北斉の廃帝・高殷:「例え良い結末がなくても、正しいことをするだけだ」
「君子の徳は風、小人の徳は草。草の上を風がふけば、必ず靡くものだ。」

第一幕:北斉君子高殷
北斉の武定3年(西暦545年)、尚書左僕射(政府高官)を務めていた高洋とその妻・李祖娥の間に男子が生まれ、「高殷」と名づけられた。
高殷は初め、国子博士の李鉉に師事し、その後は儒学者・刑峙のもとで学んだ。幼い頃から漢族文化の教養を受けた彼は、書を良く読み、礼節のわきまえ、温和で謙虛で倹約、思いやりのある人物として育ち、「理想的な君子(立派な人)」の風格を備えていた。
しかしこのような性格は、父である文宣帝・高洋の好みには合わなかった。高洋の価値観においては、「刀も持てず、慈愛ばかりの男」などは、権力闘争の中で粉々に潰されてしまう➖➖そう考えていたのである。そして、自らの息子であり、国家の皇太子が正にそんな「君子」であることを、彼は深く憂いていた。
天宝年間、高洋は皇太子・高殷を金鳳堂に召し出し、ある試練を与えた。護衛に命じて縄で縛った死刑囚を引き出させ、皇太子にその首を斬るよう命じたのである➖➖「心の鍛練」と称して。
しかし、どれほど父が命じても、高殷はどうしても手を下すことができなかった。
これに激怒した文宣帝は、護衛の腰から馬鞭を奪って高殷を激しく打ち据えた。
それでも高殷は一言も発せず、涙を浮かべたまま黙って跪き、歯を食い縛って父帝の鞭に耐えていたーー。
東宮の一室。
上半身裸の少年が柔らかな寝台にうつ伏せに横たわっていた。その傍らでは、ふくよかで色白の宦官が、少年の背に刻まれた無数の痛ましい鞭痕に薬を塗っていた。
「いやはや、私の坊ちゃま……。陛下が斬れと言ったのなら、斬ってしまえば良かったのです。どうせ死刑囚一人じゃありませんか……」宦官は心底いたわるようにそう言いながら、手にたっぷりと軟膏を取り、慎重に傷へと塗り込んでいく。
高殷は両腕を床頭に垂らし、澄んだ水のような眼差しでじっと前を見ていた。
少しだけ顔を上げた時、背中の傷が引き攣って痛みが走り、思わず顔を歪み、唇を噛み締める。
その顔色はますます青ざめていた。
「君子の徳は風、小人の徳は草。草の上に風が吹けば、草は必ず靡く……」
彼は視線を門の外に向け、微風に揺れる一本の柳を見つめながら、静かに口を開いた。
その耳に、不意に李鉉先生の凛とした教えの声が蘇る。
「君主たる者がもし君子であるなら、それは天地に吹く一陣の清風のようなもの。
君子の行いが民を感化し、風が草を靡かせるように、民もまた動かされるのです。
身をもって範を示すことこそ、真の教化なのです……」
「皇太子殿下、臣の言わんとすること……ご理解いただけましたか?」
高殷の眼差しの中には、嘗て自分に懇々と教えを説いてくれた。質素な衣を纏う中年の師の姿が浮かんでいた。
ふと我に返った高殷は、目の前に浮かんだ影にそっと手を伸ばした。
だが、指先がそれに触れるより早く、それは跡形もなく消えてしまった。
その瞬間まで迷いを帯びていた彼の瞳は、次第に澄み渡るような明瞭さを取り戻していた。
「私が手を下さなかったのは、国家には法があるからだ。死刑囚であっても、法に則って処刑されるべきであって、他人が勝手に殺してよいはずがない。もし皇太子という国の後継者が法を無視し、勝手に人を殺すようであれば、民がどうして法を守ろうと思うだろうか?」
それが例え報われぬ善行であってもーー人は正しいことを選ぶべきだ。ーーー
天宝10年10月(西暦559年)、北斉の文宣帝・高洋が晋陽宮・徳寿堂で急死した。
その直後、皇太子・高殷は同じく晋陽宮の宣徳殿で即位し、元号を「乾明」と改めた。
