フレンドリー山東(威海李君)

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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衣物の裁断と加工

フレンドリー山東(威海李君)


「巾」は、甲骨文  「巾」では   帯で吊るされた垂れ下がった布   を表しており、造字の本義は布帛で作られた飾り物を指します。金文   、篆書   は甲骨文の字形を継承している。

「布」は、金文「布」では上部に「父」があり、石斧を持つ男性を指し、下部には「巾」があり、現在のエプロンのような麻布を示しています。造字の本業は、古代の田舎で働く男性が衣服を身に着けず、下半身をかろうじて覆う麻布を持っていたことです。この麻布は「祓(ふ)」と呼ばれました。

「犮」は、甲骨文「犮」では「」の足に引き続く一撇の指事記号があり、造字の本業は、猟犬が主人に追いつく様子を示します。単独の字として使用される場合、篆書では「跋」という字が「犮」に「足」を加えて再構成され、急いで歩くことを表します。

現代の人々が着用するエプロンは、古代の「市(フツ)」又は「蔽膝」と呼ばれるものから進化しました。「市」の字は最初に金文で現れ出「市」と表され、麻類の樹皮を剥がし、その繊維で巾を作ることを示しています。肺(ひ)の読みは、この「市」から来ています。篆書の「肺」は、「肉」と「市」で構成され、前者は意味を持ち、後者は音を表します。秦代から、隷書では「肺」の篆書の「」を「市」と書きました。ここで特に注意すべき点は、「市」と「城市」の「市」の字形が非常に似ているが、読みや意味には何の関連もないことです。

「市」は、金文「市」では歩行して特定の場所に到達する「止」と、商人が呼びかけて客を呼び込む「兮」からなり、造字の本義は商品や貨幣を持って市場に行って売買することを意味します。篆書「市」では金文字形の「兮」が「」に誤って書かれており、字形が複雑で理解しにくくなっています。隷書「市」では、「市」の形が大きく変形し、「止」と「兮」の「売りに行く」の意味が完全に失われています。

古代の「市(フツ)」字はいったい何であろうか。実は帯に使われた「巾=(布)」であった。『説文解字・市部』に、「市は韠(ヒツ)なり。上古の衣は前を蔽うのみ、巾に従い,帯に連なるの形に象る。」。許慎は更に「韠」の小篆「韍」は「紱」と言う。これより「市」「韍」「紱」の三文字は古今の文字であり、その中でも「市」の出現が最古であり、「韍」字がこれに次いで、「紱」字が最も後である。表す意味は、衣服の発明以前の祖先が腰に巻いていた目隠しであった。獣の皮片や、藁草を四角に編み込んだもので上部に麻紐や皮で作ったベルトを使って腰に留めたものである。桑と麻の発見後は、四角の生地がシルクや麻布に変わった。『礼記・玉藻』に「韠は下広二尺、上広一尺、長三尺。」。


考古学者の考証では、「紱」は最初の衣服であり、遠古未開時代の初期人民に由来する。サルの四本歩行から進化して直立歩行となってから、生殖器の位置は後ろ側から身体中央の高い位置に移って露わになってしまった。男性にとっては獲物を追って走り回る時、いばらの生える原生林や灌木の中を通り抜ければならず、露出した生殖器官はいつも傷つく危険性があった。そこで賢い人類は、獣皮や網草でこの部分を包み込み紐で腰に固定すると言う方法を思いついたが、これが原始的な「紱」であった。

社会学的な角度からは、こういう初期の「紱」の効果は、目隠しの布から、異性を惹きつける「綬帯(勲章のリボン)」へと奇妙な変化を遂げた。原始部落では、誰もが衣服を着けておらず、裸体も人々にとっては当然のものともいられていた。その時、男であれ女であれ体の敏感な部分に美しい毛皮や絢爛豪華な羽毛、又は目にも鮮やかな生花や青々とした木の葉を付けて突然現れたら、誰もが注目するであろう。この取るに足らない目隠しが、吸引力の刺激を豊富に生み出して、又誰もがこれを見習った。こういう皮革や編み草の「紱」が、つまり後世の衣服の祖先である。「紱」の創造は、古代最初のファッションの流行をもたらした。ファッションが流行し始めると、誰もが恥を知り丸裸では出掛けなくなった。

階級社会に入ると、「紱」の使用は広範となり、当地階級の礼装品となり、また礼服に襷(たすき)掛けする勲章のリボンとなった。『説文解字』に、勲章リボンの色には階級があり「市」は、「天子は朱市、諸侯は赤市、大夫は葱衡なり」という。その意味は、古代の祭祀や重要な儀式では、天子は濃赤の紱、諸侯は薄紅の紱、士大夫は青色の紱を身に付けたこと。このことから「紱」は統治者達の階級の上下を象徴するものに発展している。

「紱」には帯が付いていたので、漢代になると「紱」字には「官印についた帯紐」、つまり印綬(いんじゅ)を指す意味に拡張された。『漢書・匈奴伝』には、漢朝と匈奴は百年以上の戦争を継続し、最終的に匈奴が破れて南北に分断した。北匈奴はヨーロッパへ遁走し、南匈奴は中国へ降伏した。そこで「漢皇は単于に金印と綬帯を授与したのである。現代人の目にはエプロンは目立たないキッチン用品でしかないが、こういう「前を蔽(おお)うだけ」の「紱」は明らかに身に着ける衣服としては使えない。しかし古中国語学者は「紱」と「蔽」の古音はほぼ同じであり、二者同源の意味の文字と考えている。甲骨文では「蔽」の本字は「敝」である。

