フレンドリー山東(威海李君)

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悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
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イギリス軍の傭兵「華勇営」は日本軍の決死隊と協力して天津城壁を突破した

フレンドリー山東(威海李君)

「華勇営」の歴史が埋没していないのは、イギリスの軍史文書が完全に記録されており、またイギリスの軍官バーンズが回顧録『華勇営出兵史』に、彼が1903年3月から10月までの期間に活動した細々(こまごま)を詳細に記録しているからである。

このため「華勇営」の8年間の発展史を通して、これは正真正銘中国民族を裏切る部隊であると結論付けることができる。


「華勇営」は軍事パレードに参加

1900年8月、八ヶ国連合軍が北京城を突破すると、西太后慈禧は西方へ逃亡した。日本人の小川一真は連合軍に付随して紫禁城へ侵入し大量の写真を撮影した歴史がある。

この時八ヶ国連合軍が紫禁城に侵入してから軍事パレードを催行したことには触れたが、このパレードも当時ドイツの軍官が撮影して記録されており、1902年に出版されている。

当時軍事パレードに参加したのはロシア軍、日本軍、英軍、米軍、フランス軍、ドイツ軍、イタリア軍、オーストラリア軍の合計3,170名であった。この軍隊は天安門広場の金水橋から皇宮を通過し、神武門から退出した。


写真は皇帝の玉座に座っている八ヶ国連合軍の総司令ヴァルダーゼー。

ルダーゼーはドイツ軍の上将で、彼は自身の日記に八ヶ国連合軍が中国での略奪行為を記録している。彼は「大変残念なことに、これほど多くの貴重な物品が最も粗暴な方法で扱われ、全て破壊されたことである……。」

彼はドイツ皇帝へのレポートにも、記録がある。「最近の戦闘で北京の多くの街区を消滅した。北京が占領されてからの三日間に公然と容認された掠奪は、数え切れない破壊をもたらした。英軍の略奪は相当組織的であり、強奪した品物は後日オークションにかけツために、外交使節団の(荷物の)隙間に集められたに違いない。

オークションの収入は計画通り軍官に配分された。日本軍の戦利品は国家に上納され、国家は見るべき数目を収穫したはずである。ロシア軍の略奪は野蛮な方法で行われ、品物はめちゃくちゃに散らかった。フランスも略奪に関しては、人後に落ちることはなかった。」

意外なことに、パレードには中国人で構成された隊➖華勇営も参加していた。これは、大英帝国の植民地における駐屯地威海衛の英国政府側が現地の中国人を雇用・編成したもので、最初は威海衛の防衛に当たっていた。その後の戦争で、華勇営は英軍に多くの「手柄」を立てた。

この部隊はよく組まれており、武器も最先端だった。当時の欧米の正規軍でも珍しかった最新鋭のマキシム機関銃まで備えていたのだ。

連合軍の北京攻撃を支援

1900年7月14日、「華勇営」は日本の決死隊と共に、遂に天津の城壁を突破した。その後、天津の戦いにおける彼らの勇敢さが認められ、英国王室は1901年、天津南門の城をメインシンボルとする「華勇営」専用の軍章を授与した。

「華勇営」は連合軍の此度の北京攻撃において、城壁に大砲を運び、連合軍に紫禁城への襲撃の協力をした。天津占領後、「連合軍に」は北京方面への進軍を命じられ、香港とシンガポール王立砲兵部隊を護衛するために100人の兵力を投入した。

8月5日、「華勇営」と香港の砲兵隊は、日本軍と共同して天津北塘で戦役を進行した。8月15、華勇営は遂に故宮前門を開いた。自身の首都で華勇営は最後の戦闘を進行し、米軍と共同して紫禁城を攻撃し、大砲を城壁に打ち込んだ。

北京を占領後、華勇営の主任務は英国占領地域の警備であり、更に警察部隊に復帰した。

天津戦役で「勇敢善戦」したため、天津戦役中の華勇達の勇敢な活躍表彰するために、イギリス王室は1901年に、天津南門楼をテーマとした、帽子や立ち襟にはめる「華勇営」の専用徽章を授与した。また威海衛に戦陣に死亡した兵士の氏名の記念碑を建立した。この部隊への褒賞として、イギリスの植民地政府は1902年にイギリスのエドワード7世の戴冠式に出席する「華勇営」を代表する12名の官兵を選出した。

イギリス人はこの部隊の重要性と特殊な役割を有望視したので、天津戦役後に植民地政府は直ちに徴兵増馬し軍隊を拡充したので、1902年までにこの部隊は1,300人余りに発展した。

存続価値をなくして買収

1902年日英同盟が締結された。

イギリスの侵略者の犯罪行為が暴露されるにつれて、次第に多くの兵士が眠りから覚めて、次第に多くの中国人が侵略者の弾除けにされる恥辱を認識し始めた。

1903年になると、1,300人余りの部隊は、凡そ800人が脱走して一気に500人に減少した。

脱走現象はイギリス人の頭痛の種であり、部隊に残った兵士の繰り返す喧嘩や怠慢な軍団は更にイギリス人の頭痛の種であった。

威海衛の植民地政府の1903年度報告には、租借地内で1日から1年の懲役を受けたものは270名に登り、その中で100人は中国軍団の兵士や退役軍人であった。彼らの内40名は、警戒中の居眠り、規律違反、賭博(とばく)などの軍規違反で処罰され、その他の60人の大部分は喧嘩、強請(たかり)などで処罰を受けた。

1904年には、軍隊の供給源が問題となった。現地の青年はイギリス人のために売名するよりも、新しく開山した金鉱や、海参崴(ウラジオストック)、南アフリカなどでクーリー(重労働者)として働くことを望んだ。植民地政府は新兵士を募集するために告示を貼り、町村の役人を招集して協力を求めた。中国軍団の作用は自身の村落を守備し、租借の安全を保持するためと説明されたが、最終的に効果は現れなかった。

しかも時勢も変化した。1905年に日露戦争が勃発し日本は旅順・大連でロシアの地位に取って代わり、ロシアの脅威を解消した。

1905年8月、日英両国は第二次連盟条約を締結前、イギリスの日本に対する警戒心も解消した。

この時、威海衛の外来の脅威は消滅し、威海衛の防衛は軽減された。

内外の防御圧力の減退により、「華勇営」は正式に解消し、一部の兵士は南アフリカへ移転し警察あるいは現地の巡査として止まったが、そのほかの者は求職した。今でも威海市街には当時の「華勇営」の旧跡が残存している。