フレンドリー山東(威海李君)

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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熱河から北京へ:マカートニー使節団の「無用」と旅と乾隆帝の「心暖」かな見送り


9月20日、乾隆帝はイギリス国王に送る贈り物の梱包(こんぽう)を終了した。

贈り物には燈籠、シルク、茶球、少々の絵画などが含まれた。どれも中国文化を代表するものと解る。

しかしマカートニーはそうとは思わなかったlようで、日記に「我々のガイドはこれらの贈り物は大変価値があると言うが、私にはそれほど素早くも思えなかった。」と書いている。

センスと文化の差があるとしか言えなかった。

9月21日、マカートニー一行はこれまで通り熱河から出発して北京に向かった。(乾隆帝と朝廷の百官も数日後に出発した)

9月8日に熱河に到着してから一切合切でマカートニーは熱河で13日を過ごし、乾隆帝に3度会った。

今回訪中した主要な目的については、つまり国書を奉呈し、乾隆帝と交易問題について交渉するという、基本的に未だに開始されていない状態であった。

真面目な話、マカートニーの今回の熱河訪問は全く無駄足であった。

9月26日午後、マカートニー一行は北京へ戻った。

9月27日、マカートニーは清朝の役人が「客を追放」しようとしている嫌疑があることに気づいた。

「我々のガイドが我らの残りの用事を催促しているようで、また我々自身の観察と他人の情報をから、我々は此処で冬を越せないだろうと考えるようになった。」

9月28日、マカートニーは乾隆帝が二日後に帰京するので、マカートニーを含む朝廷関係者は19キロメートル先の郊外へ皇帝を迎えに出る通知を受けた。

9月31日、マカートニー一行は早朝4時に出発し、2時間後目的地に到着した。

この歓迎団体がどれくらい大きいかというと、マカートニーの記載には:

「我々の両側と対面には、数千名の役人、宮廷の衛兵、旗手、そのほかの宮廷官員が、「目の届く限り」の沿道数マイルに並んでいた。

間もなく、乾隆帝が到着した。歓迎儀式が終了後、マカートニーは北京へ戻った。

簡略な歓迎儀式であったが、乾隆帝はマカートニーへ心配の意思を表した。

彼が通過した時、我々は彼に挨拶をしたが、彼は私の体調が優れず、また寒い季節が近づいているのを知っていたので、円明園に止まらず、北京にすぐ帰るのが良いと言った。

乾隆帝のマカートニーに対する態度はまだ大変友好的であったと見て取れる。

10月1日、マカートニーは清朝の官員から、規定期限後はすぐさま退去するべきだという正式通知を受けた。

マカートニーは退去命令を聴くと、事態は微妙で自身の任務はまだ始まっていないと感じた。そこで再び和坤首相にもう一通の書信を書いた。

1、清朝が使節団の船が舟山で購買貿易を進行することを許可していただき感謝するが、此の貿易はマッキントッシュ船長の監督の下で完了する必要があるので、彼が舟山に行くことを清朝に再度要求する(和坤平藏最初の口頭での請求を含めて、これは三度目の請求となる)。

2、(マカートニー)自身は広州からイギリスへ戻る予定だが、出発は春節以後を希望する。

当日遅くに、和坤はこの書信に対して、マカートニーに明日早朝に円明園に会いに来るように返答した。

10月2日、マカートニーは早朝に円明園に到着した。

マカートニーが話す前に、和坤はこれらの書信は使節団に送るもので、その場で書信の内容を確認して欲しいと希望して、数通の書信を手渡した。

マカートニーは書信を読み終えると内容を取り纏めて報告した。

1、自身が乗って来た「ライオン号」船は舟山を離れる準備をしている。

2、贈り物を積載(せきさい)して来た「ヒンドスタン号」も、マッキントッシュ船長が合流するまで出発出来ない(マカートニーの請求した第一件と一致している)。

和坤は聞き終えると、「ライオン号」船はまだ舟山を離岸していないので、マカートニー一行は追い付いてこの船でイギリスに戻ることを希望すると表明した。これは明らかに帰国命令であると見て取れる。しかし見送りの態度は大変友好的であった。

