山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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これこそが、孟姜女が泣き崩した長城(斉の長城の今昔の足跡)です。


これこそが、孟姜女が泣き崩した長城です

秦の長城と比べて500年近くも早く作られた斉の長城の今昔の足跡を尋ねます。

孟姜女が泣き崩したの物語は、中国の大地に広く流布(るふ)しています。人々は、夫の死後長城に行って泣き、城を崩したという伝説のみを詳しく知っています。しかし、多くの人人明確には知りません。孟姜女に泣き崩された長城は秦の長城ではなく、斉の長城です。

斉の長城は、春秋戦国時代に作られ、今日まで2600年の長い歴史があり、秦の長城よりも470年も前に作られたのです。この広大で偉大な建築物は、山東省にあり、延々1000余里も続き、西は済南市長清区の黄河の岸から東は青島市西海岸に至り、正に黄河泰山と黄海を繋いでいるのです。


1987年、中国の長城は、国連のユネスコにより世界文化遺産に登録されました。斉の長城は、その文化遺産の重要な部分になっています。

『管子・軽重丁』曰く、「長城の陽は魯であり、長城の陰は斉である。」世の移り変わりを幾度も経験した斉の長城は、大量の歴史的な史跡が残されており、一筋の独特な文化の繋がりを形成している。当世では貴重な文化遺産として、ますます大事に保護されている。それと同時に、長城内外は“歳月を経て新しい世の中と成り”、美しい郷村は斉魯大地に描かれた風景画のようである。

横鎖青斉到海関

青斉(山東)から横に伸びた鎖(長城のこと)は海や関所に達する:斉の長城は春秋時代に建設が初められ、戦国時代に完成した。山東省歴史学会副会長の張華松は、山東半島の諸侯国である斉国と魯国は非常に影響力があり、斉魯の間では争いが絶えなかったので、斉国が国境沿いに城壁を主体として、強固な関所・城堡や熢燧(ほうすい)などの施設を防御工程に含ませて建設したものが、今日まで残っている斉の長城の遺跡なのだと語る。

中国古代地理志史『太平寰宇記』記載:「斉の宣王は西の斉州からからこの長城を築き始め、東の海に到達した。」清代の「盛京名士」繆公恩の漢詩『斉の長城を過ぎる』に「綿亘たる山川は一帯にして長く、蕭条たる断塁は残陽を鎖ぐ。巳に俑(いた)みを作りて秦の禍を開くを経て、空しく千秋を使て始皇帝の罪とせしむ(連なる山川は一帯として長く、もの厳しい長城の残骸は夕陽を繋ぎとめている。既に痛みを作って秦と言う禍いの国を開いてより、千秋の時は始皇帝の罪科となった)」少なからぬ人々が秦の始皇帝が長城と言う「よからぬ例を始めた者」と考えているが、これは実際には歴史の誤解である。


済南市街から出発して、西南方向に50キロあまり進んで、長清区の孝里街道の広里村東北の田園の中に、一つの長さ600メートル余り、広さ30メートル近く、高さ4メートル余りの盛り土が、斉の長城の西の起点である「横に斉国を繋ぐ」斉の長城は此処から一路東に向かい、済南、泰安、淄博、濰坊、臨沂、日照、青島西海岸の7都市17県を経て、まっすぐ黄海海岸に至る、全長641.32キロメートル、正にいわゆる「蜿蜒千里(うねうねと続く100キロメートル)」である。

斉の長城の長清の区間は立ち上がりであり、最初に建築された部分であり、古代済水と山地の間の開けた場所である。長清と泰山の交流点に在り、兵車は山地で進行が難しく、済水旧河の東岸は一本の南北に細長い平原地帯で、斉国が容易に侵攻を受けやすい場所であった。斉国は広里の必ず通過する地上に「塹防門(防御門)」、長城を修築して外敵を防御し、深遠な考慮があった。『左伝・襄公十八年』に「冬十月、魯済に会いして、溴梁の言を尋ねて、同に斉を伐つ。斉公は諸れを平陰に御して、塹防門(長城)として之を守る⋯⋯」この記載は、紀元前555年以前に斉の長城が在り、戦争中に作用を発揮したと説明していると言っている。


斉の長城の長清部分は全長99.3キロメートル、46区画に分かれ、おおよそ「幾」字形を示し、その内明らかに遺構は79.2キロメートルで、総延長の80.9パーセントを占める。路線には梯子山寨、石子小寨、黃巢寨等の山中の要塞遺跡と294座の山頂を通過し、等級の無い様々の要害、城砦、兵舎、烽火台などの軍事防衛施設を設置した。

