音楽舞踊(あなたの最初の漢字教才:甲骨文)
何が音楽か。此処では「音」と「楽」二つの文字について話す。
「音」と「言」は同源であり得ない甲骨文に既に見えている。「音」の甲骨文 









『説文解字』に、音は「人声」、楽は「器楽」という。甲骨文の「樂(楽)」は 





『漢書・律歴志』には、音楽には「六律、五声、八音」を含むと言う。六律は音楽理論であり、自然界のメロディとリズムを模倣し「統気類物」して速やかに音楽の節付と形式を進行するものである。五声、八音は音階と楽器を指す。『漢書・律歴志』の解釈では、「声とは、宮、商、角、徴、羽なり。樂を作る所以の者なり、八音を諧(ととの)うとは、人の邪意を蕩涤(とうじょう=洗い流す)して、其の正性を全うし、風を移し俗に易えるなり。八音とは、土を塤(けん、土笛)と曰い、匏を笙と曰い皮を鼓と曰い、竹を管と曰い、糸を絃と曰い、石を磬(けい)と曰い、金を鐘と曰い、木を木兄と曰う。五声和して、八音諧(ととの)い、而(しこう)して楽成る。」という。
音楽は、人間の情緒に従い発生した一種の感情を表現する重要な手段である。『詩経・大序』に、「詩は、志の之(ゆ)く所なり。心に在るを志と為し、言を発して詩と為せり。情の中に動きて言を形づくり、言の足らざるが、故に之を嗟嘆(さたん)す。嗟嘆の足らざるが、故に之を詠歌す。詠歌の足らざるは、之を手にし之を舞い、之を足にしてを蹈るを知らざるなり。」という。これは詩歌、音楽に関す舞踊の起源の細かな説明である。
人類の誕生以来、詩歌、音楽、舞踊があった。舞踊に関する起源は、健康のため、祭礼のためという二つの言い方があった。『呂氏春秋·古楽篇』には、舞踊の起源は体力づくり(フィットネス)であると考えている。「昔 陶唐氏の始まるや、陰(あめ)多く滞伏して湛積し、水道壅塞(ようさい=不通)し、其の原を行けず、民の気鬱閼(うつあつ=鬱積)して滞こる者、筋骨 瑟縮(ひっしゅく)して達さず、故に舞を作為して以って宣しく之を導けり。」と考察している。そして『周礼・夏官』の記載によれば、舞踊は原始の宗教祭祀の活動に起源すると記す。周の部落に「方相氏」の役官があり、除霊を専門にした。その姿は「熊皮を蒙りぷ黄金の四目あり、玄衣と朱裳 もて戈を執る。」であった。実際は面をかぶっているのである。天神が悪鬼を怖がらせることを模倣している。中国南西地区の一部の辺遠山岳地帯では今なお面をかぶって舞踊し除霊する「追儺(=鬼やらい)」が残っている。
1973年、考古学者が青海省大通県の上孫家寨という名の小さな村で、5,000年前の舞踊模様の彩陶盆(水盤)が見つかった。これは現代人の知る最も古い舞踊模様の残る考古遺物であり、世のも稀なる珍宝である。これは初めて発見された原始の祖先達の生活情景を描いた図画であり、極めて高い歴史価値と技術的な価値があるので、この彩陶盆は天下無双の国宝として国家博物館に珍蔵されている。
この古代の舞踏紋の彩陶盆は、細泥紅陶で製作されている。盆の外側の絵柄は三筋の線条で装飾されている。内壁(見込み)の絵柄は3チームの舞踊の図で、チームとチームの間には平行の縦線と葉紋で間隔を開けている。1チーム5人編成で、ダンサーは手と手を引き合い、それぞれの人の顔は右前を向き、誤認の歩調は一致し、同一のリズムで足踏みしてひらひら舞っているようである。この3組のダンサーは盆を廻ってサークルを形成し、足元には同心円のさざ波を形成し、小さな陶盆は静かな池のようである。楽しい人々が池の周辺に集まり、愉快で熱い気持ちで、歌い踊っている。
仔細に見れば、頭上のそれぞれの頭部にはポニーテールが結ばれ、下半身には閃く飾りがあり、これは一本であるはずである。ダンサーの髪飾りとヤク牛の尻尾はそれぞれ左右に揺れ、舞踏の飛躍感を増している。最も面白いのは、1チームの外側の二人の外側の腕は、まるで腕をしっ切りなしに動かすように二本の線で描かれている。
