山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

中国山東省旅行、野球友好交流旅行、ゴルフ旅行、中華文化、歴史故事、中国野球、健康。

ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
当社の日本語WECHAT ID:18660355510。当社の日本語対応WECHAT IDを追加し、チャットでお問い合わせも可能です。

魯迅と内山完造の友誼

「内山完造は魯迅が最も親しくした外国の友人であった。」この言葉を誰も疑わない。

魯迅先生が最後の手紙は内山完造に宛てたものである。生前彼の治療を担当した医師も内山完造が紹介した須藤であった。魯迅の死後、内山完造は8名の葬儀委員会のメンバーの一人となった⋯⋯。

内山完造と魯迅の関係で人を驚かすほどの一つの現れは、魯迅は日頃から一般人と共に往来がなかった元妻の「朱安」が、なんと晩年の生活が困難な時に手紙を内山完造に書いて助けを求めたことである。

夙に朱安が内山完造に手紙を書いたのは17年前の、1927年10月5日、魯迅と内山完造は始めて合って面会した。当日、魯迅は広州から上海に来て三日目であった。

その日、内山書店の顧客は大変少なく、魯迅は東側の門より店に入った時、内山完造と妻の井上美喜は共に店で座っていた。

魯迅はその日平織の(簡単な)中国服を着て、足にはゴム底の白布靴で、靴の両側はそれほど白くなかった。彼の頭髪はやや伸びていて、ちょっと口ひげを蓄え、赤いパイプをくわえていた。


魯迅

言うまでもなく、魯迅の当日の装い(よそおい)はまるで本を買うことのできる様子ではなかった。当時本一冊は1〜2元であったと、知られているが、魯迅のその衣裳では二元にもならない恐れがあった。

しかし、内山夫妻が予想だにしなかったのは、書架を巡って一巡らして見た後、その普通の扮装の男子は本を選び始めた。たった一回の勘考(かんこう)で、彼は10數冊の本、合計50元余りを選んだ。

50元余りは、当時一筆でも小さくないお金で、内山完造の回想によれば、「50元余り」、この数字は既に内山書店の一日の本の販売額を上回っていた。

しかしその日、魯迅と内山完造はお互いに気づいていたが、話はしなかった。

5、6日後、魯迅が再び内山書店にやってきたのを内山夫人が気づき、急ぎ夫にこっそり知らせた。そこで、内山完造は来店した彼に熱心に話し掛けた。

その時の魯迅の内山完造に対する反応から、この若い店主店主と友人になろうとしていることが窺えた。

実のところ、魯迅は初めて内山書店を訪れた時から、早くもこの書店の店主は平凡な人物ではないと断定していた。なぜなら、この書店にある本は他では手に入らないからである。更に魯迅がとても驚いたのは、この書店では進歩的な書籍を販売していることだった。

魯迅にとって、簡単ではないのに日本人が中国でこれほどの規模で書店を開いた上に、好みに合っていたのが珍しかったのである。ゆえに、楽しく雑談をした後、すぐに内山完造と親交を深めようと考えた。その日、書店を出た時に魯迅は内山完造に自身の住所(東横路景雲里23号)を直接伝え、今回選んだ本を家まで届けてくれるよう頼んだ。

住所を書き留めた後、内山さんは自然に「お名前は何とおっしゃいますか?」と尋ねた。魯迅は「周樹人」と答えた。内山はそれを聞いてびっくりした後、“あなたが魯迅先生ですか?”

内山完造が魯迅のペンネームを読んだ時、魯迅もすぐに驚いたが、彼はすぐに顔の驚きを止めて頷い(うなずく)た。その日魯迅が去った時、内山完造は崇敬の眼差し(まなざし)でこの人の背中が離れていくのを見送った。

内山完造が魯迅の本名を知っているのは決して不思議ではない、なぜなら2人が知り合った時、彼は既に中国上海で10年間書店を開いていたからで、彼は中国の文人や社会に対する理解がもっと多かったからである中国人がもっと多い。


内山書店は夙に1917年に成立して、成立当初は、僅かに内山夫人喜美の退屈な時間を過ごしていた。そのため、最初の内山書店は乱雑無秩序で、また当時彼らの住まいと書店は繋がっていて、内部空間は閉塞して話にならないことは、史料の記載を根拠に、当時の内山書店はこのようなものであった。

