山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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ウィリアム・マルコム博士と煙台で最初のアマチュア無線局


近代煙台が開港後、大量の西洋人が前後して煙台で仕事、生活をしたが、彼らはまた当時最先端の科学技術をも煙台にも持たせた。これらの先端技術は煙台の近代史上に消すことのできない痕跡を残している。例えばカナダ人ウィリアム医師は近代煙台最初の無線ラジオ局を設立した。

ウィリアムは、1861年生まれ、アメリカのニューヨーク大学で医学の学位を取得し、1892年に、カナダ長老派教会から中国に派遣され、河南省で医療宣教に従事し、義和団の運動後に河南省を離れた。1917年、ウィリアムは東海関から煙台港の検疫官に任命され、その医療が卓越したので、煙台のカトリック教会の施病院に主治医に招かれ、またイギリスの煙台駐在の領事館の医師を担当した。また、煙台大馬路にウィリアム診察所クリニックを開設した。

煙台で最初のアマチュア無線ラジオ局

業務が熟練した医師であることほかに、ウィリアムはアマチュア無線愛好家であった。でもあった。20世紀初頭、世界初のアマチュア無線局が登場した。その後間もなく、アマチュア無線放送局か西洋人の伝入と共に中国の商業港に広がった。

ウィリアムも最新の高等技術に魅了された。1929年頃、70歳近くのウィリアムは、香港の税関職員であるジョージ・メリアン(コールサイン(VS6AH)からアマチュア無線局技術を学び、そして、中国政府の許可のない状態で、煙台山の西麓に煙台の歴史史上で最初のアマチュア無線局が設置された。この無線局はコールサインはXU3MA(XU8MAとAC3MAも使用)であった。ウィリアムの設立されたアマチュア無線局は、近代中国で活動している数少ないアマチュア無線局の一つある。ほぼ7年余りウィリアム医師が設立した放送は、山東省で唯一のアマチュア無線局であった。

アマチュア無線局を設立後、ウィリアムは疲れ知らずでこれにはまり込んだ。中国の商業港にあるアマチュア無線局との定期的な連絡のほかに、ウィリアムは、香港、天津、シンガポール、及び英国遠東の艦隊基地、他の海岸局とも密接な関係があった。英国王立海軍は民間のアマチュア無線局との連絡は見下げていたが、しかし、ウィリアム医師のアマチュア無線局との連絡は重要視された。何時に限らず、ウィリアム医師の連絡は、英国王立海軍はこれと連絡を取り、時にはウィリアム医師のアマチュア無線局は政府の商業活動にも使用されることもあった。当時の政局の通信連絡が混乱していた山東では、大手の電報会社の通信連絡がいつも断続的であった。そこで、煙台王立海軍にとっては、ウィリアム医師アマチュア無線局は煙台との通信連絡をするためには重要な選択であった。
ウィリアムの影響で、彼の娘もアマチュア無線ラジオ局の操作を好み、彼女も小さいことから無線連絡の言葉が出来るようになり、言葉を学び、15歳の時、職業と言える有能なアマチュア無線家になった。ウィリアム医師が公務で忙しかったり上海へ出張の時、彼女も彼に代わって操作した。
ウィリアムは煙台で無断に無線を設置したが、明らかに中国の無線管理制度に違反していた。1930年1月23日、中国民国外交部は、「煙台の西洋人、マルコムが無線機を私設設置した事件の交渉」をイギリスの駐在中国公使に手紙を送り、厳重な抗議をした。中華民国政府の強い攻撃の下、ウィリアム医師のアマチュア無線局は強制的に閉鎖され、機体は解体された。だが間もなく、山東に住む西洋人の強烈な抗議で、ウィリアム医師のアマチュア無線局は運行を回復した。

無線ラジオ局の建てた功績

1930年代の中国では、ウィリアムのアマチュア無線局は通常のアマチュア無線局の役割を遥かに超える担当した。彼の無線局はもはや簡単なアマチュア無線局ではなく、時には都市全体を(守る)バンガー内の通信センターであり、大英帝国が激動する中国で情報を入手するための重要な通路になった。1934年、山東省北部の沿海で中外に衝撃を与えた「順天号」船の強奪(ごうだつ)と、1937年の第二次上海事変で、ウィリアムのアマチュア無線局はその中で重要な役割を果たし、大英帝国と中国の商業機関は重要な貢献をしてきた。ウィリアムのアマチュア無線局は重要な作用を発揮し、大英帝国と中国での商業機関に重要な貢献を作りました。
1934年6月、山東省北部の海岸で中外に衝撃させた強奪〜イギリスの太古洋行商船「順天号」が乗っ取られ、数十名の中外の乗客が拉致された。この危機的状況において、ウィリアムは最初にイギリス公使団に「順天号」ハイジャックされたの消息を発出し、これは、米国と英国の政府が迅速に対応し、決定を下すための重要な支援を提供した。事後、ウィリアムはイギリス政府から公開感謝を獲得した。
1937年8月13日に第二次上海事変が勃発した。この第二次上海事変は抗日戦争の最初の大型会戦であり、また日中戦争で規模が最大であり、戦闘が惨烈な戦争であった。第二次上海事変が勃発後、煙台と上海の衝撃電報の通信は完全に中断し、煙台のこの商業社会と上海は情報が通じなかった。この種の厳しい情況で、英国商務会と三家の最大の電報会社、即太平洋商務電報公司、大北電報公司及び英商大東電報公司は共同で、ウィリアム医師に煙台での対外連絡の重荷を背負うよう、煙台の商業区と上海の間に連絡通信の重責(じゅうせき)を請求した。煙台の外国公会も同様にこの服務の特殊な価値に注意し、ウィリアムにこの重責を果たさすることを強く促した。ウィリアムは当時77歳の高齢であったが、それでもこの困難な仕事を引き受けた。
第二次上海事変では、煙台で英米などの洋行に500通以上の無線電報を発送した。無線放送の別の一端は上海のマクドナルド(コールサインXU 8DI)が電報の受信を担当した。マクドナルドはイギリスの上海駐在のイギリス駐留軍ロイヤル信号隊の職員であった。日本の中国侵攻のこの最も困難な時期に、ウィリアムは煙台経済界が中小企業ラジオ局を通じて煙台商業区と上海に情報を流し続けるのを助け、煙台の大多数の外国人居住者の安全と保障に多大な貢献をした。事後にウィリアムは「82ヶ所の異なる商業機構に商業及びその他の情報を、彼らに満足させる消息を提供できて、私は人々を喜ばせたと考えていると、謙遜して話している。
1938年2月、日本軍は煙台を占領し、煙台管理局、電気通信、電話局、税務局、税関、銀行などの機関をそれぞれ占領した。1938年12月、ウィリアムは煙台を離れて上海に向かった。彼は娘婿のスター(近代中国の遠東保険大王)が創立した友邦人寿保険公司とアメリカ人寿保険公司で医学部副主任を担当した。「真珠湾攻撃」の後、日本軍は上海を占領した。ウィリアムの高齢のため、日本軍は彼を監禁しなかったが、1943年にカナダに送り返した。この方は52年間中国で医療と布教の仕事をしたカナダ人で、アマチュア無線放送局の愛好家であったが、これ以来中国を去った。1946年にウィリアムはニューヨークで亡くなった。