山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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清国の洋務運動

日清両国の近代化工業はほぼ同時に起こったが、日清戦争前夜にはその差は歴然としており、原因は当然多方面であり、極め尽くすのは難しいが、ここでは比較的重要な制度的原因二点を説明する。


清朝は長期間「天下の大国」の妄想に浸かっていて、清帝国の公私の知識階級の大多数は欧米の先進技術に対して理解が欠乏し、一顧だにしない態度を持っていた。正に恭親王奕訢が首都同文館内に、天文、数学両科を附設し、西洋人を招いて近代知識を伝授させようとした時、国士官僚を挙げての抵抗に遭遇し、大学士兼帝師倭仁親は自ら陣頭に立ち、国を立てる道は「人心に在って技芸にはない」ので、恭親王奕訢の「夷(西洋)を以て夏(中華)を変える」方法は、正に亡国滅民の結果を導くと糾弾し、気勢を挙げた。またまた江南機器製作局など洋務等洋務(西洋模倣)軍工企業が地方督撫(知事)の手でしか誕生せず、当時改革の中枢の総理衙門が直接創設する方法がなかったことが主要な理由である。丁日昌が李鴻章の支持で朝廷に建議に当たり、外国の堅船利砲の先進技術を導入して、自国の「合板汽船工場」を建立したいと希望した時、総理衙門は「問題を見抜いているが、本衙門の未公表の秘密を喧伝しかねない」と返答したが、丁日昌の建議は総理衙門が自由に言えない心の内を語ったと称賛した。この種の称賛の本質は、中央での大規模改革が困難で大変な事を嘆き、ただ地方督撫の試験運用に依頼するしかないことを言う。地方督撫が試験先行するのは、希望限定も運命づけており、また中央と地方又は、地方と地方(湘系と淮系)との葛藤の中に陥ることも免れなかった。


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「天子最上国」の妄想を除いて、中央方面が改革を起こそうとする動力が無いのも重要な原因で、改革中枢の主催者恭親王奕訢の政治的地位も微妙で、不安定なものであった。彼と慈禧西太后との間にも長期に渋る緊張した相撲状態にあった。政治的な弱みを止めることを避けるために、恭親王奕訢が主催する総理衙門は改革を起動するごとに、地方督撫の集団会議を招集して、「集団責任」を示した。「集団責任」の本質は、誰も責任を負わないことで、この種の集団会議の結果、往々にして結論のない泥沼(どろぬま)に陥った。1860年代と1870年代に、総理衙門は鉄道建設の是非や、電信線の敷設の是非の問題を焦点としてハイレベルな討論を行ったが、全てこのような決定方法のために結果は無かった。中仏戦争で、恭親王奕訢は退任に駆逐され、中央は安定した改革者を無くし、情況は更にひどくなった。清朝末期の鉄道建設は風水吉凶を破壊する、国防を損害するといった類の俗説長らく困難を受け、表面的には後れているが、実際には誰も責任を負わない奇形の決定機構がこの種の遅れた認識にしたい放題を発揮する余地を与えている。一方日本は、鉄道建設の過程では、基本的にこの種の阻止に遭遇することはなかった。

清朝末期、「官民合営」方式は民間資本の投資と経営の積極性を厳重に損傷した。

輪船公司招商局は典型的な例であった。この会社は1873年1月に設立したが、清朝が創設した最初の近代的会社であった。しかし、創立から清朝の滅亡まで、ほぼ40年は、輪船招商局の財産権は頻繁複雑に変化し、始終官僚資本と民間企業資本の間で併呑(へいどん)と反併呑のゲームから逃げ出せなかった。その内、「官退商進」の1873年〜1885年の間、招商局の利益情況は相当良好で、1873年の利益は6.7万両余り、1874年の利益は13.5万両余り、1875年の利益は15.1万両余り(外商連が価格を後押しして接近させた年)、1876年の利益は35.9万両余り(スワイヤー・グループと商戦を展開した年)、1877年の利益は41.9万両余り(スワイヤー・グループとの商戦を継続)、1878年の利益は76.6万両余り(スワイヤー・グループと和議した年)、1879年の利益は67万両余り、1885年、輪船招商局は大変貌し、全面が役所化し、民間資本は次々と退出して、企業利益は大幅に下落し、かつ利潤は官利、債券利回りと朝廷への奉賛に殆ど支払ったので、企業経営には殆ど使われず、船舶は次第に老朽化(ろうきゅうか)し、競争力は日増しに下降した〜1891年から1911年まで、この20年間で、輪船招商局は朝廷に白銀135億3960万両余りを無償で「報効」した。

京漢鉄道はレールを提供するために建設した漢陽製鉄所も、情況は大体相似していた。張之洞の強い抑制で、この工場は実際には役所であり、使用した人員の多くは張の腹心で、却って専門の技術職や経営人材はなく、そのため開業の日から事故は絶えず、張之洞の時代には始終レールに合格する鋼材を鋳造することができなかったのである。

これに対して明治維新時代の日本では、清帝国の流れに反して、軍事事業と直接の関係のない企業が民間の会社へ売却して経営させた。三菱商事このようにして勃興した。1894年に日本の私営鉄道の総距離が国営鉄道の二倍余りに到達したのも、このような改革政策の下での産物である。


注:1885年9月、清朝戸部の指令は地方官僚が戸部と海軍衙門の承認を経ずに海軍物資を購買することを禁じた。日清戦争の約3ヶ月前に地方洋務派官僚李鴻章は彼の最大の軍艦の為に21門の雑多なクルップ製速射砲を購入することを望んだ。海軍衙門と戸部は61万両の要求を拒否した。これは1894年に李鴻章が朝廷に上奏した上奏文です。上奏文には次のように書かれています:「我々の艦船が初めて建造された時、西洋の船舶技術はそれほど発達していなかった。⋯⋯近年、戸部は艦船及び武器の購買を停止する決定を行った。1888年以来、我が軍は艦隊に一隻の艦船も加えていない。」。

嘗て極東一流を誇った北洋海軍は百年前に日清戦争で全滅した。