フレンドリー山東(威海李君)

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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家庭門戸(あなたの最初の漢字教材-甲骨文)

フレンドリー山東(威海李君)

古代の家屋は現在と同様に、南向きに建てて、換気と採光の便をはかった。家屋の南側には大小様々な入り口と窓があった。6,000年前の河南省仰韶では、家屋は比較的簡素で、窓も小さかった。当時調理や暖を取るには、猫目の人が屋内で火を起こした。家屋には煙突がなかった。部屋の窓を煙抜きに兼用したので家屋には煙突がなかったのである。そこで後にできた「窓」には洞穴を表す「穴」と煙突を表す「囱」の二文字の組み合わせでできている。ただし甲骨文の「窓」は「」と書き、最古の「窓」字は底のない陶器の缶(筒)でできていたことを表している。美観のために切り絵窓で美しく装飾した。方形に書いた「囧(ケイ)」字もある。この字の本来の意味も窓である。後のこの字はほぼ死語となったが、古文書では『三国志演義』に一度だけ出現しており、蜀の名将姜維の父親の名を姜囧というlウェブ上でこの字が、四角い顔で八の字の眉、しまりのない口で、「困窘(=困惑)」しているキャラクターのように可笑しいことを発見して、都合よく「窘(困惑)」の意味に使われた。

「門」と「戸」を併置すると、簡単に「富豪な豪族」と「貧凡な家庭」に多大な区別があることがわかる。実際甲骨文の「門」は室内と外界とを分離しているが、空気の疎通(そつう)を妨げるものではない。アメリカの西部劇派では逆具が大変な剣幕でバーの両開きの戸を蹴破って入って来て、英雄に挑戦している。すると無敵の英雄は神業の腕前でリボルバーを打ち放つと、ギャングらは腰を抜かして打ち負かされるのである。

「門」と「戸」は元々門のイメージであり、軸のある一枚の木板で、門の片側である。それは富豪の大門ではなく、一般人民の出入り口の一枚戸である。

金持ちの大門には出入りに両開きの門板があり、一般人の小門は一枚扉であるので、つまりがいわゆる「一家一戸」「各世帯」なのである。陝西省北部の民謡には鮮明な「二月里来るや風光好く、家家戸戸田を種えるに忙し。指し望むは今年の収成好く、多く些(いささ)か五穀に公糧を交ぜ打たん。」がある。

「闔」字は一家を表し、篆書は「閤」と書き、「門戸」と「合并」との組み合わせで、この文字の用途は、つまり祝福に用いる、新年の挨拶で、「家を闔(あげ)て歓楽、心に事成を想う」の一つのみである。

「扇」の篆書「扇」は小さな扉「戸」と羽毛「羽」との構成であり、本来古代人が羽毛や草花で自宅の門扉装飾したことを指して。なぜ門を一扇、一扇と数えるのか。扇の中に「羽」が入るのか。それは誰もが忙しすぎるからである。日中は誰もが出入りして、門扉を開けては閉じ、閉じては開けるので、まるで羽の生えた翼で飛び回るようであったからである。炎熱の夏にはしばしば作物が枯れそうになる。農民はやきもきするが、金持ちは無関心であった。『水滸伝』の詩には「赤日炎炎として火焼に似たり、野田の禾稲 半ば枯焦す。農夫心内 湯の煮えるが如く、公子王孫は扇を把(と)りて揺(くら)す。」と描写している。夏に扇子を仰ぐ動作は、開け閉じされる門扉のようでもある。王孫貴族が炎熱の夏日に涼を取るための道具を「扇子」という。

甲骨文の「門」字は殷商時代後期の家屋建築の門の構造を反映している。その構造は現在の門と相似しており、数千年間対して変化していない。しかし、甲骨文と金文に描写された「門」は人類最初の門ではない。人類の歴史上最初に設計された門は、原始人が居住した洞穴に開鑿した出入り口であり、「柴扉」という竹木藤蔓などを使って編み込んで風雨を防ぎ野獣の襲撃から守った門扉である。篆書の「扉」は「戸」と「非」との構成であり、「非」は否定を表し、「ぶざま」「つまらない」という意味である。造字の本義は、庭への入り口にある柴木を編み込んで作った一枚の扉である。

建築水準の向上に従って、古代人の入り口に対する設計はさらに科学的、実用的、美観的となり、門の形式も次第に多種多様となってきた。その後中国の大型建築の大門は一個の洞門には止まらなくなってきた。天安門は首都北京の象徴であり、五つの洞門があるが、中間の洞門は皇帝ただ一人の通行のみに提供されたものである。そして天の祭祀、捕虜の献上、本婚礼、葬送などの重要な典礼にのみ開かれた。中間のこの両扉の大門は「儀門」という象徴的な名が付けられている。つまり重要な儀式にだけ使用されるもので、日常生活には横側の出入り口しか使用されなかった。

皇城であろうと農家であろうと、出入り口の大小は異なるが、構造は基本的に同じである。こういう玄関の構造は実は単純なものでその周囲は堅牢な木製の門框(かまち=フレーム)でできている。四角の門框は真っ直ぐな角材でできており、中国では「榫卯(しゅんぼう)」構造と言い、職人用語では「嵌め込む(ほぞ継)」という。門框の上端には門軸をはめる丸い穴の軸受けがある。門軸の長さは門とほぼ同じであり、上部は上部の框の軸受けに差し込み、下部は石製の門墩(もんどん)の凹穴に嵌め込む。こういう構造は大変簡単で実用的であり、金属部品を必要とせず、取り付けと分解が大変簡単である。門扉を取り付ける時は、最初に軸上の突起を上部の門框の軸受けに嵌め込み、その後重力によって門扉の突起部分を門墩の凹穴へ落下させれば好いだけで、驚くほど簡単である。

皇城の大門は十メートル近い広さがあり、木板を切り出して一枚扉を作れるような大樹は世界的にもないものである。そこで木製門扉の一枚は現在の組木の床板のように、多くの木板を継ぎ合わせたものでできている。まず大樹を切り出して木板を作り、その両側を段状に作り、その後組み合わせて継ぎ目に穴をあけリベットで繋ぎ合わせて一体とし、一枚の大きな扉を作るのである。