ティモシーと戊戌の変法

1870年、ティモシー・リチャードはイギリスのバプテスト教会から派遣されて、中国へ渡り山東省で布教し、丁宝楨、曾国荃、左宗堂、李鴻章、張之洞、翁同龢、岑春煊らと接触し、孫文と袁世凱の間に立って、前者の謀略革命に反対し後者の政治を支持した。
1890年に、ティモシーは李鴻章の要請で天津に出向き『タイムズ』の編集長を務め、政治、経済、文化などの方面の改革を体系的な改革案を清朝政府に提出し始めた。1895年に彼は改革運動のメンバーとの直接接触を開始し、同年10月に康有為と面会したが、それ以来改革派と頻繁に会食し、改革の計画と方法を討論した。梁啓超は彼が北京に滞在した期間に臨時の秘書が必要だと聞いて、自薦したところティモシーに喜んで受け入れられた。改革派は強学会を設立し、李佳白(ギルバート・リード)など宣教師も参加したが、彼らは光緒帝を説得したばかりでなく、西太后を説得する工夫も提案して、改革派に全力を尽くして影響を与えた。
ティモシーは李鴻章の紹介で翁同龢(おうどうわ)と面識を持ち、彼に多くの提案をした。翁同龢はティモシーに改革計画を書面にすることを望んだので、ティモシーはすぐさま書き上げた。この計画書では皇帝に二名の外国顧問(一名は伊藤博文、一名はティモシー自身)を雇用し、内閣を成立し、直ちに貨幣制の改革実行や、鉄道敷設、鉱山開発、全国での新式学校の開設、新聞社の設立などを信仰することを提案した。
彼は北京で5か月間活動したが、西太后が強学会の封鎖を命じてから、形勢が微妙なことに気が付いて、北京を離れることを決めた。
出発前日、翁同龢は自らティモシーの住居に別れを告げに出かけたが、ティモシー自身も「中国の総理が宣教師のアパートを訪問した。」と語っている。翁同龢は彼を北京に留めておきたいと考え、彼に清朝は強学会の回復を検討していることを明かして、留まって援助することを望んだが、ティモシーは「純粋に政治活動に関わる希望は全くない。」と断固拒絶した。

ティモシーは休暇でイギリスに帰国後に中国へ戻り上海に長期滞在した。1898年6月11日から9月21日までの103日で、光緒帝は有名な「百日維新(戊戌の変法)」と言う数十の勅令を発布したが、その中で光緒帝は康有為らの要請を承認し、ティモシーを皇帝顧問として招聘することを決定している。
得意満面でティモシーは大至急で荷物を纏め、長旅に堪えて9月中旬に北京に到着して赴任したが、紫禁城の上空は既に暗雲が漂って、西太后が秘密裏に政変を企ていることを知らなかった。
ティモシーは康有為と会い、その後孫家鼐(そんかだい)に会って、孫氏に光緒帝は9月23日に彼を召喚することを告知したが、不幸なことに西太后は9月21日未明に宮廷でクーデターを発動して、改革派の人々の逮捕を命じた。
康有為はこの時逃走していたが、ティモシーは政変発生後すぐに梁啓超、譚嗣同などの人々を彼の住居に招集して国家救出を緊急に相談し、光緒帝を保護するために、各国の駐在大使に介入を要請したが、各国の大使は本国の支持をなければ敢えて行動に出ることはなく、計画は失敗した。梁啓超は逃走し、譚嗣同ら六志士は殺され、ティモシーは上海に逃亡した。

ティモシーは、今回の改革運動の失敗は、改革派が事を焦って西太后に影響を与えることなく改革を促進したことが主要な要因であると考えたが、実際西太后は皇帝同様になっていた。
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