和坤は更にマカートニー一行がすぐさま立ち去ることを希望する理由も述べた:

1、マカートニー一行は長い間家庭を離れているので、きっと故郷を懐かしみすぐさま帰りたいだろうと思う。

2、皇帝はマカートニー使節団の数名が中国の気候に適応できず亡くなっていることを知り、外国人は北京の厳しい寒さの天候の影響を簡単に受け易く、もしすぐさま立ち去らなければ、その後霜氷に出会えば更に不便であろうと思う。

3、マカートニーの書信中の新年の宴会と儀式は、基本的に熱河で見たものと差がないので、新年まで待つ必要はない。

マカートニーは聞くや否や、自身は北京の気候に適応しており、悪影響を防ぐ対策を取っていると返答した。

この時、マカートニーの旅は転機を迎えていたと見て取れる。

以前は毎日悠々と庭園を散策し清朝の官員とゆっくりよもやま話をしていた。今は朝廷の第一大臣から帰国命令を受けている。

文献からすれば、当時マカートニー一行を立ち去らせることは正常なことであった。これは清朝の一貫した政策である。それはまたマカートニー使節団も例外ではなかった。

例えば以下の記録もこの点を証明している。「朝貢使節は北京に40日を超えて逗留できない」(注:当時マカートニーは北京に来てからほぼ40日であった。)(朝貢使節は朝貢儀式終了後は、早々の退去を求め、理由なく止まることができない。」『清高宗実録』

乾隆帝の誕生日儀式を公開!マカートニー:皇帝どころか、明らかに「現人神」である


9月16日、マカートニーの使節団の副団長スタントンは城外に出て小さな地方へ遠足に出かけた。

日記によれば、マカートニーは既に二度乾隆帝と面会しており、自身が北京を離れる前に得た状況から、自身の使節団の人間は随意に外出できると推測していた。

しかし副団長が郊外の遠足から戻って纏めた報告の状況は、

「彼らの行動には多くの官員や兵士が追従し、これらの人は副団長らの行動に指図をすることはなかったものの、少し離れたところから彼らを監視していた。」とあった。

マカートニーは清朝の官員がこのような行動を取った原因には二つの理由があるのではないかと推測した。

1、清政府は常にほかの外国人に対して示してきた一種奇妙な嫉妬心によるもの。

2、我々の外面的な斬新さと服装の特殊性により、我々が無礼な好奇心に曝される可能性があり、彼らが責任を負わなければならない騒動を引き起こす可能性もあること。

二つ目の原因の可能性もあるが、一つ目の原因は、マカートニーはやはり西洋人の東洋人に対する傲慢な心理があり影響していたとしか言えない。

清朝の官員は、単純に保護と監視をするために兵士を派遣して追従させた。言うまでもなく保護をしなくて、あなた方が中国で何かあり、例え恐ることがなくても、清朝は面目を失うことを恐れていた。

9月17日は乾隆帝の誕生日である。当日マカートニーは早朝3時に起床し、王大人と周大人の付き添いで宮殿前のホールで待機した。

2時間余り経ってから、儀式は開始したが、日記に儀式はこのように記載している。

全ての高官と職員は礼服を身に着け、皇帝の亭子の前に立っていた。皇帝は顔を表すことなく屏風の後ろに隠れていた。

全員の目線は皇帝が座っているらしき玉座の方向に向けられていた。遠方から緩やかで荘厳な音楽と低い太鼓、深い鐘の音が聞こえてきた。突然音声が停止すると一切が安静となった。その後再びなり始め、中間で暫時停滞し、その間に幾人が帳幕の前後を行き来して、何か重要で劇的な場面を準備しているようであった。

