フレンドリー山東(威海李君)

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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びっくり!2,000年余り前の秦朝の「国家布告牌」とは

フレンドリー山東(威海李君)

秦の始皇帝が中国統一後10年間に5度、合計2万キロメートル近い大規模な巡幸を行った。この空前絶後の物的証拠は、嶧山(えきざん)、泰山、瑯琊、芝罘、東観、碣石、会稽の7基の顕彰碑であり、歴史的には「秦の七刻石」という。

2,000年余り前に山河に聳え立った7基の刻石は、秦朝が大地に打ち建てた「国家布告碑」である。

秦始皇帝は行く先々での「SNS投稿」が好きであった。「秦始皇帝が行く先々でSNS投稿していたなんて想像もつかないだろう。」大地に立った「国家布告碑」とも言える秦の七刻石は、ネッ友(ネットユーザー)と秦始皇帝との空を超えた共有感である。秦始皇帝のこの七つの「告知」は、単なる「旅行投稿」だけではなかった。2,000年余り前に、秦始皇帝は6国を統一してから、彼の野心は国土の統一だけには止まらず、制度や文紀から精神に至るまで高度に一体化した国家の構築に努力した。このために彼は「刻石で秦徳を頌(ほ)め」、様式を統一した銘文形式で、巡幸祭記の名山や重要地点に石碑が建立し、統一の功績と施政の方策を体系的に宣言して、大統一された封建王朝開闢の証明とした。

司馬遷の『史記』には秦の七刻石の原文6篇を収録しているが、その銘文は千年の時空を乗り越えた鍵のように、我々に秦始皇帝の改革を訪ねる門戸を開いてくれる。

泰山の刻石には「治道運行,諸產得宜,皆有法式(道を治めて運行し、諸産 宜しく得るに、皆 方式有り。)」と記す。意味は天下の事務の運行は、統一された制度が必要であるということ。実際には元々六国の制度が異なっていたのです、各国の政治の混乱を、秦朝廷は「法」を用いて取り除いたと専門家は指摘している。

そして碣石刻石中に「墮壞城郭、決通川防,夷去險阻(城郭を堕壊(だかい)し、川防を決通し、険阻を夷去す)」とは、元々あった六国があちこちに割拠(かっきょ)していた藩籬隔阻(国境守護)を秦の始皇帝が徹底的に取り除いて国土の統一を果たしたことを意味している。同時に、彼は民間の兵器を押収し、12体の青銅像を鋳造し、武力排除と天下統一の象徴とした。

戦国の七雄の「馬」の文字がそれぞれ異なっていたが、「文字統一」必須であった秦始皇帝の「大統一」への道のりは決して平坦ではなかった。

どれ一つ同じもののない200頭の馬、1,400年余り前の馬画専門家が描いた珍しい「目立ち屋さん」

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本日は世界自転車デーである。現代人は乗ると言えば自転車であるが、古代人は何に乗ったのか。

1,400年余り前の「乗馬装備『鞍馬游騎図』」を知る三つのポイント(スマホを反時計回りに9度回転させてご覧ください)。


この眼力に見覚えはありますか、馬隊の「注目株」が集合。

流行の髪型、セクシーな目つき、古代人が乗馬する姿を見ては数えきれないが、中でも最も目立つにはこの両「演技派」である。


初めに登場するのは「中分け」髪型の栗色馬である。炯炯と輝くその瞳をどこかで見たことはありませんか。間違いなく世界的名画『モナ・リザ』と同じの魅惑の眼差しである。どの角度から見ても、それはあなたを見つめていること間違いない。


更に視線を右下に向ければ、「御者のいない」鐙だけがある。もともと空の鞍の馬は壁画中で生死転回の叙事的ロジックを暗示するもので、死者を昇天させるための準備の意味がある。同時にまた墓の主人の風格と権勢を物語っている。更にもう一つの「注目株」を見ると、その「メジャー」となる秘密はリアルさえある。どれほどリアルなのか。画面には珍しく馬糞が現れる。


馬は首を高く上げ、前足を空中に躍らせ、後足を地面に踏ん張り、濃灰色立髪は逆立ち瞳孔を開いて上を見上げている。前方で「交通事故」が起こったように、驚いて糞便を巻き散らしている。近づいてミレア、糞玉の数枚で数えられるほどである。


