山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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裕福な家で54年間未亡人であり、13人の博士の子女を養育して、クリントンの称賛を得、106歳で安らかに息を引き取った

映画「神探大戦」の李昌鈺(ヘンリー・リー)の母親は、アメリカの前大統領クリントンとブッシュが、二人とも親指を立てて、彼女を「偉大な母親」と称した。

両人が口を揃えて言うこの母親は、名を王淑珍と言う。

彼女は清末光緒年間に生まれ、21世紀初頭に亡くなるまで、一生新旧中国の蒼海桑田の大転変を見尽きして来た。

106年に達する長い人生を、王淑珍は13人の児女を総て名門大学の博士に養育し、最後はそれぞれ業種のエリートとなった。

児女のそれぞれが才能を成し遂げたのは、誰もが興味津々であるが、この母親にはどんな教育の秘訣があるのだろうか。


1897年、王淑珍は江蘇省の立派な家庭に生まれ、幼少から衣食住に心配はなかった。

手厚い家庭環境の支持を得て、王淑珍は私塾と女子中高校で学び、字が上手く、漢詩、宋詞、音楽に精通した、当時は得難い女性の知識人であった。

19歳の時、父母の指示に従い、王淑珍は伸びる一方の穀物(こくもつ)問屋(とんや)の大物李浩民に嫁ぎ、これから人生の新しいページを開いた。


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その後何年も渡り、彼女は次々と8人の男児と5人の女児を出産し、家庭生活は充分に幸福で満足なものであった。

1949年初頭、李浩民は「東洋のタイタニック」と呼ばれる太平輪客船に乗り込んだ。


初め、商売の便を図り、李浩民は一家をあげて台湾に定住し、自信は頻繁に台湾海峡両岸を往来した。

世の中は無常で、生活は全て予告もなく致命的な一撃を与えた。

1949年1月末に、李浩民は大陸では買い込んだ大量の稚魚(ちぎょ)を積み込んで太平輪で台湾へ戻る途中、不幸にも海難に遭遇した。


夫の突然の死亡は、王淑珍を孤児の寡婦として台湾で瞬く間に寄る辺の無い宮中の身の上に陥れた。

立派な家のお嬢さんから裕福な家の夫人となり、王淑珍の前半生は一日の苦しみも味わったことがなかった。

突如(とつじょ)やって来た変化に面して、彼女はどのように対処したのであろうか。

子供を養育するために、王淑珍は使用人となり、人のために子供を負ぶり、衣服を洗い、家庭教師⋯⋯をこなした。

自分の両手で稼げることができるのであれば、彼女は昼も夜もなく働いた。

最も困難な時には、彼女は嫁入り道具もお金に換えて、子供たちに良好な教育を受けさせた。

有難いことには、子供達は学習が優秀なだけではなく、全てを心得ていた。

兄弟姉妹は学校が終わると、少しの時間を見つけ、続々と駆けつけ母親の仕事を手伝った。


その頃、家庭の生活は質素であったが、王淑珍は子供等に言った:

「大きくなって見込みが出来たら、我が家でも肉を食べ、新しい服を着るようにしなさいと。今はお金がなくても、綺麗さっぱりとしなければいけません。」。

子供達の衣服は、兄のお下がりを弟が来て、姉のお下がりを妹が着るのが常であった。

服やズボンを着潰すと、王淑珍は同色系統の端切れを継ぎ足した。どんな時でも、彼女は家族の衣服を綺麗に洗い、きちんとアイロンを掛けた。


李昌鈺は、ある年彼の靴がもうボロボロになったので、母親が長い間貯めていたお金で彼に新しい靴を買ってくれたことを、思い起こした。

靴を受け取った時、李昌鈺は母親の手にタコがたくさんあるのを見て、大変心を痛めた。

彼は新しい靴のは本当に忍びなく、毎日裸足で登校して、学校についてから靴を穿いた。

嘗て裕福で幸せだった一家は、このような困難貧窮の中、みすみす苦しんでいた。

警察学校を卒業したら、李昌鈺は巡査となり、早く母親の負担を軽減したいと考えていた。
しかし驚いたことに、母親は「修士だけでは不十分なので、通学を継続して、博士号を取らなければいけない。」と全く同意しなかった。

どんなことをするにも、彼女は自分が最大限の努力をするばかりでなく、また子供にずば抜けることを求めた。

彼女は時折「人の待(あしら)いは好(よし)みを要(かなめ)とせよ、事を做(な)すに専心を要とせよ、説話は少なく、做す事は多く、(待人要好、做事要专心、少说话、多做事)」と言う15文字の家訓で子供を教育した。

王淑珍は106年の人生で、彼女は富貴な生活をうけることも、また貧窮な日々に寄り添うこともあることを我々に証明した。
例え自分が艱難に陥っても、子供には最良の教育を受けさせることを堅持した。

父母にとって言えば、自分の子供をしっかり教育すること事は、永遠に人生の一大事である。

親は子供の鏡であり、あなたがどのようなものか、そして子供がどうなるか。王淑珍のような厳しい母親がいて、李昌鈺博士は優秀ではないとは思えない。