山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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漢字の起源

甲骨文(神託文):

廿卅文紋吝印章彰役效扑抗歲侵契辛商宰執幸竟競辟央旁刑民氓

現代常用字:

紋字扑整致収敵故放攻刻敬救散幸辯害親


人類はなぜ「万物の霊長」となったのか。
この点に対しては、世間には多くの解釈がある。ある人は人類は火を使うことを覚えたと言い、ある人は人類は工具の製造と工具の使用ができたからという。しかし多くの人は、重要なことは人類が文字を創造したことと認めている。文字があればこそ、先人の残した知恵を留められるのである。文明の殿堂に踏み入れてから、人類は動物の本能を飛び出し、また自然界で生存する需要を飛び出したと言える。人類は自分の思想があり、そして文字を使ってこの思想を記録することで、文字を創造した。人と禽獣の間の最大の違いは伝承があり、禽獣が生死を惜しまず伝承したいものは自分の精血であり、人類史が伝承したいものは精神であり、この種の伝承が極めて強い顔貌を包含しており、全て自分に人間世界の痕跡を永久に留めて置きたいということが共通点である。
何が文字であるのか。現代人が言う所の「漢字」は、中国の古代には「文字」と呼ばれた。元朝廷の統治者はモンゴル人で、モンゴル文字、ウイグル文字などの異なる文字と区分するために、「漢民族が使用する文字」という意味の、「漢字」の名称を作った。しかし習慣上は、それまでの文人が所有していた中国文字を「文字」と総称した。
文字とは言語を記録するために用いられる書写『である。
後漢の許慎は『説文解字』で「独体を文と為し、合体を字と為す」という。意味は、一つの基本単位の結構でできた文字を「文」と言い、二個以上の単位で構成された文字を「字」という。この話の原文は、このように書いている。「黄帝の吏官蒼頡が始め書を作すや、蓋し類に依り形を象る、故に之れを文と謂う。其の後形声相い益す、即ち之れを字と謂う。文とは、物象の本なり。字とは、孳乳(=派生する)にして浸く多きを言ふなり。」独体(単体)の文は、例えば日、月、山、川、水、阜、土、石、鳥、嘼、人、大、身、頁、首、耳、口、自(鼻)、目、手、左、右、足、止、牛、羊、馬、鹿、魚、宮、室、刀、舟、車、戈などなどである。
古代人は、歴史上の重大な事件、重大な発明あるいは革新は、全て伝説中の偉大な人物により完成していると考えていた。盤古が天地を開闢(かいびゃく)してから、世界はこのように誕生した。女媧が土をこね人を作って、人類が創造された。有巣氏は巣居を発明して、民に物作りを教えた。燧人氏は木を擦って火を取ることを発明し、民に調理を教えた。黄帝の妻嫘祖は麻を紡ぎ養蚕を発明し、民に衣服を教えた⋯⋯。漢字の創造と発明は、中華文明の発展史上の一大事件であり、人々はこの貢献を伏羲あるいは蒼頡に帰納している。
伏羲の文字創造は漢字の起源伝説で最も古い。伝説中の伏羲氏の領土は、現在の黄河と淮河の流域であり、時間はおおよそ一万年前から七千年前である。『史記』には「人の生の始まるや、禽獣と異なりなし。母有るを知りても其父を知らず、愛を知りて其の礼を知らず。臥すれば即ち吱吱(ズーズーと眠り)とし、起きれば即ち吁吁(ハーハーと動く)たり。飢えれば即ち食を求め、飽けば即ち余を棄つ。毛を茹べ血を飲み、而して皮革を衣る(原始的な生活)。太昊始めて網罟(たもあみ)を作り、以て佃(かり)し以て漁(いさ)る、以て民の用を贍(すく)う、故に伏羲氏と曰う。犠牲を養いて庖(くりや)と為し、又た庖羲氏と曰う。」と記載する。」『史記』にはまた「太昊(伏羲)の徳は上下を和し、天は応えるに鳥獣の文(紋)章を以てし、地は応える龍馬を以て図を負わしむ。是に于いて仰ぎて象を天に観、中に万物の宜しきを観る。始めて八卦を画き、卦に三爻(こう)有り、因りてこれを重ね、六十有四と為し、以て神明の徳に通ず。書契を作りて以て結縄の政に代える。」と言っている。
これらの記載は、古代の伏羲氏の部落で、もう結縄(ロープ記号)画を刻んだ象形文字の方法で事実を記録したことを表明している。『易・系辞下』の記載は「上古は結縄して治む、後世の聖人之れに易(か)えるに書契を以てし、百官以て治め、万民以て察す。」との一点を証明している。結縄して事を記す方法は、漢代の鄭玄の『周礼注』に詳しく説明している。「結縄は約を為し、事大なれば、其の縄を大いに結び、事小なれば、其の縄を小さく結ぶ。」これは、文字の産生以前には、人々は記憶を幫助するために、縄を用いて結ぶ方法で、記号を作り、記憶を幫助した。事情が大きければ、縄を大きく結び、事情が小さければ縄を小さく結んだ。「後世の聖人之れに易えるに書契を以てす」とは、結縄記事は既に書契(甲骨文字)発明以前に既にあり、文字の生産は社会生活の需要であったことを説明している。同時にまた、文字の生産は社会生活の需要であった。
そして結縄記事の本質は人の記憶を幫助するのみで、文字として数えるには至らなかった。勿論、結縄記事から派生した「十、廿(二十)、卅(三十)」は、最古の漢字である。甲骨文は一本の結んだ縄で数量の.   「十」を表す。甲骨文の「廿)は二本の結んだ縄    が接続していているが、やはり      、 「二十」であり、金文     、  、 ではでは結んだ縄が横線で連結している。    「卅」に至っては、三本の縄が一緒に連なるが、当然「三十」である。
一万年から六千年前の中国の大地には、伏羲氏、神農氏、少典氏、有熊氏などの原始社会の部落連盟が分布した。この果てしない時期は文字が徐々に形成され正式に想像された時期であり、中国各地の大小の部族は皆独自の文字を創造していた。この時期の壁画は    「吝」と言い、甲骨文での「文」は、古代の岸壁上の文様を指し、下の「口」は解釈を表す。文字創造の本意は、岸壁上の古い神秘的な絵文字の難解な解釈と、解読である。『説文解字』では、吝は、事をなすにチャンスを失い、収穫が少ないので、後悔、痛惜(つうせき)を感じることとする。
中国の文字は6,000年以上前に陶器に刻まれた絵文字、所謂「陶文」が誕生したことで形作られました。陶文は「文字の母」である絵から、線は自然から着想を得ています。古人は文字を創造には動物の活動と植物の生長の影響で啓発している。
想像することができます、今から6000年前、仰韶文化の頃、動物の皮を被った部族の霊媒が儀式を行った後、洞窟に帰って休んでいたと思われる出来事です。霊媒は、不思議な歌を歌いながら、白い石を拾って陶器に絵を描きました。