この一団の輪舞はどんな内容を表しているのか、色々な意見がある。ある人は古代の氏族のグループが狩から帰ってきた祝賀会で狩猟のダンスを踊るという人がいる。また士族のメンバーが氏族のトーテムの獣に扮して舞踏している図であり、ダンサーの頭上や下半身に付けている飾りは、頭と腰の飾りとしてに付け、動物の象徴とし考えている。更にまた人口の生殖の繁栄と作物の増収を祈る祭祀の舞踊を進行していると考えるものもある。もしも現代人が5,000年の時空を乗り越え、この愉快なダンスシーンに出会っても、ダンスの内容を理解するのは難しいであろう。だが現場の雰囲気には絶対に感動するであろう。少女達は手と手を引きあり、飾りを振り、爽快なリズムで飛翔している。雰囲気を増すために、ブタを生け贄として、夜間の篝火の宴会を準備している。ブタは音楽家でもあり、丸々肥えたブタの首を刎ねる前に、石のつぶで持ってその尻に打ち付ける人がいる。丸々としたブタはブヒブヒと咆哮するのは、堪能して聞けた。日が暮れると、我々の祖先は草原も、大勢集まり、飲酒し、歌い踊り、飲みや歌えの⋯⋯厳重な祝典儀式を挙行したが、これは一種の慶祝形式であるが、最もある宴会であり、規定も尊卑もなく、目前には大碗の酒、大きな肉塊、そして火の粉の巻き上げる大きな篝火があった。篝火の周りに、男性は毛皮を着け、頭上に鹿や狼の頭を数り、藁スカートを付けた情勢が一緒にダンスする。牛皮の太鼓が大きく打ち鳴らされ、「ドンドン」という音が心肺に鳴り響いた。冠を付けず裸足の長老が杯を上げ高らかに呼びかけると、よろよろと酔った一群は大声で答えた。白髪のふさふさとした老祈祷師もよろよろと歩み出て、話終らないうちにしゃっくりをして、祈祷の祝詞も半ばで地面に倒れて、雷の大いびきをかきながら眠りこけた。立派な英雄達は豚の足を持ち上げ、過去を懐かしんで高らかに歌った。少年達はひっくり返した大壷と叩いて、老人達と歌唱した。山歌を歌う勇士は、焚火の周りに引き出されて酒を注がれた。松明で打ちあうごろつきは、上から投げられる酒盃に頭が打ち砕かれた。
古代の有名な音楽舞踊には『葛天氏の楽』『雲門』『大咸』『大韶』等がある。『葛天氏の楽』は殷の湯王時代の作品で、葛天氏部落の亦農、亦睦の労働生活方式と、天、地、祖先の祭祀、草木穀物の繁茂、人畜の旺盛な発達を表現する儀式舞楽の内容である。表演の時、手に役に尻尾を手にした三人が、『載民』『玄鳥』『草木を遂げる』『五穀を奮う』『帝功に達す』『地徳に依る』『禽獣の極みを総べる』などの八節の歌曲を歌う、これは『尚書・益稷』で、皇帝の音楽官吏が「石を撃ち、石を拊てば、百獣、率い舞う」の場面である。
多くの長い夜、めらめら燃える焚火の傍で、古代人が寮から帰ってきて、獲物を炙りながら、石器を打ち鳴らして、色々の野生動物の動作を真似したり、自身の狩猟中の巧妙な動作を表現したり、戦闘中の自身の機敏な拳脚を謎って、手で舞い足踏みして飛び跳ね、吼えたり歌ったり踊ったりした。こういう原始的な舞踊は、人々が興奮した時に踊り、悲しんだ時にも踊り、信仰や祭祀の時には更に踊った。踊りは祖先を記念し、鬼神を喜ばせ、災禍を祓い嘉福を祈る。原始の舞踊には濃厚な「武」の色彩があり、戦闘と舞踊を融合し、ダンスは勇猛で、迫力があり、人心を震撼させる作用がある。
『山海経・海外西経』にこんな神話がある。邢天という神と神帝が対立し、邢天は神帝に首を切り取られたので、邢天は乳首を目としてへそを口として、片手に盾、片手に大斧を持ち舞い続けて、戦闘のダンスで自身の憤懣を表現したという。
『尚書・大禹謨』に、大禹が江南の三苗族と戦った。一月経っても三苗族は降伏しなかったので、大禹の心理作戦に出た。彼は兵士に盾と大斧を持たせて武威勇壮な戦闘のダンスを踊らせると、三苗族はこれを見てすぐ降伏したというのも、よく似た内容である。現在ナシ族のトンパ教の「東巴跳(トンパダンス)」にも原始舞踊の形態を遺存している。舞踊の戦士達は戦い太鼓のリズムを踏み、剣を持ち戦争中の左右を切り付ける動作を表している。剣舞の時には、劈(断ち割る)、砍(ぶった切る)、扎(突き通す)、刺突き刺す)のような攻撃、頭を守り包む、刀剣を持ち切り付けるなどの防禦などの動作や、屈み、のけ反り、匍匐、間(ま)、跳躍などの色々なステップがある。
『詩経・陳風』は春秋時代の陳国の民謡で、陳国の首都は、現在の淮陽で、古名を「宛丘」と言う。『陳風』にはこのように歌詞「子の蕩たる、宛丘の上に。洵に情あれども 望無し。坎として其れ鼓を撃つ 宛丘の下に。冬と無く夏と無く 其の鷺羽を値(たも)つ。」がある。詩歌の内容は、「あなたは宛丘の高所で軽やかに舞踊したので、私は大変感動した。しかし期待はしていない。あなたは宛丘の麓で太鼓を打ちながら、冬にも夏にも構わず、鷺の羽であだ名姿で踊っている。である。詩人が我々のために描写した大変美しい情景ではないだろうか。今日の人々もやはりその高揚するリズムと躍動する感情を受け取ることができる。
よく見られるダンスに関係する古い漢字には、夭、笑、吳、娛、舞、蹈、無、異、鬼、畏がある。
甲骨文の 






