蔡鍔はなぜ袁世凱を皇帝に推挙したのか?
「歴史」は一種客観的な存在で、それは本来鏡であり、我々はいつも娯楽の道具に変えてしまう。
1980年代に、人に感動を与えた、『知音(自身の理解者』という映画があり、フィルムは(辛亥革命の時代の)雲南の軍閥蔡鍔(さいがく)と(北京最大の遊郭街)八大胡同の小鳳仙の物語を言い得ないくらいに素晴らしく展開している。事実上、『知音』の筋書きは『三国志演義』の架空部分より10倍も面白く、小鳳仙は根本的に蔡鍔の心中を半分もわからないのに、「袁世凱反対」という重要な事情を、彼はどうして、「名花魁」でも例外ではない、一人の遊女に伝えることができたのであろうか。
話は戻るが、100年後の我々も蔡鍔将軍の同時の真意の差し違えを免れない。一部の史料は、蔡鍔が袁世凱打倒の大旗を祭り上げる必要があったのは、彼が袁世凱の皇帝宣言に強く反対したからだと、認めている。
しかしながら、我々が公開された資料から見出しがたいのは、蔡鍔は彼の先生梁啓超ほど、袁世凱が皇帝宣言しようとする前に反対と制止したものはなかったが、蔡鍔はどうであったろうか。それどころが、彼は激励と日々袁世凱への「忠誠心」を誓った。
1915年8月、蔡鍔と唐継尭は雲南を代表し、袁世凱へ「皇帝宣言推進文書」を鳴り物入りで奉呈し、参議院が挙行する国民大会を国体と改めるよう公開要求した。
これは全て蔡鍔が偽装(ぎそう)して作り出した忠誠であったが、彼はどうしてこのようなことをしたのであろうか。
その実道理は大変簡単で、蔡鍔と唐継尭ら雲南軍閥〜実際は袁世凱の直系ではない南方の軍閥ら、彼らが本当に本当に反対するのは、袁世凱本人と彼の集団に過ぎなかった。もし袁世凱が皇帝宣言をせず、彼らに適当な口実が見つからなければ、若し(もし)闇雲(やみ)くもに挙兵すれば、道義上はただの「反乱」でしかなく、この強力な軍隊を手にした軍人は、学者の梁啓超の認識とは完全に異なり、梁啓超は本当に民族国家の大義と着想から、袁世凱は歴史を乗り換えることはできないと考えていた。
蔡鍔をトップとする南方の軍閥は、自分たちの立場から問題を見ていたに過ぎなかったが、彼らは皆自分が教養のない袁世凱よりこの国家の政治を司る(つかさどる)に適合していると考えていたので、袁世凱が皇帝宣言をしなくとも、彼らは早晩彼に反対し、この種の情況の下で「師出有名」になるために、彼らは袁世凱ができるだけ早く皇帝宣言するのではないかと心配したので、彼らは袁世凱のために(墓)穴を作る必要があり、読書バカの楊度が、格好の道具となった。
もし縁が袁世凱に皇帝になりたいと思うのか質問したら、実のところ、誰が思わないであろうか。中国人は「皇帝の玉座は巡って、来年は我家に来る」と前から言い、機会があれば、当然ながらやはり皇帝になれば十分堪能するのである。袁世凱は当初はこのような考えはなかったが、彼の皇帝の夢は、もし楊度ら一群の帝王の師に当たりたかったいわゆる読書人の力強い励ましが無かったら、袁世凱は根本的にそこに陥っていいなかったであろう。
袁世凱はバカではなく、彼の大頭(=袁頭、袁世凱の肖像の1元銀貨)は大洋に刻まれている以外に、中身は多少の価値がある。しからば利権がある程度大きくなりまた周辺が皆へつらう人である時、十倍賢い頭脳も間抜け(まぬけ)になる可能性がある。彼はまさか中国の歴代の開国の君主が全て自分で国家を打ち開いたことを知らないわけではないであろうが、清朝皇帝が共和体制ののために退位したのは、法律原理上は成り立っているが、一旦この最低ラインを突破したらば、結果は天下が大乱するだけである。当時、王莽はこの落とし穴に植えられていたので、後の曹孟徳(曹操)と司馬昭敢えてあるはず皆行動をしなかったのに、袁世凱はどうしてこのように大胆に頼ったのであろうか、同じことを繰り返すのは、それは彼に恥ず晒しの人が暗中に扇動を押し付けたのではないだろうか。袁世凱が亡くなる前に「楊度が私を誤りを謀った」と高らかに叫び、特に彼を誤らせた人にはまだ蔡鍔らの人がいたのを知らなかった。
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