山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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100年前に光緒帝が北京大学でした講話は、完全にあなたの想像を超越していた


1898年の戊戌変法は、光緒皇帝の勅令で、京師大学堂が孫家鼐の責任で北京に創立され、最初の校地は北京市の景山東街(元馬神廟)と沙灘(故宮)紅楼(今北京五四大街29号)などの所であった。

京師大学堂は北京大学が1898年から1912年の間に使用していた名称である。京師大学堂は中国初の国立総合性大学、当時の中国の中国の最高教育行政機関である。

陸軍学校の静寂と違い、京師大学堂の開校式は盛大であった。光緒帝は自ら京師大学堂と校名を題字しただけでなく、開校のこの日に軍機大臣や、各省大臣が一同に出席し礼遇の規格の高さは、稀に見るものであった。『ニューヨークタイムズ』の極東記者のホワイトでさえ、アメリカ公使を通して総理各国事務衙門(外交部)に申請を提出し、開校儀式のこの日に参加できるよう希望した。光緒帝は直ちに同意して、またおよそ参加を希望する西洋の記者のために、総理各国事務衙門は利便を提供する努力を必要とした。

開校の三日前、誰にも知られないのを恐れたように、光緒帝は杜懐川にビラを版刻させ、大小の役人と街の人々は、この京師大学堂は何処に魅力があり、皇帝と朝廷からこのように重視されたのかと、議論紛々となった。

盛大で熱烈な関連儀式の後、光緒帝はすぐさま離れず、孫家鼐の所有する学生達を京師大学堂に招集し、戊戌の変法と関連のある改革開放の重要な形式を報告しようとした。


講堂内には1000名近い学生が黒山のように立ち尽くし、各部の役人や京師大学堂の教官達が両側に立ち、皇帝が入場すると、皆地上に跪き、万歳を三唱した。

群衆の中に立っていたホワイトも腰を下げて、西洋の礼節通りみを屈め(かがめる)て礼をしたが、まなざしは少しく感動を帯びて、ゆっくりと群衆の前を歩くあの若い皇帝を眺めていた。


ホワイトが光緒帝に会ったのはこれが初めてであり、この瞬間から、極東の『ニューヨーク・タイムズ』の特派員は、彼のキャリアの中で最も興奮で素晴らしいページを開きました。

極東の奇妙な出来事を取材する普通のジャーナリストから、、神秘的で古代の中国の国を開いた西洋のメディアの最初の人へと変貌を遂げました。


何年も後、光緒帝に数え切れないほどのスリリングな歴史的分岐点を伴って同行し、皇帝との深い友情を築いたホワイトは、ニューヨークの自宅で次のように書いています。

北京の晩秋の明るい朝、中国近代初の真の意味での大学、北京京師大学堂のホールで、古代帝国の名目上の支配者である光緒皇帝に初めて会いました。当時、この国の実際の権力者は、頤和園で老化した女王と、彼女が信頼した大勢の役人の手に委ね(ゆだねる)られていました。しかし、この若い皇帝は、この晩秋の季節に神秘的な紫禁城を出て、彼が設立した大学に入ることを選びました。

彼は見たところ少し痩せて青白かったが、口角にはうっすらとしかし自信に満ちた微笑みを浮かべて群衆の前へ行き、静かに群衆を見つめた。その時、私はいささか自分の目を疑ったのは、私はこの年若い人が、この古くて広大な国家の皇帝ができるとは信じられなく、また、彼の顔面の自信と余裕がどこから来るのか解らなかった。

千名の京師大学堂の学生の前に立ち、光緒帝は暫く沈黙の後、徐に(おもむろに)語り始めた。「本日は京師大学堂の正式開校の初日であり、いわゆる学堂とは、鎮座の考えでは学問を研究する場である。我国の古代人には座を作り道を語るという伝統が多くあったので、今日は朕がこの世間の道について論じよう。」

言い終わると、光緒帝は右手を持ち上げ軽く押し下げて、「皆さん坐って下さい、朕も坐ります。」

群衆は一瞬躊躇ったが、皆ばらばらと席に坐って、少々疑惑の目で前面の皇帝陛下を眺めた。傍らの宦官も鮮やかな黄色のクッションを敷いた椅子を運んできて、光緒帝は(衣裳の)前袷に触れて、静かに腰を下ろして語った。

「私が読み書きを始めると、朕の師は私の君主の道を教授し、また朕が政治に就いてからは、絶えず治政の道を学んだ。世間の道はあるいは違っていても、朕は、我らのこのような国家に対し、何が真正の大道で、何が国家を振興する道であるのかとずっと考えている。

今回京師大学堂の開創には多くの抵抗と懐疑に遭遇し、その中で死者も出たことは、周知の通りである。この亡くなった人は王長益と言い、彼がなぜ亡くなったのか、また誰が彼を死に追いやったのか、ずっと考えていた。朕は数百年前の、やはり姓が王と言う思い起こしており、王陽明と言うが、この人は皆知っていて、彼は山中の賊を破るのは容易であるが、心中の賊は破り難いと言ったことを思い起こした。

