山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
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中国最初の女子留学生は、アメリカ人が彼女を崇拝し、大統領に引き留められたが、彼女は祖国への帰国を堅く決意した


2018年10月17日、『ニューヨーク・タイムズ』はその「Overlooked(見逃された人)」コーナーで、80年以上遅れて、ある女性を記念する「訃報」が掲載された。

その女性の名は金韻梅という。


金韻梅(1864-1934)

アメリカのマスコミは、彼女を「現在世界で最も傑出した女性の一人であるべき」と称賛している。

日本の民衆は彼女を大変崇敬していて、日本のメディアは彼女を「時代の奇跡」と形容している。

アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトさえも、彼女達、私はあなたをアメリカ国民にすることはできないが、永遠にアメリカに滞在することができると、手紙を書いている。

中国最初の女性留学生として、金韻梅は嘗て国際的に名誉を享受したが、今日の我々は、却って彼女の名を知っている人は大変少ない。

この苦難の中をずっと歩んで来た東洋の女性の、身の上にはどんな伝説的な物語があったのか。


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1864年、金韻梅は浙江省寧波の教会家に生まれ、父親は地元の牧師でした。

家庭環境は良好だったが、突然の疫病で両親が次々と命を落とした。

僅か2歳半の金韻梅は孤児になりました。

父の友人であるアメリカ人宣教師のマッカティは、金韻梅を引き取り、ミッションスクールで勉強するように手配しました。


マッカティ夫妻

マッカティ夫妻は10人以上の養子を迎えており、その中で金韻梅さんは夫婦と最も親しい関係にあります。

1872年、マッカティは宣教師として日本に行き、8歳の金韻梅は彼の夫妻に続いて日本に来ました。

彼女は日本の小学校と中学校のコースを終了し、一生懸命勉強し、常にトップの成績にランクされました。

マッカティ夫妻は、金韻梅の中国系の伝統を尊重し、英語と日本語に加えて彼女の中国語コースを教えています。

彼女は中国の女の美しい三つ編みを梳かすことができ、アンティークの中国の服を着ることができ、ヨーロッパやアメリカのようにナイフとフォークを使う代わりに箸を使うことができます。


漢服をした金𩐳梅

16歳の時、マッカティの引退により、金韻梅はより良い教育を受けるために夫婦で渡米しました。

マッカティが、彼女に経済学か教育学を学ばせようとしたのは、当時の中国にはこの2種類の人材が不足しており、彼女が中国に戻れば必ず役に立つと考えたからだ。

しかし、金韻梅はそれを拒否し、医学の勉強をすると言い張った。

彼女は、幼い頃に両親をペストで亡くしており、将来は医者になって中国の劣悪な医療環境を改善し、より多くの患者を救えるようになりたいと語っていました。


金韻梅

マッカティは感動して、彼女の選択に同意した。


一年以上勉強した後、金韻梅は期待に応えてニューヨーク女子医大に優秀な成績で入学し、中国人初の留学生となった。

また、中国人女性として史上初めて米国に留学した。


この学年は、決して順調なものではなかった。

当時のアメリカ社会は中国人に対して差別的で、一時は中国人を排除する「中国人排斥法」が制定されたこともあった。

金韻梅もまた、多くの不当な扱いを受けていた。

当時を振り返って、「私は黄色人種なので、道行く労働者によく罵られ、白人の女性のクラスメートは私と話すのを嫌がりました。」と語っている。

この少女は、遠く離れた異国の地で、周囲の人々の一般な悪意や偏見に苦しめられていたのだ。

しかし、彼女は自分を卑下(ひげ)することなく、ますます勉強会に励みました。

彼女は、自分が強大であれば、自然と他人の尊重を勝ち得ることを知っていた。

彼女は毎日6時間眠り、残りの殆どの時間を図書館と実験室で過ごし、各科の成績が優秀であるばかりでなく、中国語、英語、日本語とフランス語まで掌握していた。

彼女は学校でも抜きん出た学生となり、毎年奨学金を獲得し、最終的に第一位の優秀な成績で、医学学士を獲得して卒業した。


金韻梅の卒業写真

この時から、この東方から来た学生は、中国人のエリートとして、アメリカ社会の注目を受け始めた。

当時、駐米中国大使が彼女の卒業式に出席し、彼女に祝賀を示して象牙の彫刻を贈呈した。

卒業後、金韻梅はニューヨーク、フロリダ、ワシントンなどの地の病院で自習と勤務をして、多くの実践経験を積んだ。

同時に、彼女も大変理論的に研究に注目し、顕微鏡の医学運用に詳しく、『ニューヨーク医学雑誌』などの権威の期刊行物で、次々と「電子顕微鏡機能の研究」「電子顕微鏡撮影技術の有機組織に対する作用」などの論文を発表し、行内でも最高の賛譽を獲得して、彼女の論文は「キャリア教授水準である」と認められている。