最後に大型の楽隊のハーモニーと力強い演奏で、宮廷全体がすぐさま姿の見えない皇帝の前に平伏した。音楽は誕生日の祝歌やまたは国歌のようであり、そのリフレインの歌詞は「拝礼、地上の全ての民よ、偉大な乾隆帝の御前に頭を垂れよ、偉大な皇帝よ。」その後、我々以外のその場の中国人全員が、リフレインのたびに、その場に伏せて頭を額付いた。

儀式の後で、マカートニーは日記に自身の感想を書いている。

「古代でも現代の宗教でも、今朝の中国皇帝のように強烈な外部の崇拝と信仰を受けた神は嘗てなかった信じている。」

マカートニーの描写した儀式を読んで皆さんはどうであったろうか。

実際には、上記の儀礼は通常の操作であり、これは清朝の公式編纂の儀礼作法による。『欽定大清通礼』は皇帝誕生日の祝典式次を規定したものである。「万寿聖節、皇帝 太和殿に御す、王侯百官、外藩使臣は三跪九叩礼を行う。礼部 楽を奏し、鴻臚寺 表を宣ベ、群臣 賀を進む。礼なり、宴を乾清宮に賜い、文武百官 謝を叩(こう)す。

伴奏音楽や、群臣の啓礼に関しては、相応の規定がある。「万寿節、楽は『中和韶楽』を奏し、三跪九叩礼を行い、楽止みて礼成る。」『大清会典・礼部』。マカートニーはこういう礼儀に大変驚いたが、清朝の官員は皆何十回も参加しており、やはり習慣であったろう。

家庭門戸(あなたの最初の漢字教材-甲骨文)

古代の家屋は現在と同様に、南向きに建てて、換気と採光の便をはかった。家屋の南側には大小様々な入り口と窓があった。6,000年前の河南省仰韶では、家屋は比較的簡素で、窓も小さかった。当時調理や暖を取るには、猫目の人が屋内で火を起こした。家屋には煙突がなかった。部屋の窓を煙抜きに兼用したので家屋には煙突がなかったのである。そこで後にできた「窓」には洞穴を表す「穴」と煙突を表す「囱」の二文字の組み合わせでできている。ただし甲骨文の「窓」は「」と書き、最古の「窓」字は底のない陶器の缶(筒)でできていたことを表している。美観のために切り絵窓で美しく装飾した。方形に書いた「囧(ケイ)」字もある。この字の本来の意味も窓である。後のこの字はほぼ死語となったが、古文書では『三国志演義』に一度だけ出現しており、蜀の名将姜維の父親の名を姜囧というlウェブ上でこの字が、四角い顔で八の字の眉、しまりのない口で、「困窘(=困惑)」しているキャラクターのように可笑しいことを発見して、都合よく「窘(困惑)」の意味に使われた。

「門」と「戸」を併置すると、簡単に「富豪な豪族」と「貧凡な家庭」に多大な区別があることがわかる。実際甲骨文の「門」は室内と外界とを分離しているが、空気の疎通(そつう)を妨げるものではない。アメリカの西部劇派では逆具が大変な剣幕でバーの両開きの戸を蹴破って入って来て、英雄に挑戦している。すると無敵の英雄は神業の腕前でリボルバーを打ち放つと、ギャングらは腰を抜かして打ち負かされるのである。

「門」と「戸」は元々門のイメージであり、軸のある一枚の木板で、門の片側である。それは富豪の大門ではなく、一般人民の出入り口の一枚戸である。

金持ちの大門には出入りに両開きの門板があり、一般人の小門は一枚扉であるので、つまりがいわゆる「一家一戸」「各世帯」なのである。陝西省北部の民謡には鮮明な「二月里来るや風光好く、家家戸戸田を種えるに忙し。指し望むは今年の収成好く、多く些(いささ)か五穀に公糧を交ぜ打たん。」がある。