斉の長城は崇山の重なり合う峰々の間を巡って、その建築の特徴は地形や、地の様に変化に従い、地形によって適宜に作り、地産の材料を使用した。斉長城の建築構造は土と石との、土石混築を主とし、山上では多くは粗石で類を作り、平地の多くでは泥土の版築で、壁材は土壁、石壁と山の険しさなどの累計」に分かれる。」

長清地区から始まり、斉の長城は東へ向かい、延々と済南市に向かい、長城は莱蕪地区で200余りの山頂を跨ぎ(またぐ)、35個の村落を通過する、全長64.16キロメートルである。此処で嘗て長勺の戦いが発生し、『左伝』は魯国の荘公と曹劌(そうかい、将軍)が敵の斉国の強兵に迎え撃った故事を記載し、「一鼓作気(一気呵成)」の出典はこの戦役から出ている。有名な艾陵(がいりょう)の戦いも此処で発生した。戦争の刀光や剣の姿は歴史の塵埃に埋めれたが、古戦場の遺跡はなおも存在し、莱蕪地区だけでも、斉の長城は西から東へ錦陽関、黄石関、青石関に三つの大関と、天門関、胡家荘関など13の小関がある。



莱蕪区娘娘廟村と章丘区三槐樹村の境界にある錦陽関は、斉長城の三大有名要害の一つで、錦屏山の南に位置して名を得た。斉魯両国の交通の要道の喉元の軍事要塞として、錦陽関周囲の峻険な山頂には、城塞と烽火台が高台に在り見下ろして、数え切れない烽火を見守っている。アーチ門のある城郭式の建築は壮観であり、この巍然と聳え立つ(そびえたつ)2000年余りの壮大な関所は、最終的に第二次世界大戦で破壊された。1939年に、日本軍が泰山地区の抗日根拠地を侵攻して、八路軍の強烈な抵抗に遭い悲惨な損失をした日本軍が当惑(とうわく)に怒り、長城の関楼を爆破して鬱憤(うっぷん)を晴らした。

現在の関楼は2005年に関連した資料によって復興された。

幸いなのは、錦陽関西関長城嶺部分の保存は比較的完全で、約756メートルある城壁は錦屏山に沿ってうねうねと連なり、最高点は6メートル、幅の広い所は5メートル、上部に雉壁があり後ろに立壁があり、通路口、屋筈口を開けてある。記者は城壁に沿って高みの錦屏山に登り遠望し、関の内外に目をやると、2000年余り前のこのように偉大な建築に感慨は千万で、古人の知恵と想像力に畏敬(いけい)の念を起こさせる。


莱蕪地区の和荘鎮は、一つの小さな山村で「青石関」を名としたが、惜しいことに関の城砦はもう消失して、遺跡のみ残る。

青石関は斉都臨淄の南大門であり、正面は双峰に対峙して中央で天と一線にある谷口の南で、「一夫関に当たれば、万夫も開くなし」(と詠まれた、厳しい守備)の地勢はとりわけ顕著である。いにしえより「直淄の門は、南の衝に当り、出兵の要路と為す(臨淄に至る関門は、南方の要衝で、出兵の重要路である)の言い方がある。史籍の記載では、青石関の城関は周囲100メートル、南、北、西の三ヶ所の城門は石のアーチ門で、楼閣を持っている。現在、北の洞門は基本的に完全で、南門と西門は僅かに基礎のみ見える。


青石関を通過する古道は約3キロメートル、幅28メートルが現存し、古くは「瓮口道」と呼ばれた。一切の軍事要塞は通常または交通の中枢であるので、関には兵を重備して鎮護した。唐代から、ここの通行者は多くなり次第に村落を形成した。群山の間に在って青石関への往来の「瓮口道」を眺望し、両側の峰々は壁のように傍立ち、関所への通路は一本の長い坂道で、青石関に刻まれた100余りの階段は古くつるつると滑らかになり、中央には一本の深い石のくぼみがあるが、これは当時車輪を轢い(ひく)てできた轍(わだち、てつ)で、要害の昔の繁華はこれから一端を窺える。