三年あまりの仕事と研究を経て、金韻梅は医学界では少々有名になり、進展して、前途は限りなかった。

しかし誰もが考えもしなかったが、彼女は優れた生活条件と仕事の機会を放棄して、病院に辞表を出して、祖国のために力を尽くすことを決定した。

ニュースが伝わると、多くの人が彼女は「将来を無くした」と考え、アメリカの医療機構から訪ねて来て、高額の給料を示して、彼女がここに留まり仕事するように望んだ。

しかし彼女は、婉曲に断った。

「夷を師とし技に長じ以て自強す(外国の技術で増強する)」という、自分の医学の初心を金韻梅は忘れていなかった。


1888年、24歳の金韻梅は、故郷を離れて16年ぶりに、始めて祖国の土地を踏みしめた。『ニューヨークタイムズ』の文字には、この優秀な女性に対して留めておけない遺憾:「彼女は身長5フィート(152センチメートル)、体重100ポンド(45キログラム)に満たない体で、中、英、日、仏4カ国語を話す、中国人女性で、商船に搭乗してはるばる太平洋を渡り、アメリカから彼女の祖国〜中国へ帰った」と漏らしている。

金韻梅はアモイから上陸すると、翌日、当地の役人が投宿所の出向かいて彼女を見つけ、彼女のために診療所と居所を準備し、彼女が厦門に留まることを誠心誠意要請した。

金𩐳梅はこうして厦門で医療を行い、中国最初の女医となった。


彼女の医術は優れていて、人あしらいが穏やかであり、しばしば上流社会から診療に招かれた。
彼女の目には、病人に貧富の差はなく、薬代を払えない貧しい人に遇えば、彼女は普通に診療し、病人のために代金を免除した。
ようやく、金韻梅の名声は他郷でも広まった。彼女は広東、上海、成都などの地を転々とし、各地の病人に医療業務を提供した。
足跡は中国の大半に及び、治療した患者は数え切れなかった。
医療と共に、彼女は次第に、国内の医療水準の低さを痛感するようになった。

人々は普遍的に母子衛生に対して重視しておらず、嬰児の死亡率は高く、25パーセント以上に達し、多くの母親は自分の最愛の子供を亡くしていた。

金韻梅は心中の沈痛が比べようもなかった。
この状況を改変するために、彼女は抱負を立て、女子医学学校の開創を決定した。

1905年、金𩐳梅は成都から天津に至り、北洋女子病院の招きを受け、主任院長を担当した。
翌年、当時の直隷総督袁世凱の支持の下で、北洋女子医学堂を創業した。


北洋女医学堂の女学生

この中国最初の公立看護師学校は、金𩐳梅が校長と主任講師を担当した。

彼女は直接教授し、国外で学んだ医学知識と、医師として20年の豊富な臨床経験を、余すことなく学生に伝授した。

彼女は婦人解放も提唱し、伝統的な学校が裕福な家の子供だけを招くという悪習を改め、品行方正であれば貧しい家の女子も募集を積極的にした。

北洋女医院哺乳室
この女子達は2年の学習と実践の後、専門水準の看護師、助産師となり、各地の病院に配属され、妊婦と嬰児の生命の健康安全を大きく守った。
心血を注いで、金𩐳梅は一人また一人と優秀な看護師人員を育成し、中国西洋医学の看護教育の先駆をスタートした。

中国での医療活動と、教育のほかに、金𩐳梅はしばしば海外へ足を運び、国際的な先進医学の技術と最新動態を理解した。

彼女は当時中国医学界で世界へ向かう一筋の入り口であった。

日本の神戸で、彼女は婦人小児科の診療所を開設し、病人を診察し、また当地の産婆に現代医学の知識と技術、そしてコレラ、腸チフス、マラリアなど伝染病の予防と治療作業を教授した。
当地の民衆は大変尊敬して、日本のマスコミも彼女を「近代中国最初の女性留学生、時代の伝説」と称賛した。

