中国の酒文化

夏・商(殷)・周三代以前の歴史は中華文明の発展の幼少期であった。まるで3歳児の記憶のように、断続的な場面が何枚か残るだけであり、前後がどれであるかははっきりしていない。歴史書の年表の配列では、数十年から数百年の空白がままある。残存する遺跡の壁塀であれ、散見する歴史典籍の文言の一部であれ、後世に残される情報はあまりに少ない。はっきりしていることは、紀元前21世紀から同3世紀の1,800年間に、黄河の中下流に夏・商・周の三つの奴隷の王朝が相次いで勃興した。
夏王朝は紀元前21世紀建立:約公元前2070--前1600年;
殷商王朝は紀元前17世紀建立:約公元1600--前1046年;
周王朝は紀元前11世紀建立:公元前1046--前221年;
「史記・五帝本記』には、大禹が治水に成功してから、堯帝は玉圭を与えて、大禹を諸侯の長として封じ、天子の摂政とした。大禹の妻は最も強大な東夷の部族「涂山氏」の娘であり、しかも涂山氏の長者は中国の司法界の祖皋陶(コウヨウ)であった。皋陶の職位は「士」であり、これは現代の国防大臣や司法大臣にあたる。
初期の甲骨文 




『史記・五帝本紀』はまた、「皋陶は是に禹の徳を敬畏し、民を皆な禹に則ら令む。言に如何ざるは、刑して之れに従う。」と言う。大禹は摂政の間、個人の権利を強化するために多くの措置をとってきた。中でも重要な措置は、皋陶の名を出すことで、大禹に反する人の行動を鎮圧することであった。天下の人々は、大禹が制定した法則を遵守せねばならなかった。大禹に命令した行事に従わなければ、法律に訴え刑罰が実施された。このように、法律の創始者は大禹の指揮者として擁護するかの是非是非を、厳粛な法律のレベルまで高めたので、このような恐慌的な措置があれば、誰が大禹に「不(だめ)」と言えたであろう。こうして、天下の人民はみな大禹を法律放棄、数学の法則、音声の音律によく精通していると崇拝し、彼を「山川百神の主君」として尊敬した。
大禹の権利はこれにより急速に拡張したので、舜帝の「天子」の座は名ばかりのものとなった。そこで、百歳近くの老天子は帝位を大禹に禅譲し、自身は「巡行」の名目で行方を晦ました。彼は河東(山西運城)から黄河を渡り、熊耳山を越え、その後丹江に沿って漢水へ下り、再び長江に沿って、洞庭湖に浮かび、その後湘江、瀟水を遡り、湘江の源流付近の九嶷山に到達し、最後はそこで老衰した。『孟子・尽心上』に、「舜 天下を棄てるを視るに、猶お敝屣(だっし)を棄てるが如きなり。」と言う。天子の玉座は無用のものとして扱われ、失うことは全く惜しくなかったとしている。『尚書・大禹謨』は舜帝の大禹に譲位する時の禅定の儀式で読み上げられた訓示である。後は禹に、「もし君が奢らず昂ぶらなければ、天下に君と上下を争う人はなく、自分を誇らなければ、天下に君と巧妙を争う人はいなくなる。人心は険悪で、道(タオ)の心は奥深く微妙であるので、成人になるためには『無稽の話は聞かない』ことをしなければならない。」と訓戒している。文中の「無稽の話」とは、考証もなく根拠もない発言である。
舜帝は大禹にとっては父殺しの仇人でもあり、常用に抜擢した恩人であった。この禅譲の過程は、舜帝が形勢に順応して譲位を主導したと説と、大禹が宮廷に迫って舜帝を追い出したと言う異なる二説がある。問題はこの時代は古風純白朴で道徳を尊崇する時代であり、しかも双方とも道徳が高尚と公認される聖人であることである。舜帝の立場で考えると、細やかで意義深い別れの言葉として、大禹から遠く離れた場所に身を置くことは最良の選択であったのである。
紀元前2078年、大禹は禅譲を受けて天子となり、首都を安邑(山西省夏県)に設置し、国名を「夏后」と号した。彼は自信が強力な国家元首になろうと決心していた。紀元前2076年、彼は全国の各部族の族長を淮河中流の涂山に招集して開会した。後世の人々は「涂山之会」は、中国の歴史上最初の国家の命運を決定する大宴会を開催したのではないかと推測している。
「酒」は、初期の甲骨文では 




「酉」の「酒壜」の本義が消失すると、甲骨文には 


有史時代以来、中国の祖先は醸造を開始し、酒とは切れない縁を結んだ。周代の『詩經』と殷商時代の甲骨文中には酒と関係する人を魅了する描写がある。甲骨文中には、酒が殷商時代の社会生活中で重要な役割を果たし、特に各種の厳粛な祭祀典礼で、「酒」ほど頻繁に出現する文字はあまりない。金文の 


唐詩の句は更に言うまでもなく、李白は「蘭陵の美酒 鬱金香、玉椀 盛り来たる琥珀光」、王翰の「葡萄の美酒夜光杯、飲まんと欲すれば琵琶 馬上に催す」など、美酒の色、香り、味を描写した形象に、思いを馳せない人はいないであろう。清末の鑒湖のおてんば秋瑾の「千金を惜をしまずに宝刀を買い。貂裘(てんきゅう)酒に換うるも也(ま)た 豪たるに堪えん。「は、李白の『将に酒を進む』の「五花の馬 千金の裘、児を呼び将に出でて美酒に換えしめ、尔と同(とも)に銷(け)さん万古の愁いを」を引用している。これらの詩の名高い名作と比較すると、現代の流行歌は、粗俗であり、より抒情的で大胆である。〜「さあさあ飲もう、酔うまで飲もう。美人を隣に、黄河に面して。さあさあ飲もう、憂いを忘れて、酔うまで飲もう。(『江山を愛して更に美人を愛す)』」。
中国の酒文化の源流は悠久である。晋代の文人江統は『酒誥』に『酒の興る所、上皇より肇(はじ)まる。あるいは儀狄と云い、一に杜康と曰う。尽きざる飯有り、之れを空桑に委ね、積鬱して味を成し、久しく気芳を蓄え、本(もと)此れに出で、奇方に由らず。」と書いている。江統は、酒が自然界の天然の産物であると言っているのである。ある人は儀狄が発明したと言い、ある人は杜康が発明したと言う。実際は違っていて、これらの人は奇術で酒を発明したわけではな、自然現象から醸造法を見出しただけである。人々は食べ残した食糧を桑の木の空洞に放り込み、何日も蓄積して、自然発酵を経て、自然と酒に変化させたのである。