中国の祖先は鍋鼎を破壊することを「敗」と言い、シルクを引き裂くことを「敝」と言った。

「敝」の甲骨文は「」と書き、つまり「布」の上部にシルクを裂いて残った破片を二点の指示記号として加えた。文面からは、誰かが何かてシルクを引き裂いたように見える。

この奇妙な「敝」字は、古い洗濯方法を想起させる。農村の小川には澄んだ水と青い空がある。婦人達は大きな木のたらいを持ち出し、衣服を川原に運び、平滑な青石に置いた。彼女らはまず何度も河水に晒して、その後濡れた衣服丸めて、木槌(きづち)で強く砧(きぬた)打ちした。こうしてみると、「敝」字の右側の「攵」の本義は理解しやすい。そして左側の「巾」は当然古代人の衣服である。しからば布に付けられた両点とは何であろう。あるいは砧打ちする時に飛び散る水飛沫(しぶき)であると解釈するが、造字の本義からすれば、衣服から切れて落ちた糸と解釈したほうが良いようである。

古代には石鹸も洗剤もなかった。衣服の汚れを取るには砧打ちするしかなかった。経験のない女子は不用心に衣服を叩いて傷つけてしまうこともあった。獣の皮は大変丈夫でも、叩きすぎて表面の毛が抜けると、「裘(皮衣)から「革」になってしまう。しかし草織りの裳裾を叩き壊すことは冗談ではなく、慎重にしてきた砧打ちも一瞬で枯草の山となる。そういう時は、大人は彼女に「なんて木偶の棒なの。」と叱りつける。

しかし、最初の衣料用皮革はこの無心の「砧打ち」によってできたものかもしれない。なぜかと言えば、次の衣服に関係する文字を見れば理解できる。

文字の変化の法則では、現代人が言う所の「衣服」とは、当然「衣紱」と書かれたはずであろう。いつから「紱」字が弾き出されたのか分からないが、人々は「服」字を俗用するルールを定めた。実際に甲骨文の   、「服」は、方形の枷木  「凡」と懲罰で苦役する罪   「人」、逮捕する動作  「又」との構成で、大変殺気満々の意味がある。「服」の造字の本義は、戦争捕虜や犯罪者に強制的に枷を掛けること。金文の   「服」は甲骨文の字形を継承している。ある金文の  「服」は基本的に金文の字形を継承し、  を    と書いている。篆書の    は金文字形    を継承し、金文の   「人」を   と書いて、    を   と書いている。隷書の   「服」は篆書の   「舟」を誤って   「月」と書き、字形の面目は全く変わってしまった。

最初の生地は毛皮である。歴史学者の考証では60,000年前にアフリカに住んでいたブッシュマン(サン人とも言う)獣皮で作った「紱」穿いていた。世界最初の骨針は中国の山頂洞人のものである。つまり、18,000年前に、北京の山頂洞人が骨針で毛皮の上着を縫い始めたことを意味する。

「求」の本字は「裘」であり、甲骨文は   に作り「表」と通用した。   衣服を象るの外側は   獣毛を着けている。造字の本義は、獣皮で作った保温する上着である。

裘皮のコートは外側掛けで内側は皮革である。ある貴族が野外で皮衣をひっくり返して毛を内側に皮を表にして柴を担いでいる農夫を見かけて、大変驚きどうしてそのようにするのか尋ねた。農夫は「柴木が大変硬いので、薪の束が毛皮の毛を傷つけるから。」と答えた。貴族は彼に「バカだね、皮が無くなったら、毛も残らないだろう。」と責めた。毛皮は毛を表に向けるのが常識なので、毛皮も「表」字を用いるが、「表」字は「外部、外面」を表し、「表面」「外面」「表裏一体」などの意味を表す。

「表」字の甲骨文も   であり、本意は皮衣の表面の毛である。「表」と関係する歴史的有名人には、まず三国時代の荊州の劉表が真っ先に挙げられる。後漢末には群雄が覇権を争ったが、劉表は荊州六郡を占拠し、千里四方、雄兵十万を割拠し、本来活躍したかもしれない。しかし劉とその子劉琮は有名無実の凡人であった。劉表父子は中原に進軍する勇気もなく、又国家を保持する能力もなく、一心に当地の皇帝であると思い込んでいたが、曹操からは番犬と嘲笑されていた。曹操は更に「豚犬の劉表ではなく、孫権のような子を産むべきである。」とまで言っている。

殷商後期には「表」と「裘」は分離して、   は「表」字専用となった。動物の毛皮背作った上着には、新しく「裘」があり、晩期の甲骨文の字形   は、   「衣」と   「鹿」との構成で、本来鹿皮で作った高級革着であったが後には動物の毛皮で作った皮衣で作った皮衣を広く指すようになった。篆書   、隷書   は 甲骨文の字形を継承している。

「襲」の甲骨文「襲」は、手に戈、斧などの武器を持ち、袖に武器を隠して目標に近づき、不意に攻撃することを表している。先秦時代の古代人の衣服の袖は長く幅広であり、刀や錐などの暗器(隠し武器)を隠すことができた。造字の本義は、袖に武器を隠して、敵の不備を狙って、至近距離から攻撃すること。金文の「襲」は甲骨文の字形の手に武器を持つ形象を、「龍」に似て「龍」に非る「」、又「衣」に似て「」ではない「」と書いて、「襲」の「袖中に刀を隠す」の意義を強調している。

