旅順黄金山下大池水はどのように形成されたのか
下の写真をご覧下さると、黄金山の北側の山下に、ドックに南面する大きな大池水がある。今日は、我々はこの大池水がどのように形成されたのかを話します。この大池水は天然で形成されたのではなく、人工で開削されたものである。
旅順港史の専門家の紹介によると、ロシア軍が旅順に進駐すると、旅順港内で最初にしたことは旅順ドックを40メートル増長する事であった。この工程は1903年に完成して、彼らはまた東港の南面に艦隊装甲艦を建設できるドックを計画した。このように、旅順港には機能の揃った3個の大ドッグがあった。上の写真中の大池水は未完工の南のドッグ遺跡である。
上のこの写真は、黄金山北面山下の整地で、ドッグを開削する労働の大場面である。建築現場には鉄道を敷設(ふせつ)し、トロッコで土砂を運送をしたが、当時最先端のものであった。仔細に写真を見ると、建築現場には立っている数人のロシア人以外は、民間労働者一人一人は皆忙しく仕事をしている。東鶏冠山北堡塁修築の民間作業者の子孫に対する調査を根拠に見ると、ロシア軍が民家労働者の積極性を発揮させるため、多く働き多く支払い、請負(うけおい)方法を採用した。戸の労働場面は明らかに労働に応じて報酬するもので、一トロッコで運送するごとに一定の報酬を給付するもので、そうでなければ労働の積極性はそれほど高揚しなかった。
南ドッグの開削は、初形を観た。
上面の子の写真は、行程の進展状況をはっきりと見ることができる。このドッグの開削土砂は上下二つの部分に分かれ、低地は明らかに東港の南側の路面よりも低く、それは第一枚の写真中の大池水である。このドッグは、たった一年の時間を作業して、日露戦争の勃発で工事を中止し、半完成のドッグ本体を掘っただけであった。しかも計画中であった東ドッグは根本的に工事作業はなかった。もし日露戦争の勃発が数年遅れば、その二つのドッグは工事が完工する可能性があった。ここに一つの問題点があり、あなたが考慮したことがあるのかはわからない。ロシアが旅順大連を25年租借したが、なぜ旅順港にそんな大きな労力を下したのか。
一つのドッグで改造し、また二つのドッグを新建し、ドッグ周辺に砲台堡塁を修築する必要があった。大連のそのあたりの地は鳴り物入りで宣伝して商業港の修築と都市計画を進行した。彼らはこのようにして、完全に永久にこの土地を占領するために、兼ねがね企み(たくらむ)のあった、黄ロシア計画の実現をした。旅順包囲戦の戦地日記を調べると、ロシア軍が参戦したスローガンは我々の国土旅順口を防衛するために戦うであった。彼らは本当に自身を当外者とは見做していなかった。
黄金山北麓山下の東港の南ドッグ遺跡は今でもはっきり見ることができ、具体的な位置は石油タンクの東側にある。もしあなたが南ドッグの旧跡を見たくても、軍事管理区は侵入ができない。ほかにある方法は、あなたは第一枚の写真を見ると、あの山人白玉山なので、白玉山に登れば、未完成の南ドッグの遺跡ははっきり見ることができる。
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