高殷は理想と抱負を持った若き君主であった。彼は理想と抱負を持った若き君主であった。彼は、漢人の有能な大臣達ーー楊愔(よういん)、燕子献(えんしけん)、鄭子献(ていしもく)を重要し、更に領軍大将軍・可朱渾天(かしゅこんてん)を持って、朝廷内に強大な勢力を誇る常山王・高演、長広王・高湛の兄弟に対抗しようとした。
嘗て臨終の床にあった文宣帝・高洋は、常山王・高演に向かってこう言い残したというーー「奪ってもよい、だが、殺すことだけは慎め。」ーー死の間際、あの高洋でさえも高演の野心を察し、そして、自らの息子・高殷がこの兄弟に大刀打ちできないことを悟っていたのだった。
しかし、高殷は皇位を叔父にただ譲り渡すつもりはなかった。例え最後には破れるとしても、今の内に国家と民のために、できる限りの善行を行おうと心に決めていた。
文宣帝・高洋は、天平9年(548年)に、上党王・高渙を虐殺し、その妻・李氏を家僕の馮文洛に嫁がせる
という屈辱的な仕打ちをしたーー全ては高渙を辱めるためだった。同年、忠義から諫言した永安王・高浚を火炙りにして焼き殺すという惨事も起きた。当時の高殷には、それらを止める力がなかった。だが今、皇帝となった彼は、せめてもの償いとして、両王の遺体を丁重に葬るよう人を遣わし、李氏を上党王府に迎え戻して家僕の辱めから解き放ち、更には、二王に正しい名誉を回復させた。
宮中には、嘗て北魏の宗室だった「元」姓の者達が奴婢として飼われていた。高殷は、彼らの境遇に深く同情していた。男児で顔立ちの整った者は、北斉の貴族達に寵童として囲われ、女児で容姿の良い者は、家々の妾にされるーー彼らの暮らしは、生きていながら死んでいるような苦しみそのものであった。乾明元年(559年)二月、高殷は詔を発し、嘗ての「元氏宗室」であれば、例え宮中で奴婢として仕えていようと、貴族の家に奴隷として売られていようと、全て罪を赦し、自由の身に戻すよう命じたのである。
乾明元年(西暦559年)三月の甲戊の日。常山王・高演は、京畿大営の兵を率いて邺城の皇宮にある雲龍門から侵入した。そして、尚書令・楊愔、右僕射・燕子献、散騎常侍・鄭子献、侍中・宋欽道、領軍だいしょうぐん・可朱渾天らを次々に捉えて殺害した。北斉の保皇派はこの日、ほぼ根絶やしにされた。
更に、太皇太后・婁昭君が、幼い頃から特に可愛がっていた次男・高演の側に立ったこともあり、皇太子・高殷は婁昭君の命により廃され、常山王・高演が皇位に即いた。
それから2年後の皇建2年(西暦561年)9月、高殷は晋陽宮において、高演が遣わせた高帰彥によって暗殺された。
その最期、高殷は静かにこう語ったという。「私が死ぬことは構わない。皇帝としての器量は、もしかしたら常山王(叔父)に及ばなかったかもしれない。けれど私は、誰かがやらねばならないことを、確かにやった。そして、後の世の人々が、それを知ってくれればそれでいいのです。」ーー
だが、それはまるで報いのようでもあった。高殷の死の報せを受けた皇太后・婁昭君は激怒し、高演を厳しく叱責した。彼女は当初、権力の都合から高演の即位を後押ししていたが、その条件として「高殷を決して殺してはならない」と誓わせていた。だが高演は、その約束を破ったのだ。
高演ーーすでに孝昭皇帝となっていた彼は、高殷を殺したことで、良心の呵責n苛まれるようになった。心は終日落ち着かず、夢にも彼の姿が現れたという。ある日、気分転換にと狩りに出た高演は、その途中で馬から落ち、重傷を負ってしまう、傷は癒えず、やがて高演もまた、この世を去った。
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