一階には8畳大のの一間と3畳の和式部屋、2階には11畳大と三角形の小部屋がある。

初め、経営的に、内山夫人が家庭の副業の形式で誕生した内山書店は非常に単調で、彼女はキリスト教方面の書籍を売った。

内山がキリスト教方面の書籍を専門に経営するのは、内山完造と夫人がどちらも敬虔(けいけん)なキリスト教徒であったことに因る。

書店開業間もなく、日本経済の成長に随い、日本人は国を出て海外に行き初め、当時上海でチャンスを求める日本人は毎年千人に上る数に増えていた。しかも内山完造の所在地区は、在留日本人の高級住宅街であった。経済収入の高い人達が集まるほど、文化に対する要求も強烈である。それで、徐々に、内山書店の商売は次第に良くなった。

内山完造は商人の出身で、そこで、彼はすぐさま、書店を開くことは形勢の赴くところであると意識した。それで、1924年に、内山完造は魏盛里の通りに面する家を買い求め、独立した書店の経営場所を作った。

当時、内山書店は経営範囲を迅速に拡大しただけでなく、職務に大きな変化が発生した。しばらく毎に、内山書店は無数の文芸愛好者を集めたが、彼らはここで世間話を、詩歌文学を論断し、専門的に内山書店に行って小型の講座を挙行する人もいた。

内山書店はこのように多くの日中文化界の人士を呼吸し、内山の浮世離れ(うきよばなれ)した経営以外にも、内山完造が提供する図書資料の豊かさ、書店環境の心地よさが関係している。

内山書店が迅速に上海で壮大に発展できた別の原因は、内山が極めて仁愛の心の店主であったことである。これは彼に知らない内に良好な名声と、良好な人脈の基礎を蓄積した。


内山完造老年

当時、中国は人力車が流行し、上海の人力車夫は一段と多く牛毛のようであった。毎年夏になると、往々にして人力車夫は堪えられない時期で、天候炎熱のために労働の辛さは大きく、人力車夫は往々に午後には喉が渇いて声を出すことができなかった。

キリスト教徒の内山完造は見ると自然に憐れみを感じ、彼らのために夏には一口清涼(せいりょう)な茶水を飲むことができるように、内山書店の入り口にブリキの薬缶を置いた。彼は初めに大袋の茶葉を入れ、更に上海弄堂の「老虎灶(虎印の竈)」からお湯を買って来て(薬缶に)入れて人力車夫の喉の渇きを癒し(いやす)てあげた。

内山書店の入り口でお茶が飲めることはすぐさま人力車夫に知れ渡り、そこで、夏には毎日内山書店の入り口で列を成して茶を飲む人がだんだん増えた。ある時、内山書店の一日に3石3斗(110リットル)を飲み干した。

経営を考慮するため、内山完造は定期的に書店内で定期的に文芸が語り合う会、いわゆる文芸漫談会、また「上海漫談会」ともいうを開催した。そこには規則が無く、また特別な会員もなく、参加者は当時の中日政治、文芸などの問題について自由に語り合った。

これらの由縁で、魯迅が1927年に内山書店に来た時、この書店は既に少々有名であった。魯迅が初めて内山書店に行ったのは偶然かどうか明らかに示す史料はないが、ただし事前に内山書店に関することを聴いて本を買いに行った可能性は極めて有る。

後に公刊された魯迅の日記の記載とすると、魯迅が初めて内山書店に来た時の記載は次のようである。「内山書店に行き4種4冊を、10元2角で買った。」ただ「行った」とだけあり、魯迅が初めて内山書店に行ったのは偶然ではなく、故意(こい)的であったことは大変明確である。

内山完造はまた、魯迅が入店してから、彼の書店はまた機能上最初の革命的大変革を迎えるとは知らなかった。

魯迅は内山を熟知してから、彼らの間の交流は大変頻繁となった。あの時は、魯迅は一日二度も内山書店に行った。多くの時は、魯迅は店に行って内山完造と世も山話をするのであった。


左一魯迅、右一内山完造

二人がこのように談話できた重要な原因は、書店の店主、キリスト教徒である以外に、内山完造自身も魯迅と同様に一作家であったからである。内山は前後して『上海漫語』などの随筆集を出版した。後に、魯迅は彼(内山)の書いた『中国人の生活風景〜内山完造漫語』のための序まで書いた。

序文で、魯迅は書いている。「著者は20年以上、中国で生活をして、至る所に旅行をし、各階級の人々と接触してきたので、このような随筆を書き野々、私は実に適当な人物だと思っている。事実は雄弁(ゆうべん)に勝り、この随筆は、的確に一種異彩を放っていないだろうか。」

内山完造と魯迅の感情は、夙に一般の友人の範囲を超えていると、言えまいか。魯迅が内山完造に対する日増しの信任に対して、内山書店もゆっくりと魯迅が険難な時の避難所と変わっていった。

