山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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曲阜 孔子 孔廟 孔府 孔林 魯国故城 周公廟

曲阜




曲阜にいらっしゃる前から、皆さんも曲阜や孔子に付いて多少は知っていたでしょうが、詳しく知らない方もいらっしゃるでしょうから、見どころへ入る前に、曲阜と孔子に付いて簡単に紹介させてください。

曲阜は山東省西南部に位置して、総面積890平方キロメートル、人口は62万人に達しています。「曲阜」の二文字は『爾雅(じが)』に初めて見え、後漢の応邵の解釈では「魯の城中に阜有り、委曲(曲がりくねり)七、八里なり」であり「曲阜」と名付けられた。中華民族の始祖軒轅(ケンエン)黄帝は曲阜で出生したことを記念して、宋の真宗の大中翔符5年(1012)に一度「仙源」県と改められたが、金の太宗の天会7年(1129)、再び曲阜と改め、現在に至る。

曲阜は5,000年にわたる文明の歴史がある文化的な古城であり、この神聖で古風な土地に中国の超古代伝説の三皇五帝のうち4人がここに足跡を残している。果てない歴史の変化の過程で、儒者の文化は殆ど中国の伝統文化の代名詞となったが、儒者文化の創始者は孔子であった。

面白いことに孔姓を名乗る人が全市人口の1/5もおり、その繁栄ぶりが伺われます。曲阜は孔子の街。古くは伝説の「三皇五帝」時代の内、四人の帝王の遺跡も曲阜に伝えられており、周の時代は魯国の都として栄えた。孔子・孟子・顔子らを輩出した街でもある。孔子の死後、2500年を渡って儒教の聖地として栄え、今なお多くの人を集めている。孔廟、孔府、孔林は世界遺産に登録されている。

1994年に登録された世界遺産(文化遺産)。中国の山東省曲阜市は春秋時代(紀元前770〜前403年)に魯国の都が置かれていた所で、儒家の祖である孔子の生誕地、没地として知られている。この町にある孔子ゆかりの建造物が孔廟、孔府、孔林で「三孔」とも総称されている。孔廟(孔子廟の総本山)は孔子の神霊を祀る霊堂で、紀元前478年の創建。その後、歴代の中国王朝の皇帝がこれを庇護し、増築や再建を行った。孔子を祭る正殿の大成殿は、北京の紫禁城にある太和殿、山東省の泰山にある岱廟の天貺殿と共に中国三大宮殿建築の一つとされている。孔林は、至聖林とも呼ばれ、孔子とその一族の墓所で、200万㎢の広さを持つ。この中に高さ6.2m、周囲8.8米に及ぶ巨大な孔子の墓がある。孔府は孔子の子孫一族の住居兼役所の役割を果たした。複数の建物を擁する邸宅である。


孔子

孔子は、春秋時代の魯国の人で、名は丘、字は仲尼、紀元前551年に生まれ、紀元前479年に亡くなり、享年73歳であった。孔子が16歳になる前に父母が相次いで亡くなり、孔子少年は孤児となり、それから彼は階層の厳しい封建会社で一人で生き抜き、学習と奮闘した一生を過ごし始めた。
孔子少年は発奮自ら学習し、質問に務めた。青年時代には貴族政治に参与するために必要な礼(儀礼、道徳教育)、楽(音楽)、射(射的、弓術)、御(馬車をあやつる技術)、書(文学)、数(算数、数術)の六芸(礼容と奏楽、弓射きゅうじゅつと馬術、書写と算数のことである)を取得して、また『詩』『書』『礼』『楽』『易』『春秋』六経書の内容を掌握し、儒教文化創設の基礎を作り上げた。
孔子は30歳で学校を設立し弟子に教え、「有教無類(無差別教育)」の学風を提唱し、中国最初で世界初の偉大な教育者となった。
孔子が51歳の時、ようやく中都県令となり、その後魯国で摂政となったが、間もなく官を持して魯国を離れ、14年に渡る列国周遊の旅を開始した。
孔子は68歳の時魯国に戻り、教育と文献整理に全精力を傾けた。孔子の一生は流浪困窮で辛苦を舐(な)めたが、艱難辛苦で激励奮発した。今日彼の肉体は灰塵香煙として消えたが、彼の思想は東洋人の心に深く刻まれ、中華民族に個性と品格を鋳込み、歴史の発展と社会の進歩に随い、孔子はついには人類の歩む新世紀を導くであろう。
孔子:紀元前552ーー前479年。春秋時代、魯国の人。儒家の祖、思想家、教育者。孔は姓、名は丘、字は仲尼。字は尊称。
貧窮の内に成長し、15歳で学を志し、特定の師はなかったが、勉学に勉めた。嘗て「礼」を老子に問い、「楽」を萇弘に学び、「琴」を師襄に学んだ。

魯に仕えて司空と成り、後に大司寇と成り国政に参与して、魯は良く治まったが、その後、魯に用いられなくなり、魯を去ることとなる。これより衛に行き、鄭に行き、諸国を巡ること14年に及んだ。
69歳の時、魯に帰り、その後は弟子の教育と編著術に専念した。弟子3000人、六芸「礼(道徳教育)楽(音楽)射(弓術)御(馬車を操る技術)書(文学)数(算数)、礼容と奏楽、弓射邸宅馬術、書写と算数のことである」に通ずるもの七十ニ人を有し、「詩」「書」を冊定し、「礼」「楽」を定め、「春秋」を著しい先王の道を伝導。
中心思想は人生で、仁の徳による政治を主張。その言行録とされるのか「論語」。
唐の開元27年(739年)「文宣王」と追謚し、宋の大中翔符元年(1008)「至聖文宣王」、明の嘉靖9年(1530)「至聖先師」と改称し、順治14年(1657)には「至聖先師孔子」と改めた。
孔子を祀る所を孔子廟と言い、別名として孔廟、文廟、聖廟とも言い、孔子を祀る祭祀を「釈奠」と言う、あるいは「儒祭」「孔子祭」と言う。
孔子廟内の大成殿前方に三牲(牛、豚、羊各一頭)が供えられ、祭礼を司る五十余人の祭官の式服、祭具を古式に則って盛装し、古式豊かな祭礼が再現されます。
孔子の思想は古代から二千年以上経つ現在まで、アジア各国の国民性、社会制度に大きな影響を与え続けました。特に朝鮮半島で、儒教の精神が今でも深く浸透しています。儒教は紀元前5世紀に中国の思想家「孔子」によって完成した思想で、中国全土に広まり、日本を含む周辺諸国に伝えられました。
孔子は16歳になる前に父母を相次いで亡くし、彼は若くして孤児となったが、これから彼は奥深い封建社会に登場し独自に生活を謀り、学習と奮闘する一生を開始した。
孔子少年は発奮して自ら学び、勤勉で学問を好み、青年時代には帰属政治に参与するのに、必須(ひっす)の礼儀、音楽、弓射、騎御、書写、算数の六芸を熟知し、さらに『詩経』『書経』『礼記』『楽経(現佚)』『易経』『春秋』を掌握し、儒教文化の基礎を築き上げた。
孔子は30歳で学校を設立し生徒に教え、「無差別教育」の学風を提唱し、中国最初、また世界上最初の偉大な教育家となった。
孔子は51歳の時に、ようやく首都の県知事となったが、その後魯国の摂政(せっしょう)を勤めたが、ほどなくして、彼は官職を辞職し、魯国を離れ14年に達する列国周遊の旅を開始した。
孔子は68歳の時に魯国へ戻ると、彼はほぼ全精力を教育と文献整理に注いだ。孔子の一生は困窮流浪して、辛酸を嘗め尽くし(なめつくす)て大変苦しんだが、激励(げきれい)した一生であった。現在、彼の身体は灰が飛び去るように消え失わせたが、彼の思想は、全ての東洋人の魂に染め込み、彼は中華民族の個性と品格を鋳込ん(いこむ)で、歴史の発展と社会の進歩に従い、孔子は人類を新しい世紀へと向かわせている。