裘皮(毛皮)のコートは素晴らしいが、夏場は熱すぎて着ていられないという問題がある。チベット高原に生活するチベット族の伝統服は皮の着物であり、一年中着用している。天候が寒い時は、腕を両袖に通し、温かい時は片袖を脱ぎ、暑くなると上半身裸になる。ただしチベット高原の平均海抜は4,000メートル以上であり、夏場でも最高気温は28℃には達さない。帰って海抜の低い平原地帯では、夏場の気温が大変高く、毛のある皮衣は根本的に着ることができないので別の方法を考えなければならなかった。そうでなければ死ぬほど熱くなった。

ホジェン(赫哲)族は黒龍江とウスリー河の合流点の同江県と撫遠県に生活しており、中国でも人口が最小の総人口僅か4,200人の少数民族である。ホジェン族は中国で唯一の漁撈で生活する少数民族である。ホジェン族は魚肉を主食とし、身につける衣服も大半は魚の皮で作っている。嘗ては、黒龍江とウスリー河の魚類は大変豊富で、レンギョ、コイ、ソウギョ、秋シャケ、アムールイトウがたくさんいた。皮を剥いで衣服にするものは全て数10キログラムの大魚であった。ホジェン人は大魚を捕らえると、初めに皮を剥いで陰干し、その後鱗(うろこ)を取り除き、皮の下に溝のある砧を敷いて、木槌で繰り返して打ち叩き、魚皮を強靭で柔軟な「なめし皮)とした。なめした魚皮は模様を考えた大幅の魚皮として接続し、衣服の材料とした。魚皮を縫い取る糸は、太ったコクレンの皮を細長く立ち切り、なめしてからカワカワマチの油を塗り、強靭にして乾燥によるひび割れを防いだ。それを丸めて細麺のように糸として、縫い糸とした。ホジェン族の魚皮服は、コート、ズボン、ショール、ラップオーバースカート、帽子、手袋など多くの形式があった。

「克」の字形   、 、 は皮を剥いだ後の丸裸の小動物の形象である。「皮」の甲骨文字形    は  ➕  ➕  「皮」の金文字形   「皮」は「克」と「又」殿構成であり、篆書の   、 、 「克」は金文のものを捕らえる「又」がその動作をする「人」に変化し、皮を剥ぐ作業する人物を強調している、隷化の楷書の  「皮」は「人」形が消失し、「又」字が残っている。『説文解字』は「獣皮を剥ぎ取る者、之れを皮と謂う」と言う。

「革」は動物の皮から毛を取り除いたものである。金文「革」の「」は「皮」が変形した書き方である。皮の両側の「両手」は両手で獣皮の毛を表している。大篆書の「革」は金文の上部の「口」を「廿」に書いている。篆書「」は変形して大篆書の両手は「口」を連写している。

中国最古の紡績品の実物は、4,700年前のシルクであった。紡績品は大変腐いことから、古代に紡績技術を発明した年代は更に昔であったろう。浙江余姚の河姆渡遺跡では原始的な紡績機器の部品を発見している。これより推断できることは、7,000年余り前に、人々はもう麻布の衣服を着始めていた。

「織」の金文「織」は「戠」と「糸」との構成であり、「戠」は標識の意味の「織」の略字である。造字の本義は、布を織る時に色の付いて絹糸で標識を付けることである。『説文解字』に、織は布帛を作るの総名なり(織物の総称である)。

「巠」は「經(経)」の本字である。初期の金文「巠」は織機にある三本(多数)の縦方向の糸(経糸)を象り、糸を引っ張る工具である。造字の本義は、けん引された糸に緯糸(横糸)を通して固定すること、つまり紡績である。後に「巠」が文字の傍となると、金文の「經」には「糸」が加えられ新たに「經」字を作り代替した。『説文解字』に、「經は、織るなり。」と言う。南北朝時代の劉勰(りゅうきょう)は『文心雕龍』での解釈は「経正しくて後に緯成る(縦糸を正しく張ってから横糸を通すことができる「。」である。

「経」の本義は、上下に糸を通して紡績すること。この造字のインスピレーション(ひらめき)は、河姆渡文化時代に使われていた機織り機に由来する。こういう織機は、現在「原始腰機織機」と呼び、片方を足先にかけ、片方を腰の上に掛けている。有名な中国科学技術史家で、ロンドン王立学会会員のジョゼフ・ニーダム博士はその著作『中国科学技術史』で、「中国人は織物の道具に、機(はた)という最良な名称を付けた。これにより機転、巧妙、激動敏捷と同義の言葉となった。」と言っている。

「緯」の篆書「緯」は「糸」と市街を繞(めぐ)り進む「韋」との構成である。造字の本義は、織機に絹糸を一本一本横向きに固定することを喩える。隷書の「緯」は篆書の「糸」を「」と書いている。『説文解字』に、緯は、横糸を織るなり。地理学における「経緯」とは、地図上の表示ラインである。前漢の『大戴礼記・易本命』に、「凡そ地は東西を緯と為し、南北を経と為す」と規定しているが、この規定は現在と同じである。異なる部分は、現代の地図は「北が上南が下」であるが。

古代人にとって、織物の過程で、緯糸は杼(おさ)の留まることのない左右移動に従う。時間の経緯につれ、眼前の経糸(たていと)は次第に短くなってゆく。経糸には一種の「不変性」があり、人々は「複雑に入り込み、変化を続ける世界で、ある種時を経ても変わらないもの」という抽象的な意味を表す時に、自然と織物の経糸を連想であろう。こういう不変のものは、抽象的な「規律」や「典型」の意味にも拡大している。そこで「経」字は現代中国語でも十指に数えても問題ないほど広範に使われる文字となった。