「闔」字は一家を表し、篆書は「閤」と書き、「門戸」と「合并」との組み合わせで、この文字の用途は、つまり祝福に用いる、新年の挨拶で、「家を闔(あげ)て歓楽、心に事成を想う」の一つのみである。

「扇」の篆書「扇」は小さな扉「戸」と羽毛「羽」との構成であり、本来古代人が羽毛や草花で自宅の門扉装飾したことを指して。なぜ門を一扇、一扇と数えるのか。扇の中に「羽」が入るのか。それは誰もが忙しすぎるからである。日中は誰もが出入りして、門扉を開けては閉じ、閉じては開けるので、まるで羽の生えた翼で飛び回るようであったからである。炎熱の夏にはしばしば作物が枯れそうになる。農民はやきもきするが、金持ちは無関心であった。『水滸伝』の詩には「赤日炎炎として火焼に似たり、野田の禾稲 半ば枯焦す。農夫心内 湯の煮えるが如く、公子王孫は扇を把(と)りて揺(くら)す。」と描写している。夏に扇子を仰ぐ動作は、開け閉じされる門扉のようでもある。王孫貴族が炎熱の夏日に涼を取るための道具を「扇子」という。

甲骨文の「門」字は殷商時代後期の家屋建築の門の構造を反映している。その構造は現在の門と相似しており、数千年間対して変化していない。しかし、甲骨文と金文に描写された「門」は人類最初の門ではない。人類の歴史上最初に設計された門は、原始人が居住した洞穴に開鑿した出入り口であり、「柴扉」という竹木藤蔓などを使って編み込んで風雨を防ぎ野獣の襲撃から守った門扉である。篆書の「扉」は「戸」と「非」との構成であり、「非」は否定を表し、「ぶざま」「つまらない」という意味である。造字の本義は、庭への入り口にある柴木を編み込んで作った一枚の扉である。

建築水準の向上に従って、古代人の入り口に対する設計はさらに科学的、実用的、美観的となり、門の形式も次第に多種多様となってきた。その後中国の大型建築の大門は一個の洞門には止まらなくなってきた。天安門は首都北京の象徴であり、五つの洞門があるが、中間の洞門は皇帝ただ一人の通行のみに提供されたものである。そして天の祭祀、捕虜の献上、本婚礼、葬送などの重要な典礼にのみ開かれた。中間のこの両扉の大門は「儀門」という象徴的な名が付けられている。つまり重要な儀式にだけ使用されるもので、日常生活には横側の出入り口しか使用されなかった。

皇城であろうと農家であろうと、出入り口の大小は異なるが、構造は基本的に同じである。こういう玄関の構造は実は単純なものでその周囲は堅牢な木製の門框(かまち=フレーム)でできている。四角の門框は真っ直ぐな角材でできており、中国では「榫卯(しゅんぼう)」構造と言い、職人用語では「嵌め込む(ほぞ継)」という。門框の上端には門軸をはめる丸い穴の軸受けがある。門軸の長さは門とほぼ同じであり、上部は上部の框の軸受けに差し込み、下部は石製の門墩(もんどん)の凹穴に嵌め込む。こういう構造は大変簡単で実用的であり、金属部品を必要とせず、取り付けと分解が大変簡単である。門扉を取り付ける時は、最初に軸上の突起を上部の門框の軸受けに嵌め込み、その後重力によって門扉の突起部分を門墩の凹穴へ落下させれば好いだけで、驚くほど簡単である。

皇城の大門は十メートル近い広さがあり、木板を切り出して一枚扉を作れるような大樹は世界的にもないものである。そこで木製門扉の一枚は現在の組木の床板のように、多くの木板を継ぎ合わせたものでできている。まず大樹を切り出して木板を作り、その両側を段状に作り、その後組み合わせて継ぎ目に穴をあけリベットで繋ぎ合わせて一体とし、一枚の大きな扉を作るのである。