孔廟



孔廟は中国の春秋時代末期の思想家で教育家、儒教の学派の創始者である孔子を祭祀した廟堂である。世界にたくさんある孔子の廟堂の中で、曲阜の孔子廟は規模が最大で、最も古く、北京の故宮、河北の承徳避暑山荘と共に中国三大古建築の一つに数えられる。孔子廟は南北1,130メートル、東西の最も広い所は168メートル、敷地面積は15万平方メートルである。全ての建築群は九つの中庭に分かれ、五殿、一祠、一閣、一壇、対の回廊、対の堂、17基の碑亭、53基の門楼、合計460余の部屋、建築面積は凡そ16,000平方メートルである。孔子廟は東方的な特徴のある膨大な建築群であり、面積や、歴史、保存も完璧であり、古代建築の研究者は「世界の建築史上でも稀な例」であると称賛している。孔子廟は歴史、建築、文化、芸術、書法、石刻、古樹などの文化財が一体となっており、それは中国古代の労働者の知恵の結晶であり、貴重な歴史の文化遺産である。1961年、孔子廟は国務院が公布した第一次全国重要文化財保存単位として公布され、1994年にはユネスコの世界文化遺産に登録され、2007年には中国観光局最初の全国AAAAA級景勝地区に登録された。
孔廟は中国歴代帝王が崇め祭る儀式を行う場所で、孔子が亡くなった翌年(紀元前478年)、魯国の哀公が「家に因って廟を為すと言われ、孔廟が作られました。」前漢以後、歴代皇帝から尊敬を受けた孔子を祭ったこの廟は順次規模を拡張してきたが、その後18世紀清雍正年間まで61回も拡張工事が行われ、今日のような広大な規模と成りました。現在の建物はほぼ明清時代(十四世紀後半から十九世紀末)に建造されたものである。
孔子の規模は、三殿、一閣、一壇、三祠、両廡、両堂、十三亭、五十四門坊(鳥居)、碑碣三千余(碑は四角もの、碣は円形の石碑を言う)が配置され、建物の数は合わせて466間、建築面積約16000㎡、総占地面積は21㌶。南北一キロ、東西140米。九つの庭と黄色い屋根を備えた壮麗な建築は封建社会では皇居と孔廟だけと言われています。特に本殿の大成殿は故宮、岱廟に並んで、中国三大宮殿建築とされている。そして大成殿の龍の石柱は全中国で唯一のものです。1994年12月に世界文化遺産に登録された遺構である。孔子は儒教の始祖とされま現代まで196名の皇帝や代理がここにお参りしている。そればかりでなく2000年を経た今日でも色褪せないで充分通用する思想であり、教育である。


万仭宮墻(まんじんきゅうしょう)
今我々がいる場所は曲阜の明代古城の南門外の「万仞宮墻(きゅうしょう)」で、また仰聖门とも言いますが、皆さんが見上げる城門の上には「万仭宮墙」の四文字があります。この四文字は『論語・子張』に由来している。記録では、「魯国の大夫が朝廷で、「子貢の学問は深遠で、彼の詩は孔子よりも優れている」と子貢を称賛した。子貢は之を聞くと、「人の学問をこの宮壁に例えれば、私の外壁は肩の高さであり、誰でも建物の美しさを覗くことが切る。だが私の先生(孔子)の壁は一仭もあり、門を探さなければ宗廟の雄大さや、社殿の多様性を見ることができる。」と例えて言った。「仭」は古代の計量単位であり、一仭は周の8尺、漢の7尺で現代の凡そ1.6メートルぐらいである。子貢は数仭で孔子の学問を喩え、構成の人は万仭で孔子の思想の広さと深さを称賛した。
孔子への敬慕を表すために、明代の胡纉宗は城門に「仰聖門」の三文字を書いた。清代の乾隆皇帝は孔子の崇敬を顕示するために胡纉宗の扁額を取り外し、自分の書いた「万仭宮墙」の大きい文字と取り換えた。
明代の曲阜城の南門で、万暦22年(1594年)に建てられた仰聖門(おおせいもん)がそれである。
歴史的に見ると、明の正徳九年(1512年)農民軍が放棄して県城を占拠して孔廟が荒れるに負かされた処から、時の按察使が朝廷に孔廟、孔府などを保護するために城壁、城門を造営することを上奏した。これを受けて明政府は直ちに建設を取り掛かり、嘉靖元年(1522年)に城の高さ6.6米、厚さ3.3米、濠の深さ、幅各3.3米,周囲四キロ余り、城門五門が構築された。
今の城門に残る「万仭宮墻」の文字は清の乾隆帝の直筆になるものである。
「万仭宮墻」の由来:魯の国で諸侯の会合があった時、あるものが「子貢の学問は博大精深、孔子に肩を並べる程だ。」というのを、その場合に合わせた子貢が聞きつけ、すぐさま立ち上がっていた。「とんでもない、我が先生孔子様と比べるとは、人の学問は身の丈しかない。深奥などとんでもない。一眼で全部を覗けてしまう。それに対し、先生の学問は詳細に研究し、全体的に探求した上で漸くその全貌を理解できるのである。つまり、孔子の学問は百仭、千仭、万仭も高い壁であると称えているのである。

此処は明代の甕城の形を保っている。城壁の上に登ると孔廟、孔府など旧市街が一望できるという。これが孔廟の正門、一の門である。

今は観光の振興のため、朝は開城式、午後は閉城式が行われ、昔の礼楽制度を見ることができます。

金声玉振坊: 金声玉振坊は三門四柱式石造りで、高さは5.6米だが、なかなか華やかで立派に見える。明代に建造された。“金声“は鐘の音、”玉振“は磬(中国古代のパーカッションの一種)の音、音楽は鍾を叩いて始め、磬を打って終える。前者は「始」を、後者は「終」を、かつ、前者は「智」の働きを、後者は「聖」の働きを表す。”有始有終“の成語の来源である。金声玉振とはつまり終わるを全うする。集大成を表す。孔子の思想は即ち古聖先賢の集大成であり、智に始まり、徳で終わることを表したものである。「孔子は書聖の徳を集めて集大成というべし。集大成とは金声して玉振する成り。

下馬碑: 孔廟の外側には、1191ねんに建てられた石碑が立っている。この石碑の意味には「役人は此処で装備を解くこと」と示されている。下馬とは、そこより先の乗馬を禁ずることで、下馬碑はその場所を示す碑を言う。嘗て、文官や軍人(武官)及び庶民は此処で馬や籠を降りて坂を下り、孔子に対する尊敬の気持ちを表すために孔廟を訪れた。

二柏一孔を担う(二柏担一孔)

金声玉振坊を過ぎると、我々の足元には一つ目の石像眼鏡橋があり泮水橋と呼ばれ、行宮の面する泮水池の水と通じていて、「盼水(フンスイ)」とも呼ばれる。孔子や孟子の本を読んで高等学府に入学することを「入盼」と言い、官吏になる人は昇進を盼(のぞ)み、商売をする人は金儲けを昇進を盼(のぞ)み、日々には反映を盼(
のぞ)んだ。
橋の東西には松柏の古木があるので、「二柏担一孔(二柏一孔を担う)」という。
櫺星門: 
櫺星門は明代に建てられ、高さ10.35メートル、幅13メートル、門柱の上下のコマは前後を石鼓で挟み、二コマの交点には石俄柱が斜めに添えられている。柱の頭部には火焔の宝珠があり、この門が天より降臨した守衛が地を離れ天に参上する天門であることを象徴している。この大門は1754年に、木製から鉄梁石柱に再建された。文化方面では孔子は最高であり、孔子は天上で文化を掌る星々(星宿)と結びつけられたが、過去には天を祭るにはまず「文曲星」を祭祀し、「孔子を尊ぶことは天を尊ぶが如し」の言い方があった。
石作りの牌坊櫺星門、金色の扁額の文字が特徴である。明代の1451に創建された時は木造であったが、後清代の乾隆十九年(1754年)に石造りに改築されたものである。扁額の文字は清の乾隆帝の直筆になる。櫺星とは二十八星宿の一つ、文化を司る星で、またの名を「文曲星」あるいは「天振星」という、孔子を称えて、これを象徴したものである。