江統は中国から歴史上初めて「穀物の自然発酵の醸造」の学説を提案した人である。彼の見解は科学的な道理にかなっている。現代科学のではこの問題を、酒の主成分は学名を「エタノール」と言うアルコールであると解釈している。残飯中の澱粉(でんぷん)が自然界に残存する微生物が分泌する酸素の作用で、徐々に糖分とアルコールに分解され、香り豊かな酒となるのである。古史籍には、山中の猿が食べ残した果物を洞窟内に隠して出来上がった、いわゆる「猿酒」の記載がある。これらの野生果実のは葡萄糖や、果糖が豊富に含まれ、空気を遮断した条件の下で、野生果実の糖分は自然の微生物の分解を経て、大変簡単に自然発酵して香りの良く美味しい果実酒を醸造される。科学と生物学の方面から見れば、醸造に必要な微生物は、人類が初めて人工的に馴化した細菌である。
1979年、考古学者は山東省莒県(キョケン)の陵陽河遺跡で、醸造発酵に使用する大型の陶器の樽、酒を濾過する漏斗と簣の子、酒を貯蔵する陶甕と竹籠、また醸造の原料を煮炊きする陶器の鼎や、各種の飲酒器具などを包括する、100点以上の中国最古級の醸造器具を発掘した。夏王朝は4,000年前であるが、これらの醸造器具は5,000年以前のものである。
「甾」は「淄」の本字である。「甾」の甲骨文の字形は 、 であり、酒壜の中の酒粕を濾過する竹籠を象る。造字の本義は、酒粕を濾過する竹籠である。後世「甾」は部首専用の文字記号となり本義が消失すると、人々は本日の横に「水」を加えて新たに「淄」を作り代替した。
「匡」は「筐」の本字で、早期の金文「匡」は象形文字で、「曲」は手で曲げた竹を指し、「主」は「住」の省略した書き方で、前進、赴くことを指した。造字の本義は、「荷物を運ぶ(竹製の)背負いかご」である。後に、この「匡」の字は動詞として使われるようになり、「制限する(ただす)の意を表した。「匡正」、「匡時濟世」などが挙げられる。「匡」の背負いかごの意味が失われてくると、篆書で「竹」の字を加えて「筐」の字を代わりとした。
『呂氏春秋』の記載:ある日、儀狄と言う名の人物が大禹に一壺の美酒を献上した。彼はすっかり酔ってしまい、酔いが醒めた後に大臣達に言った。「この酒はあまりに美味すぎる。この為に後世で国を滅ぼす者も必ず現れるだろう」。そして禁酒令を下した。しかし酒というものは世の中で誰も禁じることの出来ない優れものの一つで、(やはり)大禹の予言は度々当たることとなった。彼らの子孫も含め、数え切れないほどの王朝や帝国が君主が酒に溺れて滅びる羽目になってしまった。
醉、金文の 



「酔(醉)」の別の書き方は 





酒量が過ぎて意識が朦朧となることを「醉」と言う。酒飲みや酔狂が、醜態をさらすことを「醜」と言う。酩酊状態から覚醒することを「醒」と言う。
「醒」、篆書「醒」の「酉」は、酔いが残ってまだぼうっとしていることを表す。「星」は、本来夜空の小さなちらつく光線しか見えないことを表している。造字の本義は、こん睡中の暗闇に意識の星明りが出現することで、酔いが覚めて意識の回復を例えている。中国史上最初に成功した酒宴は、紀元前2076年に大禹が開催した「涂山の会」である。その年、淮河中流で、嵩山南麓の陽城付近の涂山で、大禹が九州部族の族長が参加する連盟大会を招集した。
涂山の会は「玉帛持つもの万国」、つまり何万もの部落長が開会した空前の盛況であった。
「酋」の、篆書の「酋」は会意文字であり、「八」は「ぶん」であり、「酉」は「酒」である。造字の本義は宴席上で酒を分ける責任を持つ族長である。酒は食べ物の精華であり、食べ物が欠乏した古代には、徳と人望のある部落長に酒や美食を分配する資格があった。『説文解字』に、酋は繹酒なり。酋に従い、水の上に半ば見ゆるなり、礼に大酋有り、酒を掌る官なり(「酋」は長期熟成した酒。字形は「酉」と半分の「水」の会意文字であり、酒が酒壜「酉」から出ていることを出ていることを表している。『周礼』には、酒を分配する職員「大酉」について言及されている。)。
「召」は「招」の本字である。 












「飲」の、甲骨文 






「斗」の甲骨文には二種の書き方があり、一つは、二人の人物が格闘することを表す「鬥」である。甲骨文は「」と書き、左の人物は手を右に向かって出し、右の人物は手を左に向かって出し、二人の闘士が相手に向かって相互に甚だしく打撃している。造字の本義は、相互に打撃することで、戦闘、闘争の「斗(闘の略字)」を表す。二つ目の軽量器具の「斗」は「」であり、柄杓を象っている。
「升」の甲骨文 




部族長達は五湖四海から集まったが、殆どの人が以前に知り合ったこともなく、更に一緒に酒を酌み交わし(くみかわす)たこともなかった。「酒無くば席を成さず」であるが、酒があれは当然飲む。通常でありれば、酒盛の前には乾杯の音頭がある。もし何の準備もない状況で、部族長が選ばれて乾杯の音頭を取ることは、大変緊張するものである。その時最も良い解決方法は自分の心中の感想を述べることである。
どんな感想であろう。大災害の年には大飢饉がある。洪水が氾濫し、穀物の収穫はなく、洪水で流される人もいた。幸運にも生き残った者も空手でただ山に駆け上がり、大水かいつどんな時に山頂から溢れ来るのか、自身や自身の家族を行きながら溺れさせるかも分からず、毎日溢れてくる洪水に恐れ慄く(おののく)ばかりであった。水位が下がるのを持つことは容易ではなく、腑抜けなおお腹はグーグー鳴り始めた。山上は混雑し、食べ物も見つからないが、四方は洪水が囲って、逃げるにも逃げようがない。部族の長老達は一同集まりため息をついて、族長を眺めていた。族長は両腕を組むばかりで、不安と絶望の中でぼんやりを地平線を眺めることしかできなかった。