金文 















「喬」は、金文の 












後期の金文 
舞蹈とは、肢体運動を用いた造形芸術のことです。舞踏家が足を失った場合、踊ることはできるのでしょうか?「舞」は、左右の足を表す「舛」を取り除いたもので、「無」となります。つまり、無力、無為、無奈などを表します。
古代中国では、手を振ることを「舞」と呼び、足を広げて踏み鳴らすことを「蹈」と呼んでいました。また、「舀」という字は、米を救う動作を表しています。篆書の 
一方、「鬼」と「異」の字は、甲骨文や金文字では人が仮面を被って舞う姿が描かれており、実際には文字に付随する初文だったとされています。初文とは形声文字の一種であり、「異哉」と読みます。古代中国では、「戴」と「異」は同音であったとされています。
甲骨文の「奏」字は、歌舞と関係があり、両手に舞踊の小道具を持って表演する様子である。商代の「奏」は、美奏、商奏、新奏等等形容詞が付け加えられた。殷商時代の卜辞には「奏戚」「奏庸」の質問があり、戚は儀仗の武器であり、庸は琴瑟類の大型楽器である。
中国古代の天地開闢の神話では、女媧、伏羲は人類の始祖であり、彼らは一組の兄妹であり、また世界でたった一対の夫妻である。女媧と伏羲は、リード式の管楽器を創造し、つま弾く琴瑟類の板面楽器を創造した。人類は話せるようになって音楽を奏で、歩けるようになって舞踊をし、つま弾けるようになって琴を弾き、出生本来の本能であった。
『世本・作篇』の記載には、女媧は親類の始祖であり、彼女は自身の子供達のために、人類最初の楽器を発明したが、これは中国の西北、西南地区の多くの民族が今でも吹奏している、俗に「口簧」「口弦」という「リード楽器(笙)」である。
古代の「簧」(コウ、口琴」は全て竹片で製作したので、「竹」を部首として作られている。金文の「簧」は「竹」と「黄」との構成で、青「竹」を切り取り、寝かせて「黄」色になった竹竿を細かく切り、短い表皮にリードを削り出し、左手で口に含んで、右手で竹片をリードを弾いて振動させると、優美で抒情的な曲調を出すことができる。竹簧の長さは4〜5寸であり、単弁(リード)と復弁の区別があり、音高と音質は弁の長短や寛狭、厚薄によって変化する。演奏者は左手で簧尻を持って、右手に簧頭を持ち、リード部分を口に当てて、吹奏する時に右手の指でリードを弾いたり、弾き糸を使ってリードを振動させ、様々な音量や音色を作り出す。造字の本義は、竹簧(口琴)についている弾性のある剝片である。『説文解字』には、簧は、笙中の簧(リード)なり。竹楽器の笙のリードである。字形は「竹」を偏旁に採用し、「黄」は音符である。竹簧は古代の女媧が発明した。
口琴を製造する竹材を「筋」と言うが、篆書の「筋」は「竹」と「肋」との構成であり、「肋」はリードを支える枠を指す。造字の本義は、リードについて、縦にした弾力のある表皮層を比喩している。『説文解字』に、筋は、肉の力なり。力に従い肉に従い竹に従う。竹は、物の多筋なる者。
「本」は植物の幹を指し、伸展して物事の主体を指した。篆書の「笨」は「たけ」と「本」との構成である。「本」は木の主体であり、重要なもの。しかし竹には芯が空洞であり、その「本」の根源は、人々には単なる薄い膜に過ぎず、重要でもなく、少しも用がないものと考えている。このため、彼らは用のないものを「笨」と呼び、一般的に頭が良くなく、手足が緩慢で、動作の機敏でない人を指している。例えば、笨拙(ホンクツ、不器用)、笨蛋(ホンタン、のろま)、笨鳥先飛(緩慢な人は早く仕事を始める)、笨手笨腳(もたもたする)など。
後に人々は、この地味な「笨」は強靭で、弾性があり、気流に共鳴することを発見し、吹奏楽器の理想的な材料であることを発見した。女媧氏の部下官「隋」は、「都良管」と「斑管」のような吹奏楽器を作り出したが、つまり「蘆笙」や「蓧笛」のような様々な管楽器は、どれもこの震動弁(リード)から切り離せない。
「蘆笙」や「竹笛」の音は「自然音」と呼ばれ、赤ちゃんが生まれる前に母親の胎児で聞くことができる音です。音と形の両方である賴は、依存を示します。篆書「籟」は「竹、代用竹膜」と「賴」で構成されており、竹膜を震わせて発音する竹の楽器を示しています。即ち、竹笛を演奏すると、気流が笛穴上の竹膜に当たり、竹膜から発せられる音楽音が振動する。
7,000年以上前、中国人は楽器を使い始めましたが、これは夢物語ではありません。これは、現代の考古学者が新石器時代の遺跡から発見した多数の物理的機器によって検証されています。私達が見ることができる最古の楽器は、万里の長城両岸、長江の南北にあります。繊細な骨笛、笛、陶器の数々は息を呑むほどです。
骨笛は、古代の祖先が使用した最古の管楽器の一つであり、祖先の狩猟労働で動物を罠にかけるための道具でもあります。このような機器は、浙江省余姚県河木都と江蘇省呉江県の新石器時代の遺跡から発掘されています。骨笛は動物や鳥の手足の骨でできており、その上に1〜3個の穴が開いており、簡単な曲を演奏したり、動物や鳥の歌をシミュレートしたりして、動物を誘惑して狩りをすることができます。今日でも、大興安嶺山脈の原生林に住む達斡爾、鄂倫春、鄂温克などの民族は、木製の鹿笛や樹皮笛を使って、雄鹿や雌鹿を罠にかけるために、雌や若いノロジカの鳴き声を演奏しています。
古代の先住民が使用した骨製の吹奏楽器は角笛である。1987年に河南鄭州舞陽県賈湖新石器時代の遺跡から出土した10本余りの楽器は、科学測定の結果、年代は今から7,000年余り前の、紀元前6,500年〜前5,500であった。中でも日々も完全な一本は、長さ22.2センチメートル、上部に七つの音穴があり、両端は直通し、一端に吹き孔がある。吹奏実験と科学計測により、『小白菜』などの民謡は問題なく吹奏できた。これが現在最古の管楽器が備える音楽性能は、世界の古代楽器の遺物の中でも先例がない。
その時流行した楽器は、魅力的な抑揚のある音楽を演奏のできる、陶壎(トウクン=土笛)であった。壎は陶土を利用した焼物で、形状は大小の鵞鳥の卵や魚型の吹奏楽器である。浙江河姆渡、西安半坡等の新石器時代の遺跡から、一孔や二孔、三孔の壎が出土している。三孔壎の頂点は歌口(吹き孔)であり、残りの二孔が指孔であり、完全な音階、まろやかで、重厚、深い音色を吹くことができる。多くの陶壎の発見は、古代民の音楽生活の中でも比較的不通に使用され、殷商時代になると、陶壎の製作は成熟する傾向にあり、5個の指孔に発展し、8個の連続する半音を吹くことができるようになった。
竹で作った楽器や、容器などの偽物を「曲」と呼んでいる。金文の 