太和元気坊: 太和元気坊(1544年立)という。太和元気とは宇宙の太和、人間の元気を表す。天地の和、四方の和、陰陽の和を宇宙の太和とする。宇宙万物全てが和らぎあい、調和を保つことが基本であることを表す。元気とは国家や組織を含む人間社会を存続する上で不可欠な活力を言う。孔子の思想を称えて名付けたものである。

聖時門: 二門、聖時門(明代創建)であるが、この門の名称は孟子に由来する。孔子は早く立ち去る方が良い時には立ち去り、仕えた方が良い時には仕えるというように、全てその時々の宜しきに従って正しく行動した。孟子はこう言った。
皇帝が曲阜に来た時には、この門の前で「三跪九叩」の大礼のギを行ってから、入門したという由緒ある門である。三跪九叩の礼は普通臣下が皇帝に対して行うものであるから、それを皇帝自身が孔子様に向かってするというのは物凄いことであるがということは、孔廟は歴代の皇帝から一族の祖廟と同等の扱いを受けていたのであろう。

弘道門: 三門、明代1377年創建。弘道という名は論語にある「人良く道を弘む。道、人を弘むるに非らず。(人が道を広めることができるのであって、道が人を弘めるのではない)からとったものである。人間が道徳を広めるから世の中が良くなるのであって、「道徳や規則さえあれば世の中が自動的に良くなる」。

成化碑:

孔子廟の中で最も有名で、最も大きな石碑です。この碑は明の成化帝朱見深によって、成化四年に建立された。この碑には歴代の偉大な有名人が注目した二つの事情がある。一つには成化碑の整った楷書はよく書けており、基準化、標準化され、魅力的な清冽さがあり、字体や筆法は、「世に名高く」評されている。皆さん、碑文の右側第2行目をご覧ください「朕唯だ孔子の道、天下一日も無く可からざる成り、孔子の道有らば則ち綱常正しく而も論理明かにして、万物各々其の所を得るなり⋯、孔子の道は天下に在りては布帛菽粟の如く、民生して日用にして暫くも欠く可からざる、⋯天は孔子を生み縦(ほしいまま)にして之れを生み安ぞ仁義の中正、師道の興起を行い、三千を従遊し、聖に往き是れ継ぐ。」歴代の皇帝は孔子に対して評説があり、中でも評価が最高なのは成化皇帝であり、彼は孔子の思想や方法に対して、食事会や衣服、金遣いに例えて、孔子の道理と方法は一日も手放せず、人は才能を尽くし、物は用を尽し、地の利を尽くすことができるが、そうでなければ混沌とする。即ち「孔子の道には則ち天下有り、孔子の道没(な)くば則ち天下無く、孔子の道に反すれば則ち天下を失う。」という。

大中門: 宋、元時代、孔廟の正門、(中和門)明弘治年間の拡建時に大中門と改称された。大中の大は、これまで見てきたように孔子の学問が人類の知識の大成であることを表し、中は中庸の意味を取ったものである。「中にして偏らず、庸にして変わらず、中を離れるは非道に非ず、歪門邪道であり、左せず、右せず、公平に正道を前に向かって、中庸を為す。正に孔子思想を表したものである。

同文門: 

同文門とは、「人は心を同じくして、字は文を同じくす」の意味からとっている。北宋初期に初めて建設し、清代初期には参同門を呼ばれ、雍正8年に清朝の雍正帝世宗が自ら同文門と命名した。現在の扁額は乾隆13年に乾隆皇帝高宗が書いたものである。「同文」の二文字は「礼記・中庸』の「今天下は車は轍(わだち)を同じくし、書は文を同じくし、行いは倫(道)を同じくす」から出ている。これは心を共にして協力、団結一致して事業を良くすることができるということを言っている。文字を統一する必要は、気ままに文字を作ることは乱れのもとであり、文字を統一してようやく歴史を記載歴史経験を伝播することができる。同文門は奎文閣の前にある重要な障壁(目隠し塀)である。
同文とは、文字を統一してこそ、歴史を記し、経験を伝播できるのであって、こうしてこそ心を同じく一致団結し、良き事業を達成することができるのであるということを表したものである。

奎文閣: 

奎文閣は、元は下賜の書籍を収蔵する場所であった。北宋天禧二年(1018)年創建され、金章宗が再建した時に「奎文閣」と改め、雷火の末に翌年拡幅再建され、弘治16年に、3階建て7室で完成した。建築は東西30.1メートル、南北の奥17.62メートル、高さ23.35メートルで、黄色の瑠璃瓦屋根の入母屋造りである。三重の飛檐(ひえん)垂木で、四段の斗升。庇の下は八本の八角形の石柱であり、この独特雄渾な建築物は、完全に木製の構造で一本の釘もかすがいも使わず、まるで積み木を組み立てたように建設された。これは中国の楼閣建設でも独特なものである。

元は蔵書楼であった。北宋(1018年)に創建され、金朝の章宗(1168--1208年)により重修された時に奎文閣と改称された。「奎」とは二十八星宿の一つで、奎文は学問を司る星である。本殿は高さ23.35米に達する雄壮な木造建築で、中国の楼閣の中でも有名の建造物である。幾たびかの地震に見舞われたが、この建物は損傷を受けなかった。清代の康熙五年に大地震があり、十件の建物の中九件は倒れたと言われるが、奎文閣は「巍然として不動」であったと伝えられている。


十三碑亭:奎文閣を過ぎると十三碑亭であり、ここは孔子廟の第六の中庭であり、庭内には13棟の古色蒼然とした碑亭があり、唐、宋、金、元、明、清及び民国時期に建てた石碑57基があり、その内容は皆皇帝、勅使が孔子廟を拝礼し、また孔子に対する追号、評価、孔子廟の歴代の修造の記載が、漢文、満州文字、パスパ文字などの文字で刻まれている。皆さんは皆側の八棟の碑亭をご覧になると、南列の中間の二棟の碑亭は元代の至元五年(1268年)と元代の大徳六年(1302年)の建設である。このほかの二棟は金代の明昌六年(1195年)の建設で、そのほかは共に清代の建築である。孔子廟の建築の発展から考えると、清代の碑亭には大中門前に建設すべきであったが、清朝皇帝が自己顕示のために、碑亭を旧各碑亭の前に立てたので、この庭内に(新旧)二つの軒瓦が錯綜(さくそう)混在する現象が出現した。この犬の歯のように複雑に交錯(こうさく)し、錣(しころ)屋根に、大きい裳階(しょうかい)を交えた建築構造は古代建築学上は「鉤心斗角」と呼ばれている。南側は八つの碑亭、北側五つの碑亭、即ち「南ハ北五」であり、従って、十三碑亭と呼ばれ、皇帝の承認を得て設立されたので、また、御碑亭と呼ばれています。
大成門:大成門の扁額の文字は清代の第五代雍正帝(1722--1735)の直筆である。大成の意味はこれまで見てきたように孔子の業績を称えたものである。
この門はいわば孔廟の本陣への入り口である。以前は孔子様の祭祀の時にのみ開かれ、皇帝のみが中に入れた。従って建築もこれまでの門より精細華麗になっている。まず大成門への登り石段の真ん中に龍を刻した大きな石が敷かれている。皇帝のみが許される龍の彫刻は門の柱にも深彫りで施されており、豪華に飾られている。とにかく彫刻が素晴らしかった。
大成門の東西両側に長廊がある。東廡、西廡の両廡である。孔子には三千人の弟子がいたというが、その中の六芸文武の全才に優れた七十ニが祀られている。その他、諸葛亮、岳飛、韓愈など歴代の帝王が封じた先賢も祀られている。元は塑像、位碑(木製)などが飾られている。特に大成殿の両廡に展示されている漢代以後の書道名家の碑、漢代の画像石などは名高い芸術品で、それらは文化研究に貴重な財産と言われています。
大成門を入ると三路に分かれ、中路に孔子が弦歌鼓琴し弟子が読書したという故事が残る杏壇、また、北京紫禁城の太和殿と泰安岱廟の天貺殿と共に中国古代三大殿と称せられる大成殿などがある。大成殿は孔廟の主殿である。
東路に孔子の住居跡である孔子故宅(闕里とも言う)や孔子が子供の孔鯉に詩と礼を教えた詩礼堂などが並ぶ。また西路には孔子の父母を祭った啓聖王殿などがある。
漢代から民国に至る碑刻があり、楷・草・隷・篆の各書体が全て揃い、謁廟・祭告・修廟・墓誌・画讃・詩文・法帖・漢画像石など合わせて2000枚余りからなり、中国でも稀にみる大規模な碑林の一つである。