突然、天道が開けて、上帝のお告げがあった。偉大な禹よ、我らが救いの神が現れた。大禹は被災者に救命の食糧を送り、皆を導いて山を切り開き、排水路を掘り洪水を排水し、土地を切り開いた。伯益は皆に狩猟と放牧を与え、后稷はみなに耕作地の開墾を教えた。各地の被災者は皆安堵したので、大禹は全国各地の部族長を涂山に招集し、涂山の聖典を楽しんだ。どの部族長が、このような盛大な場面を見たことがあったろうか。穀物や魚肉が山となり、名も知らぬ絶品料理や、更に芳醇な美酒があり、宴会な集まった族長達の為に用意された。もちろん、会議の主要な目的は、第一に当然ながら新旧の部族達らの思想を統一することであり、第二に、苦しい日々に慣れてしまった族長達栄養補給の意味があった。誰がこの大会に「保養性質」がないと言えるであろう。考えてみれば、これは原始社会であり、族長らは自身の部落内でより多くの食べ物と特権を取ることなく、彼らは身をもって、先に苦しみ、その後享楽を受けるという模範を示す必要があった。これは良いことで、族長らは開会で食・住のある都市に入るが、部落の人々は族長が都市での開会で身体を保養したことは根本的に知らず、皆も数日間の良い日々を過ごし楽しむことができたのである。毎日の飯食は油脂を回しい入れた米や粟が、香り高く蒸し上げられ、平常は見たこともない羊の丸焼き、牛肉の醤油煮、叉焼蒸し鴨などの肉食もあった。皆は快適な「迎賓館」に泊まり、心地よい音楽を聴き、美味しい紹興酒を飲み、相互に南山北海の聞いたことのないような逸話を交換し、自身の食事を改善した。利発で知恵を一身に兼備する大禹は、初めて酒を飲んだ時には知らずに因っていたことを忘れてはならず、世間の皆事のない村長、郷長にどんな自制心があったのであろうか。だが想像に難くないことは、その時初めて酒を飲んだ時から、彼らはその味の虜(とりこ)になったのである。酒を飲み干すと、全身が春風を浴びたように暖かくなって、陶々と酔ううちに、終生忘れ難い日々が一日一日と過ぎていった。ああ、大禹は本当に聖人である。開会と言う口実で、苦しい生活が習慣化した老若を一堂に集めて、楽園に食事を作り、肉を食べ酒を飲み音楽を聞かせる〜このような場所にじっとして、毎日美しい山川を見飽きることもなく、山海の珍味を飽きることなく食べ、聞き飽きることのない逸話奇聞に耳を傾けた。神仙の日々はこのようなものであろうか。これ以後、多くの末端組織の部族長らは、首都での開会を持ち望んだ。これは誰も心底の願いであった。
会議では、皆が交互に乾杯し、雰囲気は熱狂的で満ち溢れていました。会議の結果、主催者と出席者は皆、非常に喜んでいました:これは一致した意志、団結と調和のある大会でした。会議では、大禹は洪水と治水への果敢な功績と、人々の中での高貴な威信により、九州の全部族の酋長達から一致した支持を得ました。彼らは大禹に敬意を表して礼をし、その後も大禹に従い、定期的に貢ぎ物をし、大禹の指導を受け入れ、彼の配下の諸侯となることを約束しました。涂山の会議の成功により、元々分裂していた原始部族は「諸夏」という共通の呼び名を持つようになりました。
その後、大禹は中原の各部族から5,000人以上の軍隊を選抜し、長江中流域の三苗族に大規模な攻撃を仕掛け、前例のない勝利を収めました。大禹は三苗族を征服し、多くの捕虜を捕らえました。以前は部族間の戦争は全て殲滅戦であり、捕虜を残すことはありませんでした。大禹は捕虜を殺さないよう命じ、奴隷に降格させ、農業労働を強制しました。これ以降、中国原始社会は奴隷社会に移行しました。大禹は戦争の勝利を通じて、華夏部族連合で非常に高い威信を得、これは中国の歴史上の王朝と王位の世襲制度の確立に基盤を築きました。この戦争以後、諸夏は結速し、大禹を中心とする中国初の強力な政治実体、「夏」を築き上げました。
大禹の即位8年、会稽で第二回諸侯大会が招集された。不運な防風氏の族長が開会に遅刻したため、大禹にその場で処刑された。防風氏が許されざる大罪を犯したのではなく、大禹が猿に見せる為に鶏を殺して、諸侯に大禹に逆らえばどうなるかを見せたかったのである。
およそ1,500年後、講師が列国を周遊して会稽の大禹廟に到来した。そこには長さ7尺(2.1メートル)もの大腿骨と言う驚くべき「奇跡」があった。現代人は大型恐竜の標本を見慣れていて、当然どんなものか知っているが、当時の人にはどうしてこの物体の来源を知っていただろうか。ある人が孔子に、これは何の骨であるが、その根拠は何かと訊ねた。孔子の解釈は、防風氏の遺骨であった。防風氏が死んでから、巨人の一族はもういなくなってしまった。
大禹は会稽で諸侯大会を招集したことは、中央財政の集権を強化して、課税を集中する為に、各道の諸侯が上納すべき税金について確認の統計を集中し、そこ功労の大小と財務収支を該当させる意味である。涂山の会同様様に、孔子今回の大会に参加した諸侯も数万家に及んだ。当時の諸侯の国々は、現在の村落に相当しており、大諸侯は数千人、小諸侯でも2〜300人を管轄した。全国の総人口は、おおよそ300万人であった。帳簿の税額を通して、巨万の税収課役を徴収することができ、「家庭国家」の国家機構を建設する為に十分な物質的保証を提供した。
大禹が天子になってから、皋陶を自身の後継者に選んだ。しかし皋陶と大禹の年齢は同様で、大禹よりも早く亡くなった。皋陶がなくなると、大禹はまた伯益を帝位継承者に選んだ。しかし、大禹は自身の子供の姒啓を毎日自身の根拠地で軍隊訓練をさせた。伯益の身辺の属官は、姒啓の腹心にもなった。この為、大禹が亡くなった時、伯益は十分な支持を得ることができずに、ただ大人しく箕山の南に隠居して、どうすることもできずに姒啓が天子の位に就くのを待つしかなかった。
