山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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斉白石:60歳近くになって18歳の妾を迎え、七子を続けて出産して亡くなると、90歳の高齢となっても第三回目の婚礼を計画した

1946年、アメリカで長年の勤務を終えた胡適(こせき)は北京に返り、北京大学学長の職務を担った。

帰国して間もなく、お宅ではある大物ゲストを迎えたが、彼は中国絵画の巨匠斉白石である。当時斉白石は、もう80歳余りの高齢で、訪問してきたのは、胡適に自分のための伝記を依頼するためだけであった。

斉白石のこの請求に対して、当時の「文壇のトップ」になっていた胡適は少々困惑した。

人物の伝記と言うこの体裁(ていさい)の作品は、人物の平成の事実を持ってすれば良いが、しかし斉白石御大(おんたい)の愛情の遍歴は、著録して、大衆に公にすることは実に好ましくなかった。


斉白石の最初の妻陳春君は、(斉白石)両親が彼が12歳の時に彼のために独断した養女であった。

この女子は教養はなかったが、家庭の切り盛りに長けており、家庭内の事物をきちんとこなし、そして斉白石のために五人の子供を産んだ。

1919年、既に50代になっていた斉白石は湖南湘潭の故郷を離れ、北京に定住し、その時代の北漂一族(=お上りさん)となったが、妻は故郷に残って子供の世話をすることを選択し、二人は終に別居生活を開始した。

しかも56歳の時、斉白石は友人の胡南湖の家の僅か18歳の乳母胡宝珠を見そめた。

当時、胡南湖は斉白石の画を大変好んで、しばしば友人達にも彼を紹介しており、二人は往来を繰り返し熟知の仲となった。

その頃、斉白石はちょくちょく胡家に行き客となり、またこの時期に、彼は胡家で乳母となっていた胡宝珠を見かけていた。


当時、乳母の身分は比較的低かったが、胡宝珠の容貌は却って極美で、接客にもぴったりであった。

当時斉白石は妻と遠く離れ、身辺には世話をする人がいなく、胡宝珠と言う年若い少女の、気配りと、水のような淑やかな心を見て、自然と愛情が萌え(もえる)、彼女を娶って家へ連れ帰ることを決めた。

陳春君は古風な女性で、心に古い封建思想を根ざしていて、彼女は夫が二号を娶る考えを少しも訝し(いぶかしい)がらなかった。

夫が安心して北京で発展できるために、陳夫人はこれに対して制止することもなく、穏やかにうなづいた。

妻の同意を経て、斉白石は胡南湖へこの気持ちを説明した。

誠意を伝える為に、斉白石は特別に数日の時間をかけて、一揃いの新しい画を作り胡南湖に送ったが。これが有名な『福祚繁華(幸福の賑わい)』であった。


この揃いは四枚組でできており、斉白石の芸術生涯でも会心の作で、画には荔枝(ライチ)、芙蓉、枇杷などの物を描き、吉祥、富貴を特徴する寓意(ぐうい)がある。

斉白石は、この『福祚繁華』図は自分の一生で描いた作で最も稠密(ちゅうみつ)で、本人でもまた作るのは難しいとまで言っている。

胡南湖は画を受け取ると珍宝と見做し、大変気に入り、客間の最も目に付く場所に掛けた。

2018年、ある近代巨匠の名作オークションで、『福祚繁華』は8千万元(16億円、2002.8現在)で落札され、手数料を加えると、取引価格は9千万元(人民幣)に上った。

斉白石はこの会心の作を作り、自分の結婚の誠意を表明した。

結婚御、胡宝珠は斉白石の生活の面倒よくこなし、日常生活、寒暖(かんだん)着衣、食事などすべて親身に、生活の細部まで至らざるところはなかった。

斉白石が創作する時は、彼女は墨を磨り、水を汲み、顔彩を調和し、お茶の準備を助けた。


斉白石は結婚した時もう60歳で、胡宝珠とは38歳の年齢差があったが、胡宝珠は結婚後7人の子供を産んだ。

元の妻陳春君が亡くなると、斉白石は胡宝珠のために「本妻にする」儀式を準備し、傍目にはバツが悪かったが、斉白石がこの若い妻に対する寵愛と見て取れる。

斉白石が83歳の歳に、胡宝珠はまた妊娠し、この方は42歳の高齢出産で、最終的に難産で亡くなった。

胡宝珠は斉白石の身辺に20年余り同伴してたが、外部では斉白石芸術創造の絶頂期として称している。

年の差は大きいと言っても、胡宝珠はやはり自分の夫を大変愛しており、面倒見は細かく的を得て、やはり十分合格した好い妻であった。


しかしこの結婚では、斉白石もまた二心がなかったわけではない。


70歳近くになって、彼は一人の更に若い美貌の女子淑華に心を奪われ、彼女を家に迎え入れ生活し、もう少しで名義を与える所であった。

父親はこれ以上の非難を受けさせないために、斉白石の長女はは機転を働かせ、一歩先手を取り淑華を自分の義理娘として迎え入れ、父親に徹底して想いを絶たせた。

未来の妾とする目論見(もくろみ)を自分の外孫の嫁と変えられ、斉白石ももう局面を変えられなかったので、淑華に一枚の画を結納として送り、大切に思っていることを示した。

胡宝珠が難産で亡くなってから、斉白石は元のように寂しさに甘んじられず、翌年には大いに婚礼の準備を進め、最後の妻である夏文珠を娶った。

この北京娘は、前の二人の妻ほど穏やかではなく、性格は溌剌としていて、いつも斉白石と仲たがいをした。

一度は強情(ごうじょう)に母親の家に掛け返り、90歳の高齢の斉白石もお手上げで、自分より年下の義母に対して土下座して懇願したが、市街一杯に知れ渡る事となった。

これも胡適がこの「大顧客」の原稿発注に対して、受注を躊躇ったのも不思議ではない。

つまりところ、風月情事(ふうげつじょうじ)の客の名を記録し伝記を確立することは、容易ならざることであった。


斉白石がまた言及される現在では、誰も想像できるものは「エビを描く老人」であることを除いて、大概はこの老先生の色恋の風流である。


*[人生長寿、天下太平図]中国嘉徳のオークションで、4億2550万元(約54億円)で落札された斉白石(Qi Baishi、1864〜1957)の絵画(2011年5月23日提供)。