先師手植檜:この鬱蒼と聳える檜は孔子が自ら植えたものです。孔子は此処で3本の檜を植えましたが、金貞祐二年(1214年)戦で焼かれ、木は枯れましたが新しい枝を伸ばし、“三枯三栄”と言って、「檜が茂れば孔子の教えは盛んになる」と言われることがあります。


杏壇:孔廟の「杏壇」は孔子講学を記念して建立されたものである。『荘子・漁夫篇』に最古の記述が見られる。杏壇は、宋代より前は孔廟の本堂であった。孔子は杏子の下弟子達にで講義をしたと伝えられております。北宋の天禧二年(1018年)には、孔子の第45代目が本堂を奥に移転して拡張した。本堂があった場所に別館を建設して杏の木を植え、「杏壇」と命名した。
 杏壇とは山東省曲阜にある孔子の講堂の遺址のこと。北宋の天橲二年(1018年)の時、大成殿を後方に移し、講堂の跡地を瓦葺にして高台とし、周囲に杏を植え、「杏壇」と命名した。金の党懐英が「杏壇」2字碑を建て。西南の石碑は乾隆帝の直筆「杏壇賛」楷書体。

嘗て、孔子様は大きな杏の樹下で弟子達に講義をしたと伝えられております。子曰く、学びて時に之を習う、また悦ばしからずや。友遠方より来たるあり、また楽しからずや。人知らずして怨みず、また君子ならずや。

大成殿:

現在我々が来たのは孔廟の主要建築〜大成殿であり、ここは孔子を祭るメインの場所であり、それと北京の故宮の太和殿、泰安の岱廟の天貺殿は共に「東洋の三大建築」を呼ばれ、また「東洋の三大殿堂」とも呼ばれている。宋の崇寧三年に『孟子』の「孔子は之を大成と謂う」の意味により、詔して「文宣王」と名付け、殿堂を「大成」と言った。孔子が古聖賢を集めて大成した者として、讃頌する考えは空前絶後で、完全無欠である。
大成殿は宋の天禧二年に初めて建てられたが、元は7間の二重廂の建築であったが、何度も破壊と再建を繰り返し、現在皆さんがご覧になっている大成殿は清の雍正年間に再建されているものである。大成殿は清の雍正年間に再建されているものである。大成殿は孔廟の中の最高の建築物であり、屋根は二重廂で九つの棟があり、黄色の釉薬の瓦が屋根を覆い尽くし、其の幅9間、奥行き5間、主屋の高さは24.8メートル、幅45.8メートル、奥行き24.9メートルである。皆さんがご覧になっている母屋軒の才賀は特別な線で分けられ、主要な線は全て盛り上げ金箔張りで、金線の片側は胡粉でぼかしを加え、青、緑、赤の三種の顔料が金色を引き立て、包袱(庇の柱と梁)には各種の形体の龍が表現され、見たところ大変華麗である。この種の彩色画の形式は和璽彩画(ワジサイガ)の内でも金龍和璽(金龍の彩色画)である。和璽彩画は建築物の彩色の中でも最高のランクで、主に宮殿、祭壇寺廟などの大型建築の正殿に用いられた。
大殿の四方には28本揃いの、精巧で造詣の深遠な石製彫刻の龍柱がある。殿前の石畳に立つ10本の深彫りの滾龍(コンリュウ、たぎる龍)の柱は本当に世にも珍しいもので、柱の高さ6メートル、直径0.8メートル、柱ごとに上下一対の龍が飛翔し、舞い上がり巻き付き一塊になって戯れ、神態は各様で同じものがない。これは徽州石匠人の傑作である。皇帝が曲府へ来て孔子廟を拝礼する時、孔家では、「黄色の絹綾で柱を包み、皇帝へ直接龍柱を見させなかったのは、龍柱の数量が金鑾殿(皇帝の太和殿)を超えているので、皇帝の叱責を恐れたためである。大成殿の両側と後ろの回廊18本の石柱は、八角八面の薄浮彫の龍柱であり、八九72本に合計1,296頭の龍が彫刻されている。大成殿は金代に始まり、明の弘治年間の孔子廟の失火の後徽州の石匠を徴収して彫刻して、清の雍正年間の失火後に再建された。
建物には二層の基礎があり、前面の基礎は高さ2.1メートル、東西の幅凡そ45メートル、南北35メートルである。前面に二段の大型の浮き彫りの龍壁があり、四方には二段の石の欄干があり、上段には火炎宝珠の柱飾りがあり、下段は二段の八重咲の蓮弁の柱飾りがあり、欄干下の東西南三面には24個の石彫りの螭首(ちしゅ、龍の子の頭)があり、彫刻は古風で、その蹋道(トウドウ=神道)の雲龍山水御道と共に明代の遺物である。
大殿に入ってご覧ください。大殿には9坐の大型の神龕があり、17尊の塑像がある。これらのほかにも10枚の大型の扁額があり、正面に康熙皇帝の宸書「萬世師表」と、光緒皇帝の宸書「斯文在茲」、雍正皇帝の宸書「生民未有」である。大殿の正面には孔子をお祭りしていて、孔子像は坐高3.35メートル、頭には12本の玉飾りを前後に下げた冠冕(かんべん)を冠リ、身には十二章王服(12種の模様の漢服)、手には鎮圭(玉の尺)を持っている。孔子は歴史上「文宣王」と尊ばれてから論争があった。唐の玄宗の開元27年に孔子は「文宣王」とおくり名を追贈されたが、「王」には君王の「王」に属すというものも有れば、諸侯の「王」に属すというものもあった。宋の真宗の大中翔符2年に「冕を九族に、服に九章を加う。上公の制に従う」とした。これによれば、宋以前の「文宣王」の「王」は諸侯王の「王」に属し、以後孔子の地位が高まると君王の「王」として認識されるようになった。そのため(現在)孔子が身に付ける服装は『周礼』の制度の中の十二章服(天子の制服)となった。
大成とは、孔子廟の正殿の名称。大成殿は北宋の1018年創建であるが、北宋の仁宗の時の命名、後に落雷で焼失し、現在の建物は清代の雍正年間(1723〜1736)に再建されたものである。高さ24.8米、幅45.8米、奥行き24.9米の堂々たる建築である。特に建物の外周を支える28根の龍の彫刻を一面に施した石柱、特に伝前の10根の石柱は生き生きとして、目を見張るほどの見事さである。28根の装飾を施された柱で支えられているが、それぞれ6米の高さと0.8米の直径があり、それぞれ地元の一個の石から切り出されている。宮殿正面の10根の柱に布を巻いた龍の彫り物がされている。中国で龍は皇帝の象徴であり、そのため皇帝が訪れる時はこの柱に布を巻いた。明代の1500年に安徽省からきた職人により彫刻されたものであると言われているが、中国古代建築の精華である。さすが北京故宮の太和殿、泰山岱廟の天貺殿に並ぶ中国三大宮殿建築の一角を占めるだけのことはある。

