フレンドリー山東(威海李君)

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
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清朝末期、威海衛には異常に高い給料を得ていた二つの集団

フレンドリー山東(威海李君)


清朝末期、威海衛には異常に高い給料を得ていた二つの集団があり、一つは北洋艦隊の驚くべき年俸で、陸上勤務の将兵でも銀36両の年俸であり、九位官の33両の年俸よりも高かった。もう一つは威海衛華勇営の兵士も高級であるがない英国の植民政府に奉仕した。

北洋艦隊の将兵の給与

北洋艦隊は中国が設立した近代化海軍艦隊であり、同時に清朝が設立した近代化海軍中、実力ナンバーワンであり最大規模の一団体であった。主要な軍艦は大小25隻、補助軍艦50隻、将兵4,000人余りであった。

1888年12月17日、北洋艦隊は威海衛の劉公島で正式設立され、清朝政府は毎年白銀400万両を海軍建設の予算とした。

北洋艦隊の官兵には朝廷外の思いやりがあり、彼らの年俸は驚くほど高く、また定額外の「船手当」などの補助もあった。


最も基本的な一等船員には白銀120両の年俸を使った。更に一等雷兵は108両、一等砲兵の年俸は最大240両、魚雷手は288両であり、電灯兵(サーチ部隊)は全て360両の年俸収入があった。陸上勤務の小職であっても白銀36両の年俸であった。

これらの給与額の数字は、現代人の感覚にはないが、清末の官員の収入と比較すれば如何に驚くべきか分かる。

当時の九位の官員は一年白銀33両であった。正一位の文官大臣であっても白銀180両の年俸であった。

この数字は一般人の目には天文学的な数字であるが、北洋艦隊の給与と比較すればだいしたものではなかった。北洋艦隊の電灯兵であっても年俸360両であった。

これは当時の一位官吏の2倍である。

朝廷が北洋艦隊に対する愛情はここまで来ていて、また朝廷が海防を重視したことを反映していた。丁汝昌提督について言えば、北洋艦隊の提督(総司令官)として、年俸の白銀が8,400両にも上がっていた。これは正一位の文官の俸禄と比べても46倍も多い。

更にほかの将校も見て見ると、北洋艦隊の総兵の年俸は3,960両であり、副将が3,240両、参将が2,640両であった。この数名の高官の年俸だけでも、大多数の文官の総収入を遥かに超える。

将軍達の商売センス

北洋艦隊は西洋の海軍をモデルに設立され、『北洋水師章程』もあった。

『章程』では、総兵以外は北洋艦隊の官兵は全て軍艦に居住しなければならず、陸上に役所または公館を建設することは禁止されていた。

しかしこの規則は北洋艦隊の長官にとっては殆ど紙切れ同然であった。北洋艦隊の官兵でも兵士でも、しばしば艦隊を離れて上陸して活動したからである。

当時の北洋艦隊の停泊地は劉公島付近であった。しかも軍官達は劉公島付近で娯楽を必要とした。北洋艦隊の将官は、商売人でもあって劉公島付近に家屋を購入し、それを賃貸していた。北洋艦隊の高級将官にとって家主の身分は更に実利が上がった。

海軍司令となった丁汝昌は率先して劉公島に家屋や商店を建設し、北洋艦隊の中下級の軍官に賃貸した。丁汝昌の行為はほかの将官達も模倣した。

同僚の方伯謙は積極的フォローアップして、劉公島で28ヶ所もの不動産を設置し旅が、丁汝昌提督と方将軍の賃貸収入は、朝廷の給与よりも遥かに多かったはずである。

学者の研究によれば方伯謙の官給は1296両、船上手当は1944両で、合計毎年白銀3240両となった。不動産購入には年俸の13倍に上る4.4万両に相当したが、灰色所得はかなりに額に違いない。

丁汝昌らの人も店舗を建設したり購入したので、店舗の貸し出しを相当するためには、投資を呼び込まなければならなかった。娯楽業は間違いなく消費が最高であった。そこで多くのカジノや、アヘン窟が劉公島の商店に進出したが、その消費者は当然北洋艦隊の軍官と兵士であった。

その点、丁汝昌のトップである上司の李鴻章は北洋艦隊の所作を良く知っていた。そこで日清戦争勃発直前には、李鴻章は丁汝昌へ電報を打って、丁汝昌へ軍記を厳粛にさせろ、将官や兵士に軍艦を離れないよう求めた。当然ながら行為が散漫な北洋艦隊には非現実的なことで、一朝一夕では軍紀は改善されなかった。

華勇営官兵の高給

1898年7月、イギリスは山東省威海衛の租借を強行し、威海衛を足場にするためには十分な軍事力を保証にする必要があるとはっきり認識していた。当時イギリスは兵力が欠乏(けつぼう)している時であり、イギリス政府は中国に傭兵軍を創設して威海衛の防衛を負担させることを決定した。

集中的な計画の後、「華勇営」は軍隊の募集を開始した。一月たった4名しか応募者がいなかったとは誰も予想だにしなかった。しかもこの応募者の両親達は、子供に家へ帰るよう説得するために毎日軍営へ通った。

『華勇営』は迅速に編成するために、イギリス人は高給で軍隊を募集するを決定した。一般兵士は月給銀8両、小隊長は月給銀12両で、どういう天候であっても十分な米飯や小麦粉、肉、燃料を供給し、季節ごとの制服も無償で提供された。

もし入隊後に2年間に違反記録がない場合は、兵士一人に付き銀30両の業績評価を得ることができた。訓練中に優秀な態度で、突出した成績に納めれば、俸給以外の奨励金もあった。

このような魅力的条件ですぐさま多くの応募者を引き付けた。早々に「華勇営(華勇団、あるいは中国旅団とも言った)」は7連隊、総勢534名となった。この部隊は正規にイギリス式訓練の後、「華勇営」として威海衛の北大営と寨子、南・北竹島などの地に分駐して、威海衛内の治安と対外防衛の任務を負担した。


その後「華勇営」は威海衛の反英闘争の鎮圧でイギリス人に齷齪(あくせく)したばかりでなく、天津での義和団包囲作戦でもイギリス人の「卓越」した貢献を果たした。1902年にこの部隊は1,300人余りに発展した。

ただし、イギリスという侵略者に従う弾除けという恥辱を伴った。1903年になると1,300人余りの部隊は、約800人が離職し、500人に減少した。1906年6月、成立8年の「華勇営」は正式解散したが、大部分の兵士は自力で生計を立てた。