大連から旅順へ至る鉄道はなぜ黄家村を迂回するのか
2014年4月以前、緑色の鈍行汽車は黄家村を経由した迂回路があり、これは大連旅順間の唯一の急カーブである。このカーブがどうして形成されたのか理解しようと考えるには、まず中東鉄道が何か、中東鉄道は誰が建設したのがの二つの問題をはっきりする必要がある。中東鉄道は「中国東方鉄道」の略称で、また「東清鉄道」「(大清)東省鉄路」とも作る。日露戦争終結後は中東鉄道と称したが、これは中国の東方の省(地方行政区画)部分の鉄道の意味である。長春鉄道は19世紀末20世紀初頭の帝政ロシアが中国の東北資源を掠奪するため、極東地区を制覇するために建設した「丁」字形の鉄道である。中東鉄道は1897年8月に施工を開始し、1903年7月に正式に開通運営をした。
元来この線路は長嶺子駅から出た後黄家村を通過せず、西南に向かい曹家地を回避し、大山に向かい龍頭を駆け抜けて来た。では後にどうして迂回路を森林中を突き抜け形成したのであろう。
長嶺子汽車駅
当時、ロシアの鉄道建設測量士は黄家村の北部で働いていました。ロシアのエンジニアが村の家に水を求めに行きました。その家のおばあさんはきりきりしていて、人が来たのを見ると疑って断固として家に入らせない。水を飲ませないばかりかエンジニアを追い払った。
そのエンジニアは憤然と立ち去り、やがて杭(くい)を持った数人の男を連れて、老婦人の家の裏の窓の外にそれを立てた。そして、線路がそこを通った。老婦人の態度が悪くて水を飲むことができなかったので彼らはその家を壊してしまったが、そこまでするとは水を飲みに来た人(エンジニア)もひどいものである。このように鉄道会社は村の中に一本の曲がりくねった線路を作り、一つの村を線路より東、西の二つに分けた。
このブログへのコメントは muragonにログインするか、
SNSアカウントを使用してください。