本殿に祀られている主神は勿論中央に鎮座する至聖孔子様である。両脇には、東に顔子、子思、西に曾子、孟子が五大聖人として祀られている。更にその東西には六名ずつ計12名の先哲尊像が祀られている。子貢、子路など十一名の孔子の弟子と宋代の朱子である。本殿の入り口上部に掲げられている扁額には「生民未有」と書かれているが、光緒帝の直筆である。これは全ての面で孔子様ほど卓越した人、今は嘗てないと言う意味である。孔子様を称える言葉には、これに極まったと言う所である。

寝殿: 

孔子夫人を祀る寝殿。大成殿の後ろに控えている建物は寝殿で、孔子夫人には奉られている。孔廟の第三大建築である。孔子夫人は春秋末期宋国の人、復姓亓官氏、19歳の時に、孔子と結婚します。息子の名前は孔鯉、孫は子思。“至聖先師夫人”を封じた孔子様と同じ祭祀を行われています。寝殿は北宋時代創建、清代に重修された建物の周囲には大成殿と同じく同数の28根の石柱が立つが、それぞれには鳳凰が彫刻されている。その数は大成殿の石柱に刻された龍の数と同じく、1296である。

聖跡殿:聖跡殿で明代1592年の創建、孔子の一生が120枚の石刻に表されている。

聖蹟殿には連環画(中国の劇画漫画)形式で記載された孔子の事績の石刻がある。120枚の図文満載の石刻は、孔子の子孫と明代の巡撫御史何出光が共同で主催した製作である。(曲阜の学生毛鳳羽が校訂し、淮用の画匠楊芝が描き)呉群の有名な石匠章草が描画を石に刻み、殿内の壁に嵌め込んでいる。これは中国最初の人物と文章の揃っている完璧な連環画である。
大変高い歴史的な芸術的な価値がある。聖蹟殿正面の「万世師表」は康熙皇帝の宸筆で、正面の孔子の大司冠(司法長官)の像は唐代の大画家顧愷之が描いた孔子の教授している像であり、最も孔子のお顔の特徴をとらえていて「夫子小影(先生のお姿)」と呼ばれている。また宋代の大家米芾(ベイフツ)が「孔子よ孔子よ、大いなる哉孔子。光緒以前に、既に孔子無し。孔子以後も、更に孔子無し。孔子よ孔子、大いなる哉孔子。」と小篆で賛を書いている。意味は「孔子は、空前絶後、比較のしようもなく偉大である。」

玉紅楼法帖:孔子の63代の子孫である孔継涑が生涯をかけて、王羲之から清代中期までの有名な書跡を集めて作った法帖、玉紅楼に展示されます。

皆さん、孔子廟は、歴史的な、知識的な学堂ですが、時間にも限りがありますので簡単に紹介します。孔子は聖人であり、また偉大な旅行家であり、列国を14年間周遊して、修身斉家治国平天下(行いを正し、家を整え、治政して天下を平定する)する学問を広め、貴重な資料を収集した。聖人に関係する遺物は大変多く、一見の価値がある。私達の御一緒の時間は短ったですが、また曲阜の観光遊覧でお会いできるチャンスをお待ちしています。

魯壁:秦の始皇帝が「焚書坑儒」を行った時、孔子の九代目の孔鮒が『尚書』『論語』『春秋』『孝経』など儒家の著作の竹簡を壁中に隠して保存したという故事にちなんで、明代に作られたものである。これがなかった、これらの貴重な典籍は無くなっていた。此処に隠された著作は後世に残されたということは事実のようである。

泮池: 古代中国で諸侯が設立した学校を泮宮と言った。泮宮の名は、元々は、魯国の泮川に桓公が建てた宮殿のことで、泮宮で謝術(弓術)を教えていたことから学校の意味に転じた。宮殿の門の南を流れていた川を泮川と言ったことで泮水とも言う。時の流れと共に単語の使い方も変わる。どんどん転じて、科挙に合格することを、泮水とか入泮とも言い始めた。孔子は「学問の神様」とも言われる。孔子が魯国の出身であることから、孔子と泮水が結びついた。孔子廟は門前に泮池が設けられ、石橋が架かる。中国では最高学府の大学に泮池(泮水)が設けられたと言う。泮池には、求道の意味が加わる。池の此岸が俗世、彼岸が修行界。池に架かる橋を渡ることは、俗界を離れ、修行に徹する特別の世界に足を踏み入れる覚悟を意味することになる。石橋が重要な役割を担い出す。宗教界もこの発想を取り入れた。泮池を半円形の池にするのは弓を射る時に目一杯に引き絞った弓の形で、元になる泮宮を象徴する形状と思われる。また、泮池が長方形の場合には「一」を意味し、俗界と隔絶遮断する決意、迷いを一刀両断に断ち切る気迫(魄)を示していると思われる。

孔府

孔府は、曲阜市の孔廟の東側に位置しており、孔子の直系子孫の邸宅である。現存する孔府は、明朝の洪武10年に建てられた。九つの中庭(九進院)があり、東路、西路、及び中央路へと通じている。全480室と後花園(奥庭)を加えると敷地面積は240畝(16,000平方メートル)である。東路は祖廟の所在地で、西路は衍聖公が本を読み、詩や礼を学び、くつろいで吟詩などをしたところで、一般の来客をもてなした東西の花庁(応接室)もある。中心をなす中路は、表側が役所で、奥が住宅、背後が孔府公園。府内は厳粛静謐な雰囲気に包まれている。孔府には合計で480部屋からなる複数の建物があり、裏庭を合わせた合計敷地面積は240エーカー(畝)である。孔府は明朝政府からの意向に基づいて建てられたものであり、中国が明朝の象徴として保存している建造物の一つである。孔府の建物が宮城にも匹敵するものと考えている。孔府は、何千年もの間保存されてきた建物であり、中国の歴史の中でも特異な建築物である。我々現代人は、孔府の建築様式、装飾、及び全体的な配置を通じて、中国の家系に対する概念及び中国の伝統文化を学びことができる。


中国の歴代の王朝は孔子を厚遇しました。孔府はその公式執務室兼私邸の総称です。その孔子直系子孫は漢の高祖の時代から高位につき(紀元前195年、漢の高祖・劉邦は孔子の第9代目孔籐を「奉仕君」に報じた。)。特に北宋の至和2年(1055年)皇帝によって孔子46目直系子孫孔宗願が「衍聖公」に封じられた時から、民国の時代(1935年)まで32代880年間もその爵位は踏襲されていました。孔子の生まれ、そしてその直系子孫が連綿として血筋を受け継いでと言うからすれば、孔子は世界最古で最長の貴族ということになろう。孔子直系子孫は殆ど孔子闕里故宅の後に住んでいましたが、15世紀明の弘治年間、それに基づいて拡張されて出来た孔府を賜り、その後何回しも立って拡張され、今の規模となりました。孔府は東西中の三つの部分からなっており、中央の建て者は前の部分が官庁、後ろの部分が私邸として、東に「東学」(家廟と作業場、今は文物管理委員会)、西に「西学」(書斎と客人をもてなした所)になっています。此処には門、庁、堂、房合わせて建築の数は463間、総面積16㌶に達しています。
現在、孔府に保存されている、明の嘉靖13年(1534年)から1948年にかけての古文書などは、それぞれの時代の政治、経済、思想、文化、風俗習慣などを研究する上で大変な資料であると言われています。
明の嘉靖13年(1534)から1948年までの孔府の文書を完備し歴史研究のための重要な史料となっている。また、歴史的な文物を大量に蔵しており、中でも、十供ともいう商(殷)周十器が有名。更に、1000点をこす元・明・清代の衣冠剣履·袍笏器皿を有し、特に元代の七梁冠は中国でも他にあまり例を見ない貴重なもの。