「経」字の用法は多く、現実生活であらゆるところで実に切り離すことができない。

よく見られる用法の第一は、経過、経歴、経費、経験、久しきを経て衰えず(永続)、経年累月(長い間)、漫不經心(無頓着)などのように、行く、運行、通過の意味がある。」

第二に、「経」字には例えば経済、経理、経手(取り扱う)、経銷商(代理店)、経紀人(仲介人)や、更に経天緯地(天地を治める)、経文緯武(文武で治世する)のように、「人為的に物事の動きを促進する」、ついで「経営」「管理」の意味がある。曹丕の『典論・論文』には「文章,經国之大業,不朽之盛事。」。

第三に、「経」は、例えば、経常、経典、経書、経文、生意経(ビジネス指南)、経史子集(漢籍分類法)、名を経伝に見ず(名も無き人)など、検査済みで、信頼できる規則、真理である。後漢の歴史家班固の『白虎通・五経』は「五経とは何をか謂うか、易、尚書、詩、礼、春秋を謂うなり。」という。唐の柳宗元『断刑論』に、「経也とは、常なり。権也とは、経に達するものなり。」

第四に、漢方の理論では、人体で縦方向に運行する気血の通を「経」、横方向の運行する気血の通を「絡」と考えている。漢方の「経絡」はツボと脈略との構成であり、現代医学の「血管」と「神経」に相当する。

絹織物が発明された当時、大変貴重で十分に稀覯な物品であった。最初人々は衣服にすることはできずに、祖先や天帝を供養するための貴重な祭礼品とした。

この時期、俗に「仏は金装を要し、人は衣装を要す」というように、貧富の差は顕著となった。貧富の差は、衣装を見れば一目瞭然であった。「裘(皮衣)は金持ちの冬服で、裘を作る毛皮は、キツネ、イヌ、ヒツジ、シカ、テン、ウサギなど多種である。仲でもキツネとテンの毛皮は最高で、いわゆる「五花の馬、千金の裘」は高官貴族の贅沢品である。キツネの毛皮に比べて、シカやヒツジの毛皮は品質が劣る。しかしこのような毛皮も一般人民には享受することは叶わなかった。古代の人は雪ぎつねの脇の下の毛皮が最も軽く温かいと考えていて、熟語の「腋を集めて裘と成す(塵も積もれば山となる)」は、つまり何百何千ものキツネの脇の毛皮を集めて、ようやく大変貴重な白裘のコートができるということである。

『周礼・考工記』には、周朝時代の皮革なめしの名人は「鮑人」というであった。皮革は貴重な贅沢品であるため、その工芸は大変厳格であった。毛皮の遠くから見た外観は、白い茅や、芦の穗のように白くなければならなかった。手荷物と大変滑らかなこと。斜めにならずしっかり綺麗に巻けること。皮と皮との繋ぎ目は薄く狭いこと。縫い目は細かく目立たないこと。毛皮の中でも白く柔らかく軽く、洗浄は長時間水につけてはならず速やかにする。皮の質を強靭、滑らか、弾力のあるものにするために、皮革に油脂を厚く塗り込み、引き延ばして張ることが必要である。もし皮革の表面が平らであれば、材料の筋目が正しいことを意味するが、もし上して歪んで真っ直ぐでない場合は、引く時の力が片側が強く片側が緩く偏っているからである。もしこのような状況になった場合は、その皮革を断ち切る時に、強く張っている方から先に敗れてしまう。もし強く張った側が破れてしまうと、幅を広く取れなくなってしまう。皮革は曲がらないようしっかりと巻き取る。皮革の縫い合わせが薄く狭いことを見れば、皮革が伸縮変形しておらず、皮革の縫い合わせが隠れて見えなければ、皮革の縫い合わせが隠れて見えなければ、皮革が破れて縫い合わせは損傷おらず、厚さが均等である。

一般人民は、冬場には「褐」というものを着て防寒する。「褐」という衣料は粗悪な麻製品で、この原料で縫った衣服は温かくも美しくもない、陶渊明は『五柳先生伝』で官職を捨ててからの貧困を「短褐穿結して箪瓢 屡々空しけれども晏如たり」という。「短褐」は破れを繕ったような粗悪な麻布で作った上着である。

夏になっても、貧乏人はその見窄(みすぼ)らしい「褐」のままであったが、裕福な人は華麗なシルクの長袍(中国服)を着た。この長袍、短褐とはいったいどんなものであろうか。『山海経』には「貫胸国」の物語がある。4,000年前に、江南の太湖流域に「貫胸国」の原始部族があった。この部族は大禹の敵でありあ、大軍が長江を浚渫した中央平原の治水を阻止した。伝説では当時の部族の首領は「防風氏」と言い、身長六丈(20メートル)で、強力な巨人であった。大禹の軍隊は防風氏を打ち破れなかったので、部族集会を理由として誘い出して防風氏を殺害した。防風氏が死後、部族民は恐れ慄き(おののき)集団自殺をした。彼らは長鉾で自身の胸を刺し貫いたが死ぬことはなかった。そのためこの部族の首長が出かける時は、車にも輿にも乗らず、木の棒で胸を通して人に担がれて運ばれていった。

後世歴史考証家は、「貫胸」とは長鉾で心臓を突き抜くことではなく、古代の衣服を裁断する方法であると言った。これは七尺ばかりの大きな布地の中間に大きな椀を伏せて、鍋底の煤を付けた棒で円を描き、はさみに大きな穴を開け衣服を完成するという手抜きな方法である。服を着る時は、大きな布地に頭を通して、幅広のベルトで腰をしめるだけで、大手を振るって出かけられた。