甲骨文 








「大」とは、「小」に相反して、量が多く、程度の高いことを表す。「夸」の甲骨文 は楽器製造の形象であり、「于」が吹奏楽器の「竽」であり、「大」は音量が大きく、音声が響き渡ること。造字の本義は、笙の一種「竽」が特に響き渡ること。金文では上下の構造を調整し、「夸」と書き、音声が響き渡る意味となる。「夸」字の傍らに「言」偏を加えて、一字で「大げさな言葉」を表している。つまり篆書の「誇」は「言」と「夸」との構成であり、造字の本義は、大げさな、不正確、誇大な言葉である。
楽器に関する熟語で、有名なものに「濫竽数に充つ」がある。戦国時代の斉の宣王は音楽を愛好して、合奏を喜んだので、そのため一度に300日の大型管楽団を組織し、多くの人と一緒に吹奏した。南郭氏は音楽には全く疎かったが、斉の宣王に竽の吹奏を御願いした。斉の宣王は大変喜び、南郭に宮廷楽師の職を準備した。官庁では彼に他の何百人と同様の待遇を与えた。数年後斉の宣王が亡くなると、彼の子の斉の湣王が即位した。斉の湣王も竽の吹奏を聞くのが好きであったが、彼は楽師の一人一人の演奏を好んだ。こうして「濫竽数に充つ」の南郭氏は混じっていられなくなり、すごすごと逃げ去った。
「由」は、「迪」の省略であり、道案内、引率を表す。「笛」の篆書は「竹管」と「由」との構成であり、「由」は「迪」の省略であり、リード楽器を表す。つまり主管から導かれる気流が発音孔上通して、リードを振動させ発音する楽器である。『説文解字』に、笛は、七孔の管楽器。
「同」は、音符であり、意符でもあり、一斉に発生する音声を表す。「筒」の篆書 は「竹」と「同」との構成であり、「同」は一斉に音声を発生する意味であり、竹管を吹奏する時に、並んだ竹管が共振して、共鳴を発すること。『説文解字』に、筒は通簫なり(中空の竪笛)。





「簫(ショウ)」、篆書の「簫」は「竹」と「肅」との構成で、「肅」は厳粛で重厚な雰囲気を指す。造字の本義は、音楽の調子が重厚で、悠遠であり、人を厳粛で敬虔な気分にさせる排列式の竪笛で、伝説では帝舜の発明としている。『説文解字』に、簫、参差たる管楽。鳳の翼を象る(色々な長さの管を、鳳凰の翼を象って排列した楽器)。




甲骨文の 

「和」字の根源は「龠」である。甲骨文の 



金文の字形 





中国の古代の、例えばラッパ、チャルメラ、胡弓から横笛に至るまで、全て外国から齎されたものである。また中国古代の笛は全て竪笛であり、今日の簫で、当時は単管を「笛」と言い、排列したもの(パンフルート)を「簫」と呼んだ。現在の横笛は南北朝時代にインドから伝えられたもので、今日では主客転倒して、中国古代の「笛」は排列されて「簫」となった。ラッパ、ソナー(チャルメラ)は現代初期に、アラビア地区から、中国へ伝えられたものである。胡弓は「中国のバイオリン」と呼ばれ、初めは「奚琴(ケイキン)」と呼ばれ、その原型は西アジアから中国の北方の少数民族地区へ齎されたものであった。北宋年間に中国へ伝えられた。現代人は胡弓を中国の伝統楽器の代表としてとらえているが、実は琴瑟、琵琶と比べて、楽器の中では後輩である。
女媧と同様に、神話中の伏羲氏と、神農氏も偉大な音楽家であり、伝説の神農氏は初めて中国の伝統楽器の「琴」を発明し、伏羲氏は「瑟」を発明した、屈原は『楚辞・大招』で、伏羲氏は名曲の『扶来』『駕辯』を創作したと言っているが、これは中国最古の琴曲である。
「琴」の金文 