大門: 大門は明代に作られてもので、高さが8米、幅15米、奥行き10米である。鴨居の上に「聖府」の扁額があり、門柱には天下第一の家柄を謳った対連がある。この対連が面白かった。「與国咸休安富尊栄公府第」、「同天并老文章道德聖人家」と書かれているが、「富」の上の点がないし、「章」の字の縦棒が、上の「立」の字まで貫いている。孔家の富貴にはこれまでという所(頭=先端=頂点)がなく、孔子の学説(文章)は天に通ずるということらしい。「通天」という中国語は非常に優れている、非常に大きいという意味を持つから、あるいは、此処は孔子の徳行は天地に遍くということらしい。
孔府の大門へ入ると、ここから三通路に分かれ、東路には一貫堂、慕恩堂、孔子家廟などがある。西路は孔府の貴賓の接待と、学生の練成の場で、紅娥軒、忠恕堂、安懷堂、花廳などがある。中路は孔府の主要建築であり、前部は公邸であり、後部は私宅である。

聖人門:聖人門は聖人の門と呼ばれている。明代の建造である。三門式で中央の門は普段は開かず、両脇の門から出入りました。

二門

今私達が到着したのは孔府の第二門であり、皆さんが、ご覧になっている楼門の、門上の扁額の「恩賜重光」の扁額は、明の皇帝朱厚熜が手配したものですので、重光門と呼ばれます。清政府の誂え(あつらえ)にして、帝王の大典あるいは聖旨を迎えるあるいは重要な祭祀行動を行うだけ、13発の礼砲の砲声の響く内にこの門を開ける、それ故にまた儀光門と称する。両側の回廊式の部屋は、孔府の管理機構で、封建時代の尚書省六部になぞらえて六庁を設置している。

六庁: この中庭を囲むようにして、東西両側に長廊のような建物があるが、これは六庁と呼ばれる役所の建物である。地租を管理する管句庁、管礼儀典庁、恩賜書籍などを管理する典籍庁、公印を管理する知印庁などがあった。


重光門:明代の弘治十六年(1503年)に建造された。高さ6米、幅6米、奥行き2米で、あまり大きくはない。門の上に「恩賜重光」と書かれた扁額がかけられている。明代の皇帝から授けものである。清政府の誂えに照らして、帝王の大典あるいは聖旨を迎えるあるいは重要な祭祀行動を行う時だけ、13発の礼砲の砲声の響く内にこの門を開ける、それ故にまた儀光門と称する。重光は孔子の徳の光を重ねることを言う。太陽と月が一緒に出るように、一つ輝くものに重ねてもう一つの光が輝くことを言い、立派な天子が次々に世に現れることを示唆する。重光門は礼儀的な門で、重要な儀式の時にのみ開かれ、貴人しか通れなかった。


大堂

大堂は当時衍聖公(えんせいこう、孔家当主)が皇帝の命を読み上げ、官吏に接見し、案件を審理し、また記念日や長寿の儀式をする場所であり、内部には正一位の爵位牌を置いてあり、特権の象徴の爵位で、一般に「十八塊雲牌鑾駕」という。歴代の「衍聖公」は位牌を持って北京へ出かけたので、何事もなくスムーズに進んだ。「衍聖」の意味は「聖道、聖子孫が繁衍して継続し、その子孫が世襲世代々継続することができる」ことである。「衍聖公」は北宋の至和2年に仁宗皇帝が孔子第四十六代の子孫孔宗願に封号を下賜して以来、宋、金、元、明、清、民国の合計32代880余年の長期に渡り、43人がこの爵位に封じられた。「衍聖公」は中国から封建社会で特権を受けた大貴族であった。元代に爵位は三位に登り、明代には一位の文官に登り、清代になるとこの爵位は大臣の上に列したばかりか、紫禁城で騎馬して、宮中の通路の走行(そうこう)を許された。
大堂は勅命の伝達など重要な公式行事が行われた場所で、最高の威厳の象徴であるだけに、歴代の皇帝から孔家に下賜された金碑や儀仗用具などが陳列され、荘厳の気が漂っている。

二堂:  

後ろの第二堂は明代に建てられ、正面五間で、高さ10.2メートル、長さ19メートル、奥行き7メートルであった。七檩擡梁(7本の桁で梁を持ち上げる)形式で灰瓦の屋根を支えている。ここは衍聖公が四位以上の官僚と会見し皇帝が毎年の朝廷での童生(秀才受験者)の礼学、楽学試験を委託される場所であった。屋内には七基の御製の石碑には、清の道光帝自筆の「福寿」碑、西太后慈禧自筆の「寿」字や松鶴図などがある。
二堂は衍聖公が官位四品以上の高位の官僚の接見を行ったり、楽学、礼学の学童の試験を行った所。

三堂: 三堂は退庁とも言う。衍聖公が官位四品以上の官僚の接見を行ったり、孔家内の紛糾処理や処罰などを行った所である。前庭はちょっとしたお庭になっていて、多数の太湖石が置かれている。三堂は正面にの扁額には金色の龍の彫刻が縁どる青い下地に「六代含飴」の四文字が書いてある。扁額は乾隆皇帝の下賜であり上部に金文字の「乾隆玉璽」が刻まれている。乾隆22年、乾隆皇帝は四度目曲阜での聖人礼拝に来たが、孔子第67代の子孫孔毓圻の夫人黄氏は81歳の高齢となっており、孔子第72代の子孫孔宪培も生まれており孔家6代が揃っていた。乾隆皇帝は孔府の人々が繁栄し、家庭爛漫で、生活が飴を嘗める(なめる)ように甘美であったのでこの「六代含飴」の扁額を賜った。これはまた中国人が家庭関係を重視していることの表れである。

三堂の大机の両側には「衍聖公」が巡回の時に座った「金頂紫襻綠帷(金屋根、紫の肩帯、緑の幕)」の「八擡大轎(8人立ての大輿)」と「金頂紅尼刺繍(金屋根、赤刺繍)」の「八擡大轎」である。室内の両側に設置されている紫銅(赤銅)の鏡、大鹿の角、その他古来伝わる物品である。銅鏡はここに置かれ、訴訟安刑を処理する前後に、衍聖公がこの鏡の前に来て、質問や、思考が公正であるか、判断の正確性の自己反省をするのである。

三堂の後方は孔府の内宅部分である。三堂までの官衙区と後方の内宅区は内宅門で厳しく区切られており、昔は外部の人間は門内には絶対に中に入れなかった。

内宅門

私達は現在孔家の私邸の門に就いた。この門は官邸と私邸の境界で、これより孔家の私邸内へ入る。過去にはこの門は厳重に警備され、誰も自由に入ることはできなかった。乾隆皇帝が下賜した虎尾の棍棒、燕の羽の十字のホコ、金頭玉棒の三対の儀仗が、門前の両側に並べられ、進入者を厳重に処罰した。外部殿連絡を保つために、内宅門には、差弁と内伝事という二種の役人が、三交代で耳房(東西の付属室)で当番に当った。内伝事は私用の伝聞、差弁は公用の伝聞で、明確に分離されていた。
内宅門の西側のこの特製の水槽は石流と呼ばれ、水中仕が水をあける場所である。内宅は孔府の大切な場所であったので、青年男子は進入が許されず水の運搬は水を石流に流すしかなく、壁を隔てて内宅の水瓶に流れ込み、その後使用人が水の必要な場所に配布した。水中仕は孔府内の専門職であり、孔府内宅の用水の責任があった。中国古代の家庭の伝統が徹底的に具現化されている例である。


貪照壁:内宅門の外側に「貪照壁」と呼ばれている目隠し壁がある。門外が直視出来ないように目隠しの役目をするものである。この壁に描かれている怪獣は麒麟に似て、麒麟に非ず、全ての宝物を我が物にし、太陽さえ食い尽くししかねない「貪婪の獣」だ。府人に賄賂を取って法を曲げることを厳しく戒める為に、此処に描かせたものであると言う。内宅区の最初の建物は前上房である。此処は孔家の正庁、言わば客間で、プライベートな客を迎えたり、孔家の宴会、結婚式、葬式などの場所であった。内部にかけられた「寿」の掛け軸は西太后直筆である。