篆書の「帯」の上部には「」形の記号は、帯鈎「」内の一筋の縄や皮革を象り、下部は重ね着した長袍を象る。造字の本義は、腰に付ける袴を結ぶ腰布である。『説文解字』に、帯は、紳なり。男子は鞶帯、婦人は帯絲(幅広の革べると。男子は皮のベルトであり、女子はシルクの紐である。)。

「常」は、篆書の常は「尚」と「巾」との構成であり、「尚」の本義は尚高であり、流行している高級な衣服である。後に長久、普遍的な論理道徳を表す「三綱五常(君臣・父子・夫婦と仁・義・礼・智・信の道徳」や「長時間、持続的」を描述する有常常(いつも)、常年、常来常住(交際する)、四季常青(年中青々としている)、「不変的、一般的」を形容する常識、常体、常数のような代名詞となった。『荀子・天論』に「天行常有り、堯の為に存せず、桀の為に亡びず」というのは、日が昇り月が沈み、四季は循環するという、こういう客観的な自然の法則は悪人の存在で変化を発生することがないことを指している。

衣装と連用するのは、『詩経・曹風・蜉蝣』の「蜉蝣(ふゆう=かげろうの羽は、衣裳楚楚たり」に出ている。「楚楚」とは鮮明な様子である。「衣冠楚楚」は衣服を美しく来ていることの形容である。古代人はカゲロウの寿命は儚く(はかなく)、朝に生まれ暮に死す、朝に生まれたばかりなのに、夜には死んでしまうことを知っていた。カイコガと同様にかげろうの一生は、後世を産み落としてその後死んでしまうというただ一つの任務しかない。カゲロウとカイコガが全く異なる点はカゲロウが「衣冠楚楚」たる美しい美しい昆虫であることである。しかしカイコガの子孫は、人類の助けとなるために自身を犠牲とした。

カイコガの犠牲精神は受動的であるが、偉大な母親の子供に対する愛には私心が全くなく、完全に自発的なものである。孟郊の「游子の吟』は母性愛讃歌である。「慈母 手中の線、遊子 身上の衣。行に臨んで密密に縫い、意は恐る、遅遅として帰らんことを。誰か言う寸草の心、三春の暉(かがや)きに報い得んと。」。この詩は、人類最大の感情を詠ったものである。自然体には華麗な修辞もなく、修飾に苦心することもなく、機織や縫物のように新鮮で流暢であり素朴で自然である。千百年来、この詩の真撃な気持ちは人の心を強く打ち、数え切れない読者の心の琴線を弾き、万千の他郷人の強い共感を引き起こしてきた。

1971年に長沙の馬王堆漢墓の発掘は、世界の考古学史上の重大事件であり世界的なセンセーショナルを引き起こした。この墓の主は、前漢長沙国の宰相馱侯利倉であり、その妻の侯爵夫人辛追である。

前漢開国の当初、漢の高祖劉邦は7、8人の姓の異なるの諸侯王に国土を与えた。劉邦は国土を安定してから、当初共に戦った古い兄弟が目障りとなったので、そこで楚王韓信、梁王彭越、九江王英布を殺し、趙王張敖、燕王盧綰を廃して、実力のないものをないもの長沙王吳芮を残したが、皇帝はそれでも安心できなかった。解決する方法は、自身の腹心をその国の宰相として派遣し、財政、食料、兵馬などの軍事機関の重大な事を担当させ、国王の実権を空洞化して、国王が皇帝の椅子に座りたくおう尻がうずうずしないように、豚のように飼いならした。この馱侯利倉は皇帝の腹心であり、長沙国の実力者であった。地位は顕著で権力は強大であったので、利倉と辛追の墓室には、金器、玉器、漆器、シルク、絹本絵画、医書など大量の豪華な副葬品があった。漢墓の風土は完璧で、外郭と内棺全く破損しておらず、周囲は木炭と生石灰で密封されていた。墓室を開いた時、考古学者は食品を保存した陶鍋に食べ終わっていないレンコン片を発見している。しかし当時の文化財の保存技術は貧弱であり、白色であったレンコン片は空気に触れると、急速に酸化して塵灰となり、烏有に帰した(消滅した)。

中国の大地には嘗て数えきれないほどの帝王や宰相がいて、彼らの金銀玉帛の類の副葬品は貴重品ではあるが、特に珍しいものではない。馬王堆漢墓で最も貴重な出土遺物は馱侯夫人辛追の遺体であった。古墓を発掘した当時、馱侯夫人辛追の保存は相当に良好で、皮膚や器官組織は弾力に富んでいた。医師が遺体を検査した所、彼女の血液型はO型であり、生前には軽い動脈硬化や胆嚢炎と血吸虫病があり、更に肺結核の後遺証があった。

数え切れない華麗な芸術品や生活必需品、古代の食品では、シルクが最も美しかった。考古学者はこの墓から、赤や青、黄、紫檀、朱などの各種の彩のシルクを発見した。また手縫いのシルクの靴下や、錦織の靴や表面に細かい刺繍を施した手袋があった。15着のシルクの服には、「曲裾深衣」という11着の錦織の上掛けが含まれる。この服は大変長く、幅広の膝まである袖と、医装の衿や裾には幅広の縁取りがある。右前の衽(おくみ)で長い袖がついており、腰の部分に柔軟なシルクの帯があり玉石のバックルを使って固定する。

この菱紋羅織のシルクの着物は最も優雅で、細肥の線で明暗の混じる菱型の模様を構成し、菱囲いは密接に連係して、図柄は明晰秀麗であり、清楚で大胆である。菱紋羅には変形した尾鳥長を繊細で流暢な運針で刺繍を満たしており、漢代一級の刺繍である。

