山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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趙一荻/キリストを篤信(とくしん)する布教者


趙一荻の一生は88歳で、愛する少帥(張学良)のために、11歳の年齢差も顧みず、正式な肩書きもなく、父親の軟禁や、族譜(ぞくふ)への登録削除も恐れず、それでも張学良から離れも捨てもせず一生涯を守ること70年の長さで、本当にハンガリーの大詩人ぺテーフィ・シャーンドルの有名な詩歌『自由と愛』で言うところの「生命は誠に貴ぶべし、愛情の価は更に高し。若し自由の為故にならば、両者は見ない抛つ可し(なげうつべし)。」のようであり、中国の現代史上の大変伝記的な色彩のある女性となった。


1912年5月28日、趙綺霞は香港に生まれ、幼名を香笙、英名をエディス(一荻)と言い、上に兄と姉がいたので、兄弟姉妹注4人目(末娘)に位置したので、家族は親しみを込めて、趙四嬢と呼び、その後父趙慶華(1873〜1952)は、浙江蘭渓洞源村の人で、北洋政府の時代に、公職が交通部次長(副部長)となった。1917年の春、趙慶華は政府内閣に仕えて、家族と香港から北京へ移転し、趙一荻は父とともに北京へ転居し、(北京)京城教会学校で学んだ。


1926年、天性の美貌と、利発で機敏な趙一荻は天津の『北洋画報』のカバーガールとなった。一晩で大衆を魅了し、天津の市況で誰もに魅了される人となった。趙一荻が『北洋画報』に掲載されるやいなや、張学良が間もなく天津に来て、自分が出資した『北洋画報』で、趙一荻の写真をちょうど見てしまった。

1927年の春、趙一荻は天津の蔡公館舞踏会で初めて張学良と知り合い、二人は一目惚れし、双方恋に落ち、同年夏には、張学良は北戴河へ避暑に行き、趙一荻もまた長兄次兄に伴われ、趙学良に会いに来た。天津へ戻ると、父親は少女が彼氏の張学良と一緒にいることを知ると、青ざめて怒り、そのまま軟禁した。


1929年3月、趙一荻は秘かに瀋陽北陵の別荘に来てそのまま東北国境警備司令の張学良を訊ねたが、張学良は彼女が(中国)東北大学へ入学し学習することをした。趙慶華は娘と張学良が駆け落ちしたと知ると、異常に激怒し、趙一荻との親娘の関係を離脱し、族譜から取り除き、そして二度と公職に就かない誓いを新聞に発表した。張学良の元夫人の于鳳芝には、秘書の地位を与えただけで、少帥の家の東側に小さな家を建て、彼女と居住し、姉妹と称して、仲良く暮らした。

1930年11月28日に、趙一荻は張学良のために息子の張閭琳を生み、1937年1月、趙一荻は幼年の息子を連れ南京に行き、1936年12月12日に西安事変で軟禁された張学良に同伴する準備をし、于鳳至は趙四嬢(一荻)に幼子をよりよく扶養させるために、彼女を上海の馬思路の邸宅に戻り居住するよう説得したが、1937年11月に上海が陥落し、香港へ避難することを余儀なくされた。


香港にいた趙一荻と息子

1940年、于鳳至は乳癌のためにアメリカへ治療へ行きったが、趙一荻は張学良が貴州の修文陽明洞に移転されたことを知った後、改めて、そこへ行って獄中の張学良に寄り添うことを決心した。一番苦痛の考慮を経て、趙一荻は10歳に満たない息子の趙閭琳をアメリカのサンフランシスコへ送ることを決定し、アメリカの友人イヤーグとエナ夫妻に扶養を託し、その後、趙一荻は再び張学良から離れなかった。


イヤーグ

1956年、英語ができるだけで中国語の話せない張閭琳は初めて台湾に来て、高雄で拘禁されていた父母を探訪(たんぼう)し成長した後にカリフォルニア大学在学中に、広東の軍閥陳済棠の姪の陳淑珍と知り合い、夫婦となって、結婚後張居信、張居仰二人の息子を育て、自らもアメリカの有名な宇宙飛行の専門家となり、退職前にはアメリカの宇宙機関に勤務した。