この「彩絵鸛魚石斧図」陶缸は6000年前の仰韶文化時期時期に創造され、1978年河南省臨汝県で出土しました。作者は白色顔料で陶器の甕の外壁に鳥、魚、石斧を描き、太くて丈夫な黒い線で鳥の目、魚の外形と石斧の構造を描きましたが、それは中国古代の様式的を持つ貴重な国宝級絵画です。そして画面に表現された模様は、正に最初の象形文字になります。


半坡遺跡出土の刻画符号
西安の半坡遺跡も、新石器時代の仰韶文化に属しています。この古文化遺跡からは、多くの彫刻記号を持つ土器が出土したおり、統計によると各種類の彫刻記号は190以上にのぼります。其の中の「乍」「十」「止」「矢」「阜」「曲」などの字形は、実に3千年後の甲骨文に良く似ており、陶器に刻まれた記号は文字の起源段階で生まれた簡単な形をしております。この他、1972年ー1974年に陝西省臨潼姜寨遺跡出土した陶器は、1974年に青海楽都柳湾と山東省の城子崖遺跡で出土した陶器には、類似の描写記号があります。姜寨遺跡も仰韻文化に属し、年代は半坡類型文化より少し後で陝西省臨潼の臨河北岸に位置し、敷地面積は20000平方メートル余りに達して、これまで発掘された中国の新石器時代の最大面積の遺跡になります。此処で出土した陶器にも記号が刻まれており、それは甲骨文の「裘」「禾」「来」「市」「巾」「巫」などの字形と近く、これらの原始文字は半坡陶文より更にはっきりと見分けられるのです。

陝西省臨潼姜寨遺跡出土した刻画符号
山東省の莒県陵陽河遺跡で出土した土器群の上に、20数個の土器記号が刻まれています。陵陽河遺跡は「大汶口文化」(前4300年ー前2500年)に属し、新石器時代後期の父系氏族社会の典型的な文化形態です。泰山を中心とするこの原始民族は、山東省、江蘇北部、河南東部に広く分布し、山東省泰安の大汶口で最初に発見されたので、考古学者は「大汶口文化」と名付けました。陵陽河遺跡は、約4,500年前の「大汶口文化」後期のものです。

大汶口文化遺跡出土の陶文
大汶口で出土した土器銘は、大口土器鼎に刻まれたものが多く、赤色顔料を用いた陶器銘もあります。これは文学者の間では、口、旦、炅、戉(鉞)、斤、斧、皇、封、四などを含む中国における原始的な絵文字のグループとして認識されています。其の文字の構造は、商朝の甲骨文、青銅器に刻まれた象形文字と非常に近く、同じ系統の文化伝承に属し、現在使われている漢字の大部分は「大汶口文化」に由来するものです。
しかし厳密に言えば、この初期の「文」は、実はまだ「画」の範疇に属しているのです。なぜなら、文字は蜜蜂の様に群れをなすことで意味を為し、一定の規模を形成することで文法を構築し、文を秩序正しく繋げることで伝承する事が出来るからです。先人が文字を作った目的には二つあります。一つは聖人の偉大な功績を讃えるため、二つは財産の所有権を明示する為であります。「これは私のもので、あなたに権利はない!」器に刻まれたこれらの原始文字は二つの用途にしか使用されていません、たった百八十文字しかないので、物事を深く記録するには十分ではないからです。


陶文は、数量が足りないだけでなく、普及性にも問題があります。例えば、「鳥叔」という巫師(ふし)が、自分の陶器の壺に鳥を描いて、部族の人々に壺の所有権を宣言したそうです。そこで、人々はこの記号が描かれたものを見るたびに、これが「鳥叔」の私有財産であることを知りました。長い間この「鳥」の字は「鳥叔」の専用記号になりました。しかし問題は、もし自分の部族を離れたら、誰が「鳥叔」を知っているのか?ということです。「鳥」の字い、「鳥叔」との間に何の関係があるのか誰も知りません。自分の作った字が本来の役割を果たすには、この字を認識させることです。しかし政府の様な強力な推進がなければ、文字の普及性は保証されないでしょう、人々が字を作っても認識されなければ意味がないのです。
先人達は、長い社会生活の実践の中で伝えるべき情報を、具体的に簡潔に正確に伝えるためには、原図をできるだけ単純化し標準化し統一する必要があることを知りて、それが本当の意味での文字の誕生に繋がったのだろう。現代の考古学的発見により「五帝時代」は考古学が定義した「龍山文化」に属することが判明している。この時代、「巫」「史」と呼ばれる初期の知識人が出現し、精神労働が肉体労働から分離され、文明社会の重要な兆候の一つ一つとなったのである。これらの知識人は、元々彫られていた記号を分類し、多くの文字を作り出し中国文明の知恵の結晶としたのである。
中国が政府主導で文字を作るようになったのは、今から約4500年前、『黄帝』の時代からです。蒼頡の創作文字については、多くの史料が残っています。『吕氏春秋・君守』には「蒼頡が本を作った」とある。『荀子・解蔽』曰く「優れた書家は多いが、蒼頡はただ一人、唯一のものである。」『説文解字・叙』には黄帝の官吏である蒼頡が鳥獣の蹄の痕跡を確認し、その区別がつくことを知り、初めて書契を作った」と記録されています。蒼頡は黄帝の官吏であった。彼の故郷は陝西省白水県の史官郷であった。
蒼頡の墓は3カ所あります。陝西省白水県に一カ所、山東省陽谷県一カ所、もう一カ所は山東省寿光市西郊にあります。蒼頡がこのように多くの墓地を持っていることは、蒼頡の名が一人の人物のものではなく、太古の文字で歴史を作った人々の代名詞であるという事実を示唆しています。漢字の数は数千もあり一人の作業で作られたものではなく、千百の蒼頡の如き人物が共同で完成させたものであることは、甲骨文の異体字の多さからもわかります。蒼頡の名が後世に残ったのは、彼が最初に文字の収集、整理、統一の仕事をしたからであろう。