青石関はその特有の軍事、地理、行商、建築等の方面の魅力で、嘗て無数の文人墨客の賛嘆(さんたん)を引き寄せた。清代の文学の大家蒲松齢が30歳余りで青石関を出て南行し、此処で詩篇『青石関』を残した:身は瓮盎の中に在り、仰ぎて飛鳥の度(私たち)るを看る。南山北山の雲、千株万株の樹。但し山中に人を見ず、山中の路を見ず⋯⋯(身体は普通の器ような場所=凡庸な人間の中にあり、飛天の鳥を眺めている。周囲には南山北山の雲と、千万の樹木も見える。しかし山中には人もなく、道さえも見当たらない)。」

青石関を出て東へ向かい、斉の長城は淄博へ進入するが、ここは斉国の旧都の所在地でまた斉文化の発祥地である。「堂々とした斉の国風、滔々とした淄水の流れ。」斉長城を中断する淄博市の淄川地区の幸福溜が山中を切り開いた場所に在り、偉大な独立した山中の城市で、一筋の空ばかりでなく、更に千年も保存された斉国の兵営、石門、烽火台、山を切り開いた関所、内外の古城壁などがあり歴史を遺存している。


古くから今に至るまで、斉の長城を描写した詩文は大変多く、その中には少なからず人口に膾炙した篇章がある。清代の祝植齢の『穆棱の雪を挺(ぬ)く』詩中で穆棱関を描写しているが、斉長城の最も重要な要害の地で、臨沂市の位置し、当時は「天下第一の雄関」と称された。この一帯の長城は多くは山嶺上に建設され、城壁は砂士を混合した版築である。千百年以来、穆棱関の戦事は頻繁で、付近からは大量の剣、戈、鏃等の兵器の残骸が出土した。ここも嘗て抗日戦の場で、中国軍隊はここで日本軍と五日五夜血戦し、数百名の士兵が国のために身を捧げ、長城の内外に骨を埋めた。

臨沂から山勢に順って東へ延びて、斉の長城は一路曲折して、青島西海岸に直接到る。青島西海岸新区域の斉長城の全長は凡そ60キロメートルで、月季山、背児山、扎営山、小珠山など大小の連山を経て、最後に東にある于家河村から黄海へ飛び入り、あたかも一条の飛び跳ねる(とびはねる)巨龍が果てない煙波の中に潜入するようである。

鉄山街道大下荘村の月季山の東腹に登り、長城が延々と横たわる北山尾根をじっと眺めた。これは一条の地面に隆起した版築層で、広さは対面交通の道路と同様で、高さは成人の日腰に接近しており、表面は砕石と砂土に背の低い草で、両側は石積で斜面を保護している。

「斉の長城の青島地区は歳月の不断の侵食を経歴したとは言え、まだ多くの場所に烽火台や堡城の遺跡があり、後世の人のために代え難い歴史の記憶を留めている。」

滄海桑田千古事

蒼海桑田の激変は千年の古事で時の移ろいは、斉の長城は2,600年余りの歴史の大河を跨ぎ越して、斉魯大地の一筆の貴重な文化的財宝となった。

中国重要な文化財保護部門として、斉長城は中国の長城文化の原点であり、中華文明の重要な組成部分であり、中国古代の政治、軍事、文化と社会生活に対して重要な価値を具有していると紹介している。

「秦の始皇帝は中国を統一して2,000年余りの内に、斉の長城は少数の関所が歴代に修復して利用したほかに、絶対多数の城壁は廃棄状態であり、自然と人為的な要素の複合的作用で、次第に毀損して考古遺跡の状態となった。

中国国家文物局の2012年『山東省長城認定に関する回答』によると、斉長城の遺跡の総量は260ヶ所、その内遺跡の明確な場所は四割に及ぶ。

斉長城は線条状の文化遺産で、1500余りの大小の山塊を跨り、多くの場所は山の尾根(おね)や荒野などの辺鄙な山地で、千百年の風雪乾燥に曝さ(さらす)れ、長期の自然風化に遭遇し、また河水に面して土壌侵食や山体の地滑りなどの脅威にも晒されて、保護の難易度は大きいと語る。難易度が大きいほど、作業程度を増すほど、先人が我々に残した貴重な遺産をあらゆる手立てで保護しなければならない。「孟姜女長城に哭く」「嫦娥月に奔る」「牛郎と織女」「梁山泊と祝英台」を総じて「中国の四大民話」と称されており、その記載の最も早いのは春秋時期の『左伝』に遡り、しかも孟姜女が哭くのは斉の長城である。2006年、「孟姜女」伝説は中国国務院に最初の国家級無形文化財遺産に列せられ、起源地は山東省と明示された。