三代四人撮影

1964年、張学良はキリスト教の洗礼を受け、また前妻于鳳至がアメリカから離婚協議を送って来て、7月4日に、63歳の張学良と趙一荻は正式に結婚し、趙一荻は于鳳至、谷瑞玉を繼ぐ第三番目の妻となり、少帥(上将)夫妻の後半生は、二人は敬虔なキリスト教徒となった。


二人の吉報

1990年、李登輝が台湾の第八代目総統となると、張学良は半世紀余りの隠居を収束し、自由の身を全面回復し、夫妻は曾顕華と趙多加という仮名で台北の多くのキリスト教徒の集会に出席した。6月1日、張学良は90歳の誕生日を圓山ホテルで祝賀し、大御所が集まり、記者も数え切れなかった。実は、張学良は1901年6月3日の生まれである。張作霖が「皇姑屯事件」で暗殺されに誕生日を亡くなって(1928年6月4日早朝の列車爆破)から、彼は6月3日に誕生日を迎えることはなかった。


90歳誕生日の撮影

1995年、張学良夫妻は台湾を離れアメリカに向かい、1996年5月26日にアメリカ・ハワイに居留し、毎回の礼拝はキング・ストリートのハワイ第一華人キリスト教会に行き礼拝に参加した。趙一荻は熱心に福音を伝播し、家庭での礼拝のほか、多くの証言集を書き、例え『好消息』『新生命』『真自由』『大使命」など、その中の『毅荻証言集』(張学良は号毅庵、荻は趙一荻)を出版した。伝道と見証を通して、やっと幽閉時代に発生した事情をみんなに知らしめた(例えば、開胸手術を受け、右肺を取り出し、また手首と右足を骨折したなど)。


『毅荻見証集』

2000年5月28日、張学良ために百歳の寿誕を祝賀活動するために各地から100名以上の親友が集まり、これが張学良と趙一荻が一緒に公の場に立った最後となった。


張学良夫婦と親戚の撮影

2000年6月7日、趙一荻は起床時に転倒し、気分が悪くなったが、たいしたこともないまま、数日後には呼吸困難となり、6月11日にハワイ・ホノルルのストロビー病院の集中治療室に入った。息子の張閭琳は知らせを受け取り、19日はわざわざカリフォルニアからハワイに駆け付け老母を見舞い、各地に散在した張学良の家族も続々と病院へ見舞いに来た。


1994年張閭琳夫婦は東北へ戻った

2000年6月22日の早朝、趙一荻はまだ覚醒(かくせい)していたが、彼女は話もできず、ただベッドを囲う友人たちを見つめるだけであった。8時45分、連れ合いの張学良が車いすに乗ってベッドに近づき、張学良は夫人の手を握り、自分の連れ合いのあだ名を大声で話しかけた、限りなく慕った。趙一荻は張学良を見つめるだけで、口を開けて話をすることできなかった。9時、医師は彼女の酸素チューブを抜いて、鎮静剤を注射すると、趙四嬢(一荻)は昏々と眠ったが、張学良は依然として妻の右手を握って話さなかった。またに時間が経った。午前11時11分、心電図は彼女が人の世を去り天主の御許に安息したことを示した。享年88歳であった。牧師が親族友人からを率いて祈りを捧げた後も、張学良はまだずっと詰まっての手から握り続け、一時間近くも握って、やっと周囲の人の説得で家へ戻った。


晩年時期の張学良夫婦

2001年10月14日、張学良もアメリカのホノルルのホノルルストロビー病院の主の御許に召された。享年101歳であり、妻の趙一荻と1994年にホノルルで購入しておいた「神殿谷」公共墓地に埋葬された。


張学良夫婦の墓地

著者 侯小勇