山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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任芷芳:晩清の富豪の孫嫁が、義父の没落で破産し、異国の街頭で中国揚げパン(油条)売りにまで落ちぶれ、牽き売りで再起するまで

1960年代、日本の街頭で屋台商売が流行って、顧客が続々と絶えなかった。

面白いことに、このみんなが歓迎した屋台で、売っていたのは日本食ではなく、中国の小食揚げパン(油条¥

であった。

屋台の店主は質素な服でも、仕事はてきぱきとして、親しげな笑顔で、オウライの顧客に好まれていた。

客の前のこの腕の熟練した美しい女性料理人が、実は大変訳ありであるとは、誰にも想像が及ばなかった。

彼女は任芷芳と言い、清末の富豪盛宣懐の孫嫁であった。


中華民国時期の顕著な任氏の家族の出身で、任芷芳は心のままに寵愛を受け、錦衣玉食の生活を過ごしていた。

しかし、任芷芳は寵愛に頼って驕ることもなく、如才なく(じょさいない)聞き分けも良く、幼少から本を読み才能も有った。

適齢期になると、父母の掌上の真珠として、彼女の結婚は特別に年長者に重視された。


一番精細な選択を経て、任家の両親は彼女の為に、清末の富豪盛宣懐の孫、盛毓郵を、婿に適うとして選んだ。

その時、富と地位の比較のしようもなく、任家と盛家は、実力伯仲(はくちゅう)し家柄が釣り合っていた。

一通りの「裏調整」で、双方の年配者は各々の家族の「新しい顔ぶれ」としても大変満足し、二人の良縁を結び、同時に家族を壮大にすることが期待された。

ライバルの任家と宣家が婚姻を決めたが、この結婚は、当然上海灘にセンセーションを巻き起こした。

婚礼当日は、多くの名門貴族が招待を受けて参加し、街路全体を水の漏れる隙間もないほどであった。


実は、盛毓郵は婚前に任芷芳と会っており、彼女の才気に深く吸い込まれており、彼女は迎え入れられ、やはり願いを果たした。

任芷芳は夫と結婚後の生活は十分愛情深く、二人は新式の教育を受け、考え方も多くの相似する所があり、交流も全く蟠り(わだかまる)がなく、若い二人は熱く甘いものであった。


盛家に嫁入り後、任芷芳の生活は以前同様に気楽で自由であった。

彼女は家政婦も使っていて、家事の必要もなく、手持ちぶさたな時にはいつでも家を出て音楽を聴き街をぶらついた。

小さな頃から、任芷芳は清潔好きで、彼女も大変な潔癖症(けっぺきしょう)であり、シーツは毎日交換し、部屋にある器具はいつも塵一つなく保たれた。

当然、当時も大豪族でなければ彼女のこのような浪費を支えきれなかった。

しかし、良いことは長続きせず、結婚後間もなく、盛家には重大な家計の危機が訪れた。


元々、盛毓郵は祖父が残した奥万の財産を継承し、一家が衣食住に困ることはなく、三世代では使いきれなかった。

だがよりによって盛毓郵の父親の盛恩頤は、遠近に聞こえた放蕩で、ギャンブルが好きで、金遣いが荒かった。

この点は、任芷芳が家に入る前から聞いていたことである。

しかし、予想外であったのは、義父がカジノに入ると、理性というべきものが無くなった。

一回の大博打(ばくち)で、盛恩頤は盛家の上海にあった百室の不動産を失ってしまった。

たった一夜で、盛宣懐が生前の残した巨額の遺産が、全くなくなった。


美しく楽しい生活は、これより盛家の人から遠く離れ、日に日にいよいよ艱難となった。

ある日、盛毓郵は全く残念そうに妻に対して「現在上海の生活はうまくいかないので、あなたは子供を連れて家郷に帰りなさい、私は香港に流浪する。」と言った。

夫の苦難は、任芷芳が知らないわけがなかった。

家業は止めようもなく急速に衰退して、彼女は火を焚くように焦ったが、どうしよう無かった。

彼女は平素から、物わかりがよい女性で、夫に思いっきりやるよう励まし、彼女は「後方を安定させた。」


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盛毓郵は香港に到着すると、しばらく商売をして、その後シンガポールに移り、ある時偶然の機会にまた日本の東京に来た。

数日の観察を経て、盛毓郵は隠れたビジネスチャンスを見つけた。

彼は鋭敏に観察すると、東京には華僑が多いが、中国式の朝飯食堂は少なかった。

満身の期待を抱いて、盛毓郵は興奮して妻に電話をし、妻と朝食店を開きたいと希望した。
電話の向こうで、任芷芳はもう夢中で喜んだ。

彼女は子供と永く夫への思いは止まなかったが、今回は、一家はもちろん何があっても一緒に居たかった。

すぐさま、任芷芳は三人の子供を連れて東京にやってきた。

毎朝早く、夫婦は早起きして、街頭へ出て屋台を開いた。
盛毓郵は小麦粉を捏ね、任芷芳は地味な服装で、腰にエプロンを巻いて、忙しい揚げパン(油条)を作った。

都合よかったのは任芷芳がきれい好きだったので、屋台の衛生も人の目には美しく映り、食事の人も安心感を得ることができた。

環境は衛生が清潔で、食材が新鮮、夫婦二人がまた熱心でおおらかなことで、店はすぐさま多くの顧客を吸引した。
商売が次第に大きくなったので、彼らもようやく店を拡大し、一家の生活はまた裕福になって来た。
特筆すべきことは、盛毓郵夫妻のこの小さな朝食店は、正に現在の国際的レストランブランドの新亜大飯店の前身なのである。

人生の浮き沈みを経験しても、任芷芳は生活の信条を失わず、始終優雅で寛容な態度で、家族の盛衰に対峙した。
堅忍不抜の努力により、素手一本(すでいっぽん)で出発しまた富豪になった。彼女は素晴らしい知恵があるばかりでなく、始終楽観的な精神で、淡泊な心理状態は、やはり我々が見習うに値するものである。