盛愛頤:宋子文を七年間辛抱して待ち終に捨てられ、女性の相続権を維持した最初の人で、晩年は生活が困苦したが、美女ぶりは変わらなかった
1917年、宋子文はハーバード大学から卒業して帰国し、姉の推薦で、盛恩頤に招かれ、漢冶萍公司の上海事務所秘書となった。
仕事の需要のため、宋子文は常々(つねづね)盛公館へ出入りし、盛家の七女の盛愛頤と知り合った。
ずば抜けて聡明な盛七嬢(愛頤)は宋子文にやみ付きとなり、しかも颯爽(さっそう)とした男前で、優れた人柄の宋子文も、またしっかりと盛七嬢の心を掴んだ。
盛愛頤が英語を学習したいと知った時、宋子文は自主的に彼女の英語教師となることを申し出た。
授業の余暇に、宋子文は盛愛頤に自分が留学時代に出会った珍聞や面白いことを話した。
出国したことのない盛愛頤は、無我夢中に聞いて、宋子文の才能に引き付けられ、少女の心を動かし、二人はすぐ恋に落ちた。
二人の恋愛を知って、盛愛頤の母親の荘夫人はすぐさま行動して、人を送って宋子文の家系を調査させた。
その時、宋家はまだ一般の家庭で、荘夫人の身立てでは、身分不相応であった。
宋子文が優秀であっても、荘夫人も自分のベービーな娘を彼に嫁がせるのを反対し、二人の往来を厳禁した。
しかし宋子文は食い下がって、依然盛愛頤に対して追窮を止めなかった。
荘夫人はそれを知った後、息子の盛恩頤に前に出て、宋子文を武漢で働くように転勤させるように頼んだ。
しかし、宋子文は愛の為に勝ちたいと思って上海に戻り、盛家の車を路上で止めさせました。その時、盛愛頤は密かに車からメモを手渡して、杭州で会うように頼んだ。
杭州での数日間、二人は一緒に潮を見たり、月を見たりして素晴らしい時間を過ごしました。
1923年、孫文が広東で政権を再建する為に才能を必要とした時、宋慶齢は宋子文を推薦し、出来るだけ早く広州に行くように促した。
宋子文が杭州を出る時、盛愛頤が一緒に広州に行けることを願って、3枚の船切符を取り出しました。
盛愛頤はジレンマに陥っています。片目は最愛の人、もう片目は彼女を一生懸命育ててくれた母親です。
考えた末、彼女はついに盛家に残ることにした。
去る前に、彼女は宋子文に一握りの金葉子を渡し、彼に言った、「あなたが戻ってくるのを待っています。」
宋子文はその時、金葉子がまだ男女間の愛を表していることを知りませんでした。
盛七嬢の意向だと思っていたので、広州に行ったらお金がなくて苦しむのではないかと心配していました。
去る前に盛愛頤に「これらは私にも貸してくれました」と言いました。
しかし、今回の一別で、二人がここからただの行きずりになるとは、だれも考えていなかった。
広州に到着後の宋子文は、前後して中央銀行総裁、国民政府財政部長となり、政界で活気盛況を手に入れ、上海の盛七嬢のことを完全に忘れていた。
広州へ到着後、宋子文は名門出身の張芸英(うんえい)を傾慕し、すぐさま熱烈な追求を展開したが、何度も拒絶されようやく悲しく放棄した。その後、彼はまた名嬢唐琪を愛し、二人の情は通じたが、唐瑛の父親は子女の政治家との往来を固く禁じたので、この愛情もうやむやに終了した。
1927年になり、宋子文は廬山へ行き母親の為に別荘を建て、九江の豪商張謀之の娘張楽怡を一目惚れし、両人は夫婦となり、宋子文の結婚はやっと決着を見た。
その時の盛愛頤は、母親を亡くした悲しみを経験し、また(未婚について)家族の裏切りにも遇い、全く辛い時期を過ごしていた。
母親が病死後、四兄と甥たちが連合して、彼女と八妹盛芳頤を排斥して、盛家の財産が独占しようと画策した。
進歩的な思想の盛愛頤は、法律を用いて自己の権益を擁護するため、一挙に兄と甥たちを法廷に訴え、社会的センセーションを引き起こした。
一か月後、盛愛頤は勝訴(しょうそ)し、50万元の洋銀を分捕った。
当時、宋子文を思い浮かべては、盛愛頤は無数の幻想があり、ある日自分の手中にお金が入ったら、きっと宋子文の出国留学に付き添い、外の広い世界を見たいと思った。
今宋子文が妻を娶ったことで、当時の一切の計画は泡沫(ほうまつ)となった。
資金を手にした後も、盛愛頤は出国することはなかったが、百楽門ダンスホールの建設に出資し、一変して、上海バンドで最初の娯楽業に脚を踏み入れた女性起業家となった。この主権論争で、盛愛頤は実際に男女平等を行い、中国女性の財産継承権の法律化の先例を開いた。
1930年、宋子文は張楽怡を連れて上海に戻り、二人は何度も公開の場で夫唱婦随したが、盛七嬢(愛頤)は知ると意気消沈し、大病をした。
彼女は彼が離れた後も、無数の縁談を拒絶して、ただひたすら彼を待ったが、「彼に妻があった」とは想像だにしなかった。
1932年、32歳の盛愛頤をついに執着(しゅうちゃく)を捨て、自分の従兄の荘鋳九と結婚した。
盛家の兄夫婦の手配したある宴会で、彼女と宋子文は再会した。
盛愛頤は冷たく「私の夫が家で待っております」と一言で、茫然自失した宋子文を残して行った。
両人はそれっきりであったが、運命のいたずらで、盛愛頤の甥子盛毓度が問題を起こして、閉じ込められたため兄嫁は彼女に人脈を使って甥を救うよう懇願してきた。
彼女は如何とも仕方なく、宋子文に電話するしかなかった。
彼女は礼儀正しく、「明日の昼に甥子と食事をしたい。」と言った。
宋子文は「七嬢の口利きならば、宋にやれないことはない」と答えた。
その後、宋子文はアメリカに渡り、盛愛頤はずっと上海に居て、二人はこの世では、再び出会うことはなかった。
上海に留まった盛愛頤は、後半生の経歴は多くの苦難があり、家財は散逸(さんいつ)し、晩年は零落して、浄化槽の近くで住んだ。
しかし彼女は始終優雅で落ち着いて対面し、花を育て、書を書き、絵を描くなどの生活習慣を保持し、83歳で病死した。
彼女が晩年病気になった時、宋慶齢も人に看病を託してきたが、あるいは宋子文と関連があったのかもしれない。
しかも宋子文の三人の娘の名には、すべて「頤」字が含まれるのは、あるいは彼の盛愛頤に対する感情の最も良い証明であろう。
この愛の失敗から、盛愛頤は釈然と転身し、これより過去を問わずに、自分の生活を過ごした。
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