この大事に対する『史記』の記録は次の通りである。「禹は江南に諸侯を集めて、查定(会計)している間に亡くなったので、そこに葬ったので、地名を『会稽』と言う。禹は天下を伯益に譲った。三年の服喪の結果、帝位は禹の子供の姒啓に譲り、自身は箕山の南方に引きこもった。禹の子供は才徳兼備であり、誰もが彼が天子になることを希望した。禹が亡くなると、帝位は伯益に譲られたが、伯益が禹を補佐した時間は日が浅く、人々は彼を信用していなかった。そこで諸侯人心は皆伯益から離れて姒啓を尊敬し『彼(姒啓)は我が君王禹帝の子である」と言った。姒啓はこうして帝位を継承したが、これが夏后帝啓であった。」
姒啓が王となった過程は、大禹ほど順調ではなかった。古代の「禅譲制度」の観念は一部の族長達の脳裏に残っていたため、姒啓の地位は十分に堅固とは言えなかった。王位の世襲制を確保する為に、姒啓は天下の諸侯を招集して開会することにした。紀元前2068年、姒啓は首都夏県に「鈞台」を建設し、天下の諸侯をもてなした。会議の告知を聞くやいなや、秦嶺山脈の北、渭河の南に住む反対派の「有扈氏」と、その周辺の少数の部族長を除いて、彼らは、涂山会議以上に、天下中の部族長が全員来た。会議では、全ての諸侯は姒啓の天子としての地位を認め、新興の夏王朝に忠誠を誓いました。歴史書では、この未曾有の規模の出来事を「鈞台之享」と呼んでいます。
「醇」の篆書「醇」は酒「酉」と、祭祀「享」、「羊(羊、祥)」から成る。造字の本義は、祭祀に供用する高級な美酒は、水増ししたものではないこと。隷書の「醇」は篆書の字形の「羊」を「」に替え「享」と書いている。
「酷」は古陶「酉(酒)」と「告(牛を屠殺して祭祀する)」である。造字の本義は、祭祀用の香り高い美酒である。酷吏、酷暑、酷刑のように「高強度で受け入れがたい」、人事を形容している。
集会が終わると、姒啓は鉄は熱いうちに打てとばかりにすぐさま連合軍を組織して、意気揚々と戦場へ向かい、有扈(ゆうこ)氏を殲滅した。醇酒と酷刑の二種の利器を利用して、原始社会の部族連盟の首脳会議は、姒啓によって夏王朝に忠実な行政機構に改造された。
夏王朝は甲骨文に似た初期の文字があり、青銅の兵器と大型の宮殿を持ち、原始的な司法機構があり、大量の人力と物力で戦争と生産に従事した。しかし夏王朝の建設は、実際には国家のひな型に過ぎなかった。広大な境域では、「統一的な政治体系はなく、有効な統治も叶わず、全国各地の経済と文化体系も相当な差異があった。夏王朝の中国はまだまだ多元的な世界であり、それぞれの地区に独立した部族が存在し、それぞれの号令を吹き、それぞれの歌唱の調子があった。夏人は中原で優勢な地位を建立したが、実際は僅かな部族中の比較的強大な一つでしかなかった。天子は天下を掌握したいと考えうことは不可能ではなかったが、天下一の富豪となり、権力が強大で、道徳も高尚であり、勢力旺盛である必要な条件が多く、その一つも欠けてはいけなかった。当時の政治機構は極めて不完全であり、大禹が国を治めた頃は、十把一からげに何もかも取り仕切っていたので、下部のものは彼のもとに走った。しかし彼の後世からはできなかった。天子は驕り高ぶり、民心を丑なり、諸侯は集まらなくなった。更に悪いことに「天子」の玉座さえも虎視眈々とした近隣部族に奪われてしまう。
姒啓の死後、子供の姒太康に事件が起こった。姒太康は国土を好まず狩猟を好んだ。彼が最後に狩猟に出かけた時、おそらく大変興奮して、のぼせ上がって、汾水を辿って黄河以南を打倒しに行ってしまった。国政を管理できず政府は麻痺して、民衆は大変憤怒した。この時太行山中部の有穹(きゅう)氏の族長后羿は、軍と民衆の憤怒に乗って兵を出して、彼(姒太康)の帰路を分断してしまった。姒太康の軍隊は四散して逃亡し、この天子は一夜のうちに、本当の一匹狼となってしまい、荒野の中で鬱憤して亡くなった。后羿は姒太康の弟姒仲康を高位に建てたが、当然実権は后羿の手にあった。
后羿(こうげい)は伝説的な人物であり、中国最初の弓の名人である。彼には逢蒙と言う名の弟子があり、やはり百発百中の弓の名手であった。后羿の妻嫦娥は、史上最初の美女の一人である。嫦娥は夫の留守の内に、不老不死の薬を飲んで、心身共に月の広寒宮の仙女となった。后羿はこのように幸せとは言えず、皇帝姒仲康が死後、息子の姒相が帝位を継いだ。后羿はいつまでも後ろ盾をありたいとは考えず姒相を降板させ、自身が天子の玉座に着いた。姒相は東方へ逃亡し、斟灌(しんかん)と言う部族に隠れ住んだ。しかし后羿は遠謀深慮の政治家ではなく、かえって勇士であり、彼が信任した彼に最も忠誠を尽くす大将軍寒浞(かんさく)に兵権を与えた。測らずも寒浞は兵乱を起こして、彼は高官厚䘵の地位で逢蒙を誘惑して后羿を誘惑して后羿を射殺して、自ら天子の座に上がった。その後、寒浞は自分の子を派遣して軍を統率(とうそつ)させ斟灌を討伐して、姒相を殺害した。姒相の懐妊していた妻は壁穴から逃げ出し、遺児の姒少康を生んだ。
姒少康は成長すると、寒浞の追跡から逃げる為に、杜康と名を変え、東奔西走した。最終的に舜帝姚重華の故郷の蒲阪の有虞氏部族に亡命して、有虞氏の調理長、つまり部族内の調理人あるいは調理人を管理する小役人となった。部族長姚思はこの青年を高く評価し、二人の娘を彼の嫁として、更に井田の一区画を与え耕作させた。姒少康は農民に甘んじる気はなく、彼はこの僅か「900畝(0.6町歩)」の土地を拠点に、秘密裏に夏后氏部落から、彼の父や祖父を懐かしむ移民500人を集結した。