伝説によると、蒼頡には「双瞳四目」があるという。「二重瞳孔」の持つ人は普通の人ではありません。中国の歴史には虞舜、蒼頡、項羽、そして南唐の後主李煜が「二重瞳孔」を持つ人として記録されています。虞舜は帝位を禅譲した聖人、蒼頡は造字文聖、項羽は武林の覇王、李煜は填詞皇帝です。蒼頡は聡明で人知を超え、上は日月星辰の変化を観察するし、下は山川の風雨の変化を観察することができます。自然界の鳥の足や獣の蹄に触発され、「象形」「会意」という漢字を造りました。蒼頡が字を作ることに成功した後、神鬼は驚いて闇夜に泣き叫び、天は感動して彼に粟の雨を降らせました- -二十四節気の「穀雨」は、これに由来します。



山西省臨汾市襄汾の陶寺遺跡は、龍山文化時代に中原最大だった古城の遺跡である。地理位置から見ると、伝説の帝堯の都平陽に非常に近い。この遺跡の時代は紀元前2600〜2200年であり、城には宮殿基礎跡があり、銅器や玉器が出土しただけでなく、文字も発見された。数はかなり限られているが字形は十分明瞭である。
山西省臨汾市襄汾県陶寺遺跡から出土した陶製平壺の残片であるが、上面に書かれた文字はいますまでに発見された中国で最も早期の文字である。平壺の左側にあるのは「堯」という一つの文字であるかも知れず、肩担ぎ陶罐にある「堯」の形は、甲骨文製陶    (堯)に非常に近い。壺の右側にあるのは明瞭な    「文」の文字であるこの文字は毛筆で陶器の外面に書かれており、顔料は紅色朱砂である。そこにある「文」の本来の意味は「紋様、痕跡」である。古代の人々は、祭祀、戦争、天象等重大な歴史事件を記録するために岩壁や陶器、甲骨上に象形文字を刻画したのである。
「文」の字は作られた時期が最も早いだけでなく、字形も変化が多彩である。我々は、字形の変遷を通じて、中華文化発展の筋道を微かながら見いだすのである。
早期の甲骨文の    「文」と陶寺扁壺の文字の形は相同である。晩期の甲骨文の    「文」は道具で刻まれたような線条の図案で、刻紋記事を表している。『説文解字』に、「文は、画を錯すなり、交わりを象る文なり。」。許慎は文は線条が交錯して紋様を作っているとするが、しかし我々は許慎が言う所は「文」の引申義(派生した意味)と考えている。この意義から言えば、「文化」は紋様の「紋」の古文である。

漢字は古代人が観察した事物が芸術的に単純化を経過して変化してきたもので、文字の筆画には縦横あり、交差もあり、平行もあり、まるで縦横に交差した模様であるので、「文」が引申され「文字」の「文」を指すのである。甲骨文、金文、篆文、石鼓文、籀文などのようなものである。金文の    「紋」は    「文」の傍らに刻画符号    「彡」を加え、彫刻紋様の形象を強調している。ある金文    「文」は思想意識を表す    「心」と二本の交錯した刻紋   「乂」により組成され、刻紋を使って表示し、刻紋と図案は意識を伝達している。また金文      、  には交錯した刻画の線    の中に意識を表す    、 「心」字を加えて、さらに一歩進めて明確に「文」の字を「線条と、図案を用いて意識を伝達」する意義を含めている。簡化金文の文は  を書く。篆書   は元に戻って、早期の陶文の字形を伝承している。隷化後楷書   は筆画(ひっかく)を扁平(へんぺい)直角に立て、本字から「交錯した紋様」の形体を消失させるのである。

甲骨文の   「文」は字形から見れば、まるで胸元が特別広く、かつ身体に刺青(文身)の模様のある正面向きに立つ人である。文字の上端は頭で、左右両側に伸ばしているのは両腕で、広々とした胸元には刺青で美しい模様がある。下側には二本の脚がある。
「文」字の結構から、刺青の習俗には悠久の歴史があることが見て取れる。刺青の習俗は原始民族に見られ、原始民族が自分の身体を装飾する手段であった。彼らは自分の身体に入れた各種の模様、鳥獣などは大多数が自分の本部落のトーテムである。そして甲骨文と金文の「文」は正に先住民族のこの種の習俗の具体的で真実の反映である。『南史』の記載によると、古代には文身(刺青)の国があり、「倭国」の東北千里余りを隔て、この国家に生活する人の身体には各種の野獣の形象を刺青し、額にも模様を入れていた。人々は額の上の模様で直接あるいは間接的にこの人の身分の地位の高低貴賤を判断することができた。この国の中では、産物が豊富で、物価は安く、経済は繁栄し、往来する旅客には無料で飲食や宿泊が提供された。この伝説は我々に、古代人は文身刺青を一種の文明行為としてとらえていたことを物語っている。文明が出現する前には、男子の姿は「披髪(ザンバラ髪)で文身」であった。少年が成長して成人となると、文身刺青して家族の一員として認められた。
また学者には、あるいは悪霊(鬼怪)を避けるための魔除けや、異性にモテるための美化など、様々な文身刺青の目的があると考えた。古来、呉越地方では刺青の習慣が一般的であった。刺青の最古の記述は『穀梁伝・哀公十三年』に「呉はも、夷狄の国なり、また髪を切り、身体に刺青を入れた。」とある。晋の時代、範寧は「刺青をすることは、自分の身体を文章として刻むことである」と書いた。『荘子・逍遥遊』:「越人は髪を折って身体を書いた。」。上記の文献は、呉越同舟の断髪と刺青(文身)に関するものである。刺青の習慣はずっと今も続いている。近代でも高山族、独龍族、拉祜族、黎族、傣族などの少数民族には、文身刺青の習俗がある。
文身(刺青)に関連して使われる古代漢字には、「文、紋、彥、顔、斐、印、章、彰、爽、凶、匈、胸」などがある。殷商王朝末期になってようやく金文に出現した。金文は二個以上の「文」から組成される「字」(の文字)が徐々に登場するようになった。金文     、 字の上部   宀は安の省略した書き方で、男子が家を建て女性を娶り、部屋(宀のした)の「子」は、女性が嫁となり、後世を生育することを示している。子供が生まれると、父母は往々に口頭で「名」をつけた。安全の見地から、弱肉強食の遥か古代には、盗賊は村落を襲い、婦女を掠奪し、児童を誘拐するのを予防するために、古代人は往々にして新生児と新しく娶った女性の身体に特有の記号を文身刺青したが、これらの身体の符号を「字」と呼んだ。後に、この種の文身記号はその人特有の呼称「名字」となり、古代の一般男性が成年後に自分の「名」に近い意味の「注釈」を補充し「説明」したものも、「字(あざな)」と呼んだ。しかし文字を知らない低層の人々にとっては、彼らの大部分は皆「名」はあっても「字」がない「卑鄙(無知)」な民であった。「卑鄙」という言葉は、本来蔑称(べっしょう)ではないが、長い間に、「文化の無い地方人」の代名詞となり、次第に人をバカにする言葉となった。
中原では、蚩尤の子孫は断髪文身刺青の野蛮人で、大汶口文化時期に相当する。黄帝が蚩尤に勝利した後に、「黎明百姓」という言葉が生まれた。黄帝一族は「百姓」、蚩尤一族は「黎民」である。「民」は元々征服された人を指す。甲骨文の   「民」は人間の瞳    「目」の下に刻画符号   「十」が加えられている。金文の民は     、   、  、  造字の本義は、手持ちの刃物で捕虜の瞳を傷つけて、逃亡しないようにして、従順な奴隷としたことである。後に「民」の「奴隷」の本義は消失し、「人数の多い平民」となった。その後篆書の氓は民字の旁に「亡」を加えて、双眼を失明させて、視力を失った奴隷を指した。
文明社会に進入すると、中原(中国平原)の人は文身刺青をしなくなった。そればかりでなく、彼らは軍隊を派遣し、刀斧と縄網を持って四方を征伐し、到る所で、文身刺青の野蛮人を奴隷として捕えた。それから、刺青は本来の聖人儀礼から犯罪を懲罰する刑罰へ変化したが、司法と刑罰に関係のある文字には「法(灋)、獄、、曹、害、執、訊、辜、刑、刖、辟、黥、圉、報、械」などがある。犯罪者、、受刑者、奴隷系統の古漢字には「臣、宦、竪、俘、奴、僕、隸」がある。
『尚書』には、黄帝は皋陶を任命し刑法を制定し、行罪の軽重を根拠に、犯人に対して五種の刑罰、黥(ギョウ)、劓、刖、宫、大辟を加えることを規定した。黥は犯人の顔への刺青である。劓(ぎ)は鼻切、刖(ガツ)は手足の切断である。宮は男根の切断、大辟は断頭である。

