、旅順、威海衛への運輸、石炭の運送情報を手渡した。

フレンドリー山東
そのまま、ジェームズは10日あまりを使って、北洋艦隊の駐留す核心的地域に、天津➖芝罘➖上海➖東京の四所一線のスパイ網を打ち立てたが、これは中国人がどうあっても思いつかない致命的な秘密のスパイ網であった。
7月11日、ジェームズは上海から神戸へ帰り、12日午前8時に品川に到着した後、すぐさま日本海軍廠次官伊藤中将の私邸に向かい、自分の設立したスパイ網の工程について詳細な報告をした。

上述の工程は、ジェームズの中国での慌ただしい旅の、目的がやはり日本軍の為の秘密スパイ網の設立であったことを明らかにするもので、間もなく、日清戦争が勃発すると、日本の連合艦隊は挑み来る(いどみくる)北洋艦隊に第一発の成功を収めた。その後、北洋艦隊の豊島は利を失い、黄海は敗北し、威海衛全軍が陥落したが、日本軍部に情報が不足しているようではなかった。この中で、ジェームズの設立したイギリス人情報網が一体どのくらいの作用を発揮したのかは知り得ない。だが少なくともジェームズの旅行報告が日本軍部へいささかともの貴重な情報をもたらしたことは見るように明らかである。

ジェームズは報告で「自分が天津に着いた、6月29日30日ごろ、(北洋艦隊が)ドイツ「エッセン」のクルップ社に巨額の弾薬を発注した。これらの弾薬は主に鎮遠、定遠とその他のイギリス製ドイツ製の巡洋艦に配備されている大砲に用いられる。そして弾薬はドイツ船または英国船で上海に運送され、上海から中国商船、あるいは直接英独船で直ちに威海衛あるいは軍艦の側らに運ばれた。そして電報が到着すると、すぐさま装弾はヨーロッパを離れ、7月下旬あるいは8月上旬には上海に到達する。私は既に上海の通信員S.J.モリスに、これらの船の到着時刻を厳密に監視し、船名及びその他の事項を電報で通知するよう命じている。一旦開戦すれば、上海で、また洋上で阻止できる。」と明らかにしている。
当時の日本海軍当局にとって、上述の情報は間違いなく非常に貴重でした。当時の日本海軍は、北洋艦隊の7,335トンの装甲艦2隻をまだ恐れていたからです。
北洋艦隊の鐵製装甲艦を扱う為に特別に設計された日本の新造の三景艦(さんけいかん)と比較して、それはトン数と火力の両方で利点があります。日本海軍はそれを大きな脅威と見做しています。鐡製の装甲艦は弾薬が不足すると、歯のない虎かと爪が折れた北極熊(ホッキョクグマ)になります。恐ることは何もありません。ジェームズによって提供された情報は、間違いなく、北洋艦隊に対する日本の連合艦隊の奇襲攻撃の前進に貢献した。
実際の状況はこうである。1894年9月7日、平壌清軍統帥(とうすい)葉志超は電報で李鴻章に増兵支援を要請した。8日、李鴻章は電報で銘軍4000人に、軍備を整え、5日以内に朝鮮へ移動するよう命令した。

9日、盛宣懐は銘軍を護送して威海衛の丁汝昌へ伝達する任務を受けた。12日、丁汝昌の率いる艦隊主力は威海衛を離れ、大連湾での護船任務へ向かった。そして日本の連合艦隊は当時朝鮮大同江口西南方向の小乳纛岬(みさき)海上にあって、北洋艦隊の航跡を四方捜索していた。この時、伊藤佑亨は第一遊撃隊の吉野と秋津洲両艦を威海衛に派遣して、北洋艦隊の主力動向の探索を命じていたが、結果は何も得るところがなかった。
9月13日旅順口に到着した丁汝昌は威海衛に二隻の日本艦船が出現したという電報を突然受け取り、艦隊を率いて山東半島東端の栄成角海域に到達したが、この日、即ち14日はドイツ船「エリニ(Elini )」が弾薬を搭載して、威海衛に到着する予定の期日(きじつ)であった。丁汝昌は日本艦船がドイツの輸送船に突進したと判断して、それで早急に連れ戻そうとしたのである。当日ドイツ船は時刻通りに到着せず、丁汝昌は当夜威海衛を離れ、15日に大連湾へ帰った。慌ただしい往復いうべきである。
15日、日本海軍軍令部長の樺山は北洋艦隊の航跡を捜索しきらず、身辺の参謀伊集院五郎を伊藤司令官に面会させ、北洋艦隊の主力の捜索の継続を要求する、自己の意見を伝達させた。伊藤司令官は上述の意見を受け入れ、艦隊を率いて遼東半島東海岸の海洋を捜索した。結果17日の午前11時30分ごろ北洋艦隊を発見し、中日の主力艦船の生死競合は避けられない場面となった。
上記の紹介により知ることのできる、日本海軍のために情報を提供したのは外国の大北電信会社上海支社の責任者へニング・ガーソンで、ジェームズの物色(ぶっしょく)したS.J.モリスではなかった。これは全く不可解(ふかかい)である。彼らの間にどんな関係があるのかもしりえないんだが確かなことは、情報源はきっと天津の李鴻章幕僚の一人で、かつ外国人である。つまり、ジェームズのスパイ網のほかに、別に外国人スパイ網が存在していて、継続して証拠を掘り起す必要があるのである。
日清戦争の後に、日本政府は日本の為に貢献した外国人を表彰した。1895年12月31日、彼は日本政府から勲(くん)二等旭日章を授与され、彼の日本に対する情報事業の貢献が大変是認(ぜにん)された。
日清戦争前、日本は中国に既に幾つもの膨大な隙のないスパイ網を持っていた。
そして両国が宣戦後、日本政府は殆どのスパイ網が国内を撤回し、あるいは中国の軍隊と警察によって指摘され、逮捕され、最終的には維持できずに退去した。だが外国人が日本の為に設立したスパイ網は元のまま次々と情報を提供していて、これは中国に計り知れない損害をもたらした。日中両国が宣戦後、西洋国家は続々と中立を宣言している。しかしながら一部の外国人は各自の目的により、色々な形式で日清戦争に係った(かかわる)が、ジェームズのスパイ網もその一例である。