アメリカでは、彼女は社会各界で幅広く交流した。
いくつもの病院、科学研究機関、学校と雑誌社から、常に彼女の各種の学術活動への参加を求められている。
他の人の洋装と革靴とは異なり、彼女はいつもチャイナドレスを着て、束髪(そくはつ)に生花を挿していた。生花と衣裳の取り合わせは調和し、見事に引き立てあい、衆人と異なるオリエンタルな美しさをもたらした。

彼女もいつも各地で演説を発表した。彼女の文才は敏捷(びんしょう)で、講演は極めて感染力があり、政治的な知恵と先見性は講演で余すところがなく、一つの真実、正確な中国を努めて追求してアメリカ国民に紹介した。
『ワシントン・ポスト』紙は「彼女は二つの遠く離れた大陸間に疎通と理解の橋梁を創造した」と書いた。
『ニューヨークタイムズ』紙は彼女を『典型的な中国の進歩的女性』と称賛した。
『アメリカン・ジャーナル・オブ・ナーシング」は彼女を「最も卓越し最も有能な女医の一人」と評価している。
アメリカ農業部の要請で、金韻梅は栄養士として、肉類食品の欠乏の苦境を解決するために、人類が消化吸収に適合する植物蛋白(たんぱく)を探究した。
一実験室で、彼女は中国の伝統方法で、大豆(だいず)で豆腐を製作した。
食事の時に、皿の上のどれが魚肉で、どれが豆腐であるのか、人々に次々試食させた。
これ以来、中国の豆腐は国外へ出て、はるか太平洋の彼方で、地位を占拠した。

アメリカのメディアは金韻梅の功績(大豆の研究開発)のニュース
今日では、アメリカは世界第一の大豆生産国である。
アメリカの歴史学者マシュー・ロス(Matthew Roth)は『奇跡の豆、大豆のアメリカでの勃興』という本の中で:
彼女はあの時代に、どの人よりも数十年も早く豆腐を一般のアメリカ国民に紹介した⋯⋯と記しはおり、「大豆と豆製品」の普及の、もたらす影響は計り知れない。

しかし、事業で活気盛んな金𩐳梅は、生活の中ではかえって不遇で不幸に満ちていた。
30歳の時、金韻梅とポルトガルの音楽家シュルヴァ(Eca da Silva)と結婚したが、この結婚は10年続いた後、最終的に離婚した。
一人息子は成年後間もなく、世界大戦でフランスの戦場で戦死した。

金韻梅の息子亜歴山大・金
老人が青年を送ることにより、金韻梅は悲痛極まりなかった。
だが、逝去したのであるから、残ったものは涙を拭い、背筋を伸ばすしかない。
彼女は平和主義者である。


1920年、金韻梅は中国へ戻り、彼女は最後の時間を、終始北平(北京)を離れることはなかった。
彼女は診療所を開き、熱心に医療と看護の人材を育成し、また積極的に慈悲活動に参加し、孤児院のために浄財を募集した。
晩年の金韻梅
1934年3月4日、金韻梅は肺炎に感染し、協和病院で病死した。享年70歳である。
その遺願により、所有する財産全部寄贈した〜診療所開業時の医療器材を、病院に寄贈。北京の住所と6,000元の現金は燕京大学に寄贈。長年収集珍蔵した150冊の外国語書籍を天津木斎学校へ寄贈した。

来た時は清浄で、去る時は堂々とした。


修繕後の金韻梅の故居
中華民国教育部は金韻梅に興学援助一等の賞状を授与し、この一等賞状を墓碑の背面に刻んだ。
今日、この墓碑は北京石刻芸術博物館に珍蔵されている。

金韻梅の墓碑
彼女の一生は、多くの辛苦と不幸を経験したが、一身で受け止めて、却って少しも妥協することはなかった。
彼女は大変この土地を愛し、更にこの土地に生活する人々を愛していた。
油が尽きて焔が消えるように、生命を終えるまで、私欲の無い奉仕と世の中への還元をした。彼女はこの込み入った世界の中で、濃厚な一筆を留め、また無数の人の尊敬と感動を勝ち得た。