椅子山堡塁に象嵌された花崗岩のブロックは何処へ行ったのか
旅順の椅子山堡塁の旧跡は今の大連市旅順区水師営街道寺溝村西南方向にある。早期の砲台は清軍が1889年に建造し、日清戦争時期に、ここを留守した清軍程允和部隊は血なまぐさい戦いで、激しい砲撃の掩護の下で日本軍第ニ2旅団の攻撃を何度も撃退した。ロシアは強制租借の時期に、この砲台に対して堡塁を形成するために再建された。砲台の南面は160メートルを建築し、セメントで26個の窓口を作り、南北に5つのアーチ型のドアを作り砲台の背面には4本の秘密の道があり、西側の秘密の道は長さ32.5メートル幅2.5メートル、高さ3.49メートルであった。日露戦争中にはこの砲台の戦略的位置大変重要で日本軍の猛烈な砲撃を受けた。1905年1月2日ロシア軍が投降すると、翌日椅子山は日本軍に占領された。現在の堡塁は日露両帝国主義が旅順口を争奪した歴史の物証である。
椅子山堡塁は旅順に現存する大型堡塁の中で最も厳重に破壊されている。所有の門口に象嵌された花崗岩のブロックは全部降ろされて運び出され、火石されも免れ(まぬかれる)なかった。
この堡塁は現在傷だらけで、面目は全くない。その原因は、1970年代に、山下生産隊が、石ブロックで養鶏場を建造したためである。10年前には寺溝村の羊飼いが私に、この山辺の溝底の人家が家のために花崗岩のブロックを持ち出したと言った。山の前であっても、山の後ろであっても、一言で言えば人為的(じんいてき)な破壊であり、戦時中の北方からの砲撃と何ら関係がなかった。
2006年、私は旅順の戦争遺跡について全面考察を進行し、堡塁と砲台が同様に破壊された現状に対して、旅順の戦争遺跡を保護強化を建議した。当時鋼鉄が欲しくて鋼鉄を打ち取ったの現象は比較的深刻で、専門者が管理できなくても、森林保護員代行管理しても良い。私は始終(しじゅう)この戦争遺跡を保留して、後世の人にここで発生した何か訴えることができる。
文章をここに書いて、詩人流沙河が書いた『旅順口』の数句を思い起こした。「日本軍の高塔を仰視(ぎょうし)すれば、一柱天に聳え、露軍の堡塁と、幾つかの荒丘を見下ろします。天皇は勝ち、沙皇(ロシア皇帝)は敗れ、我が中華の恥をかかせた。この国辱(こくじょく)の絵巻に対して、我々は恥辱と後の勇気を知るべきである。
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