山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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青島博物館の「二体の北魏大仏」


北魏石仏造像

年代: 北魏

尺寸: 高さ 570ミリ、腹囲385ミリ、

底径 286✖️216ミリ、底高 100ミリ

質地: 石


青島市博物館には、二体の北魏大仏が西区一階ホール中央に穏やかに立っているが、安らかな佇まいで、瀟洒(しょうしゃ)な様子である。市の博物館の目玉の展示の一つで、それぞれの仏像の重さは約30トンで、1,500年前のもので、同時代の石の造像中保存が最も良く、重量が最大で有名である。それらの身は多難で、転々として、ようやく今日の博物館の中に併せて立つことができた。


二体の仏像の造形は基本的に相当で、頭は肉髻(にくけい)を高く盛り上げるのが、教えの形の高遠な象徴である。二体の仏像はお顔がちょうど良く細く、彫りが深く高い鼻で、微笑みを浮かべ、中に僧祇支(そうぎし、袈裟の下着)を着け、結んだ束帯(そくたい)を胸前に垂らし、上着は多く成外幅広の帯が正式で、衣紋の断面は「V」字形で、裸足で蓮華座に立ち、蓮の花弁は先がとがり、下面には更に方形の須弥座(しゅみざ)がある。ニ尊の仏像の手ぶりは、右手を上にあげた。施無畏印で、仏の何をも恐れなく、衆生を庇護することを表示している。左手を下に垂らし、両掌を前にむけ、仏陀が全ての衆生の願いを満たし、浄化していることを示しています。中国の博物館にある古代の石像の屋内展示として、「双丈八仏」は最大のサイズであり、二つの仏像が同じホールに展示されています。魏、晋、南北朝時代の仏像芸術の傑作であり、青島市立博物館の宝物の一つであり、社会的、政治的、宗教的、歴史的研究価値はとても高いものになっています。


仏陀を見上げると、頂髻があり、顔が細く、耳が大きく垂れ下がっていて、目が深く、鼻が高く、眉毛の間に白毫(びゃくごう)がまるで太陽が真ん中にあるかのように生えています。二体の仏像は不思議な笑顔を浮かべており、蓮の台座の上に裸足で立っています。蓮の花びらの下には四角い須弥座の台座があり、台座の前には小さな仏像がたくさんあります。大仏は右手を正面に伸ばし、手のひらを外に向ける、「施無畏与願印」が熟練の技法で彫刻されている。それらの衣紋は精緻で柔らかく、断面は“V”字形をしており、生き生きとした有様となっている。この二体の仏像は、身長が一丈八尺(現在約6m)であったことから、俗に“丈八仏“とも呼ばれている。

前漢末期に仏教が伝来して以来、魏、晋、南北朝時代から隋唐時代に至るまでの数百年間に、全国各地に大いに仏寺が興隆し、盛んに仏像が彫られた。博物館の石仏造像の特徴から考証すると、この両尊の大仏が建造された年代は北魏の景明・正始以降から、北斉・北周以前である。なぜなら、この仏像には北魏の孝文帝が漢化政策を実施した後の、仏教彫刻の様式が反映されている事がはっきりと見て取れるからだ。


流伝の経歴:

この二体の石像と別の二体の北斉の石菩薩造像は元は山東臨淄龍泉寺に置かれていて、『臨淄県志』には、「龍泉寺は龍池村西北の淄水の岸辺にあり、いまだ石仏四体があり、各々高さ一丈八尺ある。」「六朝石仏が、龍池村龍泉寺の旧跡にあり、仏の高さ一丈余り、オランダ人はこれを見たことがあり、容貌はインドの石仏と相当し、真に六朝のものであると言い、これを購入しよとしたが許可されず止められた」と記載がある。1928年に日本軍が山東に侵攻した時、日本の商人がかつて二度この仏像を日本は強奪(ごうだつ)しようとしたことが、1928年7月24日の上海の『申報』ニュースに説明している。「⋯臨淄県龍池地方に、石仏二体(四体である)、成化(1467〜1847)年代の碑一基と破砕碑(はさいひ)一片があり、数年前に裏切り者があり、石仏碑などを三万元の売価で日本人に授与しようとしたが、地元の人間が聞きつけ、干渉に出向かいたので、成功しなかったが、今回日本が済南と膠済鉄道沿線を占拠したが青島、龍池は日本人の言うところの20里(80キロメートル)以内にあり、ある日本人は龍池の古物碑など垂涎(すいえん)して久しかったが、本月15日に、人を引き連れて仏碑一括を掠奪し、淄河駅に運び込み、日本へ運送する準備をした⋯⋯。」