この絵師は動物の習性を理解していたばかりでなく、細かな観察力と、ユーモアと大胆さを兼ね揃えていた。この「興味深い」馬は、大変印象に残る。

これは中国の技術史を塗り替え、北斉壁画の空白を埋めた。

『鞍馬遊騎図』は北斉婁㕡墓壁画の代表作であり、2002年に初の出国(境)禁止の展観禁止文化財に指定され「中国美術史」を書き換えた傑作と称賛されている。全体は三枚の画面により構成され、第一面は鞍馬導引図である。


中間の画面には騎馬隊列が集中して描かれているが、画家は伝統的な絵画の「遮蔽法」を採用している。


馬と人物の間の前後交錯する関係を通して、巧妙に空間の奥行を作り出し、画面を緊密に集中し、隊列の壮大な気勢を展開し、最初と最後の画面と対比させている。


この画面の構成は古代の貴族の外出儀礼の規則に符合しており、また北朝壁画の卓越した技巧と芸術表現力を展開している。単線の輪郭、色彩の濃淡、動的連携、透視などの技法が相互に組み合わされ、人物や馬を迫真の出来栄えであり、「形を以て(精)神」を捉えるという絵画思想を具現化している。


墓主が鮮やかな衣装で怒馬に乗って出かける様子を描き出し、北方の遊牧民族の風土や人情を映し出しています。総面積200平方メートル余り、71点が現存する婁叡古墓壁画は、墓主の生前の多様な生活場面を描写している。両晋時代から隋唐時代へ、北朝絵画の最高水準の代表作であり、中国美術史上の北斉壁画の空白を埋めるものである。

誰の作かといえば、北斉の「画聖」楊子華の手によるものかもしれない。

これらの壁画は北斉の宮廷画家の誰かの作と推測する人もいる。それはいったい誰であろう。騎馬人物の描画に優れたと有名なのは、当時「画聖」楊子華と言われた。彼は北斉の名門武成帝高湛の時に、直閣将軍(近衞将軍)、員外散騎常侍(侍臣)であった。婁叡の壁画の200頭余りの馬は、一頭として重複するものはなく、多様な姿態である。あるいは彼の仕事の環境も影響して、楊子華は宮廷から重用されており、「勅許がない限り外部の人物に絵を描くことはできなかった」のである。しかし墓の主人婁叡は鮮劣の名族婁氏の家系であり、その伯母は北斉の世祖高歓の皇太后婁昭君であった。このため楊子華が婁叡の墓室の壁画を製作の命を受けた可能性は高い。張彥遠『歴代名家記』に「(楊子華は)嘗て馬を壁に描く、よる 蹄嚙(ていげつ)長鳴を聴くこと、水草を索(もと)むるが如し。龍を素(白絹)に図す、舒卷(じょげん=広げる)すれば輒(すな)わちうんき縈集(えいしゅう)す。」という言葉がある。

唐代の画家 閻立本は嘗て「人を象りてより以来、その妙を曲尽し、簡易にして美を標(あら)わし、多きを減らすべかざりて、少なきを逾(こ)えるべからざるは、其れ唯だ子華のみか。」と評価した。

これらの歴史的文献は楊子華が写実的手法で鞍馬や人物を描くことに優れていたことを記録している。


宋代の模写という『北斉校書図』は今日唯一見ることのできる楊氏が腕まくりして描いた画であり、婁叡の壁画の風格と異曲同工の趣きがある。

鞍馬は塵土を踏みしめ、千年の時を凝視している。気𩐳生動の凄艷(=生命感溢れる色鮮やかさ)な筆致を通して、北方遊牧民族の騎馬スタイルを感じて、中国古代絵画の時空を超えた永遠の魅力を堪能することができる。 


裨文女塾(ブリッジマン女子校)/上海初、中国2番目の女子校

フレンドリー山東(威海李君)

上海黄浦区大吉路200号に位置する黄浦学校は、歴史が古く、1850年に創立された裨文女塾に遡り、裨文女塾は今から175年前には、1844年に設立の寧波女塾に次ぐ、中国で二番目の女子学校であった。

1850年4月15日、アメリカの会衆派教会宣教師ブリッジマンと夫人エジザベスは、上海旧城西門の白雲観廟近くて(現在の黄浦区方斜路西林后路102号)に裨文女塾を創立した。これは上海最初の教会設立の女子学校であり、第一回生20人が通学したが、秋には寄宿生に変更された。