「瑟」は、金文の 







「比」は、「枇」の省略である。「巴」は「杷」の省略である。琵琶の初文は「枇杷」であり、江南特産の初夏に熟れる卵を逆さにしたような果物である。「琵」の篆書は、 弦楽器の琴柱の多い「珡」と「比」との構成で、「琶」の篆書は「琴」と「巴」の構成である。琵琶は外形が枇杷に似た木製の弦楽器である。唐代の別字氏は「琵琶」と「枇杷」との区別が判らず、「枇杷果」と「琵琶果」と書いてしまった。人々は、「若し琵琶の能く果を結び倘(とど)むれば、城に楽器満ちて尽く花をひらけり。」と嘲った。
「箏」の篆書は「竹」と「爭」との構成であり、「爭」は両手でつかむ動作である。造字の本義は、古代の一種両手で爪弾き、竹筒の共鳴胴の楽器である。『説文解字』に、箏は弦を鼓ち竹身の楽なり。
「築」、篆書の「築」は「竹」と「巩」との構成で、「巩」は攻めぐで打ち付ける動作である。造字の本義は、一種竹製の打撃道具。『説文解字』に、竹を以うる曲、五弦の楽なり。女媧と伏羲氏は瑟、笙簧(ショウコウ、笙の笛)、壎(ケン、土笛)などの中国伝統楽器である。これらの楽器は神業の作であるため、後世「妙器)と称賛された。篆書の「巧」は「工」具と楽器「丂」との構成であり、造字の本義は、楽器と工具の製作に長じて、技術に秀でていること。『説文解字』に、巧は、技なり。
古代の伝説の黄帝は、音楽にも天賦の才能が有り、先人の心中でもあり得ないような音楽の先達であった。古典の『天中紀』に引用する『黄帝内伝』には、黄帝は涿鹿と蚩尤戦いで、軍隊で突撃する時に吹く「角」という楽器は、龍の咆哮のような音を出したので、蚩尤が率いる部隊は戦気を失った。通常の戦いでは、黄帝は進撃も退却もとわう、伝令には牛角の笛を号令とした。異なる部分は、進撃の時の牛角の号令は、急速激高であり、人々を大変奮起させ、戦闘意欲を高めた。そして、撤退の角笛は、大変緩慢で、哀愁を帯び、重々しく感じさせた。『黄帝内経』の記録によれば、「黄帝と蚩尤の戦は、玄牛 夔牛の鼓を製す。」とある。黄帝が蚩尤との決戦の期間に、玄牛という大臣が夔(き)獣の革で作った戦陣太鼓で軍隊を威力を助け、一打「声五百里に震う」と言い、決戦の時には九回連打して、全軍の指揮を大いに高めた。天地に轟く太古の音声は、蚩尤と彼の軍隊を恐怖と絶望に陥れた。
夔は古代の神話伝説中の雷神であり音楽の神で、黄帝時代の人で、尭舜時代には音楽を掌握する楽官であった。雷神であり音楽の神である夔は、古代の鰐魚の類の爬虫類の化身である。『山海経・海経新釈巻九』によれば、夔は一種「出でて水に入れば則ち必ず風雨あり、其の光は日月の如く、その声は雷の如し」神獣であると記載していて、常に尾で自身の腹を打ち音楽を生み出し、先人には雷神と音楽の神として信仰されている。
黄帝は夔皮で鼓を製作し、その音声は「五百里」四方に伝わったので、こういう体を歴史的な文献では「鼉鼓(タコ)」と称した。古文書では「鼉」と「夔」は通用字であり、両字の発音も相当していた。「鼉」は甲骨文中では這いまわる動物の形で実際は鰐魚である「咢」と書く。鼉鼓はつまり鰐皮を張った太鼓である。山西省長襄汾県の陶寺新石器時代の龍山文化後期の遺跡から出土した鼉鼓は、太古の胴内から散らばった鰐魚の骨片が発見された。先に述べた夔の神話と鼉鼓の実物の発見は、正に相互に裏付けられ、太鼓類の打楽器は中国の最古の住民が最初に使用した楽器の一つであることを示している。
「咢」の篆書の上部は「」の二つの「口」はは口を大きく開け、下の「屰」は子供が正常とは逆方向であることの難産を表している。造字の本義は、口をあんぐり開けるほどの息もできなく、会話もできない、大変な驚きであること。「咢」字が部首化して、「驚愕」の本義が消失後は、篆書には「心」と加えて「愕」が作られ代替された。
鰐魚は「鱷」と書く。金文の「噩」字は「器」と似ていて、元々静脈や、血管が接近する臓器を示している。造字の本義は、心臓の機能低下による、睡眠時の呼吸困難の悪夢である。「噩」字は多く例えば噩耗(訃報)、噩運(不運)、渾噩(不明)等の「驚くべき酷い知らせ」を形容している。自然界には、恐るべき「噩」神〜鰐魚「鱷」がいる。人が鰐魚(ワニ)に噛まれたら生き残るのは困難である。人が鰐魚に噛まれたら、大惨事であり、このような知らせは、噩夢(不運)である。
鼉鼓以外にも、古代神話に登場する打楽器には、鼓、磬、鐘、鈴などがある。
「鼓」は、甲骨文では と書き、牛皮の鼓「壴」の三方向に手を置き、様々な方向から太鼓を叩くことを表している。造字の本義は、戦争や祝典で多用する太鼓楽である。
「嘉」の金文 





「聲(声)」は「磬」の本字であり、甲骨文の方 








「磬」の甲骨文 













1990年代の映画『木魚石の伝説』の主題歌で「美麗な伝説があり、精美な石塊が歌唱する」という。歌唱する木魚石とは「磬」を製作する優良な原料である。古代人は小さな塊でよく音声を発するものを「礫」と呼び、大きいものを「磬」と読んだ。「磬」の形状は木工用の直角定規のような形で、直角のところに小穴があり、縄を通して掛ける。考古学の発掘で最古の石磬は、紀元前2,000年の夏王朝初期の山西省夏県車下溝遺跡から出土した。
遥か古代、人々は石磬1枚の演奏を「特磬」と言った。しかし一枚の特磬では一音しか出せなかったので、演奏には向いていなかった。商代になると演奏者達は多くの石磬を使用して、音程の高低の準備編成して使用して「編磬」と称した。磬を打撃する演奏の音声は軽快悠長であり『呂氏春秋・古楽』に、その崇高な演奏を「上帝玉磬の声、以て百獣を舞わすに致す」という。これは一種、神霊の気を具有した重要な楽器であるので、後世の人はその高尚な品徳と関係して、温馨の「馨」字を創造した。
「殸」は、音符であり意符でもあり、「馨」の省略であり、石質楽器が発する静寧な楽器を指す。「馨」の金文は 