1930年、魯迅は中国自由運動大同盟の発起に参加したため、危険に遭遇し、許広平などは魯迅の安全な住所を至る所に探さねはならなかった。しかし何度も部屋を探したが、彼らは1ヶ所も適当な場所を見つけられなかった。遂に内山完造はとりあえず友人のラモスのアパートの空き部屋を魯迅の避難所とした。

魯迅の安全を掩護するために、内山完造はまた特に入り口に自分の名刺を掛けた。

1931年には、魯迅はまた左翼作家の柔石が逮捕されたのに巻き込まれ、今回は、魯迅の非難に協力したのは元通り内山完造で、彼は魯迅を友人の経営する花園荘ホテルに39間避難した。

1932年1月28日の夜、日本軍が上海の中国守軍を進撃する事件、史上「一、ニ八事変(第一次上海事変)」と呼ばれるのが発動し、この時になって、中国と日本の関係は極めて緊張した境地に向かった。この種の情況の元、愛国文人の魯迅も自然と影響を受けた。

魯迅の北側アパートが銃撃を受けたために、魯迅は止むを得ず内山書店、内山書店の支店と大江南ホテルに49日間避難しなければならなかった。


魯迅と内山完造など

内山完造が避難を成功させたことで、魯迅はこの旧友への信頼を深めていった。魯迅の目には、たとえ敵国の人間であっても、内山完造は同胞(同胞)と映った。

1932年11月10日、母親が重病にかかったという電報を受け取った魯迅は、家族を見舞うために北上することを決意した。その日の午後、魯迅は別れを告げるために内山書店に急ぎ、帰る前に「全てを内山に託した」という。この四つの言葉だけで、魯迅の信頼の深さがわかる。

魯迅の内山完造への信頼は、戦争で敵対することになったとしても、何ら影響を受けることはなかった。

魯迅が日中間の緊張の中で内山を信頼した重要な理由は、内山完造が反戦主義者であり、当然、内山の反戦思想がキリスト教と結びついていたことである。

内山完造と魯迅は民族主義に対する認識は多かれ少なかれ一致性があり、内山完造は嘗て日本軍が中国に侵略を開始した後に、「戦争自体は道理に悖る(もとる)ので、私は戦争に反対し、私は特別に強大な軍事力で弱小国を侵略する行為に反対する。日中戦争中に、日本は戦争と文化の双方を重んじることを宣伝したが、少なくともこの種の態度で、私は依然反対である。戦争は文化を破壊し、どんな文化も建設することはできない」と公開して言った。この一節から、内山完造は極度に戦争を痛恨(つうこん)するキリスト教徒であると見ることができる。

日中が敵対状態になった後も、内山完造は元通り極力中国の左翼文人を極力保護し、彼もまた自分の書店を絶えず利用し先進思想を宣伝し、この進歩的な刊行物は、少なからず抗日に関係がある。

このため、1934年8月、内山書店の職員周根康、張栄甫が進歩組織に参加したとして逮捕された。ここで、魯迅の安全を保護するために、内山完造は彼を千愛里三号アパートに25日間避難するよう手配した。

魯迅の個人の安全を守るために、内山完造は白い恐怖の中で魯迅の蔵書を守ろうと努力している。彼は上海溧陽路1359号の蔵書館を借り、内山書店の店員、鐮田誠一のブランド名をドアに掲げた。

魯迅に加えて、内山完造は郭沫若氏、陶行知氏を含む他の左翼文学界の無数の人々を保護した。


魯迅と内山完造など

驚くべきことに、この特別な時代に中国にいた日本の書店のオーナーは、左翼の文人を助けながら、無数の中国人を守ろうと奮闘している。

「一・ニ八」事件が勃発する前、上海の日系人は過激な態度を取っていた。彼らは日本軍部の力を借りて反日運動を鎮圧し、そのために日本軍とその手下右翼と協力した。

だから、魯迅の弟、周建人を含む一般市民は日本人によって捕らえられ、内山完造は確かに死を見るのを拒ん(こばむ)だ。彼らを救うために、内山は日本の担当者と頻繁に接触し、彼の人格保障で「これらの人々は内山書店のゲストです」とさえ言いました。

彼らを救うために、内山完造は店頭でお握りを作り続けして門外の守衛をした日本軍人に提供せざるを得なかったなか。最終的に、内山完造の斡旋の下、周建人ら無実の中国人は釈放された。

