山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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義和団の伝記:時局の差し迫った東南君子条約を三日で策定

清朝が義和団に頼って外国を駆除したことを、李鴻章は密かに禍を取る行いと排斥した。彼は身の程知らずの軽挙な行動に反対し、危険な挙動が数千年に至る文明の古代からの国を終結させることを憂慮しているのである。


清朝が宣戦前に、両江総督劉坤一、湖広総督張之洞、郵政大臣盛宣懐等は、もし皇帝と西太后に不測の事があれば、李鴻章を中国総統に推挙して難局を支持しようと密約していた。


イギリスの南京駐在領事A.J.Sundius (孫徳雅)が劉坤一を訪問した時、劉は彼に、慈禧(西太后)はもう帝国の秩序を維持できないと、密かに告げた。

A.Snudiusは上司への報告で、劉坤一は主戦勢力の拡大に大変がっかりしていた。


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義和団の南下を防止するために、外国干渉を塞ぐ口実で、張之洞は保境安民のために兵を増やし、前後して天門、荊州等の地で教会や病院を焼き払う暴力事件を鎮圧した。彼はまた中国駐在の外国公使を通じて各国との対話政策への気配りを密接にし、各国の派兵を全力で阻止した。

1900年6月16日、張之洞は西太后慈禧の寵臣榮禄に電報で「一国も各列強と会戦する理屈はなく、しかも義和団は暴徒で妖術を使い、武器も規律もなく、断じて西洋の兵を制御できない」と語った。


時局は危急(ききゅう)であり、南方の各省の総督・巡撫は心配で気が気でなかった。

6月20日、張之洞と南方各省の総督・巡撫の劉坤一、李秉衡、鹿傳霖、松壽、于蔭霖、余廉三、王之春は言葉を選んで強い連合声明を発表した。声明は次の通りである:


義和団

義和団は護符と呪文で人を惑わすが、これは邪教であり、殲滅すべきものの第一である。首都外でのなで斬りは、注意人・西洋人共に被害を受け、又皇帝の使者を脅迫し、新城、淶水両県の知事を殺害し、法規を乱したが、これは暴徒であり、殲滅すべきものの第二である。清朝を援け外国人を滅ぼし、匪賊の古いやり方で、千余里も皆煽動され、教徒を除いて、罪のない人間を乱殺するのは、地方匪賊であり、殲滅すべきものの第三である。国家の電信、鉄道を破壊し、通信を阻し、軍の行動を乱し、また首都郊外の外国人住宅を焼き払う事限りないのは、これは辻強盗であり、殲滅すべきものの第四である⋯⋯。しかも、何の理由もなく外国人や外国人住宅を傷害し、日本大使館の参事官を殺害したのだ。外国人は兵と軍艦を増強し、災禍は逼迫していた。古代より暴徒が惨殺を横行して国を治めることはできず、また理由なく6、7ヶ国の強国と開戦して自ら全うであったものは一国もなかった。イギリス、ロシアなどの強国は、あえて多くの国と会戦せず、ましてや弾薬には限りがあり、死力を尽くした戦争は長続きし、補給の武器もなく、相手は兵を数倍に増やした河海の各港は封鎖され、各国の行方は攪乱され、誰もが墮落し、数日で決裂しても、後悔が及ばないのである。

この声明は緊急の要件として、二度に分かれて北京に電報が飛び交い、栄祿を代表として上奏されたが、清朝が義和団を利用して各国に対して会戦するのを阻止できなかった。

6月20日、清朝は、既に外国兵と義和団の二重の困難に陥ったので、各省の総督・巡撫に全般的な計画を要求し、首都を援助するように、連絡を取る勅令を伝えた。

この勅令は600里(30キロメートル)という加速度で地方各省に伝えられた。

6月21日清朝が宣戦後、電報を通じて各地に宣戦の詔勅が伝達された。盛宣懐は各地の電報局にあらかじめ差し押さえを命令して、ただ総督・巡撫には服従しないことを電報で命令した。

両広総督李鴻章は電報を受け取ると、盛宣懐に「この違乱の命令には、広東広西では勅令には従わない」と返信し、張之洞は電報に受けても秘匿(ひとく)して公開せず、執行を拒絶した。


8カ国連軍

6月中旬から、清軍と義和団は北方で外国人と激戦を開始した。劉坤一、張之洞らは国家の安否を憂慮し、戦火の南下を阻止するのに力を尽くした。彼らの支持のもと、盛宣懐の画策により、上海道台(地方行政官)徐聯沅が名を出して、6月26日に南方各省の総督・巡撫を代表して、火急に参戦各国の上海駐在領事と『東南保護約款』と『上海市内外保護規定』を締結した。

24日に盛宣懐が草案を提出し26日に締結するまで、たったの三日間しかかからず、総督・巡撫たちのこの上ない焦りの心情が見て取れる。

条約は、上海の租界は各国で共同に保護し、長江及び蘇州・杭州の内地は各地の総督・巡撫が保護し、違いに邪魔をせず、中外の人民生命と財産を保全すると規定した。

盛宣懐が自らの連絡のもと、袁世凱は電話で、山東省で実施するということに同意し、浙江巡撫劉樹堂が代理でサイン押印を請われ、四川総督は電報で、閩浙総督許応騤が『福建互保協定』の調印に、同意を示した。「相互保護」の範囲は中南、西南と山東に拡大した。

総督・巡撫達は「暴徒は使うべからず、邪教は信ずるべからず、軍事挑発を拓くべからず」と考え、彼らは愛国心と人民愛を使命とし、しばしば朝廷の狂気の決定策や、帝室の勅令は義和団の強制で下された「偽詔、偽勅」に渾身で度々抵抗したが、東南各省は不執行を拒んだ。

但し北京の朝廷では、御史(監察官)蒋式芬は勅令に従わず、外国人と結託しているという理由で、李鴻章、張之洞、劉坤一の斬首を上奏した。

南方の総督・巡撫たちは既に近代的政治意識を備えており、初めて国政中で独立性と抗争心を顕示した。彼らの時局の状況判断は、対応に有力で、頭領民族の消滅(斬首)の危険を冒しても、領土の保全に力を尽くした。

東南互保と愚昧(ぐまい)な言動は朝廷を分断し、緩衝地帯を創造し、列強の侵入口を阻止し、兵禍戦乱を北方で抑止し、半分の国土を維持し、人民の生命財産を保全させ、国家が列強に分割されることを免れさせた。

南方の安定は多くの文人を移転させ、北方の一流商人も続々と資産を携え南下し、このため東南各省の社会経済と文化は大発展を得た。