彼はそこから100人の精鋭を選んで日夜訓練し国土の回復を準備した。数年後姒少康に準備が整った。彼は間諜(スパイ)を派遣して、首都の兵力配置と宮廷の詳細図を掌握した上で、奇襲を発動して、歴史上最初の「斬首作戦」を展開した。姒少康はこの小部隊を率いて、一夜に急行軍して明け方宮廷に突入し、寒浞を捉えて殺害して、彼の父親と伯父が失った玉座の奪回に成功した。これが歴史上有名な「少康中興」の故事である。
杜康は料理人である間、黍子で酒を作る先進技術を発明した。殷商王朝時代の甲骨文では、この酒の作り方法を「配」と呼んだ。
「配」、初期の甲骨文「配」は醸造師の仕事場面を表現しました。「酉」は醸造の大壺で、「人「は仕事中の醸造師で、酒壺の上の三つの指示記号は、醸造師が酒壇に食糧、酒曲、水などの各種製酒原料を投入していると言う意味です。造字本義酒壇内の酒米、酒の容量の比率によって、酒曲を調和し、発酵して酒を作る。後期の甲骨文は3点の指示記号を省いた。篆書「配」は金文の「人」を「巳」と書く。
「甚」は「湛」の本字である。「甚」、金文「甚」は美しい味を味わう代表(甘)と美酒が入ったスプーン(短剣)で構成されている。後期の金文「甚」はまた「短剣」に「八」を追加し、酒を飲む人の口から「パタパタ」と言う音がして「良い酒よ、良い酒」と褒めた!その名の通り、「良い酒」とは何か、「精緻な」もそうです。だから「甚」と「湛」の造字本義は、声色美酒に溺れ、安らかな生活を楽しむことです。酒がある生活は、大変良い。
「将」と「醤」は同源の文字であり後に徐々に分化した。「醤」の甲骨文は床「爿、片」、肉「月」、肉を盛る器具「鼎」の構成であり、床の下に保存した器物の中の特製の塩漬け肉である。その後、醤(ひしお)造りの技術は宮廷から民間に伝わり、肉を入れる器具も高貴な青銅の鼎から廉価な甕に代わった。篆書の字形は、床、陶磁器、肉、塩鹵(エンロ)などの部首を包括し、「醤」の材料と保存場所を表している。造字の本義は、豆麦などの穀物に肉と酒を加えて醗酵してから、壜甕を使って床下に貯蔵し備蓄した糊のような食品である。民間では今なおこういう保存食の伝統が残っている。
「醋(酢)」の篆書「醋」は「酉」と「昔」の構成であり、熟成した古酒が自然環境の微生物の発酵作用により酸化したもの。造字の本義は、料理、調味に使用する酸味のある液体で、黄酒(紹興酒など)が微生物の醗酵を通してできたものである。「醋」の字形の構造は、古代人が自然環境で発見した酢の中で、変質した酒が最初の酢であった。
大唐の貞観年間に、太宗李世民は宰相の房玄齢に褒美として二人の宮女を側室として与えようとしたが、房玄齢はあえて同意しなかった。太宗はなぜかと訊ねた。房玄齢は、「例え御意を承知しても、古女房が手をこまねくわけではないでしょう。」と答えた。太宗は「朕は彼女を宮廷に呼び、彼女に応答させるつもりである。」と言った。そこで太宗は酒席を設け夫人の到来を歓迎し、酒杯を指して「朕は愛しい大臣房氏に側室を与えたい。ご婦人がもしかたくなにお許しにならないのならば、朕はあなたに死を与えるので、面前でこの毒酒を飲み干しなさい。」房氏の夫人はこの言葉を聞くと、すぐさま首を上げ、「毒酒」を一気に飲み干した。太宗はこの頑固は夫人の死を覚悟した姿を見て、きっぱりと「朕があなたに与えたのは一杯の酢じゃ。」と笑いながら言った。その後、太宗皇帝は再び房玄齢に側室を入れることは言い出さなくなった。しかし「吃醋(酢を飲む=嫉妬する)」という言葉は人々には「寵愛を競う」の俗語となった。
古酒には不純物や糖分が多く長期保存すると酸に変化する。「酸」の篆書「酸」の左は「酉」であり、此処では変質した酒、つまり醋(酢)である。右側の「夋」は子供がこういう酢酒をこっそり飲んで酸味の刺激で歯の根が傷み、両足の力が抜けて立っていられないことを表している。
「糟」の篆書「糟」が表しているのは酒を濾す(こす)場面である。「」は酒粕を濾す袋二枚で、「酉」は清酒を蓄えた壜である。造字の本義は、酒米を酒壜で醸し(かもす)てできる酒糟である。古代人は酒米をいくつかの小袋に分け入れ、酒糟が酒壜に入って見た目や食欲に影響しないようにした。
底に沈んだ大粒の酒粕(かす)を「糟」と言い、液体の表面に浮かぶ酒粕を「粕」という。「白」は漂白の「泊」の省略した書き方で、浮かんでいる細かな屑を表す。篆書の「粕」は細かい酒粕「米」と漂白している意味の「泊」との構成である。造字の本義は酒壜の中で漂う細かい酒粕である。
今日、古代から伝わるいわゆる「杜康醸造遺跡」は二つあり、一つは陝西省白水県の「杜康溝」「杜康河」であり、もう一つは河南省汝陽県の「杜康泉」「杜康仙莊」である。古代人はこの二ヶ所に杜康廟を建て、杜康を供養して中国醸造業の祖師として、五体投地の礼拝を行なった。三国時代の曹操の『短歌行』の、「何を以てか憂いを解かん。惟だ杜康有るのみ。」の詩句があり、この時から「杜康」は酒の代名詞となった。
我々は現在通常はアルコール度数の低い果実酒と黄酒(ほわんちゅう)、アルコール度数の高い白酒(ぱいちゅう)の三種に分類される。古代人が飲んだ酒はこれほど多くの種類がなかった。彼らは醸造の原料や度数に限らず、興奮できる飲み物を全て「酒」と呼んだ。杜康が酒造する以前は、果実酒は中国人が醸造する唯一のアルコール飲料であり、材料は一般に野生しているナツメやサンザシ、スモモ、モモであった。舞踏は前漢の張騫が西域から始めて中国へ伝えたが、気象で貴重な果物であったため、葡萄酒は一般に普及せず、ただ唐王朝に「葡萄の美酒」として登場するが、現在に至るまでブドウの生産が盛んな新疆の砂漠地帯以外では、葡萄酒が食卓に上がることは大変珍しかった。モンゴル人の馬の背で飲む馬乳酒は香り高いが、ゴビ砂漠を出て中国平原に入ったことはない。紹興酒などの黄酒や果実酒から蒸留して作られるアルコール濃度の高い白酒は、紀元12世紀以後の南宋末期にようやく発生している。こういう強烈な白酒は名実と共に「焼酒」と言える。素の白酒のアルコール含量(がんりょう)は65〜76パーセントの間であり、最も強い酒は12回蒸留してほぼ純粋なアルコールとなる。胃腸を損傷しないようにしたり、健康のために、人々は高麗人参やクコなどの漢方薬や、毒ヘビ、トカゲの類の有毒爬虫類を白酒に添加している。このような薬酒がテーブルに上がっても、臆病な人は飲もうとはしない。
