徐志摩が胡適の家に借家した時、夜中に遊郭に誘われたが、帰ってくると、胡夫人が、早く着替え(と言った)
1931年、徐志摩は胡適の家で借家していたが、親友に誘われ遊郭へ出かけた。返ってくると、もう真夜中であった。彼は抜き足差し足で、胡適を驚かさないよう心配した。
しかしドアを開けた途端、彼は呆気に取られた〜胡適夫人が彼の部屋の中に座り、冷ややかに彼を見つめていた。胡夫人は大変怒って、服一式を取り出し、「早く着替えなさい。」と言った。
胡適夫婦子供達の集合写真
胡適の妻は、江冬秀と言い、気性の激しい女性であった。
嘗て、胡適は浮気をして、離婚したいと思ったが、江冬秀はすぐさま包丁を手にして、彼に「私はまず二人の子供を切り刻んで、それから自尽すれば、あなたは自由よ。」と脅迫した。
その一手に、怖気ついた胡適は二度と離婚を口にしなかった。
江冬秀はまた大変義侠心があった。当時、北京大学の教授梁宗岱と本妻は離婚騒動と起こしたが、北京大学の総長の妻として、江冬秀は梁宗岱を助けなかったばかりでなく、返って本妻を家に連れ帰り、その後法廷で弁護を患わせ、梁宗岱と弁護士を痛めつけたのである。
この訴訟は、江冬秀が勝利したが、梁宗岱は徹底的に胡適と反目していた。
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徐志摩と陸小曼が結婚した時、江冬秀も大変不満であった。だが陸小曼の元の夫が譲歩して、両人への祝福を主導したので、江冬秀も余分な挙動は何もしなかった。
その後、陸小曼の出費が次第に増えて、徐志摩は四ヶ所を兼職して、やっと生活に供した。1931年、徐志摩は北京大学教授に限らず、女子大の授業も兼任して、毎月7・800元の給料となった。
しかし給金は殆どすべてを陸小曼に送ってしまうので、生活は疲弊した。
陸小曼は彼と一緒に北京に来ることを嫌がったので、彼は親友の家を借用し、そして無料の飛行機で上海へ帰った。
徐志摩
ある平凡な夜、徐志摩の親友の鄧さんは、彼の無気力を見て、「八大胡同(バーダートン」へ誘い出した。
八大胡同は、北京でも有名な風俗街で、本当は胭脂巷(口紅遊郭=八大胡同の中の胭脂胡同のこと)と呼ぶ。
徐志摩は行きたからなかったが、鄧さんは「一切の費用は、私が出す」と、胸を張って保障した。
こうして、徐志摩は鄧さんについて、ぼんやりと八大胡同に入り込んだ。
鄧さんは容易く、何人かの娘を呼んだが、徐志摩の目には、太っていたり、痩せすぎていたり、妄りにしか見えず、どれも良く見えなかった。
鄧さんは徐志摩をつっついて、「遊ぼうよ、かわいいのを選びなさい。」と言った。
そして、鄧氏はぶらぶらと出て行き、徐志摩もいい加減に年若いのを選んだ。
だが、彼が何もしないうちに、少女は慣れた様子で衣服を脱いだので、驚いて逃げ出した。
よりによって雨で、逃げ出した徐志摩は、行き場もなく、門のあたりにうずくまり、鄧氏の出てくるのを待った。
待つのは、午前0時10分までかかった。
鄧氏はびしょ濡れの徐志摩を見て、心を痛めまた慌てて、外車を雇って、彼を帰らせたが。
徐志摩は胡適の二階に住んでいたので、彼は抜き足差し足で、主人を驚かさないように二階に上がった。しかし彼がドアを開けると、胡適夫婦が冷ややかな目で、彼の部屋の中に座っていた。
言い訳する前に、江冬秀は一揃いの衣服を取り出し、徐志摩に「これは私があなたに作った綿入れと下着上下なので、あなたは早く部屋の中で着替えなさいね、義姉だから言うのではないが、これにどんな罪があるのですか。」と言った。
陸小曼
江冬秀は言うほど腹が立ち、徐志摩の着替えを進めた。