甲骨文の「刑」は、水牢に閉じ込められた人を象る。金文になると人は水牢の外に出されて、小篆に演変すると、人は「刀」に変化し、刀で刑を加えているようになり、また水牢内には一点があり、水がその中にあることを表示している。「刑」字の本来の意味は「刑法」であった。

甲骨文の刖の字!見たところのこぎりを持った手で、別の人の腿を切り落としているように見えるが、どんなに悲惨な情景であるのか考えてみて下さい。
央、音符でも意符でもあり、絞首(コウシュ)刑である。央は、甲骨文      、 では髪を切り刺青させられる犯罪    で、縛られ箱詰めされた様子    、 である。文字造型の本義は都市町村の中心地に台を架設して剃髪の犯罪者を絞首刑にする場所である。絞首刑を下げた下に「心」字を加えると「怏」となり、本義は塞ぎ込んで楽しまないことである。字形「怏」は「央=絞首刑」と「心=怨憤」の組み合わせで、造字の本義は内心に苦痛を受け憤懣に満ちていることである。
篆書の鞏は抽象的な会意文字で、右側の巩(丮)は「巩」の字である。杵(きね)で地面を打ち、土壁を構築することを表示している。左側は「心」字を加えて、心臓が恐怖で、まるで強く杵で打たれたように猛烈に鼓動するのを強調している。造字の本義は、内心の強烈な恐怖は、まるで心臓を撃つ杵のようであること。

歳、早期の甲骨文     、  、 「歳」は、「鉞」と通用し、広い刃物の戈で、処刑器具を象る。晩期の甲骨文     、 「歳」は処刑器具を表す「戈」と逃走する「歩」を組み合わせており、造字の本義は、古代には年末になると処刑を実施する祖先祭祀があり、逃亡を試みた奴隷の両脚を斫(切)り取り、年越しの安寧を求めたのである。金文の歳は     、  、 を書く。歳は、また木星を指す。二十八星宿を経過して、陰陽十二の干支を進み、十二か月で一巡するのである。

辛、早期の甲骨文  「辛」はやまあらしの鋭い刺針を表現して、木の柄  (がら)の先に取り付けられた  刺刀を象り、犯罪者を処罰する処刑具である。晩期の甲骨文   「辛」には刺刀の上に短い横の指事記号 を加えて、刺刀が真っ直ぐ指すことも、横に切ることもできることを表示している。この字形は天を逆さにして、倒立した人で、「天を反逆」の形を表して、この最悪の輩は天下の大罪を犯したのではないだろうか。漢字では、「辛」は通常犯罪、罪人あるいは刑の執行を表す。金文の  「辛」は甲骨文の字形   「辛」は、突出した刀錐の形象を受け継いでいる。篆書の    「辛」にはノコギリ状の記号が増加した。造字の本義は、遠古時代から奴隷あるいは犯罪者を制裁する刺刀である。「説文解字」は、「辛」は四時中に秋を表し、秋に何も成長して成熟にして落ちになったと言いました。「辛」は五行で金を表し、金の特性は硬いです。「辛」はスパイシーな味も表しており、試み客や近親者は涙を流します。「辛」の字形は会意字で、犯罪に関連する意味がある。天干順序では、「辛」は「庚」を継承し、人間の大腿のような字形を持っています。台所には「五辛菜」というものがあり、、元旦の立春で、、ネギ、にんにく、ニラ、蓼(たで)、芥子(からし)を混ぜたものを、「古いもので新しいものを迎える」という意味で食べるそうです。漢字では、「辛」は通常が犯罪を代表して、罪人または罪人に刑を課します。受刑者は確かに大変です。「辛」は五行で金を表し、金の特性は硬いです。「辛」は辛味、涙を誘う辛さを表します。
競、甲骨文  競は二つの頭が枷鎖 で繋がれた捕虜や奴隷  が並んでいるかのように、造字本義は、戦争の勝者や主人が、捕虜や奴隷に遊ぶ半分で勝負を強いることである。

竟,甲骨文の「竟」は刑具の       「辛」と、受刑者    「人」と首枷「口」の組み合わせであり、造字の本義は枷(かせ)と鎖(くさり)を付けられた死刑囚が刑場に連れられる様子で、意味は「(一巻の)終わり」である。後に、楽曲の終了も「竟」となった。聴衆が興味津々に聞いている時に、急に音声が止まる時、このような境地を「竟然」という。