古代中国人がいつも飲んだのは黄酒であり、一般的には黍を煮てから酒趜を加えて醸造したもので、醸造の過程は大変短く、蒸留しなかったので、アルコール度数は「老窖(ロウコウ)」「陳年(チンネン)」「二鍋頭(アルコート)」などの白酒に及ばない。陶潜の『和郭主簿・之一』に「春秫(ジュツ)にて美酒を作り、酒熟せば自ら斟(く)む」という。この詩句は酒造の原料を我々に伝えるばかりでなく、旅館の詩人が自ら醸造することを言っている。越の会稽の黄酒の醸造方法は独特で、大禹に酒を送った儀狄大師の秘伝と伝えられている。越の人は元々大禹の後世であり、姒啓が天子となってから、彼の弟を大禹の墓守として会稽に封じている。越人は米で黄酒を醸造したが、この琥珀色の米酒は芳醇な香気がある。寒く湿気た冬の夜に、一瓶の黄酒にザラメ糖を加え、生姜片を数枚添えて加熱してから、精巧な酒杯に入れて一口で飲み干せば、その瞬間みぞおちに血液と共に暖流が湧き上がるようである。紹興の黄の特級品は「女児紅(ニュアルホン)」と言い、昔は当地の夫婦に女児が生まれると、その年の新米で一甕の美酒を醸造して、酒甕が地下に埋めて寝かせた。女児が大人になり、嫁に出すとき地面から掘り出して、貴重な贈り物として嫁に出した姑(しゅうとめ)の家に届けた。
中国史を通して見ると、深刻に影響する多くの大事件が酒杯が交錯する間に発生しているのである。ここでは殷商時代から現代に至るまで、影響の大きかった幾つかの宴席を簡単に紹介する。
第一は殷商の紂王の酒池肉林の放蕩な宴である。
紀元前11世紀、殷商の最後の統治者紂王は蘇妲己を寵愛していた。彼は一日中政治も行わず、放蕩贅沢な生活を過ごした。享楽の為に彼は酒で満たした長さ10丈、幅5尺、深さ2丈の池を掘らせ、また数百頭羽の鳥獣を屠殺させて、鮮肉を切り取り丁寧にローストして、酒池の傍に懸けて「酒池肉林」を作らせた。これだけでは足りずに、数百名の官女佞臣を集めて、丸裸で酒池肉林を踊り戱れ往来させた。また動物のように座らせ口で手酒や肉を飲食させた。中央と妲己ははっはと大笑いして、堪能はしたが刺激がなく、彼は真っ赤に燃えた木炭の上に何本もの真っ赤に焼けた銅柱を建て、不満そうな大臣たちに焼き殺して「炮烙の刑」と呼んだ……このような勝手な状況で、荒唐無稽な紂王は「暴君」の代名詞となり、「酒池肉林」も最も贅沢な生活の比喩とされ、以後の君主の誡めるべき教訓となった。
第二は呉国の勇士の宴で、専諸が王僚を殺したもの。
紀元前6世紀の春秋晩期に呉国の王僚が甥の公子光の王位を簒奪したので、公子光は王僚を撃ち殺し王位の奪回を決意した。彼は伍子胥の建議を聞いて勇士専諸を養子として、西湖の大鯉魚の調理法を学ばせた。ある日、公子光は自分の家に王僚を宴会に招いたが、王僚は危険を感じて、厳重な警備措置を講じた。王宮から公子光の家まで、衛兵をびっくり立て、公子光の家でも警備を厳重にした。宴席に着席できるのは、王僚、公子光の二人だけであり、料理の給仕はみな厳重な身体検査を受ける必要があった。しばらくすると公子光は席を起き、代わりに専諸が王僚の前に膝まづき大鯉魚を差し出した。涎(よだれ)を垂らして王僚が箸を使おうとした時、専諸は鯉の腹から鋭利な短剣を抜き出して、一剣のもと王僚を討ち取った。すぐさま専諸は王僚の衛兵に切り殺されたが、公子光は自身の衛兵を引き連れ駆け付け、事態を制圧し王位を奪還し、後に有名な春秋覇主の「吳王闔閭(こうりょ)」となった。呉王闔閭は呉国の派遣を開創したが、越国との戦争中に負傷して亡くなっている。その後彼の子呉王夫差と越王勾踐とは何度も会談し「臥薪嘗膽」などの歴史的ドラマに繋がった。
第三は黄河中原の文学の宴で、曹操の銅雀台で開催したもの。
紀元3世紀の三国時代に中国には「三曹七子」を代表とする優秀な文学家群体が現れた。紀元208年の赤壁の戦いの後、三国鼎立の局面はなかなか打破されず天下に大戦争は起こらなかった。そこで曹操は首都に銅雀台を建設し、銅雀台の完成の日に群臣と大宴を開いた。曹操と二人の息子曹丕、曹植のリードで群臣達は次々と詩賦を吟作した。曹操は「酒に対して当(まさ)に歌うべし、人生 幾何(いくばく)ぞ。譬(たと)えば朝露の如く、去る日は苦(はなた)だ多し」という詩を書き、自分は年を取ったが天下統一の野望はまだ果たされないと感慨している。主演の盛況を目にして、彼は「概して当に以って慷(こう)すべし、幽思(ゆうし)忘れ難し。何を以ってか憂いを解かん、惟(た)だ杜康(とこう=酒)有るのみ」という情緒に酔いしれた。天下に名高き『短歌行』はこうして誕生した。この盛宴を端緒に、曹操は銅雀台を詩歌と文学の創作の楽園として孔融、陳琳、王粲、徐幹、阮瑀、応瑒(おうとう)、劉楨等の一大才人を集めて、史上「建安七子」と呼ばれた。彼らは銅雀台で多くの歴史に残る傑作を創作し、中国文学の、詩、賦、散文の勝手んに重要な貢献を果たした。