馬王堆漢墓から出土した最も貴重な遺物は、この精美な遺物ではなく、質素な素紗禅(蟬、単)衣である。このシルクは夏服の特徴は、衣服全重量が僅か49グラムと大変軽いことである。2,100年後の今日でも、このような軽く柔らかい紗織のシルクを織ることはできない。

この出土遺物のような衣服を元に中国の先人達は「衣」字を創造した。

古代人は天地開闢して、人類が誕生した時を「元」と言った。家族繁栄の淵源となった女性祖先を「始」と言った。原始時代の人々が獣皮を使って恥部を隠して温かくしたことを「初」と言った。

「初」の甲骨文   、 、「初」と金文の字形   は同じであり、衣装   「衣」を着た    「人」である。造字の本義は、人類が初めて衣服を作って暖を取り始めた最初の時代の事である。篆書の   「初」は金文の   「人」を   「刀」と書いている。隷化楷書   は篆書の字形を継承している。

「衣」の甲骨文の字形は   であり、人物の首や肩、臀部   にフィットしている服装   を象る。金文の   、篆書の   「衣」は本来の字形と基本的に同様である。隷書の   、 は篆書の字形を継承している。『説文解字』に、衣は、依なり、上を衣と曰い、下を裳と曰う。二人を覆の形を象る(衣は、人々が人を覆うために頼るものである。上半身に着けるものを「衣」と言い、下半身に着けるものを「裳」と言う。「衣」の字形は、「人」が二人の「人」字を被さっている形である(説文では衣を分解すると众に見えることの解釈である=訳者注)

「衣」は、襟懷(胸中)、依偎(イエ、打ち解ける)つまり依ることを表す。甲骨文の  「依」は父母が乳児   を衣服   の胸の中に包むことを象る。造字の本義は、幼児が父母の懐に抱かれること。金文の   、篆書の   「衣」は内外の構造を左右構造にしている。隷書の   「依」は篆書の   「衣」が連画して  「衣」と書いている。

「裕」の金文「」と書き、「衣」と「谷(穀)」との構成であり、衣服がありまた食物があるので、この「裕」字は衣食足ることを表す。

殷商時代から民国時代まで3,000年もの間、中国人はこの形式で衣服を縫製した。労働者や農民などに肉体労働者は、農民などの体力労働者は短い肌着に膝までの上着、袋になった腰紐のある猿股を穿いていた。官吏や文人は長い中国服で足元まである衣装を着け、この3,000年間に教育は普及せず、学習は富裕層の特権であった。格好を付けるために、中国服の袖は次第に長く幅広となった。宋代や明代となると、幅広の大袖はこれ以上長くできないほど、地面に着くほどであった。

1644年、李自成が始動した農民反乱軍が北京を攻め落として明朝を転覆させた。同年清兵が山海関に進入して清朝を建国した。清政府は全国で「剃髮易服」を遂行し、漢民族の男子に前髪を剃り落とし後頭部に辮髪を残すことを強要した。また満州族の服装に改め、役人は赤い紐の帽子を被り、馬蹄袖(筒袖)を付け、官服の前後の「縫い目」には、事務官は「飛鳥」、武将には「走獣」を描いたが、明朝に仕えた漢族は清兵への投降し、清朝の官服に着替えた旧明朝の官吏を「衣冠禽獣(禽獣を着る)と揶揄した。」

「巾」と関連する日用品で、最も有名なものは綺麗に掃除する時の「掃帚(ほうき)」である。

「帚」の甲骨文「帚」は芦の穂(ほ)を縄で縛って作った掃除道具である。金文の「帚」は「」を加えて締め括りを強調している。篆書の「帚」は「」と「」との構成で、「」は上下逆に書いた「丰」、つまり「慧」は手に「篲箒(すいそう、ほうき)」を持ち地面を掃除することである。「帚」が名詞となってからは、「手」を加えて新たに「掃」字を作り代替した。『説文解字』に、帚は、糞する以(ゆえん)なり、又の巾を持するに從ふ。古(いにし)え少康、初めて箕帚秫酒(きそうじゅつしゅ)を作る。少康は杜康なり。長垣に葬る(帚は、ごみを掃除すること。字形は「又、巾、冂」の会意を採用し、手に布巾を持ち「冂(かまど)」内の灰を掃除すること。大禹の後世少康は、箕、帚、秫酒(高粱酒)。少康はつまり学説では河南の長垣に葬られた杜康である。)

『史記・夏本紀』には、杜秉は大禹の五代目の子孫である。大禹の子は啓、啓の子は太康。太康の子は相、相に子が少康である。この五世代が活躍したのはおよそ紀元前2070年〜前1750年である。

紀元前2070年に、大禹は晉陝峽谷の龍門要害を開削して、黄河の龍門、潼関、孟津、浚県に堆積した河道を疎通させた。北魏の地理学者酈道元の『水経注』には、浚県から華北平原に流入した黄河は九本の河道別れ東海へ流入したので、「九河」と言う。それは,徒駭、馬頰、太史、覆釜、胡蘇、簡河、潔河、句盤、鬲津に分別される。これより黄河は比較的固定され、あちこちで氾濫することは無くなった。

