山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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1280年、フビライに1年幽閉された文天祥は、14歳の娘から手紙を受け取ると、声をあげて涙を流した

1280年、フビライに1年幽閉された文天祥は、突然14歳の娘から手紙を受け取った。彼女は元朝の宮廷に捕らえられ、下働きの女性の生活を過ごし、毎日道士の服を着させられた。母親が遭遇したことについては、更に言いようのないことである。


囚われて以来、文天祥は妻と子供の消息が取れなくなっていたが、娘の手紙を受け取り、彼はまず喜び、手紙を開くと、途端に呆然(ぼうぜん)となった。

彼は敢えて妻子の境遇を考えなかったが、彼は大変賢明に、明瞭に、この手紙は元朝上層部の故意に流した手紙で、目的はただ彼の投降を進めるものであった。

彼は慟哭して、『女児の消息を得る(娘の手紙)』という詩を書いた。

故国斜陽草自春,争元作相总成塵。

故国は斜陽だが自然は春を迎えている。

丞相となったが、全ては塵となった。

(元を争う:科挙の主席合格者を状元という

 相と作る:丞相になる)

孔明巳負金刀志,元亮猶怜典午身。

孔明は漢が滅んだ後も劉氏の志を背負って戦い

陶淵明は東晋が滅んだ後も司馬氏を憐れんだ。

(金刀:劉の字を分解して劉氏のことを「卯金の刀「うきんのとう」という

典午:司馬のこと。晉の司馬氏を指す)

骯髒到頭方是漢,娉婷更欲向何人。

折れず阿らないのが真の男というものだ。

美しい女のように誰に向かおうとするな。

(骯髒:

元代中国語の意味とは真逆)

痴儿莫問今生計,還種来生未了因。

娘よ、今世をどう生きるかを私に問うな

むしろ来世に繋がる因縁を作るのだ。

(また来世も父娘となることを願う)

(痴児:子供に対する親しい呼びかけ

来生未了因:仏教用語)

父親が今生でどんなもくろみがあるのかを問わずに、我々は来世での父娘の情がまた続かせることが関の山である。

家庭と国家の間で、文天祥は確固たる選択を創出し、死をもって国に報いることを誓った。


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文天祥は南宋の家臣で、フビライは大変彼を評価し、そのため、南宋が崩壊した時、フビライは文天祥を殺害せず、千里を遠くとせず、彼を自分の身辺に運んだ。

しかし、文天祥という人は、大変忠誠心があった。

彼は文官であったが、1275年に、南宋朝廷の兵馬が急を告げ、各地で徴兵したので、文天祥は自分の全財産を寄進して、国家に軍用資金として差し出した。

そして自分も、元に抵抗する部隊に加わった。一介の文弱な書生であったが、それでも軍勢に加わり、刀と槍を手にして、国家を護衛した。

ただ惜しいことに、南宋の朝廷は文天祥を重要しなかった。

彼の策略を、朝廷は採用しなかった。彼は抵抗戦をして、元朝の軍隊と死をかけて抗争しようとしたが、朝廷の高層部は平和交渉しか考えなかった。

最後は太皇太后が決定を下し、伝国玉璽を元軍大将伯顏に交付することを許可した。しかし右丞相陳宜中は生命を惜しんで、平和交渉の使者になることを望まず、夜逃げまでした。

こうして、文天祥が大役をつかまされ、右丞相に冊封して、敵陣営へ和議に出かけた。

和議の過程で、文天祥は伯顔が望んでいるのは「平和」だけでなく、大宋全体を占拠する事であった。しかも伯顔も、文天祥は池中の小者ではなく、きっとこの平和交渉で大変化すると感じ取った。

そこで、彼はこの機会に文天祥を拘束した。


1276年幽閉されて1年の文天祥は、宋の恭帝が投降したニュースを聞いた。

小皇帝は朝廷一杯の文武の官を従えて、投降を宣言した。

伯顔は、一切が終息したと思った。

しかし文天祥は諦めず、彼は益王と広王を南方へ送り届けた。その後、彼は秘かに逃亡し、両淮の軍隊と合流し、最後に益王趙昰、つまり宋の端王が即位した。

ただ惜しむべきは、南宋の国運は、もう尽きていた。

これは一場必負の局面であった。

文天祥も重々承知していたが、彼が以前に伯顔に言ったあの言葉「皇帝が降伏するとも、我は降伏せず、生きて大宋の人間となり、死して大宋の鬼神となる。」の通りであった。

最後の瞬間まで戦わないことは、文天祥には妥協できないことであった。

その後、揚州が陥落すると、真州、通州も相次いで失われ、文天祥は家族を連れて一路南へ逃亡し、更に捕まることを避けて、南宋の主君と家臣は大部分の時間を海上に漂流した⋯⋯。