辜、金文の   「辜」の上部の「古」は、古代人を指すのではなく、斬首の斧鉞であり、斬首する斧を振るう武士(士)を表している。斧の下の辛は受刑される犯罪者を表す。『周礼・秋官・掌戮』には「王の親を殺す者は之を辜(くびき)る」と規定する。此処では、辜は断頭の動作を表す。後に、「辜」は罪を指し、「辜無きを濫殺す」が、指すのは無法な暗君が無罪の人間を気ままに殺すことである。「辜」の字は、毀損、于欠(欠損)を表し、つまり『漢書』に「害は生民に遍く(あまねく)し、辜は朽骨に及ぶ。」とある。
辟、早期の甲骨文の「辟」は殺人者と斬首の刑具の組み合わせであり、造字の本義は、斬首刑の執行である。晩期の甲骨文には殺人者と刑具の間に頭を表した「口」を描き、切り落とした首を強調している。斬首は最も厳しい懲罰を示し、また「大辟」とも言い、衆人に犯罪を制止する警告の意味もあった。『説文解字』は、辟は律法という。字形の右側は「辛」で、人間の犯罪を抑制する意思を示し、右側の「口」は法の執行者を示す。皋陶が頒布した刑法から漢文帝が肉罰を廃除するまでの二千年余りに、古代中国の刑法には五種あり、総称して「五刑」と言った。黥は犯人の顔面の刺青、劓は鼻削ぎ(そぐ)、刖は手足の切断、宮は性器の切断、大辟は晒首である。
報、甲骨文   の左に描かれた木製足枷の手錠、右に犯人がしゃがんでいて、報の本義は報いで、悪いことをして罰せられて、中国古代の刑罰思想を体現していた。その後、意味を拡張して、上級衙門(役所)からの公文は批報(通報)、下級は上級機関への上報、回答は報答、報酬などで、最後に報紙(新聞)になった。「報」字の変化は、昔の人が少ない字で意味を変え、現実に適応することを知ることができます。金文の報は   を書く。篆書の報は   を書く。楷書の報は   を書く。
宰、甲骨文の     、 「宰」中の「宀」は、官府(役所」を表し、「辛」は、刑具、司法を表す。造字の本義は、古代の司法権利を掌握する官員である。
幸、早期の甲骨文     、  、 「幸」は、首枷と手枷足枷を繋いで一体となった死刑囚の刑具で、脚と首を鎖で繋いで死刑囚の逃亡を避ける。造字の本義は、重罪犯や死刑囚の脚と首を鎖で繋ぐこと。後に世間を警鐘する首枷の刑法のことを指した。
執、甲骨文の「執」の「幸」は、木製の手枷、枷鎖を表して、右側の「丸」の字形は、人の両手を木製の枷に繋ぐ形である。造字の本義は、木製の枷を使用して容疑者の両手を繋ぎ、正式に逮捕拘留する事である。「執」の「容疑者を拘留」する本義は消失し、純粋に「執行(とりおこなう)」の意義に変化してから。甲骨文には「又」を加えて「摯」字を作り代替し、造字の本義は犯罪者を逮捕して護送する事である。
印、甲骨文の「印」は片手(爪)で跪いた人の頭をつかむ印象であり、造字の本義は、古代の政府が辺境に遠流される犯罪者の額に遠流の記号の烙印や刺青を入れることである。金文、篆書は基本的に甲骨文字の形を継承している。『説文解字』に印は、執行者が所持する信用物、即ち公的印章である。字形は「爪、㔾」を採用した会意文字である。「印」の「抑制」の本義が失われると、篆書の異体字に「手」偏を加えて、別に「抑」を作って交替した。
「章」は「彰」の本字で、古代には「章」「彰」は通用した。「章」の金文字形    は木柄刺刀   「辛」と縦横の線刻を円で囲った    田」の組み合わせで、造字の本義は、物品上に刻んだ目立つ紋様のマークである。金文の    は  「辛」には  に書く物もある。ある篆書   には     ➕   )に   を加えるが、「十」も「又」の変形で、つかむ、持つを表し、手で彫刻刀を持ち特有の標識を描くことを強調している。隷化の楷書   「章」は原文の「辛」を「立」としている。『説文解字』に、章は音楽の一曲の終了を章という。字形は「音、十」の会意を採用している。十は十進法の(末尾)最後を表す。「章」を「文章」「楽章」として使いのは、元々あった「目立つ標識」の本義が失われたので、篆書には「彡」を加えて「彰」を作り代替した。
商、甲骨文     「商」は刑具の   「辛」、地下牢    (穴)、討論    (口)の三つの要件から構成され、造字の本義は:罪を論じ、刑を量る。一部の甲骨文字    は「口」を省き、又甲骨文字   は    「辛」を    「双辛」と書き、断罪量刑には弁論双方が参加することを強調している。金文       、篆文    は甲骨文字    を受け継いだ。隷書    は篆文の    「辛」を   「立」と書く。これで「論罪量刑」の本義は完全に消えた。「説文解字」:商、外部から内部状況を推定する。すると、動詞として、商の意味は交渉価格、売買取引、例えば商人、商業、商品。また貿易活動を指し、例えば貿易港、商工業、農工商。商朝以降、商人は商売人の代称でもあった。
夏王朝が樹立された後、中国の古代文字はついに誕生した。商人の始祖子契(しせつ)は文字を作った第一の功臣である。司馬遷の『史記』の帝王世系表によると、子姓の先祖契と周人の始祖稷(しょく)は共に帝嚳(こく)の子、黄帝の子玄囂(げんごう)の子孫となっている。子契は舜帝の司徒であり、民衆を教化する事務を管掌して、大禹の治水を補佐するという功績があったため、「商於(しょうお)の地」を得た。また、契の母親簡狄(かんてき)は玄鳥(ツバメ)の子(鳥の卵)を呑んで彼を妊娠出産したため、「子」を姓として賜った。契が出生した年代は太古であり、人々は自分の母を知っていても父を知らなかったものの、母系氏族社会から父系氏族社会への過渡段階では、子供が父親を知らないのは、もう決して当然の摂理とは見做されなかった。人々は自分に父親があることを希望したので、才人が鳥の卵を食べて妊娠したという筋書きを仕立て、子契のために上帝の「玄鳥」に類似した父親を探したのである。
子契は堯の時代に出生し、舜の時代に成長して、表現は人智を超えたところがあった。大禹が治水に成功し、舜が大禹を表彰した時、大禹は稷、契、陶らに功労があったことを説いた。そこで、舜は、契を司徒に任命し、彼に父、母、兄、弟、息子たちなどの論理観念で民間人を教化させるように、専門的に命令を下した。後に殷商王朝の人は契を「玄王」と呼び、始祖として代々祭祀し、彼のために『詩経・商頌・玄鳥』という頌歌(しょうか)を編纂した。「天は玄鳥に命じて、降りて商を生ましむ。殷の土の芒芒たるに宅(お)れり。」大禹の孫太康が国を失った時、契の子孫相土は重量積載馬車を発明し、彼は子孫民衆を率いて商の地から出発し、豊かな東方の耕作地へ到達し、商売を経営し、海外貿易を発展させたが、『詩経』に「相土は烈烈とし、海外に載あり(相土は勢いよく、海外へも貿易した)」とある。夏朝中期になると、王亥は「牛飼い」となり、つまり牛馬の隊列を連れて、河北へ発展させた。子契の第十三代の子孫成湯が政治をした時、商の部族は8度の遷都を繰り返し、最後は毫城を京に定め、夏王朝に対等する強力な部族の集団となった。その当時、夏王朝は既に末期の道を歩んでおり、夏王朝とは明らかに対象的なことは、商の人は昇る日の勢いの時期であった。商の湯王は能力抜群で高い道徳のあった君主で、人々は続々と集まった人々の中に、伊尹という優秀な人がいて、商の湯王の良い宰相となった。遂に、商の湯王は夏王朝に進攻を発動し、一挙に夏の桀王を倒して、夏王朝を覆し(くつがえす)、西毫に都を定め、商王朝を建立した。その後五回の遷都を経て、盤庚は首都「大邑商」を殷(今河南安陽西北)に遷したので、商王朝はまた「殷」、あるいhw「殷商」とも言い、子契の子孫には、成湯、盤庚、武丁、太甲、太庚、小甲、祖庚、祖甲、武乙などを含む多くの傑出した人がいた。商王朝も次第に衰退しながらも600年近く続き、最後は第31代の君主帝辛(紂王)の手中に終えた。
我々が現在使用している絶対多数の漢字は、全て原始の線刻画「契」が発展したものである。これは小刀などの鋭利(えいり)な器具で模様の性質を持った図案である。書契は一種の線刻画符号で本来は契約に使用したものである。木片や竹片に模様を刻んで、その後中央から半分を持ち、合体すれば約束となることが、即ち契約である。書契は私的制約社会の早期の数字統計やあるいは所有権の表示に関連があり、まだ原始的な政治同盟、商業と密接して不可分ではない。