しかし、内山完造は頻繁に日本軍と取引し、お握りを焼いたため、多くの人に帝国主義の仲間と見做された。

内山完造はこの一連の事件が原因で、日本政府の間諜(スパイ)として中傷され、中傷者は「魯迅らと面会後毎に、彼は全て関係情況を日本の情報部門に報告した」とまで言い、このような世論の圧力の下、内山完造の日々は自然と苦しくなった。

内山は巨大な圧力を受けると同時に、魯迅も圧力を受けていた。多くの人々が、魯迅と内山完造の関係の密接さから、魯迅を「売国の輩」「国賊」と定義した。

魯迅は従来に筋金入り(すじがねいり)の自己主義者で、彼の種々の行為は外界の影響を受けることは少なく、それで、外界の疑いに対しで、彼はずっと沈黙でこれに答えた。魯迅は沈黙と同時に、元通り内山と親密な交流の保持を継続した。

魯迅は更に具体的に応対方式を持って、内山完造に教え、この方法で操作した後に、内山完造は果たして「間諜」の危機を乗り越えることに成功した。

後に、内山完造は「私の広告策略」の記事で語る。「それは日中関係が日増しに悪化する事情で、私は日本政府の間諜、外務省の飼い犬などと言われた。……これが魯迅先生のおかげて私に教えてくれた‘無視戦法’である。」

魯迅がこのように心を尽くして内山完造を助けたのは、実は彼が内山に対して極度の信頼の体現であり、正に彼が言うように、彼はずっと、「彼は商売人であり、お金を稼ぐ必要であり、探偵ではない。彼が本を売るのは、お金を稼ぐ必要があり、人血を売っているのではない。」とはっきりと認めている。

疑いもなく、魯迅の内山に対するこの評論から知ることができる。彼の目には内山完造はずっと初めて会った時の内山完造と同じで、一個の極めて簡単で純粋、善良な人であった。


魯迅と内山完造など

人と人との最も美しい関係はこれに過ぎることはなかった。「即ち後に二人の間に横たわったのは、国家、民族の利益であるが、我々には元通り率直で初めて会った通りである。

語るに足りることは、魯迅が現れてから、当時の内山書店は魯迅の避難場所であり、文人が集まる地であるほかに、また魯迅は文字を使用して戦闘を進めた一つの戦場となった。

内山書店はずっと先進的な書籍を発行していて、魯迅の先進的な著作『偽自由書』『南腔北調集』『准風月談』などが発禁されてから、内山書店は元のまま各種の危険に突き上げられながらこの書を販売した。当時の内山はまた魯迅が自費出版した『鉄流』など6種の文学書を代理販売した。

誇張(こちょう)して言うわけではないが、もし内山書店でなければ、魯迅の左翼思想の読み物は、このように順調に広大な人民群衆の中に深く進入することができなかった。そして魯迅と多くの左翼文学家とこのように自由自在に連絡を取ることはできなかった。魯迅が内山完造に出会ったのは大変幸運で、内山完造が魯迅と出会ったのも、なぜかつてこのようなことが無かったのであろうか。

しかし天下には解散しない宴会はない(幸運は長続きしない)。

1936年10月18日、内山完造は目覚めて少しばかりで、慌ただしくドアを叩く音で覚醒(かくせい)し、彼が思ったように、入り口に立っていたのは魯迅の同居人許広平であった。内山完造に会うと、慌てている許広平は彼の手の内にメモを渡した。

内山完造が開いて、上面に書いているものを見ると、

「店主閣下、大変意外ですが、夜半から喘息(ぜんそく)が起こり始め⋯午後の漫談会はできなくなりましたが、お許しください。(あなたは)須藤に電話して、彼にすぐに来て看てくれるようお願いします、草々。」


魯迅から最後のメモ

紙面の無数の書き直しの痕跡があるのを見ると、内山完造はカランとして、彼は、今回の情況は極めて危機であると知った。

須藤医師に電話を掛け終わると、内山完造は慌ただしく許広平と彼らとの住所に近い魯迅のアパートへ向かった。苦痛て丸まっている魯迅を見届けると、内山完造は慌ただしく手ずから魯迅に薬を飲ませ、その後、彼は自ら彼の背をさすって彼の苦痛を和らげた。

魯迅をさする時、内山完造は大変細心の力でさすった。落ち着くのを待って、魯迅は内山完造に対して、「私はとても苦しい」と言った。この話を聞くと、内山完造は内心やりきれなくなった。彼が魯迅を慰められたのは、「須藤先生はもうじき来ます」という事だけであった。