第四は東晋の「書聖」王羲之の乱亭の会である。晋朝は英雄が輩出した三国時代を終結したが、新興王朝が持つべき斬新な気風は現れなかった。晋朝の統治者達は荒唐無稽で、贅沢な生活を過ごし、晋朝の第二代皇帝の司馬衷は生まれつきの腑抜けであり、司馬一族が互いに殺し合う「八王の乱」を引き起こした。中国平原の軍閥が混戦し匈奴、羯族、鮮卑、氐、羌などの辺境の少数民族もこの機会に反乱を起こして次々と持続の政権を建立、中国内地に進入したため、歴史上「五胡十国」時代という。その結果漢民族の多くは東晋政権の南遷に従わざるを得なかった。晋朝の皇族は長江と山岳の助けを借りて、王家、謝家ら幾つもの大家氏族の援助のもとに、国土の東南半分を持ちこたえた。江南の氏族の中で王氏一族の勢力は最大であり、民間には「王・馬 天下を共にする」という俗語がある。江南の王氏の開祖は丞相の王異と大将軍王敦であり、王氏兄弟の甥が有名な「書聖」王羲之であった。西暦353年、東晋の永和9年の春、王羲之は41名の書家、詩人を招待し、「崇山峻嶺,茂林修竹有り、又た清流激湍の有る」蘭亭でロマン的な野宴を挙行した。彼らは曲水の両側に陣取り、酒杯の「羽觴(ウショウ)」を水に浮かべて下流へ送った。人々は水辺で順番に羽觴を手にして酒を飲み詩を作った。詩を書き終わらないものは罰酒を強要され、当日26人が詩を書き、35首を書き残した。王羲之は酔いに任せて、特選した鼠の鬚筆と蚕(かいこ)の繭紙にその場で詩を揮毫し、更に興に乗って序文、つまり『蘭亭序』を書いた。『蘭亭序』の文言は口語のようにさっぱりと垢抜けしており、内容は場面を借りて心情を述べ、事実を以て意思を表し、中国散文中の名作である。『蘭亭序』の全文は28行、324文字であり、章法、構成、筆法が完備しており中国の書法史上最も偉大な作品である。王羲之は草書と楷書の中間にある行書を始めて作り、書法の発展史上新しい書写形式を創造したので蘭亭序は「天下第一の行書」と称賛されている。
第五は「韓熙載夜宴図」で、宴の様子を描いた中国初の絵画である。
政治的に言うと、この宴会が歴史に与えた影響はごく僅かであるが、重要とされるのは、現代人が見ることのできる唯一の古代の宴会シーンであるからだ。西暦10世紀、五代十国に描かれた絵画『韓熙載夜宴図』からは、当時の生活、服装、調度品、料理の特徴や詳細を垣間見ることができる。当時、唐帝国は崩壊しつつあった。南北朝時代を経て、中国は再び五代十国と呼ばれる10の国家に分割された。十国のうち、長江の南を拠点とした南唐は経済的に発展し、文武両道の皇帝が何人もいたが、中でも後唐最後の皇帝、南唐後主 李煜(りいく)は有名だ。しかし、南唐は政治的に弱く、軍事的にも無能という弱小国家であり、最後の皇帝、李煜は典型的なボンクラ王であった。南唐の宮廷には、山東省青州出身の北方人で、戦乱から逃れるために役人として江南にやってきた韓煕載(かんきさい)という大臣がいた。韓煕載は大変才能が有り、尚書に昇進して十国南唐最後の皇帝李煜は彼を重要したかったが、韓煕載は毎晩多くの客人を自宅に集めて集会しており、結党謀反の疑いがあると告げ口にされた。皇帝李煜は宮廷画家の顧閎中を夜の韓氏の家に派遣して、酒宴の実況を記録させた。描かれた『韓煕載夜宴図』一幅は李煜へおくられた。この絵画は韓煕載を中心に、音楽を聴き、舞を見て、休憩し、また笛を吹き、散会する五つの場面で構成されている、李煜は絵を見ると韓煕載は好き勝手に、余暇を楽しんでいるだけであったので、彼への警戒心を解いたので、韓煕載は最期に高い地位で幸福に亡くなった。
第六は、北宋の太祖趙匡胤の「杯酒 兵権を釈(と)く」である。五代十国時代後期に、後周の皇帝柴榮が早逝し僅か8歳の幼年の柴宗訓が帝位に着いた。柴榮は死の直前、自身の腹心の重将趙匡胤(きょういん)を宮廷の警備として、精鋭の宮廷軍を掌握させ年若い主君を補佐させた。趙匡胤は戦功によって兵士から統帥へと昇進したもので、軍中でも極めて名声が有り、後周の多くの武将は彼の古い部下で親友、あるいは兄弟である。新王が位を継ぐと、趙匡胤も忠誠を誓った。まもなく河北の前線から遼国が国境を進犯したとの急報が入り、幼少の皇帝は趙匡胤を統帥として出征させた。部隊が出発した夜、「黃袍加身(自身が皇帝となる)」のクーデターを起こして皇帝に着いた。それからまもなく、趙匡胤は大将の石守信、王審琦などの人々を招集して、酒を酌み交わし(くみかわす)懐旧談に興じた。三杯乾杯するころ、趙匡胤は突然黙り込みしきりにため息を吐き始めた。将軍達は大変奇妙に思い、ため息の理由を訊ねると、趙匡胤は自分が皇帝になって以来、誰かが氾濫するのではないか、一夜として安心して眠れないと語った。将軍達は自らの忠誠を示して胸を叩いたが、趙匡胤は君らの忠心は我も信じているが、ある日君らの手下が君達に黄袍加身するのではないかと心配なのであると言った。何人かの将軍は驚いて膝まづき、皇帝に活路を示すように求めた。皆が軍隊に参加したのは高官厚給で妻を持ち子供に官位を与えるためであったが、現在皆は年齢も進み出兵権を出す方が良い、私は君らにが富豪となり長生きできるように金銀財宝、上田麗宅をたくさん与え、親族となれば君臣の間に猜疑心は無くなるであろうと趙匡胤は言った。翌日どの将軍も辞職を願い出たので、趙匡胤は武将の兵力権を全て解消することに成功した。その後、軍人出身の趙匡胤は科学的な選抜によって世界初の非軍人政府を形成した。しかし皇帝は直接掌握した兵権は軍事に不案内な文官が軍隊を支配したため、所々で武将を制圧したため、宋軍には百万の大軍があったにも関わらず、戦闘力は一撃に耐えられなかった。最終的に北宋と南宋は二度も国をなくし、社会制度にはるかに落後している遊牧民族に惨敗した。
第七はチンギス・ハーンのオノン河の宴である。