契、甲骨文     㓞(契)の   「丰」は縦横に交錯した条約の竹片、  「刀」は刻字に用いた小刀を象り、造字の本義は、古代人は刻字に小刀を象り、造字の本義は、古代人は刻字に小刀などの器具で甲骨、獣骨、竹簡に記号や、標識を刻んだことである。篆書       、 「契」は甲骨文の本字の下に成人を表す   「大」を加えて、「契」の成人的行為を強調している。『説文解字』に「契は大いに「約」すなり」とあり、正式の協約文献である。『易』に「後代の聖人は之を易(かえ)るに書契を以てす」と言い、意味は、後世に聖人が書契を創造し、結縄記事に替えた。

亥   、 は擬音語で「カクカク」の音声に相当し、「刻」の本字である。刻、篆書    の左側の    「亥」は音符でで「カクカク」の音声を模して、左側は形符    「刀」で、刻む動作を表す。造字の本義は、小刀で文字を刻むのに「カクカク」とひびきを発生する事である。隷化楷書の刻   を書く。


竹簡
早くも西周時期には、中国では銅鼎にが売買契約が出現した。秦、漢時代には交易の契約は竹簡に記載された。魏晋時代以降は、大量の布帛、紙の契約文書が既に出現し、明清時代まで、中国の古代には、人々は「信義に違反」することを恥として、「規則に従い法を守る」ことを誇りとした。契約に関する法律裁判では、背信、と、契約違反などの行為は歴代の司法制裁の対象となっている。

青銅器
殷代や西周初期(紀元前16〜紀元前10世紀)の甲骨文は、亀の甲や動物の骨の形をした古文書で、中国の文献としては最も古いものである。甲骨文を使用した商人は子契の子孫である。甲骨文は河南省安陽市の小屯村で初めて発見され、その殆どが盤庚の殷への移住から紂王の死までの王族の遺物であった。この骨片に書かれた文字は、周代の青銅器に書かれた鐘銘や三脚銘よりも古いものである。甲骨文は現在では3千年以上前のものだが、既に熟練した文字として使われていたのである。調査によると、甲骨文字は既に象形字、指事文字、会意文字、形声文字などの文字形成法を用いていたことが分かった。字義の使用は、仮借の使い方に明確に表れています。出土した甲骨文の内、形声文字が占める割合は25%。現在使われている漢字がまだ象形文字を根拠にしているように、甲骨文文字は後世の漢字の構造の基本形を持っているのである。文法的には、甲骨文には名詞、代名詞、動詞、形容詞などが含まれ、その文型や構造順序は基本的に後世の中国語のそれと同じである。
甲骨文はかつて契文、甲骨刻辞、卜辞、亀板文、殷墟文字と呼ばれた。商王は大事の度に亀腹甲や牛肩甲骨で占いをした後、占い時間、占い者、占い問題、結果、検証状況など占いに関することを甲骨に刻んで記録資料として王室吏官が保管した。記事の甲骨文は刀で刻むことが多いが、ある人は先にペンで書いて、その後に刻むこともあり、ある人は直接刻画することもある。甲骨文の多くは上から下にまっすぐに字を刻むが、このような方式は依然として今日、中国語でよく使われる形式である。
甲骨文は主に河南省安陽殷墟で発見され、これまで発掘された約15万4000片の文字が書かれた甲骨である。この内中国大陸所蔵品は97600片余り、中国台湾所蔵品は30200片余り、香港は89片があります。戦争と商業的要因で海外に流出した日本、米国、英国、カナダ、フランス、ソー連、ドイツ、スイス、ベルギー、オランダ、スウェーデンなど12カ国26,700片余りである。この内日本は二次世界大戦当時、殷墟で組織的に発掘され、12,000片余りが所蔵されている。
甲骨文には多くの記事文献があり、内容は当時の天文、暦法、気象、地理、方国(王権国家)、世系、家族、人物、職官、征伐、刑獄、農業、牧畜、狩猟、交通、宗教、祭祀、疾病、生育、災禍等に渡り、中国の古代に特に殷商時代の社会の歴史、文化、言語文字を研究する極めて貴重な資料である。
甲骨文には殷商時代の社会生産に関する内容が豊富である。農業方面では裒田、大田を作るの記載があり、また各種農産物黍、稷(あわ)、麥、稲の名称がある。商の王は農業収穫の豊凶、風雨が農業の収穫に与える影響に関心があり、立黍(黍の育成)、省黍(黍を見る)、求年(実りを求める)、告秋(実りを告げる)の卜辞をよく見る。牧畜方面では馬、牛、羊、鶏、犬、豕(豚)など全て記載があり、蓄養量の増大で専用の牢厩(家畜舎)があった。祭祀には大量の牛、羊が常用された。漁猟は殷商時代の社会生活で一定作用があり、甲骨文の記載の狩猟物には鹿、麋(おおじか)、豕(いのしし)、象、虎、狐、魚類と各種の鳥類があり狩猟方法には田(野獣狩り)、狩、逐、阱(セイ、落とし穴)、射などがある。甲骨文にはまた貝、朋、珏と舟、車から伝達制度などの商業、交通方面の材料がある。
甲骨文には殷商時代の思想文化方面の内容も大変豊富である。天文暦法の方面でも、日食、月食、鳥星(太陽黒点)、新星、大星等の記載があり、また「十三月」など潤月の資料や干支の記日と毎日の異なる時間段階の「時刻名称」などもある。
気象方面では多くの卜雨、卜風と日、雲、雷、雹、雪、虹などの記載がある。医学方面では、頭疾、牙疾、鼻疾、言疾、肘疾、足疾、踵疾などの疾病の記載があり、また育成の記載があり、当時正確に婦人の出産予定日を推察できたことを示している。
漢字の中で、杖罪(鞭打ちの刑)、教鞭、占いで邪気を駆除する道具の「攴(ぼく)」字が偏旁の部首となると「仿文(ホウブン、文に似ている)」と称し、「攵(ボク)」と相互に通用する。その甲骨文での書き方   は杖を表す「卜」と手で握ることを表す「又」よりなり、造字の本義は刑具の杖で打ち付けることである。「攴」が単純な文字となり、単純に部首となってから、篆書は「扑」に替えられた。
役、早期の甲骨文「役」の左は手に大槌を持つ様子で、右側の「人」は兵士を表し、手に武器を持った兵が戦うことを示している。造字の本義は、手に鉄槌を持ち、辺境を警備する兵士である。晩年の甲骨文は左右の順序が調整され、「人」が前になり、「殳」が後になる。

