中東鉄路の断橋遺跡
中東鉄道遺跡は黒竜江省牡丹江市の鉄嶺河鎮に位置し、中東鉄道浜綏線(ハルビンから綏芬河まで)の一区間で、今を隔たる115年前の、1898年に建設され、東西に走向し、橋の延長さ700メートル。両側の橋頭にはそれぞれトーチカがあり、今をさる78年前の、1935年に建てられ、高さ8メートル、直径6.5メートル、多面体の形をしている。
1898年(清光緒二十四年)、帝政ロシアは中露合作の名義で、中露東清鉄道の建設を強行し、西は満州里から入境し、ハイラル、チチハル、ハルビンを経由し、綏芬河で出境する。支線は長春、瀋陽、大連から旅順に到達し、また南満州鉄道と称した。1903年7月14日、中東鉄道全線の竣工通車は、帝政ロシアが管理を独占した。
1919年、ソビエト連邦は、中華民国(中国)における旧ロシア(ロシア帝国)の全ての特権を放棄すると発表。1922年、中国政府はソビエト連邦との間で中東鉄道(東清鉄道)の運営権を徐々に撤回(ソー>中へ返還)する協定に調印。1932年、日本軍が牡丹江を占領した(満州事変)後、1903年に建設された牡丹江駅の鉄道管理権を、日本が資金提供する南満州鉄道株式会社に譲渡することを満州国政府によって余儀なくされた。目的は、軍事による経済掠奪に道を開き、その経済的優位性を利用して中国侵攻を支える人的・物的資源を提供することである。
1935年、日本軍は中東鉄道(東清鉄道)濱水線の牡丹江路橋の東西両岸に掩体壕を築き、それぞれ川の下に暗いトンネルを作った。1945年、日本軍は撤退する際に鉄橋を爆破し、現在は川に11本の橋脚だけが残り、地元では「江面断橋(壊れた川橋)」と呼ばれている。現在は歩兵第69師207連隊が管理することになっている。
中東鉄道(東清鉄道)橋の跡は、日本やロシア帝国主義が東北地方を強引(ごういん)に占領した鉄壁の証拠であり、近代中国の屈辱的な歴史を記録し、教育的な深い警告を発している。
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