モンゴルの英雄テムジンはモンゴル部族の酋长の家庭に生まれた。少年時代に彼の父親は敵対部族に毒殺されて孤児となったので、オングート部とジャムカ部に身を寄せざるを得なかった。テムジンが成長すると、父親の旧部族を招集して自身の力量を発展させ、その後モンゴルの部族間の争いを利用して、それぞれを撃滅する戦略を採用してモンゴル平原を統一した。西暦1206年に、テムジンはオノン河のほとりで部族連合「クリルタイ」大会を招集しモンゴル民族の最高統治者となり、大海のような偉大な王であると言う意味の「チンギス・ハーン」と称した。その後チンギス・ハンは対外作戦を開始し、南方の西夏、金国を次々と撃退し、金国の首都中都を攻め落とし、金国の勢力を黄河以南へ追いやった。ついでチンギス・ハンは最初の西方遠征を開始し、7年を征服戦を経て、もうこの大軍は黒海とインダス河流域に到達した。ついでチンギス・ハーン軍隊を取って返し西夏を攻撃したが、西夏滅亡を目前にして、チンギス・ハーンは病死した。
オノン河の集会を発端に、チンギス・ハーンと彼の後継者達は二度の南征、三度の西征を進攻して、南方では西夏、金国、トルファン、大理、南宋を滅亡し、ヨーロッパへ向かいドナウ河流域のポーランド、ドイツを攻撃し、西アジアは大食(イスラム)、を滅亡し、イランとイラク、シリアを征服し、地中海のキプロスまで占領した。僅か70年余りの時間で、世界最大の境域を持つ帝国を建立し、世界の歴史の進展を変革した。世界史上チンギス・ハーンは遠計の才覚者で、軍事の天才、勇猛無敵の代名詞となっている。
第八は、中国の封建王朝の落日の宴「千叟宴」である。中国の歴史上には三つの「黄金盛世」があり、一つは紀元前2世紀の前漢の「文景の治」二つは西暦8世紀の唐代の「開元の盛世」、三つに西暦18世紀の清朝の「康乾盛世」である。紀元1785年、乾隆帝の50年は、天下泰平で穀倉も充実しており、更に乾隆帝の即位50年の慶祝の式典に巡り合ったので、皇帝の恩恵の広大さを示すために、乾隆皇帝は乾清宫で規模広大な宴会が挙行された。全国から70歳以上の老人3,000名あまりの参加を招集した。乾隆皇帝は90歳以上の老人に一一酒を酌んだが、上座に推された最長老は141歳と言われている。紀嘵嵐はこの老人に「花甲重ねて開き、外に三七の歳月を加え、古稀双(ふた)つの慶び、内に一個の春秋の一年を加える=141歳)」の対句を作った。今回の贅沢な大宴会は、宮廷の御膳房がフルコースで用意した満漢全席であり、老人達は大喜びで食べると共に、学識豊かな大学者達が次々と詩や対句を述べ、乾隆帝のために積徳を称賛した。千叟宴は当時の文人達に「恩隆礼洽,万古未有の挙と為す」と称賛された。「千叟宴」のあった年に、イギリス人ワットは蒸気機関を発明し、西洋では第一次工業革命が始まり、北米の独立戦争は勝利を獲得し、アメリカ合衆国が成立を宣言した。フランスは市民革命(ブルジョワ革命)が根回しされ、ナポレオンが歴史舞台に登場した。この頃中国は「天朝の大国、万邦来朝」すると言う楽しい夢の中におぼれており、尊大に鎖国をして向上努力もなく過ごしたが、この大宴会の後50年も経たずに、帝国主義が中国を侵略する「アヘン戦争」が勃発し、中国は語るも悲惨な半植民地化した半封建国家となった。いわゆる「世にも盛大な」宴会は封建社会の最後の残照と言えるであろう。
第九は米国ニクソン大統領の訪中の宴である。
1949年新中国建立の日に、中国人民は腰を起こして本当に立ち上がった。対米の朝鮮援助の勝利は「帝国が海岸に大砲を数基置くだけで、国家を占領できる時代はもう終わった。」ことを示している。1970年代初頭になると、時代の構造は大きく変化してきた。アメリカとソ連の超大国は軍事、航空、科学技術、外交など各領域で競争がいよいよ熾烈になってきた。この時アメリカはベトナム戦争の泥沼化により不利な立場となり、国際情勢は「ソ連攻勢、米国守備」の形成となったそして中国は世界最大の発展途上国として、軍事や外交上など各領域で、巨大な能力と可能性を表している。同時にソ連は覇権主義政策を取り行なったので、中ソの関係は急激に悪化し、中ソ国境で両国は武力闘争を起こしている。国際情勢により、アメリカは中国を無視できなくして、また対中政策を考慮せざるを得なくして、中国もこの時アメリカと関係を改善することを意図しており、こういう事態は最終的に米国ニクソン大統領の1972年2月21日の中国友好訪問を促進成功させた。
ニクソン大統領が北京に到着すると、周恩来総理は空港へ歓迎に出かけた。当日午後、毛沢東主席はニクソン大統領と会見した。その夜、周恩来はニクソンを歓迎する晩餐会を行なった周恩来は宴席での乾杯の発語で述べた。「アメリカ人民は偉大な人民である。中国人民も偉大な人民である。我々両国の人民は友好的である。誰もが知っているように、両国の人民の往来は20年以上中断している。今中米双方の共同の努力で、有効往来の門戸がついに開かれた。目下両国の関係は正常化を促進し緊張の局勢を緩和することの努力が、中米両国の強烈な願望となっている。我々は、両国人民のこの共通の願望が、いつの日が実現できると信じている。」と。その後8日間で、双方は広範な会談を進行し1972年2月28日、中米両国政府首脳は、アメリカは中国は一つであり、台湾が中国の一部と承認した声明の鍵である、「共同声明」を上海で発表した。しかもアメリカの武装と軍事施設を台湾から全て撤退させるという最終的な見通しを確認した。
ニクソンの中国訪問は、中国が影響力のある世界的大国になったと言う重要な指標と国際情勢の発展へ重大な影響を与えた。ニクソン大統領は訪中前からアメリカで一生懸命に箸の使用練習していたので、宴会の時の箸の上手な使い方は出席者達を大いに驚かせたことは、一筆に値する。同時に中国は「茅台(マオタイ)」酒もこの宴会で国内外に名を馳せた。
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