須藤医師が到着後、内山は元通り魯迅の病床を離れなかった。大変疲れて魯迅の状況が好転するような時まで、彼はしぶしぶ休憩に戻った。内山完造は、その一時の別れが、遂に彼らの永遠の別れとなることを、知らなかった。

1936年11月19日、55歳の魯迅は病気で亡くなった。この時、彼らが知り合ってから9年が経っていた。

魯迅の葬儀で、内山完造は最大の悲しみを含んだ講話を発表して、語った。「魯迅先生は『本来地上には道はないが、歩く人が多ければ、道となる。』と仰った。私は先生のこの言葉を思い起こすたびに、彼が独自に落ち着き一望際限のない荒野をそぞろ歩き、一歩一歩鮮明な足跡を残すのを、彷彿(ほうふつ)として見ました。皆さんは雑草が彼の足跡を覆い隠さないように、皆さんが彼の足跡を広々とした大道となるよう努力奮闘されることを、お願います。」

当日の内山完造のこの講話から考えると、内山はまるで中国の革命家のようで、しかも地道な日本人ではなかった。

その後、内山完造は「魯迅文学賞」募集を発起し、また編集顧問に招かれ、世間ではこれを彼と魯迅との友誼の延長と見做している。

魯迅の葬儀の後も、内山完造は内山書店を続けていた。この書店の機能は変わらなかったが、抗日戦争が全面的に勃発したことにより、彼の行動に幾らかの影響が出ることは避けられなかった。抗戦に勝利した後、上海の日本書店は全て差し押さえられ、内山書店も1945年10月13日に差し押さえられた。


やがて、内山完造は国民党当局から国民党政府を打倒した三十三組のリーダーと見做された。このレッテルの下、内山完造は大変な苦労を味わい尽くした。

1947年12月8日、様々な苦難の末に内山完造は日本への送還が決まった。送還されたこの年、彼は62歳であった。当時彼の心は落胆の気持ちでいっぱいだった。軍国主義の犠牲者であると深く感じており、日中間の文化交流を促進させるという己の理想が水泡に帰すのだと、悲観的な予測すらしたほどだった。

(内山が)日本の東京に戻った時、内山完造は魯迅の所有した写真を持ち去ったが、当然、手荷物の中にはまた魯迅が彼にあげた最後の一枚の手紙があった。(上海を)離れる時、彼は両目に涙して、名残惜しげで、最後に中国のこの土地を振り返った時、彼はぼそぼそと「私はすぐさま戻れるだろうか」とつぶやいた。

日本へ帰って、内山完造はずっと日中の友好活動に専念し、1950年に、彼はまた日中友好協会の創立にも参加した。

翌年9月25日、魯迅と(ソ連の作家)ゴーリキーの没後15周年の記念講演会で、『魯迅を語る』の講演を行った。講演中は、内山は何度となく熱い涙を目に溢れさせた。

1952年10月19日、内山完造は東京で行われた魯迅没後16周年記念の晩餐会を主催した。

1953年1月26日、比較しようもなく中国を思い続けた内山はようやく再び中国へ戻った。今回は、彼は在華邦人引揚者(ひきあげしゃ)協議代表団の一員として中国を訪問した。


1956年8月上旬、許広平(女史)が団長の身分で日本へ到来し、日本の広島で開催された原水爆禁止世界大会に参加した期間に、内山完造は全行程を彼女にお供して、彼女に最も細かい配慮をあげた。

同年10月19日、内山完造は北京で挙行された魯迅没後20周年の記念大会に参加した。その後、再び中国へ来た彼は上海で魯迅の墓を敬仰(けいぎょう)し、上海の魯迅記念館を参加した。1ヶ所1ヶ所毎に、内山完造は感動の抑制を留められず、彼は友人に関する一つ一つの物件ごとに、どんな細部もまがうことを恐れて、仔細に見た。

1959年、内山完造が再び中国へ来た時突発した脳溢血(のういっけつ)で亡くなったが、74歳であった。

亡くなる前に、彼は「上海の万国公墓(現在は宋慶齢陵園の一部)に埋葬して欲しい」と言い残し、死後、彼の遺言は満足させられた。


内山完造と妻の合葬墓

大変意味のあるのは、万国公墓がかつて魯迅が埋葬された場所で、内山完造は当時この遺言を定めた時、魯迅の墓地はまだ虹口公園には遷されてなかった。間違えなく、内山完造は生前から、自分の生死の友魯迅と一緒に埋葬されることを心より念じていた。

注: 東京内山書店は続けて営業中。

 上海内山書店旧址は上海市虹口区北駅四川北路の中国工商銀行