フレンドリー山東(威海李君)

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
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マカートニーの乾隆皇帝との謁見記録➖開篇

フレンドリー山東(威海李君)


まずマッカートニーがこのように有名になったのは、主に彼が史上初の外交官として中国へ派遣された使者であったためである。

1793年、英国王ジョージ三世は56歳のマカートニーを公式使節団長として中国へ派遣したが、表面上は82歳の乾隆皇帝の長寿の生誕を祝賀するものであったが、実際の目的は通商の目的で来訪したのである。

まず最初の問題は、清朝の内外ではマカートニーの訪中の目的を知っていたのかと言うことである。

『清史稿』には、五十八年、英国王雅治(ジョージ)は使臣の馬戛爾尼(マカートニー)等を遣わして朝貢に来らし、人を京へ派(つか)わし、及び市を浙江寧波、珠山、天津、広東等の地へ通じ、併せて関税を減ずるを表情するも、許されずの一文がある。



御覧のように、清朝がマッカートニーに与えた定義をなんであったのか。汝は万里を遠からず来たことは大清皇帝に臣下として服従するために来た使者である。

そのため最初から両者は同じチャンネルで対話してはいない。

マカートニーについては、インターネット上におおよそその履歴(りれき)を調べることができる。

1775年に彼はカリブ海総督に任じられ、1776年に「マッカートニー男爵」に封じられ、アイルランドの貴族となり、1870年にインドのマドラス総督となり、現在のチェンナイに駐在した。1786年、彼はインド総督を拒絶してイギリスに帰国した。1792年に「マッカートニー伯爵」位に加封された。

この観点からマカートニーはイギリスでも大清周辺の総督の役割を果たしたことになる。

イギリスは王朝の一位の地方官を大清に派遣したのは、乾隆皇帝の長寿を拝する為であり、それは大面目であった。


次に大清の最上の天子の乾隆皇帝について簡単に紹介する。乾隆皇帝は同時何歳であったのかというと、現在の年齢計算方式では83歳であり、在位58年の乾隆皇帝は膨大な帝国の管理には熱意を失っていた。


彼の唯一の希望は、人生の最後の数年を称賛の内に過ごすことであった。

つまり想像すると、乾隆皇帝は遥々大清に到来して、自身に臣伏を表す外国使節のことを知って、きっと大変喜んだのであろう。

彼の心理状態はこうである:🤗🤗🤗清国は朕の統治下で全く順調である。それほど遠方の人さえも朕の高名を知っている。そうだ。間違いない。彼が来たら十分な褒美を与えよう。

さて、双方の重要人物を紹介したので、下篇ではマカートニーの朝見の路程を正式に紹介した。

補記するとこの主な内容はマカートニー本人の著書『乾隆英使覲見記(きんけんき)』による。