王長益は、赤貧洗うの如しであったが、科学でも何度も落第し、大変良い気になれなかった。今回京師大学堂に入学すると毎月の生活の手当てがあり、将来卒業後は欠員に就くことができ、いろいろ考え、心中充分な感情もなかったが、京師大学堂に名を連ねた。以外にも、彼のこの一挙動が逆にホテル内のその他の学生達の嫌味(いやみ)と嘲笑(ちょうしょう)を招いた。王長益は人となりが実直(じっちょく)で、口下手でもあり、また多少は自分を恥じていたので、この人たちの悪口雑言に会えて反撃せず、右往左往して、あの学生達に会わないようにした。

図らずもあの夜、その学生達がホテル内で飲酒をして盛り上がり、気まぐれて、突然に王長益のベッドの上に一揃いの対聯を貼った。

この対聯の上聯には:「孝悌忠信礼義謙」;下聯には「一二三四五六七」;上聯には恥と言う字が欠けていて、意味は王長益が恥知らずであることを馬鹿にしていた。下聯には八の字が欠けていて、八を忘れていて、意味は王長益が王八(≒ぬけ作)であることを馬鹿にした。

その時代の学者は名誉と節度の観念が強く、王長益のメンツは大変削がれ(そぐ)て、また、ここ数日の仕打ちに、心の余裕もなくなり、鬱憤(うっぷん)を晴らせなかった。夜に寝床で寝返りを打ちながらも眠れず、科挙の失意と、京師大学堂に入学しこのように侮辱(ぶじょく)を招きたことを考え、一時の鬱憤で、突然ベッドシーツを部屋の梁に掛けて自尽した。」


下に坐っている学生達が微かにひそひそと私語を発したので、光緒帝は微笑んで、立ち止まったが話を続けた。

「しかしながらこの心中の賊とは一体何なのか。

朕の考えでは、この賊は偽善である。通常皆が朱子学を学ぶのは、天理(自然の道理)を残し、人の欲望を消滅させることに、他ならない。

しかし我々の歴史を振り返ると、歴々の朝代では、聖人の学問や、仁義の道徳が国を治め天下を平定することは本当にできたのであろうか。

口にする仁義道徳は国家の滅亡の危機から救出してくれず、あなた方も考えてみれば、あなた方の学んだ四書五経や、苦労して研究学習した八股文(科挙試験の文語)が、西洋人の堅固な船や強力な大砲に抵抗できるであろうか。汚職腐敗の横行(おうこう)や、国土の併合、難民の拡散、国家の堕落(だらく)密生(みっせい)の局面を改変できるであろうか。

名節(名誉節操)を重視し実際を軽視し、ここに隠されているのは実際には虚偽と虚弱である。

もう一度言うが、もし今回朝廷の宣下がなければ、京師大学堂の学生達が卒業後、科挙及第(きゅうだい)の待遇を享受できるのに、あなた方は科挙を捨て新学に就くことができるであろうか。

朕はあなた方を責めているのではなく、朕があなた方一人一人に解って欲しいことは、道徳は人の運命を変えるものではなく、また根本的に国家の命運を改変するものでもなく、道徳や仁義を空論するのは、これこそ世間最大の偽善であることである。

第二の賊とは、保守である。この点では、朕は17年前に李鴻章が恭親王奕訢に出した手紙の一節を皆さんに読もうと思う:

「中国士大夫は古文と小文字の積学に浸かりきって、武人や精悍な兵士は粗忽(そこつ)で細やかさがなく、用いるに学ぶものがなく、学んでも用いる所がない。無事であれば外国の武器を奇妙で巧みとして嗤い、学ぶ必要がないとし、有事であれば外国の武器を怪奇で変わっているとして驚愕し、学ぶことができないとした⋯⋯

17年前の李鴻章のこの話は、今もなお朕を感慨させる。

17年の時間が過ぎ去ったが、我々士大夫、もしくは我が国家は依然元のままである。

世間には普遍の道理と言うものはなく、天下の事は窮すれば変じ、変ずれば通ずである。

今日の世界情勢は、三千年間に一度もなかった危機で、旧習を守って改めず、元の殻に閉じこもるのは、ただ我々の国家を次第に落後し、だんだん衰弱させるだけである。これが長引けば、国は国ではなくなるはずだ。
そこで朕が今日沢山お話し、皆さんにお伝えしたいことは、朕がなぜこの京師大学堂の開校を堅持したいのかは、つまりここに坐っている諸君が、我々の心中の賊を打ち破り、国家を隆盛にし自分の責務とし、傲慢で自惚れる(うぬぼれる)ことのなく、卑下(ひげ)もせず、現実を正視し、発奮(はっぷん)して富強を図ることを望んでいる。」

講堂全体が鳥雀の声さえなく静まり返り、最初のひそひそとした私語さえ全くなくなり、凝り固まった(こりかたまる)窒息(ちっそく)させるような沈黙しかなくなった。