フレンドリー山東(威海李君)

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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1891年、北洋水軍の日本訪問に関する歴史的考察ーー丁汝昌の日記における日本海軍の記録

フレンドリー山東(威海李君)


1891年、日本でロシアの皇太子が暗殺されると、ロシアからの報復を恐れた日本は、ロシアに対抗するために清国に接近することを期待して、北洋水軍を招待した。この訪問は、北洋艦隊結成後初の大規模な海外行動であり、日清戦争前最後の対日軍事力の誇示であった。


この時期は、東アジアにおいて非常にデリケートな時期だった。ロシアの膨張の影で、清国、日本、朝鮮の間に複雑な三角形が形成されていた。ロシアは最強だった。1891年にロシアの皇太子が日本で暗殺されるという事件が起きたからだ。

日本は非常に慌てふためいており、外交の圧力を和らげるために、北洋水軍の訪問を招請し、これを利用して清朝との関係を緊密にして、ロシアに対抗することを望んだ。李鴻章はロシアを団結させて日本に対抗することを望んで、彼はまた北洋海兵隊が日本を訪問することに同意した。

今回の訪問は北洋艦隊創設後初の大規模な海外作戦であった。また日清戦争前の日本に対する最後の軍事力誇示であり、非常の象徴的な行動であった。


丁汝昌が日本を訪問した時に伊東祐享に贈答品を断る新書又は受取の、書風は端正で行書的な楷書である。前文は以下の通りである。「伊東君門大人閣下、頃(このごろ)感激を承るに接し、覆函深く生霊の為に礼物を賜るは、兹(ここ)に両国有事に際して敢て私受せず、謹んで璧を以て還し、并せて謝し、肅(つつし)んで垂察を請う。不宣。丁汝昌頓。外緘に恵礼三件を呈す。正月十八日。」

大まかな内容は贈答品の受け取りを遠慮し、感謝の意を表すことである。訳文は「拝啓、東軍提督将軍閣下、来信を拝読し、深く感謝致します。あなたに賜った贈答品は好誼の極めでございますが、両国関係が微妙で、面倒である時に、小生が個人的に贈り物を受取ることはできません。謹んで元品をお返しして感謝の意味を表します。御垂察の上、謹んで御喧伝なきようお願い申し上げます。丁汝昌敬具、原件三部同封返信、正月十八」


丁汝昌の日記には、1891年6月26日に北洋水師が威海衛を出発し、馬関、神戸、横浜などを経由して、日本の軍港や学校、監獄などの施設を見学し、日本の天皇に謁見するまでの一連の過程が詳しく記録されています。神戸では石炭の積み込みを行いました。

横浜では、非常に盛大な入港式が行われ、各国の軍艦が北洋水師に対して礼砲を撃ち、敬意を表しました。

東京では、こうした外交的な雰囲気がより強く感じられました。日本の総理大臣や宮内大臣をはじめとする多くの官僚を訪問し、学校や監獄を見学しました。中でも最も重要な出来事は、日本天皇への謁見でした。天皇は、両国の友好と協力を望む旨の発言をされ、丁汝昌もそれに応じた内容を述べています。

又、横須賀軍港を見学し、海軍大臣や軍港の司令官とも面会しました。軍港内のドック工場では軍艦の建造が行われており、丁汝昌は日本と福建船政局との造船技術の比較を行っています。更に彼は、日本海軍の発展は、将来的にヨーロッパ諸国と肩を並べることができるだろうという趣旨の発言もしています。


その後、横浜を出発して再び神戸に立ち寄り、接遇や交流の活動を行いました。続いて呉港に到着し、そこでも軍港施設を見学しました。最後に長崎へ向かい、石炭の補給などを行っています。

訪問の行程中に光緒帝の誕生日を迎えたため、艦上では祝賀式が行われました。日本の軍艦も国旗を掲げ、礼砲を鳴らすなど、非常に盛大な祝賀行事が催されました。最終的に一行は8月6日に威海衛に帰還し、8月8日に今回の一か月以上にわたる訪問を終えました。

丁汝昌は自身の日記の中で、日本海軍の発展について詳細に分析しています。彼は、日本が明治維新以来僅か20数年で、横須賀、呉港、佐世保などの重要な軍港を整備し、造船能力を急速に高めてきたと記しています。また、海軍の士官養成や経費の使い方においても、日本は非常に効率的であると評価しています。

更に、彼は日本の陸軍についても、訓練や兵員の配達において中国を遥かに上回っていると述べています。

その一方で、丁汝昌の日記には中国の現状に対する強い懸念が記されています。中国では海軍の発展が軽視され、官僚は長期間に渡り同じ職に留まり、勤勉か怠惰かの区別がつきにくい状況です。また、造船技術や軍港の整備も外国に比べて著しく遅れており、現状に甘んじていては将来の情勢は非常に厳しいものになるだろうとしています。