金文の 




初期の甲骨文 










「鍾」に比べて小型の初期の楽器には「鈴」と「鐺」があり、金属器がぶつかり合って響く音声に由来している。
金文の「鈴」は「金=金属」と「命、令」との構成であり、古代に信号を発令したラップ状城の金属の音響機器である。『説文解字』に、鈴は、令丁なり。「呤丁」は音声を発する金属器である。
篆書の「鐺」は「金」と「當(当)」との構成である。「當」は擬音語であり、鎖が滑り落ちる時に発生する「ガランガラン(鐺啷)」という音声である。
「鐸」は、木舌を使う大鈴鐺であり、金鐸と木鐸の二種があった。金鐸は軍楽器であり、軍隊の撤退を指揮するのに使用され、熟語の「嗚金収兵」で使用した「金鈴」のことである。木鐸古代に文治教化を喧伝するのに持いられた楽器である。『尚書・胤徴』に、「毎歳孟春、遒人(しゅうじん)木鐸を以て路に徇へ、官.師相規し、工藝事を執りて以て諫む、其れ或いは恭わず、邦に常刑有り」という。木鐸の外面は金属で再作され、鈴舌は木製である。官署の派遣がこれを持って路上で揺り鳴らし、人を集めて政令を発布し、あるいは民衆の意見を求めるもので、夏王朝の体制であった。これにより夏王朝時代にはこのような楽器があったことがわかる。
金属が発見され、使用される以前、人々は石鐘、つまり穴の開いた石を使っていました。甲骨文「更」は三つの要素で構成されており、石鐘を指し示す(穴)、石鐘を打つ十字の木槌(丁)、そして木槌を握る手(又)です。造字の本義は、手に木槌を持ち、定時に石鐘を打ち鳴らし、一般の人々に時刻を知らせます。金文「更」は、甲骨文の石鐘の形を(丙)として書き、それを柄を持つ石器を指します。隷書「更」は、篆書の「丙」「攴」を抽象化し、それを「更」を連続して書きます。その結果、石鐘の形象は消えてしまいました。
陝西省長安県客省庄と河南省陝県廟底溝の新石器時代の遺跡から出土した陶製の鐘は、後の青銅鐘と似た形状であり、青銅鐘の祖先となっています。そして、陶器の器「缶」は、日常の仕様の他にも打楽器として使うことができました。『史記・廉頗蔺相如列伝』には秦王と趙王澠池が会う際、藺相如が秦王に缶を打つように頼んだエピソードがあり、これは小さな酒樽を楽器として秦王が打ったことを指します。古代の先住民が土器で作った祭祀の楽鐘は、実際には音階を打つ「缶」でした。最初は彼らは陶製の缶を鐘として叩いて「ディンディンダンダン」を楽しんでいました。頻繁に叩く内に、大きな缶は低く、小さな缶は銳く鳴ることに気づきました。大きな小さな楽鐘を順番に配置すると、一連の編鐘が出来上がります。
様々な楽器が発する音声は、古代人にとって見れば、色々な象徴的な意味があった。『楽論』に、「鼓は、其れ楽の君邪。故に鼓は天に似て、鐘は地に似、磬は水に似て、竽笙簫筦は星辰日月に鑰似(やくじ)す」という。古代人は、楽器の作用は娯楽のみならず国を統治する方法を総括して、「王道」の真理は「礼」「楽」「刑」「政」の四字にあり、「四達」という提案した。「礼」は立法権、「刑」は司法権、「政」は行政権である。「楽」は音楽、美学を指すばかりでなく、「楽文(文学を楽しむ)」もあり、その作用は「楽は持って情を渲(くまど)ることにあった。音楽には人心をコントロールし、感情を操縦する効能を持っており、まさに『礼記・楽祭』にいう所の「礼は以て貴賤を別け、楽文は以て人心を溝通す。」の如しである。
音「楽」を使って人心を疎通させることは、つかみどころのない抽象的な理論ではなく、大禹の実践による。大禹が治水の間、九州の千山万水を駆け回り民間の辛酸に関心を払った。彼は民を豊すにすることを基本とし、時々に出かけて、民の気持ちを理解し、才徳兼備の人を求めた。『淮南子・汜論訓』に、大禹が国土を掌握したのちに、鼓、鐘、磬、鞀、鐸五種の楽器を公務の処理に利用した。大はこの五種の音声のよく響く楽器を宮殿の門前にかけて、「我に道を以て教うる者は鼓を撃ち、我に事を以て告ぐる者は鐸を振り、我に対して困難を述説する者は磬を撃ち、状を告ぐる者有れば鐸を揺らせよ。」と告示を発した。もし誰かに濡れ衣が及べば君主を訪ねて判断を求めるならば太鼓を鳴らした。王宮門前のこの太鼓を「登聞鼓(聞き及ぶ太鼓)」と読んだ。免罪を訴る人の太鼓を聞けば、大禹はどんなに忙しくとも、何はさておき入廷して案件を処理した。
もし君主に人生の理想を語り、科学の道理を話したかったら鐘を撞く。大禹は当時、すうがく、天文がく、地理学、建築学、水力学、社会政治学の専門家として最も有名であった。これらの学問は決して天から授かったものではなく、無数の智慧者が学び取った、実践からまとめられたものである。学んで厭わず、人を誨て倦まず、大禹はこれを楽しんで疲れざるなり。
もしある地区に殺人放火、窃盗略奪のような刑事案件が出現したら、案件を知らせるために磬を撃つ。磬の音声が頻繁に出現しても、この楽器の音声も良く聞こえる。抑揚のある鐘の音のように、王宮の門前の磬は、毎日のように10度8度と鳴り響いた。周囲の人々は皆聞き慣れたので、後世造字の時に、きっぱりと石磬から発生する音「声」の文字に、耳に聞こえる音声を表すようになった。
誰かが統治の方法を検討したい時は、鞀(鼗)を敲く。国を治める方法にはあらゆる側面があり、大禹は自身が語るには不足して、ある時には子契、伯益等の人を招集して語り合った。そこで「鞀」は太鼓であり、牛皮を使っているが一般の太鼓の音とは異なっていた。
緊急事態が発生した場合、例えば地震、火山、洪水、土石流など、すぐに鐘を鳴らす、つまり「鐸」を鳴らす。大禹は災害対策の専門家で、様々な緊急対策を既に準備しています。鐸の音やリズムはそれぞれ特別な意味を持ち、異なる場所や災害の種類を示しています。鐸の音が鳴り始めると、京都の人々は既に忙しくなります!
大禹は自分自身に5つの政策手段を設定し、一日中忙しくしています。時には飯を食べるために碗を持ち上げると、外から太鼓の音や磬の音が聞こえてきて、彼は仕方なく碗を置いて公務に出かけます。一食の間に、碗を持ち上げては置き、何度も繰り返します。これがいわゆる「一饋十起」で、「饋」は食事を意味します。「一饋十起」という成語は、元々は大禹の政策の態度を称えるためのもので、今日では物事が忙しいことを表現するのに使われます。詔が下されると、全国の賢者達は風のように集まってきます」。
『竹書紀年・帝舜有虞氏』の記載によれば、舜帝の即位第十四年のある日、大海は静かに水は澄み、天下は大いに収まり、朝廷の文武が一堂に欽集し、鐘磬が鳴り響き、その音楽は和やかに融合していた。楽隊が初めに演奏したのは黄帝が写譜した『雲門大巻』であり、続いて尭帝の徳を誉めたたええた『咸池』を演奏した。その後、舜帝の自作の曲の演奏を始めた。韶楽(最古の雅楽)の演奏は笙を前奏とし、磬を主として、簫、壎を主とし、琴、瑟等の弦楽で補助する。打楽器は編鐘を前奏とし、磬を主として、足鼓、健鼓、懸鼓で補助する。しかし「簫韶』の演奏が終わる前に、突然の雷雨に、狂風が大いに起こった。颶風は屋根を吹き飛ばし、大樹をなぎ倒し、台風は地面に吹き飛び、鐘磬の架台は吹き倒され、楽器が散乱し、楽隊は鳥獣のように一目散となり、指揮者はほうほうの体で逃げた。この場面を見て、舜帝はすぐさま散らばった楽器を収拾し、群臣達にこやかに、「天位は明白である。この楽器達の態度も明らかで、天下は我一人の天下ではない。」と語った。引き続き、舜帝は禹を天子にに推挙し、大禹に天子のことを代行させ摂政とした。舜帝がこの決定を宣言すると、満場はしばらく、鳥雀さえ静まり返り、風は止み天空には吉兆の彩雲(にじ色の雲)が出現した。この吉祥の雲は煙のようで煙でなく、雲であり雲でなく、「卿(君)の雲」とも「慶雲」ともいう。祥雲にすっぷり覆われ、楽師と群臣は『卿雲歌』:「卿雲燦兮、縵縵兮。日月光華、旦復旦兮。」歌詞の内容は、絢爛煌びやかな彩雲の絨毯が天空を覆う。眩しい日光月光が日々大地を負いつくす。一曲を歌い終えると、風雲も止み、続いて、「蟠龍が隠れ家から飛び出し、蛟魚(みずち)が淵に躍り、魚鼈が穴から出て、虞から遷って夏に仕えた」。つまり蟠龍、蛟魚、魚鼈等をトーテムとする各部族の首領が、四方八方から湧き出てしてきて、舜帝を捨てて、大禹の摂政を宣言した。この時、また黄龍をトーテムとする部族があり、長さ32尺、幅9尺の横断幕を取り出し、「当禪禹(正に禹に禪((ゆず))るべし)」と記した。
これより、大禹は舜帝の「有虞氏」に代わり、国号を「夏后氏」と改めた。
虞は元々虎が山林で吠えることを指し、后は虎の表演を指す。金文の 






