マカートニーの乾隆皇帝との謁見記録➖開篇

まずマッカートニーがこのように有名になったのは、主に彼が史上初の外交官として中国へ派遣された使者であったためである。
1793年、英国王ジョージ三世は56歳のマカートニーを公式使節団長として中国へ派遣したが、表面上は82歳の乾隆皇帝の長寿の生誕を祝賀するものであったが、実際の目的は通商の目的で来訪したのである。
まず最初の問題は、清朝の内外ではマカートニーの訪中の目的を知っていたのかと言うことである。
『清史稿』には、五十八年、英国王雅治(ジョージ)は使臣の馬戛爾尼(マカートニー)等を遣わして朝貢に来らし、人を京へ派(つか)わし、及び市を浙江寧波、珠山、天津、広東等の地へ通じ、併せて関税を減ずるを表情するも、許されずの一文がある。


御覧のように、清朝がマッカートニーに与えた定義をなんであったのか。汝は万里を遠からず来たことは大清皇帝に臣下として服従するために来た使者である。
そのため最初から両者は同じチャンネルで対話してはいない。
マカートニーについては、インターネット上におおよそその履歴(りれき)を調べることができる。
1775年に彼はカリブ海総督に任じられ、1776年に「マッカートニー男爵」に封じられ、アイルランドの貴族となり、1870年にインドのマドラス総督となり、現在のチェンナイに駐在した。1786年、彼はインド総督を拒絶してイギリスに帰国した。1792年に「マッカートニー伯爵」位に加封された。
この観点からマカートニーはイギリスでも大清周辺の総督の役割を果たしたことになる。
イギリスは王朝の一位の地方官を大清に派遣したのは、乾隆皇帝の長寿を拝する為であり、それは大面目であった。

次に大清の最上の天子の乾隆皇帝について簡単に紹介する。乾隆皇帝は同時何歳であったのかというと、現在の年齢計算方式では83歳であり、在位58年の乾隆皇帝は膨大な帝国の管理には熱意を失っていた。

彼の唯一の希望は、人生の最後の数年を称賛の内に過ごすことであった。
つまり想像すると、乾隆皇帝は遥々大清に到来して、自身に臣伏を表す外国使節のことを知って、きっと大変喜んだのであろう。
彼の心理状態はこうである:🤗🤗🤗清国は朕の統治下で全く順調である。それほど遠方の人さえも朕の高名を知っている。そうだ。間違いない。彼が来たら十分な褒美を与えよう。
さて、双方の重要人物を紹介したので、下篇ではマカートニーの朝見の路程を正式に紹介した。
補記するとこの主な内容はマカートニー本人の著書『乾隆英使覲見記(きんけんき)』による。
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