その後、当時発生した済南事件(「五三」の虐殺事件の後、中国人民の反抗闘争が嵐のように沸き起こり、日本人は形勢に迫られ、敢えてこの文物を持ち去らず、二体の小石像の仏頭だけを持ち去った。


1930年元青島市鉄道局の局長により専用車両を派遣して青島に運送し、当時の四方公園内に放置された後、四方機械工場の範囲は継続的に拡大され、この文化財は工場内に取り囲まれた。欒先生の回想では、この文化財は1928年に日本人が山東の侵攻、済南事件の発生後に発見したもので、当時、この荒縄に縛られた石仏石碑は管理する人もなく淄河店駅に放置され風雨に晒されていたが、1930年に、欒先生は自ら専用列車を割り当てこの石の造像と石碑を淄河店から青島へ運んだ。


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「フレンドリー山東」は山東観光の心を表して

ます。2500年前の孔子の言葉「友あり、遠方より来たる、亦楽しいからずや」が示す「フレンドリー:友好の心」、これがこの言葉に込められています。客人を歓迎し厚くもてなす心だということを山東人はずっと信じて来ました。明るい山東人のおもてなし➖「フレンドリー山東」が皆様の素敵な旅作りの手助けとなることを目指します。

1951年、青島市博物館の元老張錚夫先生は四方機械工場に行き北魏の石造像に鑑定を行い、また臨淄の実地観察に行った。彼は龍池村63歳の老人李復龍を訪ねたが、老人は龍泉寺旧跡と日本人は搬送した仏像の経過について詳細であり、「龍泉寺は龍池村西北一華里(550メートル)の所にあり、既に廃墟となっていたが、龍泉寺の庭園は元50畝(3万3千平方メートル)の広さで、大石仏は当時殿中に安置されていた。⋯」二体の大石仏は手と二体の菩薩像の頭部の残欠で、二体の菩薩像の頭は、一つは石仏像の下にあり、もう一つは李復龍老人が嘗て地境として使用していた。民国19年(1928年)済南事件以前に、西池小学校校長于桂林はもう4体の石仏像を日本人に売っていた。当時臨淄警備隊長朱泉宜は石の造像を売った金銭で青島へ銃を買いに行った。以上は伝聞であり、真実の情況は明確ではない。李復龍の当時の記憶では、石の造像は日本人が他所の地から人を雇用して搬送したが、「担ぎ上げて運んだ」ということだ。

1977年、青島市は、4体の石の造像と2基の石碑を青島市博物館の庭園に移して国内外の多くの旅客の欣賞に提供した。


1979年7月、石仏は青島市博物館院内へ運ばれ保護され、「鎮館の宝」展を開いた。2000年に青島東部新博物館が正式に開館し、風雨世変1,500年の丈八仏はやっと室内で保護と展示をされた。

目下、中国博物館室内陳列の古代石造像として、「丈八仏二体」は重量最大であって、かつ一殿に二体が並び立ち、双方北魏の丸彫リで、歴史が存在するものである。仏教考古学の泰斗宿白先生は「二体並立」の丈八仏は、世にニヶ所、一ヶ所は青島、もう一ヶ所は偃師水泉石窟造像であると指摘している。魏晋南北朝時代の仏教造像技術の傑出した作として、青島所蔵の両仏は並立式の北魏の造像で、北朝の仏教造像芸術と社会政治等を研究する諸方面で極高の参考価値を具有している。しかも現在、中国博物館の室内陳列の古代石造像として、それは唯一保存が完備して、重量は最大の「二体並立」式の北魏の丸彫り造像である。