「戲」字も虎冠に関連する。金文の「戲」は「戈」と「鼓」、「虎頭」の構成である。造字の本義は、古代の宮中の残酷な娯楽であり、死刑囚や奴隷に戈㦸を持たせて、太鼓の号令で虎豹などの猛獣と戦わせるものである。
「豦」は、音符であり意符でもあり、トラや、イノシシ等の野獣を表す。篆書「劇」は、虎冠で猪身の野獣「豦」と「刀」の構成である、造字の本義は、古代の宮中の遊l戱であり、死刑と判断された奴隷に野獣と戦わせ、観衆の楽しみとしたこと。古代の中国農村部では、専門的な「社祭(産土=土地神祭祀)」の日があった。その日になれば、社会の人々の殆どが仕事を休み、祭礼に参加した。この日家々では祭礼のために、神飯、神餅などの神饌をたくさん用意した。農村の各地神祭壇の近くで、共同社会で祭祀した後、一緒に笛や太鼓で飲めや歌えで賑やかに過ごした。このお祭りを過ごすと、多芸多才の巫師(みこ)も登場した。彼らは皮や木製の面をつけ、各家を巡り賽錢や一杯の酒で、邪気を払い神を迎えた。出資者を喜ばすために、巫師は鬼神を捉える努力をして、万才、寸劇、記述、時評、講談、冗句、話芸、くんち(龍舞)、舞踊などの余興の演目があった。これら一切は結局のところ、農村での産神祠での「神社劇」に由来している。
神や鬼やらいを請う活動は村芝居へと変化して、娯楽色が次第に濃厚になってきた。祭礼が神に鬼やらいを願うことは誰もが知っているが、この機会に楽しんでみるのも本質的には変わりがない。例えば漢代に流行した大型の危険で娯楽的な演目「蚩尤(しゆう)劇」は、出演者が牛頭の面をつけ、格闘試合を進行して、好演すれば、首都の長安で演出が報告されるチャンスもあった。宋代になればさらに開放され、祭日ごとに宋の仁宗はきゅうもん宮門を開放して、民衆と共に楽しみ、はたまた后妃達も一緒になって、女性の裸体相撲を楽しんだので、司馬光などは強烈な抗議を何度も上奏した。しかし総合的には、唐の玄宗が「梨園」という名の宮廷楽団を設置してから、中国芝居は全て文化的、健康、安全な娯楽の大式典となったので、殷商時代の「虎との格闘劇」や古代ローマの残忍な拳闘士の「上演」に比べて、何倍も高雅であった。鬼怪は追い払われても、活動し続けたが、古代人の宗教に対する信仰の基本的態度であった。祖廟を見て文化を確認し、芝居を見て民情を確認するのが、中国の古代文化の縮図であった。古代の言語、服装、行動挙止、思想観念は、現在まで全てその中に遺留している。
古代では専門的に出演する人員を「優」と言い、金文 