裨治文夫婦

1871年にエリザベスが亡くなると、アメリカの女性福音派連盟(ウィメンズ・ギルド)が接収して、裨文女塾(ブリッジマン女子校)と改称した。1881年、アメリカ会衆派教会とアメリカ聖公会に対立が起こったので、一分の教師と生徒が文紀女塾と合併して、正式名称を聖瑪利亞書院(聖マリア女学校)と言い、学校は梵皇渡の聖ヨハネ学院の隣に移転した。最初の女性校長は中国女性黄素娥であった。最初の募集学生は40名で、文紀女塾から11名で、裨文女塾からは9名であった。

卜舫済と黄素娥の結婚写真

1831年、宋慶齢の母である倪桂珍が当校に入学したが、彼女はピアノ、英語、数学が得意であり、かつ西洋思想の影響を受けて個人の自由を追求し、纏足を拒否し、3年で卒業後、17歳で教師として学校に留まった。

倪桂珍

1900年から、学校は本来の授業料免除の特別条件を改め、月額制、月額50銭と改めた。この年、聖マリア女学校最初の卒業式では朱靜貞のみが卒業した。

朱靜貞

1903年、学校ではピアノ科を開設、1908年には師範科と図書館を設立した。1914年には、学生が増加して校舎が不足したので、梵皇渡キャンパスから遠くないブレナン路(Brennan Road 、現在の長寧路)に敷地40,000平方メートル(東京ドームの広さよりやや少ない)を新校舎用地に購入したが、現在の長寧来福士広場(らっふるず・してぃ)のある場所である。

聖マリア書院

1923年、聖マリア女学校はブレナン路の新校舎に移転し、聖マリア女子中学(St.Mary's School)と改名した、学校の校風は保守と正統で、校規は厳しく、学生は月一度の帰宅ができる全員寄宿制であった。

定礎式

1931年には、旧校は上海市教育局に登録され、正式に「裨文女子中学」の名称が使用された。

9月、王佩貞が裨文女子中学校長に就任すると、周到に計画して、学校経営に手腕を発揮した。彼女は伝統的な教会女子校の厳格な規律を打破して、人徳と才能兼備で専門的な非信者である男性教師を招いて教務に当たらせ、またカリキュラムと豊富な学校活動を調整した。

学校は英語重視を継続し、また数学と理解に力を入れ、学生の多方面の知能の発展を重視して、体育、ピアノ、歌唱などの各項の活動を展開した。

1933年クラス集合写真

1937年、日中戦争が勃発し、8月に第二次上海事変の戦火が燃え上がると、落成したばかりのキャンパスも平静ではなくなり、正常な授業は展開できなくなった。やむを得ず聖ヨハネ大学の協力を受けて、学校は共同租界のカーター路(現在の西門ニ路)の新民中学の教室を借用して開学したが、戦事的な影響を受けて、終日の授業は不可能となり、断続的となった。

聖マリア女子中学校章

1939年に、学校は四方を探して、ゴードン路(現在の長寧路)495号に校舎に適したビルを見つけた。これで学校はようやく広い教室を得て、また交通も至便であったので、学生数は急増した。学校は次第に全日制授業を回復し、学生の登下校途中の安全確保のために宿舎の増加に努力し、寄宿生数を拡大した。

1937年回卒業生

1945年に日中戦争(抗日戦争)に勝利すると、裨文女子中学は旧校地に戻ったが、江寧路495号での6年間の苦楽は、学校の発展史上消し去ることのできない深刻な極印となった。

1949年、中国政権が交代すると、1950年にはアメリカの教会は学校への経済援助の断絶し、アメリカの教師は撤退を迫られた。

1951年に滬南(コナン)女子中学と改名。1953年に学校は人民政府に接収され、「上海市第九女子中学」と改名し、公立校となった。1969年に男女共學を受け入れ、上海市第九中学と改称された。


2005年10月31日、聖マリア学院キャンパス内で、幾度もの改修と改築を繰り返した。最も代表的な小鐘楼と礼拝堂は、上海市政府により「優秀歴史建築」に指定されたが、その周囲には嘗ての聖マリア女子学院の4棟の独立した小ビルが取り囲んでいる。修復された4棟の建築物は、格致堂と思卜堂、膳堂、思孫堂であり、現在はそれぞれ特徴のあるレストランに改造されている。