天地開闢以来、古代の風は遥か内陸から塵土を黄土高原に運搬し、燦爛たる中華文明の塔を最高の舞台に打ち立ててきた。しかし黄土の顆粒は大変細かく流失しやすかった。水流があれば、地面に深い流路を作ってしまう。このため、黄土高原の土は黄河により絶え間なく現在の華北平原に運び込んだので、海面は徐々に消失し、初め泥だまりとなり、続いて低湿地や浮き州へと変化した。中国人にとって国土の面積たたえず増加するのは当然良いことであるが、黄河は常に河道を変え、そこは人類の居住には適さないものに代わってしまう。堯・舜の時代には、黄河の顆粒は9年連続で大雨が降り、下流は茫然と水が広がり、黄河の水は行き場を失い平原のあらゆるところで氾濫した。長江と黄河は溢れ出て、人や魚、亀は黄河の何千年の功罪について批判解明したであろうか。大禹が九つの地方を巡り、九つの山に登り、九つの河川を浚渫してから、後世の人類史が生活するのに適合した土地が開拓された。

その後山東沿海の海岱地区に居住した東夷の人々が、大量に西方へ移民した。これは中国に考古学的証拠があるようになってからの中国の史上初の大規模移住である。発掘された文化遺跡からは、当時西は華北の大行山地区から、東は山東の淄河、魯山、蒙山一帯に至るまでの住民がほとんど全て河南の東南部へ移動した事が見出される。この重大な歴史事件は『史記・夏本紀』と『楚辞・天問』には共に、后羿は華北の有窮氏の人民を率いて夏の都を占領し、第三代夏王太康を追い出されたと記す。

現代の考古学者は、4,000年以上前の黄河中下流域の北は燕山南麓、東は山東の泰山、南は安徽の渦陽〜大和の一線、西は河南の洛陽平原の間の大平原地帯は、地勢が低く、湖水沼沢が密集し人類の居住に適していなかったことを発見している。このためここでの考古学的発見には旧石器時代と新石器時代の規模的な文化遺跡は殆ど見つかっていない。黄河下流の鄭州から浚県までの区間は、元来では滎沢(ケイタク)、雷澤、巨野澤の湖底であり考古学的な空白地区であった。4,000年以上前の黄河中下流域の古代文化遺跡は主に、海岱龍山文化と下七垣文化、二里頭文化を包括する三つの隔絶する地域に分布した。

湖水沼沢地帯の西側は、在の河南省西部の洛陽平原と嵩山山脈に相当し、これは二里頭文化に属す大禹の夏后氏部族の領地であり、ここは中国古代の文明進化の主力部隊であった。当初を考えると、彼らは黄帝の引率で中条山脈(山西高原)から降りて黄河を渡り洛陽平原に定住した時、環境は住みやすく生活も安定的であった。しかし、大洪水が起こると黄河は氾濫し、山西の汾河渓谷と陝西の関中平原には二つの巨大な湖水が形成され、彼らの生活に重大な脅威を及ぼし災難となった。他郷へ移住するか、黄河を治水するか、二里頭文化の住民が直面した生死の選択であった。堯、舜、禹は毅然として治水を選択した。治水の結果、嵩山東南部の湖水沼沢地帯は、住みやすい平原で肥沃(ひよく)な土地に変わった。

湖水沼沢地区の北側、つまり黄河以北、太行山の東方は、下七垣文化の地方である。ここは商人の発祥地である。商人部族のリーダー小契は書契(しょけい、文字の書付け)を発明した。下七垣文化は、大海に向かった太行山の東麓に生活を依存している。彼らの生活は裕福で、文化水準も最高であり、労力や商売の達人であった。

沼澤湖水地区の東方は海岱文化の区域で、我々が東夷集団と呼び慣れた龍山文化と大汶口文化が存在している。当時は海岱地区の生存環境は酷く、沿岸部の気温は低く変化しやすかったので、焼き畑農業には理想的とは言えなかった。洪水氾濫した時に、海水の逆流と土地の深刻な塩化のため、当地域の食料生産は年々低下した。水網の密集した湖水沼沢は明らかに居住には向いていなかった。

紀元前2070年頃、大禹が統率した先住民は、孟門を開き、呂梁を開発し、龍門を鑿通して黄河を浚渫して渤海へ流入した。これより、よどみなく流れる黄河は千里を流れ落ち、「百河東のかた海に入り、奔流復た回(かえ)らず」の壮観な情景が、河南の東南部に奇跡を現した。黄河が海に流れたことで中央平原の河水も行く先が定まり、地面の水位は下降し多くの湖水も干上がって湖底を表し、沼澤は耕作地へ変化した。河南東南部のおよそ8万平方メートルの地域が、草のよく育つ水の美しい憩いのオアシスとなり、鳥獣が出現する楽園となった。大禹はこの古代の空前絶後の移住の波を創建者であり、彼は自族の生活環境を改造する一方で、人類が生存する新楽園を知らずに創造してしまった。東夷民族の首領の后羿は、この移民潮流の指導者であり先駆者であった。紀元前2070年から紀元前1750年には、中央平原には空前絶後の移民潮流が出現したが、その因縁で東夷集団も大挙して西遷して、河南東南部の沼沢湖水地域に定住したのであった。

后羿が群衆を引率(いんそつ)して移動した方向は、黄河の流路を中心に、東方から西方へと展開していった。甲骨文の「東、西、束、重、量、柬、畜、囊、橐」などの文字は、全てこの大移動に関連している。

移動の出発前には、大風呂敷を広げて、荷物を放り込みでよく縛れば、実用的な旅行バックとなる。古代人は男性が肩に担ぐ荷物を「東」と言い、女性が手に下げる荷物を「西」と言った。当然その荷物に入れる荷物は当然「東西(品物の意味)」である。