「可」の、甲骨文の 






「可」は「歌」の本字であり、笙を吹き歌うことを表す。その後「可」の「愛情を歌う」本義が消失して、「許容」を指すようになり、篆書には「可」と「欠」を加えて、新たに「哥」と「歌」を作り代替した。金文の 







「哥」は元々「歌」の本字であり、両字は互換できる。我々が現在言うところの「哥哥(兄貴)」は、南北朝時代の鮮卑族の言葉で、「阿干」という発音からいている。
唐の太宗の母親と祖母はみな鮮卑族の女性であり、彼の三弟李元吉は李建成を「大哥」と呼んだ。史書の『資治通鑑』には、李建成と李世民は皇帝の継承を争奪し合った子で、闘争は熾烈であったと記す。李元吉は李建成と仲が良く、かつて李建成に胸を叩いて忠誠心を誓い、「大哥のためにこれを手打ちにしてやる。」とまで言った。つまり長兄が次兄を殺害するのを手伝うためであった。しかし結局は、次兄が狼であり、長兄も三弟も次兄に殺されてしまった。
「区」には二つの発音があり、ク「區」と読めば地理を表し、オウ「歐」と読めば歌うことを表す。篆書の「謳」は「言」と「區(区)」との構成である。「區」はここでは、大衆のどよめきを模倣した「嘔」であり、「區」字が「言」に従っているのも、祈祷の時に発する「オンオン」と言う音声を表している。『説文解字』に、謳は斉(そろ)う歌なり。つまり大勢の歌唱である。
篆書「謠」は「歌謡」の初文であり、神霊に祈祷する言語と肉の供物との構成であり、祭祀の時の祈祷の言葉である。「䍃」は、供物の肉を手で「缶」に入れることで、祖先を祭祀する準備である。神霊魂魄との会話は真剣になる必要はないようであり、往々にして適時に実現できなくとも多少は許されるものである。そこで後世の人は無責任な言論を広める行為を「造謠(デマを飛ばす)」と呼び、影も形もなく流布される迷惑な嘘を「謠言」と読んだ。
様々な合唱団が向かい合って歌合戦することを、歌咏比賽(歌謡コンテスト)と言う。金文「咏」の「永」は「水の長い流れ」の意味であり、下部に「口」を加えて、流水のような緩やかに止まることを知らないアリアを喩えている。『説文解字』に、咏は、歌うなり。
「歌」と関係する熟語で、元々有名なものは「四面楚歌」である。西楚の覇王項羽と漢王劉邦は元々鴻溝を境界として、互いに侵犯しない約定があった。その後劉邦は張良と陳平の忠告を聞いて、項羽が弱い内に彼を消滅するべきと考え、韓信、彭越、劉賈と兵力を合わせてちょうど東へ向かって彭城へ出陣した項羽の部隊を追撃した、韓信は「十面埋伏」の計で、項羽を垓下で厳重にほうい包囲した。この時項羽には手下の兵が大変少なく食料もなかった。夜中に彼の軍隊の四方を囲った部隊が楚地方の民謡を歌うのが聞こえてきて、大変驚かずにはおられず、「劉邦はもう楚地に着いたのか、なぜ彼の部隊内に楚の人間がこれほど多いのか。」と言った。そう言うと、心中に戦意は失わせ、寝床から起き上がると、陣幕内で酒を飲み、彼のお気に入りの妃子虞姬と一緒に歌った。唱い終えると目には涙が溢れ、そばの人々もやりきれず、頭も上げられないほどであった。しばらくすると項羽は馬に乗り、800名の騎兵を引き連れ、南方に向かって包囲を突破した。項羽は逃げながら戦い、長江北岸の烏江鎮を辿り着くと、窮地に陥り最終的に自害した。
この物語は辺り四方、皆が楚の歌を歌っているのを項羽が耳にし、驚きまた自害にも失敗するという筋書きなので、後の人は「四面楚歌」の語で、あらゆる方面から攻撃を受けそれにより孤立無援の境地に立たされている人々を形容するようになった。凡そこの境地に陥る人の運命は大体悲惨だ。例えば、しばしば、悪い人と与する人がおり、仕事にも従事するプラプラと遊んでいる、でも後にその悪い人らに追い込まれて誰かに助けを求める時、その誰かも彼の日頃の行いを見て、同情するどころか構おうともしない、こういう境地を正に「四面楚歌」というのだ。また、学校で学術的な問題を討論する時に、無知無学で口だけは達者で、物語の是非も分からずあれこれ述べる輩を、クラスメイト達が孤立無援の境地に落とし込む。こうしたことも「四面楚歌」という。
このブログへのコメントはmuragonユーザー限定です。