前上房

前上房は孔府の主人が近親者や親類を迎える客間であり、また一族の宴会や婚礼葬祭の儀式を挙行する大切な場所であった。室内の装飾は華麗で、文化財や骨董は目を奪うばかりであった。前上房の後は、孔子第76代の子孫衍聖公孔令貽が嘗て住居していた前堂楼で、中岳で最も典型的な王侯貴族の居室となっている。

前堂楼

現存する全堂楼は清の光緒12年の再建である。7間の2階建てで、高さは13.1メートル、幅30.96メートル、奥行き11.3メートルである。楼の両側には東西に配された楼は清代の建築であり、3間の2階建てで、幅10.16メートル、奥行き6.5メートルである。灰瓦を上まで敷き詰めた五檁擡梁(ゴリンタイリョウモクカ、五本の桁で持ち上げた切妻屋根)の木造建築は、孔子第76代の子孫孔令貽が生活した場所である。2階は元々貴重品を収蔵した保管室であったが、現在は整理され、孔府文物檔案館に保管されている。

孔令貽

孔令貽は光緒2年生まれで、五歳の時に「衍聖公」を襲封して、前後して孫、陶、豊、王氏を妻とした。孫氏は早く無くなり、陶氏を娶った。孫氏は早く無くなり、陶氏を娶った。陶氏に子供が授からない内に豊氏を娶ったが、豊氏も病死してしまった。そこで孔令貽は侍女の王氏を妾として、二女一男を設けた。男子の孔徳成は2008年に無くなった(89歳)。彼の三歳上の姉孔徳懋は現在である(2021年没、104歳)。
前堂の中央には当時暖房に使用された、明代に設置された打銅製の暖炉がある。正面の上方には孔令貽の書いた「松筠永春」の巨大な扁額があり、孔子の家族が栄え続け、旺盛な生命力を永遠に保持することを意味する。扁額の下の一対の聯幅は「天下文章莫大乎是、一時賢者皆從之遊。(天下の文章は是より大なるは莫く、一時の賢者は皆な之の遊びに従う)」とあり。これは有名な書家馮恕が孔令貽のために書いたもので、儒教文化の博大深遠さを反映している。馮、孔両かは親戚であり、孔令貽の長女孔徳斉は馮恕の子に嫁いでいる。


後堂楼

後堂楼は孔子第77代の子孫孔徳成の住居であり、孔徳成は1920年生まれ。出生後2か月足らずで、中華民国大統領により「衍聖公」に任命され、1935年には南京国民政府により「大成至聖先師奉祭館」が改めて授与された。1936年に孫其芳と結婚した。その後殆どの時間を国民政府に伴い重慶と南京で過ごし、1949年に新中国の成立前夜に台湾へ移住して、台湾考試院院長を務めた。
前上房を先に進むと、「前堂楼」と「後堂楼」とがあるが。両楼共に衍聖公の住居部分で、清代の光緒十二年(1886年)重建されたものである。前堂楼は76代、後堂楼は77代衍聖公の住居であった。後堂楼は77代衍聖公孔徳成が1936年に結婚した時のままに復元されており、結婚祝いに送られた書画その他の贈り物が飾られていて、華やか雰囲気を維持している。

後花園

後花園は明の弘治16年の創建で、前後三度の大改修を経て50畝(3.4平方キロメートル)を超える広さとなり、清の嘉慶年間には、孔子第73代の子孫衍聖公孔慶重が再建した時、ある人が古魯城内で製鉄した大型で形は隕石のような鉄鉱石を送って来て、園内に設置したので、鉄山園とも称した。衍聖公は大変喜び、これは天が御降しになった神石で、孔府がこれからの栄転と発達の興隆を商朝すると考えた。園内には国内一の珍景があり、それは我々の後ろの樹齢500年の古樹であり、この根元から5本の幹が立ち上がり、中から一本の槐が柏槙を穿っ(うがつ)て生えており、全く壮観であるので、五柏抱槐(ゴハクホウカイ)と呼べれている。これは孔子家族に数百年の家庭に同船するようであり、相愛互助の生活の象徴である。園林は孔府の軸線の最北端であり、この軸線の配置は北方の特徴でもあり、その配置は紫禁城の御花園の構成を似ており、この配置も孔府に受け入れられた。

孔林

孔林は孔子とその家族の専用墓地であり、世界で最も長く使用され、規模も最大の家族ぼちぼちである。曲阜城の北、泗水のほとりに位置し、敷地面積3,000畝(2平方キロメートル)、周囲の石井は高さ3メートル、厚さ1.5メートル、長さ14.5華里(7,250メートル)である。中国古代建築の文化には、宮殿、寺廟、庭園、陵墓という四つの分類がある。孔子廟、孔府には宮殿、寺廟、庭園が集中するという特色があるが、孔林は陵墓の功能を兼備した園地の特色がある。孔廟と孔府は孔子の思想の広大深遠さと大家族の威厳を表し、孔林は孔子と子孫の死後の栄光を表している。
孔林は孔子一族の今までの墓地です。
孔子は紀元前479年に亡くなりましたが、その死を悲しむ弟子達によって、魯の都の北、洙水の畔に葬られ、墓の付近には諸国から持って来た珍しい木が植えられました。これが“孔林”の始まりでした。
後、孔子の子孫は孔子の墓の周りに埋葬され、孔子の地位が高められるに従って、2000年以上の歳月を経て、七十世代以上を過ぎても拡大し続けて、徐々に孔氏家族の墓地「孔林」の広い区域を形成し、18世紀清の雍正年間までに200㌶、周囲7㌖、高さ4米の塀で囲まれの規模になりました。
孔子の死後、彼は妻と一緒に葬られ、弟子達は墓を造り、木を植えました。これが“孔林”の始まりでした。孔子の後、彼の子孫は孔子の墓の周りに埋葬され、二千年以上の歳月を経て、七十世代以上を過ぎても拡大し続け、徐々に孔子家族の墓地“孔林”の広い区域を形成しました。「孔林」は、中国と世界で最大規模で、最長で、最も完全な墓であり、且つ、珍しい人工庭園です。
孔林には楷、檜、松、コノテガシワ、楓、榎、櫟、槐、楡、苣木、柳、ポプラなど10万本以上の樹が茂っていますが。その中には、その弟子達が持ち寄って植えた樹木が覆われている。参道1000米両側の檜は宋、元時代に植えられたものだと言う。その中には湯島聖堂から送られたと言われる桜も毎年美しい花を咲かせております。孔林にはあちこち立派な石碑が立っている。碑林とも呼ばれている。墓は10万基以上と言われていますが、実際の数は数え切れません。孔林の中には李東陽、厳嵩、翁方綱、何紹基、康有為などの有名な学者によって書かれた碑もあります。孔林の中でも孔子子孫が10万人眠っているとのことである。現在の子孫が200万人とも300万人いるとも言われる。

楷は曲阜にある孔子の墓所に植えられている名木で、初めて子貢が植えたと伝えられ、今日まで植え継がれてきている。枝や葉が整然としているので、書道で言う楷書の語源ともなったと言われている。

神道:

曲阜城の北門を出ると、両側に古樹が並んだ真っ直ぐ孔林に向かう一条の大道がある。これが「大成至聖先師孔子神道であり、人呼んで「孔林神道」という。古人の概念では、神道とは世俗社会と神の世界を結び付けるものです。これは孔子が祭祀を受け入れる時に魂が出入りする通り道です。この神道は長さ1266メートル、青石の舗装路で、矢のように真っ直ぐである。神道の両側には柏槙と児の手柏が真っ直ぐ孔林門前に整然と並んでいる。これらの槙柏は青々と曲がりくねり古い孔林に沸々と精彩を放っている。更に様々な形態で、幹枝を垂れ、それでも振動の量側に忠実に屹立して、まるで世の移り変わりを知っている老人のようである。