「西」の初期の甲骨文   「西」は、荷物の袋   を縄で縛ったもの   を象る。造字の本義は、古代の女性が荷物を入れた袋である。晩期の甲骨文   「西」は縛った縄   を単純化して   となる。金文の   、 、大篆書   は甲骨文の字形を継承している。篆書の   「西」は袋の取っ手   を   と書いている。隷書の   、 「西」は大いに変形して、取っ手    を「」と書き、袋を 「」と書いている。つまり「倦鳥歸西(巣、ねぐらへ帰る)」の「西」の字である。『説文解字』に、棲、西は或いは木、妻に從う。西は、鳥巣の上に在り。象形。日 西方に在りて鳥棲む、故に因りて以って東西の西と為す。(棲は「西」の異体字である。西は、鳥が巣上にいること。西山に陽が落ちると時は巣に変えるので、「東西南北」の「西」として用いる。)

「東」の初期甲骨文   は袋   を縦横に名をぐるぐる巻きにした様子で、「束」と同源の文字である。古代人は肩に架けややすい棒切れに包んだ荷物を「囊橐(ノウタク=袋)」と言った。造字の本義は、古代人が出かける時に携帯した布を使って棒切れに縛り付けた旅行袋である。

後期甲骨文の「東」は「束」字の中央に交差して括り付けた「叉」を横一の指示記号に単純化して「東」となった。『説文解字』に、東は、動くなり、木に從う。日の木中に在るに従う(東は移動すること。字形は「日、木の会意であり、朝日が樹林の方向にあることを表す)。これから東西南北(方向)、東倒西歪(よろめく)、東躲西藏(あちこちに隠れる)、東張西望(キョロキョロする)、東山再起(巻き返す)、東風壓倒西風(正義は勝つ)などの語彙がある。

「東」の最初の意味は包んだ荷物、品物を表し、その一塊を「束」と呼んだ。

「束」の初期甲骨文の   「束」は木の棒   に括り付けた荷物   を象っている。造字の本義は、縄を使って荷物の袋を括り付けること。後期甲骨文での   「束」は荷物   を   「口」と書いている。金文   、 、 、篆書   、隷化楷書   は甲骨文字形を継承している。

「柬」の金文「柬」は荷物の包みと「束」と分解する「八」との会意文字である。造字の本義は、包みの中身を分別して品物を選出すること。古代の人は荷物を一纏めにして、必要なものをそこからより分ける必要があった。

「量」の甲骨文   、 「量」、日月や星々を表す   、 「日」と旅行荷物を背負う   、 「東」との組み合わせである。造字の本義は、旅人は日月や星座を参考に、移動距離を計算した。金文の   、 「量」は  「東」の下に位置横を加えて、旅行者が荷物を地上に置き、実地を踏みしめ工程を測量することを表す。

篆書の   「量」は「東」の下に「土」を加えるが、これも軽量する意味を持つ。『説文解字』に、量は、軽重をはかるなり(天秤で物品の重さをはかること)。隷書の   は篆書の字形を継承している。

重、甲骨文の字形    、 は    ➕  を構成している。金文の   、 「重」は旅行者   「人」と旅行荷物   「東」との構成である。造字の本義は、肩や背に担ぐ重い荷物である。ある金文   「重」には更に  「土」を加えて畚(もっこ)を背負っていることを表している。篆書の   、楷書の   は金文の字形を継承している。

「量」が主に表すのは「重量」の概念であるため、「量」字に元来持っていた長さを計測する概念は、新字の「度」に置き換えられた。

「度」の篆書「度」の上部の「」は「庶」の省略した書き方で、竈に火を点けて調理することを表す。下部の「又」は「寸」を省略した書き方であり、ものさしを手にして長さを計測することを表している。「度」の本義は調理する時に火加減を調節することである。『説文解字』に、度は法制なり。古代人は「度」で長さを計測し、「量」で堆積(たいせき)を計量し、「衡」で重さを計量した。

后羿が統率する新移民が定住した主な地域は、東は山東の西南と江蘇の東北、南は安徽北部の涡陽と太和を結ぶ一線、西は二里頭文化域の中心地である河南の伊洛平原、北は黄河下流域の鄭州から浚県へ至る部分である。東夷人が到来する前の、当時は生活が厳しく、地理的な隔たりのために、元々のニ里頭、海岱、下七垣の三つの文化には、広大な湖沼地域によってそれぞれが隔離されていた。三種の独立した文化の間での交流は殆どなく、歴史書にも三者間に戦いが発生した記録はない。しかし一旦彼らが遭遇すれば、征戦殺戮は避けがたかった。「衣」に関係する文字には地面生臭い涙ぐましさを帯びている。

「装」、金文「装」の上部は「壯(壮)」はベッドの横に戦器の斧を置きいつでも出撃できる成年男子を象徴している。下部の「衣」は、布袋、風呂敷包みの意味である。造字の本義は、男子が遠征前に荷物を旅行袋に入れる準備の事で、「整装待発(準備して出発を待つ)」という。

「哀」の、金文「哀」の「衣」は葬儀の喪服を表す。「口」は哭泣を表す。造字の本義は、麻を着て、亡くなった親族に服喪して孝養を尽くすこと。

出征前には古くは「擺席(ハイヤキ)」と言って、騎歩水三軍を犒い(ねぎらい)褒美を与える大宴会があった。金文の「席」は「厂」と「巾」との構成で、「厂」は「庶」の略字であり、部族長が鍋やご飯の支度をして兵士を招待することを表している。後に「席」の意味は変化して、洞窟生活の時代に貴賓に宴をする時に、心づくしの厚いクッションを冷たい石のテーブルに敷いたこと。『説文解字』に、席は、藉なり(竹の簀の子)。『周礼』には「天子、諸侯の席子には、白黒の斧型の模様を周囲に刺繍した装飾がある。」と言う。