效、甲骨文の     、、 「效」は遠距離武器の      、 「矢(交)」と接近攻撃の    「攴(攵)」を包含し、造字の本義は、戦闘中の射撃と奮闘である。成語の「上行下效(上者を見習う)」は、兵士が戦場で勇敢な軍官の、勇敢に敵を倒すことを見倣うことである。篆書の效は   を書く。隷書の效は    、 を書く。

侵、甲骨文の    「侵」の左は   「牛」で、農耕時代の重要な財産「牛」を表し、右側は手に竹鞭を持つ形である。造字の本義は、非合法に他人の領地に侵入して、牛を狩り財を奪うことである。古代人は武力を借りて財産を掠める(かすめる)ことを「侵」と言い、武力を借りて「略」と言うが、これが「侵略」文字の有来である。

「亢」は「抗」の本字である。「亢」は、甲骨文の (亢)は  人の脚部の位置に横一を指事記号を加え、両脚の活動に制限を受けていることを示す。古代の奴隷の主人や戦勝者は傲慢不遜で、反抗の強烈な奴隷やあるいは捕虜の逃亡を防止するために、暴力の方法で彼らの両脚を束縛した。
篆書の   「抗」は「手」と「亢」の組成で、「亢」はもがく動作を表し、造字の本義は、奴隷の闘争と、抵抗で、支配や、奴隷の仕事をさせられることに抵抗する事である。

方、早期の甲骨文の「方」は   「人」の頭の部分に横一の指事符号   を加えて、剃髪刺青した犯罪者を表示している。古代人は毛髪を父母から授かった生命の一部分と見做していて、一生髪を整え切ることはなかった。従って、人の髪を切ることは犯罪に対する顕著な表示で、また犯罪者に対する一種の懲罰であった。晩期の甲骨文    「方」は首の部分に   「像刺」を加えて、枷を付けられた罪人を表示している。造字の本義は、犯罪者に剃髪刺青をして、辺境に流罪とすること。甲骨文の異体字に「水(河川)」を加えて、「汸」と書くのは、「流放」の意味を突出させている。正に「方」の「犯人を流罪にする」本来の意義が消失し、改めて「地方」を表すようになると、甲骨文の      、 犯罪者の頭部上方にまた    (刺)あるいは「四角形の木の枷」    を加えて別に「旁」を作って代替した。造字の本義は、字を刺して枷を加え、辺遠の地に追放する事。その地方が、「旁辺」である。金文の旁は   を書く。篆書の旁は   を書く。隷書の旁は   を書く。隷書の旁は   を書く。