至聖林坊

参道の先は木造の楼門で、「至聖林」の三文字がある。この建物はもとは「宣聖林」と呼び、清の雍正7年に孔廟と同時に「宣聖」から「至聖」に改められた。この建物は明の永楽22年に建てられ、明清二朝に渡り何度も改修され、現在も明代初期の建築の特徴を保存している。至聖林坊は四柱三間三楼式の木造の牌楼で、緑の瑠璃瓦の廂屋根で、前後の軒下に彫刻の精緻な斗升があり、彩色画は精細で、いかにも立派である。扁額は「文化大革命」中に破壊されたが、1980年に修復され、「至聖林」三つの大字が書かれ、文字は金箔貼りで、ことのほか人目を引いている。牌楼の前の一対の石獅子は明の崇禎年の彫刻である。 

二林門

孔林の大門に進入すると、一筋の緑の松柏に覆われたトンネルがあり、長さは4,000メートル、幽玄静寂で、まっすぐ孔林の第二の第二大門〜至聖林門楼、人々は習慣で「二林門」、略称「二門」と呼んでいる。二林門は上下二層に分かれ、下層は五間の二重廂の煉瓦製の城郭式のアーチ門で、二枚の朱塗りの大門には縦横9列81個の花の形の鋲が打ってあるが、これは孔子の尊貴な地位の象徴である。アーチの上の石の扁額には、篆書で「至聖林」の三文字が刻まれている。この門は元の至順2年、魯国古城の北門〜龍門の遺跡である。明の弘治7年、孔子の第61代目の子孫「衍聖公」孔弘泰が楼門を建設したものが、現在の至聖林楼門である。この楼門の構造は、風変わりで、二重の廂のみどり釉の瓦が屋根を覆い尽くし、周囲は16本の朱漆の木柱が巡り、回廊を構成して、城門の楼閣を思わせる。

洙水橋

孔林の第二門内のこの東西に流れる小川を「洙水柱」と言い、孔子の墓前を流れ、「聖脈」と関係する場所であるから、後世「霊源窮り無く、宜しく与天地と共に長久なたるべき」「聖水」と称賛された。洙水橋は本来古代の河川で泗水と併せて「洙泗」と呼ばれ、後世孟子の発祥した場所の古称となった。古代の洙水は早く失われた。川には三つの橋があり、左右は平橋で、中間の一つは太鼓橋で、洙水橋と言い、孔子の墓の参道である。洙水橋北側に迎えるこの緑釉瓦の三本柱の高脚の大門は、「檔墓門(トウボモン」と呼ばれる。この門を過ぎると墓道であり、墓道には、南から北へ華表、文豹、翁仲の四対の大型石彫がある。華表(日本の鳥居)はまた「望柱」とも称し、「天門」の印でもある。文豹の形は豹に似て、腋下に炎を吹き、性質は温厚従順である。用端は伝説では一日一万八千里を進み、四方の言葉に通じ、外界深遠の場所に明るい、文豹同様に創造中の祥獣である。翁仲は、伝説では辺境に震撼した秦代の猛将であるが、後に対称にするから必要があり、文武の両象となり、墓守とした。
墓道(葬)の先の大殿は孔子を祭祀した時に香壇を設置した享殿という拝殿である。

孔子の墓: 

間口柱間5間の享殿は立ち、その後方の赤い周壁を巡らした東周代の墓地に孔子、孔鯉(孔子の子・前532〜前483)・孔伋(孔子の孫子思)の墓などがある。孔子の墓は、高さ6.2米、周囲8.8米に及ぶ巨大な孔子の墓がある。孔子の墓は隆起した馬背に似て暗唱して、馬儷封と称され、特別的な尊貴の形式で墓を築いた。子を携え子孫を抱きますと称している。孔子の墓前の石碑「大成至聖文宣王墓」は明の正統8年、書家の黄養正の書である。孔子は紀元前479年に無くなり、当時の魯国の君主は彼を「尼父」と呼んだ。これは封号を別とした最も尊貴な称号であった。孔子の封号は公元元年(西暦1年)、前漢の平帝が孔子のために公爵を追封し、「褒成宣尼公」と称した。その後帝王は紛々と孔子へ封号を賜り、唐の開元27年に唐の玄宗李隆基は孔子に「文宣」の諡名を給わり、初めて「文宣王」と称した。元の武帝大徳11年「大成至聖文宣王」を加封してからも、また「至聖先師」「大成先師」等等と称した。歴代の王朝は全て孔子の封号に最高の賛辞を選択し、孔子の思想学説が歴代の統治に対する重要性と見るべきである。孔子の墓の東には其の子の孔鯉墓があり南側には其の孫孔伋の墓があり、孔子代々の繁栄を表している。

孔鯉の墓

孔子の子の孔鯉には大業はなく、孔子に先んじで50歳で無くなったが、「聖人」の子であるとして、宋の徽宗皇帝は「泗水侯」に封じた。
近くに弟子の子貢が六年間も喪(も)に服したとされる庵もある。

子貢廬墓処

孔子の墓の西側の3間の建物は子貢の盧墓である。子貢は復姓の端木で、名は賜、字は子貢、孔子の愛弟子の一人で、孔子の経営上手な学生の一人であった。孔子の死後、諸弟子は孔子のために墓守をしたが、子貢だけはここで3年間の墓守をした。後世この事を記念して、間口三間の建物と、碑を1基建立して、「子貢廬墓処」と題した。

孔伋墓

孔子の孫孔伋は中国春秋時代の有名な哲学家で思想家であるが、孔子が在世の時には孔伋はまだ幼年であった。孔子の死後に孔伋は曽子を師とした。曽子は、姓は曽名は参、孔子の愛弟子であり、孔子の楽節の神髄を形象し、また孔伋に伝授した。曽子の著には『大学』などの本がある。記録では『論語』も曽子の講義を底本として、彼の門人弟子中で編集して完成している。孔伋は孔子の学説の研究に専念し、『中庸』一書を著わした。孔伋の学生は孔子の思想と学説を孟子に伝えたが、孟子は孔子の学問を受け継ぎ、『孟子』一書を著した。以上の『論語』『大学』『中庸』『孟子』は古来『四書』と称される儒学経典の著作である。これより孔伋は儒家思想の学派で、上を受け下を開いたキーマンであったと見るべきである。
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魯国故城

曲阜市は済南から南へ156キロ。孔子の生まれ故郷であり、孔子ゆかりの旧跡が多い。特に孔廟、孔府、孔林は必見。
<魯国故城>曲阜市の市街にある。曲阜は春秋戦国時代魯国の都であった。三十四代、900年余り続いた都城。周国の諸侯国の中でも存続年数が最も長いものの一つに数えられる。その故城である。阜とは丘のことであり、曲阜と名付けられたのは隋开皇16年(紀元596年)のことである。
東西3.5㌖・南北2.5㌖の長方形で、周長は11.5㌖。今なお東南・東北・西北の三つの部分は城壁が地上に残っている。城門が南面に2ヵ所、東・西・北に各3ヵ所、大通りが東西に7本、南北に6本(幅は10〜15m)あったことがわかっている。
中央部の北寄りの宮室付近に陶器や骨器の製作工房と鋳鉄工房の遺跡や住居址が点在し、西部の墓地からは貴重な文物が大量に出土されている。
春秋時代末期、孔子(前551〜前479年)が晩年に『詩経』『書経』『春秋』を編み、古典を整理したため、曲阜は儒家学派の発祥地となり、魯は後に「孔子の郷、礼儀の邦」と言われている。

周公廟

周公廟は元聖廟ともいい、曲阜の市街北方1キロ、漢代の宮殿の跡地にある。
祀られている周公は周の文王の第四子で、武王の同母弟。武王が殷朝を滅ぼした際魯に封じられたが、周公は都に留まって武王を補佐し、長男の伯禽が魯に赴いた。武王の死後も、成王が幼かったので摂政として礼楽を定め、天下が多いに安定した。死後、元と諡号され、魯に太廟を建てて祭られたが、魯が亡びると、太廟も廃された。北宋大中翔符元年(1005年)に文憲王に追封され、周公廟も再興された。
殿内の神龕に嘗ては周公と伯禽の塑像と金人(仏像)があった。また、西北の壁に「周公負成王図」という画像石があるが、周公の像があるのは中国でもここだけである。