9月20日、乾隆帝はイギリス国王に送る贈り物の梱包(こんぽう)を終了した。
贈り物には燈籠、シルク、茶球、少々の絵画などが含まれた。どれも中国文化を代表するものと解る。
しかしマカートニーはそうとは思わなかったlようで、日記に「我々のガイドはこれらの贈り物は大変価値があると言うが、私にはそれほど素早くも思えなかった。」と書いている。
センスと文化の差があるとしか言えなかった。
9月21日、マカートニー一行はこれまで通り熱河から出発して北京に向かった。(乾隆帝と朝廷の百官も数日後に出発した)
9月8日に熱河に到着してから一切合切でマカートニーは熱河で13日を過ごし、乾隆帝に3度会った。
今回訪中した主要な目的については、つまり国書を奉呈し、乾隆帝と交易問題について交渉するという、基本的に未だに開始されていない状態であった。
真面目な話、マカートニーの今回の熱河訪問は全く無駄足であった。
9月26日午後、マカートニー一行は北京へ戻った。
9月27日、マカートニーは清朝の役人が「客を追放」しようとしている嫌疑があることに気づいた。
「我々のガイドが我らの残りの用事を催促しているようで、また我々自身の観察と他人の情報をから、我々は此処で冬を越せないだろうと考えるようになった。」
9月28日、マカートニーは乾隆帝が二日後に帰京するので、マカートニーを含む朝廷関係者は19キロメートル先の郊外へ皇帝を迎えに出る通知を受けた。
9月31日、マカートニー一行は早朝4時に出発し、2時間後目的地に到着した。
この歓迎団体がどれくらい大きいかというと、マカートニーの記載には:
「我々の両側と対面には、数千名の役人、宮廷の衛兵、旗手、そのほかの宮廷官員が、「目の届く限り」の沿道数マイルに並んでいた。
間もなく、乾隆帝が到着した。歓迎儀式が終了後、マカートニーは北京へ戻った。
簡略な歓迎儀式であったが、乾隆帝はマカートニーへ心配の意思を表した。
彼が通過した時、我々は彼に挨拶をしたが、彼は私の体調が優れず、また寒い季節が近づいているのを知っていたので、円明園に止まらず、北京にすぐ帰るのが良いと言った。
乾隆帝のマカートニーに対する態度はまだ大変友好的であったと見て取れる。
10月1日、マカートニーは清朝の官員から、規定期限後はすぐさま退去するべきだという正式通知を受けた。
マカートニーは退去命令を聴くと、事態は微妙で自身の任務はまだ始まっていないと感じた。そこで再び和坤首相にもう一通の書信を書いた。
1、清朝が使節団の船が舟山で購買貿易を進行することを許可していただき感謝するが、此の貿易はマッキントッシュ船長の監督の下で完了する必要があるので、彼が舟山に行くことを清朝に再度要求する(和坤平藏最初の口頭での請求を含めて、これは三度目の請求となる)。
2、(マカートニー)自身は広州からイギリスへ戻る予定だが、出発は春節以後を希望する。
当日遅くに、和坤はこの書信に対して、マカートニーに明日早朝に円明園に会いに来るように返答した。
10月2日、マカートニーは早朝に円明園に到着した。
マカートニーが話す前に、和坤はこれらの書信は使節団に送るもので、その場で書信の内容を確認して欲しいと希望して、数通の書信を手渡した。
マカートニーは書信を読み終えると内容を取り纏めて報告した。
1、自身が乗って来た「ライオン号」船は舟山を離れる準備をしている。
2、贈り物を積載(せきさい)して来た「ヒンドスタン号」も、マッキントッシュ船長が合流するまで出発出来ない(マカートニーの請求した第一件と一致している)。
和坤は聞き終えると、「ライオン号」船はまだ舟山を離岸していないので、マカートニー一行は追い付いてこの船でイギリスに戻ることを希望すると表明した。これは明らかに帰国命令であると見て取れる。しかし見送りの態度は大変友好的であった。
和坤は更にマカートニー一行がすぐさま立ち去ることを希望する理由も述べた:
1、マカートニー一行は長い間家庭を離れているので、きっと故郷を懐かしみすぐさま帰りたいだろうと思う。
2、皇帝はマカートニー使節団の数名が中国の気候に適応できず亡くなっていることを知り、外国人は北京の厳しい寒さの天候の影響を簡単に受け易く、もしすぐさま立ち去らなければ、その後霜氷に出会えば更に不便であろうと思う。
3、マカートニーの書信中の新年の宴会と儀式は、基本的に熱河で見たものと差がないので、新年まで待つ必要はない。
マカートニーは聞くや否や、自身は北京の気候に適応しており、悪影響を防ぐ対策を取っていると返答した。
この時、マカートニーの旅は転機を迎えていたと見て取れる。
以前は毎日悠々と庭園を散策し清朝の官員とゆっくりよもやま話をしていた。今は朝廷の第一大臣から帰国命令を受けている。
文献からすれば、当時マカートニー一行を立ち去らせることは正常なことであった。これは清朝の一貫した政策である。それはまたマカートニー使節団も例外ではなかった。
例えば以下の記録もこの点を証明している。「朝貢使節は北京に40日を超えて逗留できない」(注:当時マカートニーは北京に来てからほぼ40日であった。)(朝貢使節は朝貢儀式終了後は、早々の退去を求め、理由なく止まることができない。」『清高宗実録』