ロシア軍は営城と王家村の鉄道橋を爆破した
1904年5月26日夜遅く、旅順要塞司令部から急電を受けたダリーニ(大連)市長は5月27日夜が明ける前に大連のロシア住民を旅順に撤退させるよう指示した。ロシア軍は大連から緊急撤退し、市役所を燃やし、鉄道を爆破した。
1900年に設立された帝政ロシアダリーニ特別市庁舎は1902年5月30日に開館した。日露戦争では1904年5月28日、ロシア軍が旅順要塞に撤退する際、火をつけて焼失した。日本人達が撮った焼けた古い写真を見ると、建物全体が殻一つだけ残っていることを知ることができる。
ロシア軍は、日本軍が鉄道輸送を利用して旅順を攻撃するのを防ぐために、営城子と王家村鉄道を爆破した。英城子鉄道橋が完全に爆破された。下の写真は、日本軍が爆破現場を見ている様子。急いで爆破したため、両側の橋脚を爆破せず、日本軍は短い時間内に橋を復旧した。旅順要塞を砲撃するのに使われた280ミリ榴弾砲は、この鉄路を通じて周家村の大山の下まで運搬した後、各砲陣地に人工的に移動した。
日本軍はなぜ王家村の鉄道橋を一緒に復旧して280ミリ砲弾を王家屯と姜家村一帯の砲陣地に直接移したのだろうか。竜頭の地形をよく知っている人達はその理由をよく知っているが、その一帯の鉄路線はロシア軍の砲火の範囲内にある。
上の写真は王家村の鉄道橋がロシア軍によって爆破された状況で、橋の一帯が地に落ち、一端が橋脚の上に残っており、橋全体が完全に爆破されなかった。ロシア軍の砦である砲台と近いため、戦時に復旧されなかった理由の一つは危険すぎるということと復旧の必要性がないということだ。日露戦争が終わるまで、それは修復されませんでした。この写真の中のあの山は旅順大孤山だ。
中東鉄道は19世紀末20世紀初め、帝政ロシアが中国東北部の資源を奪って極東地域を制覇するために建設した‘丁’字形鉄道だ。中東鉄道は1897年8月に工事を開始して1903年7月に開通された。開通後、ロシア軍が大連を爆破して旅順区間に繋がる鉄道橋の運営期間は1年足らずだ。
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