商朝が滅亡の大きな原因の一つは、商の紂王は荒淫無道で、民に厳しい刑罰を加えたことでした。奴隷社会の刑罰は、とても残酷でしたが、監獄と囚禁を見ると閉じた字を含んでいることがわかります。国構えは棺ではありません。囲いや四面の垣を表します。この字とその他の漢字を組み合わせて、字を作ることができます。例えば、園、囚、困、囲、圏等。
圉、甲骨文文字の圉は、鎖で繋がれた犯罪者を拘束(執)、監獄あるいは囚車の中に押し込める様子です。ある甲骨文字には、囚車から首を出している犯罪者や囚人を表したものがあります。『説文解字』では圉、囹圄(牢獄に繋がると言う意味の文字)、罪人を押し込めておく監獄のような施設。字形は幸で、国構えは会意です。
甲骨文字     囚の外側の四角は、閉じ込められている犯罪者    が閉鎖された空間「口」に閉じ込められていることを表します。この字の意味:縄で縛られた罪人または奴隷。鎖をかけられた牢獄に閉じ込められた一人の犯罪者が、囚という字です。
黄帝の大臣皋陶が処刑器具を発明してから、1911年に清朝が滅亡するまで、数千年の時間で、度々このような場面が登場した。一連の強盗、こそ泥、密造塩販売者、流しされた高官は、首に木製の四角い首枷を載せ、市街の広場で見せしめにされた。この種の刑罰は「罪状見せしめ」として、枷の上に大字で彼らの犯罪を書いて、罰を受ける時間の長短と首枷の重量は犯罪の重さの程度によって取り決められた。最も軽い刑枷でも1.5〜2.5キログラムあり、最も重い刑枷は明代の宦官劉謹の発明したものである。劉謹の歴史上の名声は、秦朝の趙高、唐朝の高力士、宋朝の童貫、清朝の李連英ほどではない。だが劉謹には、特別に金儲けのコツを知っていた。ある西洋の作家が古今の中外の百名の富豪を統計したら、中国人はチンギスカン、フビライ、劉謹、和坤、伍秉鉴、宋子文と6名であった、劉謹が使えた黄帝は酒色極まりない明の武宗朱厚照であった。この遊び呆けた皇帝は上奏文を読んで御筆(サイン)する権力を総て劉謹に与えた。それで人々は朱厚照を「坐るだけの皇帝」、劉謹を「立ち動く皇帝」と称したのである。劉謹が百官から金を搾取するのに、取った方法は大変悪辣であった。彼は数十キログラムの鉄枷を発明し、気に入らない人物につけた。罰を受けた役人は往々にして生きたまま圧死する事があり、十分に残忍であった。
清朝の「立籠」は民衆を脅迫し、反乱を恐れさせるのに使われた。この囚籠は蓋に刑罰の枷があるいは木籠で、籠が高く、囚人が束縛をかけた後、両足が地面に届かず、レンガを何枚か敷かなければなりません。一日毎に、死刑執行人は犯人の足元のレンガを一枚取り除いた。囚人は絞め殺さないように、つま先を強く持ち上げるしかなかった。最後のレンガが外された時、、囚人達は生きたまま絞め殺するしかない。
チベットの農奴主が建てたラサ最大の刑務所「朗孜廈」に比べて、明清の拷問(ごうもん)は「小巫見大巫」です。朗孜廈が農奴や囚人を処分するための刑具は極めて恐ろしく、各種の刑罰はさらに震えます。刑務所では舌を抜いたり、耳を切ったり、痙攣(けいれん)をしたり、人の皮を剥いて生き埋めたり、油鍋を流したり、生きた人を切腹、五臓露出、街頭を一周してから殺します。刑具は皮拍、木枷、鋼線鞭、牛革繩、石帽、目掘りスプーン、断指刀、銅馬、釘指、竹簽など数十種類があります。朗孜廈は拷問と殺人犯を犯す機会を借りて、よく噶廈政府と寺院の上層に「呪経を唱える」用の供物を提供します。例えば、人皮、人肉、人心、人腸など、手段は非常に残酷です。
殷商王朝の紂王は「炮烙」という火刑を発明し、その残忍は人を激怒させるほどであった。
赤、甲骨文    「赤」は、ぼうぼう燃える火  の人物   (大)を象っている。金文の赤  の   は  を代替した。篆書の赤   の  は  を代替した。隷書の赤は  を書く。造字的本義:火刑された罪人を「赤」という。死刑囚を火刑から救うことを「赦」包というが、完全に包む事を示す。
炮、篆書の炮の「火」は、火あぶりの代用であり、「包」は、本来は生まれる前に母親の子宮内にいる子供であるが、ここでは成人を、まるで荷物のようにくるんで丸める意味に使用する。造字の本義は、商朝の紂王が、犯罪者を拘束して、赤く焼けた銅柱の上に置いて、行きながら焼死させることを発明したのかもしれない。
篆書の烙は「火、焼」と「各、入侵」の組み合わせである。造字の本義は、侵略者は赤く焼いた鉄器で捕虜の皮膚に記号を焼き付けられることである。
剥、甲骨文の「剥」の左側は頭を下にぶら下げられた人であり、縄で巻かれた囚人が逆さまに吊るされていることを示している。右側は刀であり、骨を取り肉を切る様子を示している。造字の本義は、古代には極度の残忍な、生きたまま人の皮を剥がした、極刑があったことである。
克、初期の甲骨文   の上段は   口を開けて叫んでいる姿、下段   は体を丸めた人に似た    「人」の歪みで、肉弾戦の豪モンを受けている人が叫んでいる様子を示している。後期の甲骨文     ではない丸まった人形  の上に血の一滴    を加えて、刑罰の血生臭さと残酷さを強調している。ある甲骨文克は  を書く。金文の克は    を書く。篆書の克は   書く。篆書の克は   を書く。造字本義は:古代の人々は、神の加護を祈り、大きな天災を取り除くために、肉を殺して切り、天への生贄(いけにえ)としたのである。古代人は自然災害を神々からの罰と解釈し、神々との妥協の証として、個々の人間を残酷な方法で天界に生贄として捧げたのだ。「克」の本来の意味である「天のために殺す」が亡くなると、篆書は「克」に「刀の字を加えたものになった。「剋」を作り代替した。現在では、生徒が先生に批判されると「挨剋」と呼ばれるところもあり、未だに古代の「克」の意味を使っている。
奴隷制社会では、「法律の下の人間平等の概念はない」。貧乏人が罪を犯したら、各種の極刑で、苦痛を尽くして死ぬしかないが、金持ちが罪を犯しても、銭で罪を贖え(あがなう)ば命までも贖うことができる。この種の制度は堯と舜の時代まで遡ることができる。『尚書・舜典』には「金は刑を贖える」の言い方がある。旧中国の、チベットの農業奴隷には『十六法』で人命を等級によって価値評価を定められており、三等九級に分かれて、最高級は価値もつかないほどの、伸長に等しい黄金に相当し、最低での「極安」では、藁一本の価値の:
上等は三級に分かれ:
上上: チベット王、活仏などの最高の支配者、生命の価格は「貴重」であり、身体に相当する金に相当します。
上中: 大経師、大寺院管理人、高官、300人以上の使用人を持つ領主、政府の首長(郡の役人)、寺廟の総支配人など、価値は300から400両。
上下:中級官員(役人)、経師喇嘛(ラマ)、100人以上の使用人を持つ荘園の領主、価値は200両。
中等も三級に分かれ:
中上:一般官員(役人)、寺の執事、価値は140から150両。
中中: 政府の小さな役人、小寺院の喇嘛、価値は50から70両。
中下:荘園の庶民、世俗の貴族、価値30から40両。
下等も三級に分かれ:
下上: 未婚の独身者、公務員、価値30両。
下中: 定住して税金を納める鍛冶屋と肉屋、価値二十両。
下下:女奴、放浪者、もの乞い、価値は藁縄で値段が付けられます。
世界史上では、最高の身代金は1933年の南米に出現した。その年、スペインの植民地征服者トップのピサロはペルーの古インカ国王の生命の身代金は、金銀を囚室内の手の高さまで積み上げる大金となった。この牢屋は奥行き約7メートル、幅約5メートルで、「黄金1万3千ポンド(1ポンドは約454グラム)、白銀2万6千ポンド。」を積み上げたという。これがインカ国王の身代金であった。だがピサロは金銀を得ると、習慣通りアタワルパを処刑したが、この不幸な国王は死刑の前にカトリックに改信していたので、火炙りから絞殺(絞殺)に改められただけである。これは「落伍(後進)者は討たれる」典型的な例の「俎板(まな)の上の鯉」であって、征服者は信用できず、被害者は、仇を打ち雪辱(せつじょく)を晴らすまでもなく、なす手がなかった。

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