衣服を着替えた徐志摩は、やや虚しく(むなしい)、胡適夫婦の前で右往左往しながら、まだ自嘲しながら、「お義姉の心配を患わせてはいけないと、小曼が私に新しい服を作ってくれたが、着て帰れなかったのです。」と言った。
江冬秀は冷たい目で徐志摩を見ると、少しも遠慮なく「私に嘘をつきなさんなよ、あなたの奥さんがあなたを必要と思うならば、とっくに北京に来ているはずだよ、どうして一人で上海での楽々過ごしてるのよ。」と説得した。
陸小曼の上海の噂は、とっくに北京市街に広まっていた。
彼女と翁端午は、男女の姿で、オンドルに寝そべりアヘンで吸っていた。
体調が良くないので、翁端午はいつも彼女にマッサージをしていた、北京市街でも以前から噂になっていたが、徐志摩だけは陸小曼を庇って(かばう)いて、男女間の純情な友誼を解釈する文章を特別に書いている。
胡適はずっと話をしなかったが、彼が徐志摩を見る目は大変良くなかった。
徐志摩はびくびくして、鄧氏と友人の所へ遊びに行ったと説明した。
胡適は、「また嘘をついたね。私が君に言ったのは、自分の身分の、一個の学者と作家であることを忘れるなという事である。自分の名誉を惜しみなさい。」と冷笑した。
この一言で、徐志摩は大変恥ずかしくなり「私は大変小曼に悪いことをした。」と言った。
だが、胡適は「謝るべき相手は、君ではなく、小曼である。」と首を横に振った。
そして、江冬秀の傍で、さらに語気を荒げて「このような女に、何を求めるのだ。もういいだろう、一日中まともなことをやってないのだから。」と言った。
江冬秀が怒るのも無理はなかった。
陸小曼の浪費は特に多く、徐志摩は身一つでいくつもの職で彼女を養わざるを得なかったが、彼女は人に心を痛めることも知らなかった。
徐志摩のズボンはもう幾つも穴が開いていたが、彼女は夫人として、逆に全く気に掛けなかった。
江冬秀が徐志摩に衣服をあげたのは、彼が穴の開いた衣服を着て歩くのが見るに忍びなかったからである。
胡適はずっと仲良きこととを進め別れることを進めなかった。
この時、彼も珍しく徐志摩に「夫婦の道は、義理があれば結ばれるが、義理がなければ別れる。」滅多にないことを言った。
だが、この時、徐志摩の生命は既にカウントダウンに入っていたことを、誰も知らなかった。
彼はお金が惜しかったので、乗り込んだ無料の航空機で事故が起こった。
訃報が届くと、陸小曼は自分がどんなに徐志摩を愛していたのかをやっと知った。
彼女は根本的に徐志摩の訃報を受け入れず、送信者を追い返し、遺体の引き取りを拒絶した。結局、徐志摩の前妻張幼儀が、長男に父親の遺骨を収束させ、葬儀の準備をさせた。
昔の言い回しに良妻を娶らばという。
陸小曼は確かに才女であり、胡適も彼女を「北京でもお目に掛からない見もの」と称賛した。
これは徐志摩が世間の人に唾(つば)掛けられる危険を冒しても、結婚したいと思った女性である。
そう彼女は良い妻ではなかった。
彼女は小さい頃から愛情いっぱいで育てられ、人間の辛酸を知らず、愛が与えるものとも知らず、失われて、やっと初めて悔やんだのである。
1931年、徐志摩は飛行機事故で、34歳の若さで亡くなった。この時陸小曼も、まだ29歳であった。その後33年間、彼女は終に結婚することはなかった。
徐志摩が亡くなると、彼女は家に篭り外出も少なく、徐志摩が目指した良妻となった。
しかしこの一切を、徐志摩は永遠に見られなかった。
善良な人に、例え一時失意しても、また最終的には善良と同等の回答を得られるのである。
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