この過程で、文天祥の妻と娘は元軍に捕らえられた。

君臣の忠誠を選択すると、親族への孝行は難しくなる。


1278年、宋の端宗は無人島で病死し、広王趙昺が位を継いだ。12月に文天祥が捕まった。

彼はその場で竜脳(ボルネオール)を呑んで自殺を図ったが、失敗に終わった。

1279年の正月に、文天祥は狭小な艦船の中に閉じ込められ、外面は赤い太陽が海面に照る、まさに天涯孤独の大洋であった。

自分の境遇を回想すると、文天祥は、ただ国家を保つために、家産を使い果たし、妻子を投げ捨てたが、今では家庭も国家までも、留めておけなかった。

彼は悲痛万編で、千古の名編『零丁洋を過ぐ』詩を書いた:

    零丁洋を過ぐ   文天祥

  辛苦の遭逢は一経より起こり

  干戈 寥落たり 四周星。

  山河 破砕し 風は絮(わた)を飄ばし、

  身世 浮沈し 雨は萍(うきくさ)を打つ。

  惶恐灘頭に 惶恐を説き

  零丁洋裏に 零丁を歎く

  人生 古(いにしえ) より 誰か 死無からん

  丹心を留取して汗青を照らさん。

概訳

天涯孤独の大海原を行く  文天祥作

辛苦との巡りあいは経書の勉強に始まった。

戦争の荒廃は(1234年から)四周星(48年間)近く続いた。

祖国は踏みしだかれ、風は柳絮を吹き飛ばし、

我が身と世の中の浮沈は、雨に打たれている浮き草のようである。

贛江(かんこう)の難所「惶恐灘」は人の「惶恐(おそれかしこむ)を説き明かし、

珠江口の「零丁洋」では「零丁(おちぶれる)」ことを歎いた。

人が生まれると、昔から、誰も死なないものはいない。

真心をとどめ歴史書に反映しよう。


その一句「人生古(いにしえ)より誰か死すること無からん、丹心を留取し汗青を照らさん(人生誰もが死ぬものであるから、真心をとどめ史書に反映しよう)」は今日でも世に吟詠されている。


二月六日、文天祥は崖山の戦いで敗北を見届け、即位したばかりの幼い皇帝趙昺が国に伝わる玉璽を背負い、海に身を投げるのを目撃した。

それは南宋最後の皇帝だった。

皇帝に次いで海に身を投げる人にはまた多くの官僚、女官、将兵が⋯⋯その数は優に数万人に上がった。

南宋は、壊滅的に滅亡したが、文天祥はなお自らが南宋の民であることを忘れなかった。

文天祥は国に殉じることを望んだが、フビライは文天祥を高く評価し、自殺することを許さず、しかも多くの人を派遣して文天祥に投降するように諭した(さとす)。

初めてやって来たのは文天祥より17歳年上の留夢炎だった。

この男は南宋の状元で、順調に出世して、右丞相にまで上り詰めた(のぼりつめる)が、元軍が迫って来た時、官位を捨て故郷で敵軍を避け、その後、元軍が勝利したのを見て、「南宋の元丞相「の身分で多くの庶民を引き連れて投降した。

このような者を、文天祥は嘲り(あざける)、皮肉リ、自ら罵倒して追い出した。

次に到来したのは南宋の宋恭帝であった。

投降後、彼はすぐさま瀛国公に冊封された。彼はまだ子供で、文天祥に勧められて来た時にはたった9歳であったが、誰が9歳の子供が自由に行動できると考えるのであろう。

趙顕を見た瞬間、文天祥は痛哭(つうこく)して涙を流し、北に向かって拝んだ。趙顕も何を言って良いのかわからず。しばらくして別れてしまった。

特記すべきは、後に、趙顕はフビライに吐蕃に送られチベット語、仏教を学習し、また出家して、仏教の師となったことである。

三番目に来たのは元朝の高官阿合馬、基本はお金を管理する宰相であった。

彼は人として傲慢で、達官高給で彼を説得しようとした。だが文天祥は顔色一つ変えずに、「国を滅ぼすものよ、殺すなら殺せ「と怒りなじった。
その後も、フビライは続々と多くの人を派遣して文天祥に投降を進めたが、全て失敗に終わった。
最後は、フビライが自ら来て、「あなたは滅んだ宋に仕えることで私に仕えよ、即ち中書宰相とする。」と進めた。
文天祥はやはり拒絶した。
このようなことで、誰も彼を守り切れなかった。
1283年、文天祥は南に両ひざを着き、享年47歳で、憤慨して死んだ。