フレンドリー山東(威海李君)

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
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建築工程技術(貴方の最初の漢字教材ー甲骨文)

フレンドリー山東(威海李君)

この人類史上、各種の発明創造の出現には、聳え立つ三つの道標のように大変突出しすぎ三つの時期がある。それは、1万年前の農業革命、5千年前古代文明の隆起、500年前に始まった工業の現代化である。

初期の農業革命以前には、我々の祖先が過ごした日々は大変原始的であり、「交通は基本的に歩き、通信は基本的に大声をだし、暖を取るには基本的に動き、警備は基本的に犬に頼る」と言う四つの言い習わしがある。

前漢の淮南劉安の書いた『淮南子・汜論訓(しろんくん)』に初期人類の発展史を次のように描写している。我々の祖先は初め山の洞穴や川辺に住んで、着衣は簡素で、生活も困難であった。その後聖人が現れ、彼らは人々を宮室の建造に導いた。かようにして人類はようやく洞穴から出てきて風雨寒暑を避ける家に住むことができるようになった。聖人はまた人類に農具や兵器の製造と耕作や狩猟を教えたので、人類の生活は過去に比べて保証されるようになった。そしてまた聖人は礼楽を制定し、各種各様の規定を定め、人々に礼節と法律の約束を尊守させたので、社会にはこれから秩序ができた。社会は絶えず発展しているので、人類は全て同一の生活方法にはできないのである。そこで古代の制度でも不適当であれば排除すべきであり、現在の制度で適当であれば推進すべきである。以上は「百川は源を異とし、而して海に入る。熟語の「百川納海」は多くの物事が一か所に集まることを形容し、また大勢の傾向と願望の帰着することの例えでもある。

人類が未開な時代から文明に進入する過程で、堅牢でゆったりした住居を建造し、精巧で実用的な工具を製作したことは、二つのキーポイントとなるステップである。黄河流域と長江流域では新石器時代の古代文化遺跡が数万か所ある。古代人の遺物を通して我々は5,000年前の中国の職人が何をして中国の農民が何をしていたのかをはっきり知ることができる。

材料では、先史時代の工房生産品は、石器、土器、骨製品、木製品の四つに分類される。

用途では主に農具、家具、調理器具、容器、兵器、祭礼器具の六つに大別される。

しかし異なる歴史段階によって、人々が得意とし尊重する技術は異なる。舜帝の子孫の「有虞氏」は製陶技術を尊重し、大禹の子孫の「夏后氏」は宮廷建造や水利土木技術を尊重し、殷商人は青銅の祭礼器具の鋳造技術を尊重し、周代の人は戦車と兵器の製作技術を尊重した。

幹を切り倒して、木の棒を作り、削って長矛にする。やや太い枝で弓矢を作り、細い柳の糸枝で行李や籠、箕など物を入れる容器ができる。

器具製造に従事する職人を古代は「匠」と言った。

「匠」の金文「匠」の外側の「匚」は、竹編みの器であり、中側の「斤」は斧を表す。造字の本義は、竹籠(かご)の中に刀斧などの工具を入れた大工である。隷書の「匠」は篆書の「斤」を「斤」と書いている。『説文解字』に、匠は木工なり、斤は器を作る所以なり(木器を製作する斧)。

先史時代には金属工具がなかったので、木匠職人の手斧は全て石塊(くれ)を使用した。石斧は着る、削る、掘る、粉砕するだけで、鋸のように綺麗に切ったり、ドリルで開けたような綺麗な穴を作ることはできなかった。

この時代の大工は木材の加工能力に限界があった。だが当時の木材は大変重要な生産材料であり、骨製品や石器と組み合わせてた工具として、武器と農具に多く使われた。農具の「耒」「耜」は典型的な例である。「耒」は先の尖った棍棒で、地上に穴を開け種を蒔く。「耜」の構造はやや複雑であり、曲がった「耒」の先端に石塊や大きいカラス貝をくくり付けて、工作や草刈りに使った。

『周礼・考工記』に、国家に六種の職業があり、職人もその一種であると示している。廟堂に居て国を治める方法を国策する人がいる。決定した国策を四方を巡視して実行する人もいる。「金属、木材、石材、皮革、絹布」五種の材料の良し悪しや大きさを見て、人々の満足する必要な品物を製作する人がいる。人々の購買に供すために四方に珍しい商品を流通させることに従事する人がいる。土地を豊かにして財を築くために耕作に励む人もいる。衣服を作るために糸や麻を紡ぐ人もいる。廟堂に居て国家を治めるのは王侯将相である。国策を執行するのは士大夫である。五材の良し悪しや大きさを見て人々の必要とする品物を製作するのは職人である。人々の購買する品物を四方に流通させるのは行商人である。土地を耕作して財を築くのは農民である。絹麻を紡績して衣服を作るのは婦女達である。

工具の「工」字は、初期の甲骨文では「」と書いた。この字形は古代の職人が多様した工具であり、片側は「丁」の形であり、片側は握ったり滑り止めとなる円環である。造字の本義は古代の職人の工具であり、円を描けるコンパスを「規」、方形を描く定規を「鉅」と言った。古文の「規矩の有ること没(な)くば方円を為さず」とはこの大切なことを言っている。『説文解字』に、工は巧飾なり、人に規矩有るを象るなり。またある古文学者は「工」字は土を掘るスコップや版築(土固め)のための石槌を象り、下部の丸囲いは貝殻で作ったスコップや石つぶてで作った石槌であり、上部の丁字頭は職人が手に持つ部分である。工具の上部には短い握り棒が付いており、職人はこれを持って土地を均したり建物を建築するのである。

上記の幾つかの言い方は共通点がある。文字学者は誰もが「工」は古代の生産工具を指し、これから発展して工具を使用する人を「工匠」、つまり現代中国で言うところの「工人」と総称したと言う例えば『論語・衛霊公』に「工、その事をよくせんと欲せば、必ずその器を利とす。」

甲骨文では、「巨」も直線を描く曲尺の「鉅」であり、常々「工」とも書くが、「巨大」の意味を表す。金文の「鉅」字の書き方は、「」であり、「工」、「又」、「大」の三部分で構成されている。造字の本義は、職人が手にする直線角を描く道具である。

「規矩」は本来製造工具であったが、後に抽象的な法律法規、礼儀制度に発展した。一国一都の大きなものから、一家一戸の小さなものまで、玉石混交である。古今内外、何処にも迷惑者はいる。司馬遷の『史記・貨幣列伝』に「衆人は熙々として、みな利のために来たり、天下は攘々として、みな利のために往く」という実話がある。

往来の混雑する人々を統治するためには、帝王が殿堂に座ってたった一言二言で全員が従順に話を聞くようにしなければならない。「規」は円規(コンパス)であり、円を描くもの。「鉅」の曲尺であり、方形を描くものである。接待の「礼義」は国家規模の規鉅(ルール)である。規鉅に有ること没(な)くば方円を為さずとは、家族であれ、部族であれ、国家であれ、仕事や生活な秩序を維持するためには、それぞれのやり方で筋道を乱さないように、早々にルールを規定することが重要である。

「規矩」と関連する熟語では、前漢の「蕭規曹随(踏襲する)」が最も有名である。「蕭」は前漢の最初の丞相蕭何であり、「曹」は蕭何の後継者曹参である。蕭何の死後曹参が丞相を継いだ。就任後は蕭何の政令を一字一句改めることなく元のまま執行した。皇帝は曹参が全く建議することもないことを笑ったが、彼は皇帝に「私と蕭何ではどちらが有能でしょうか」と訊ねた。皇帝は正直に「蕭何宰相には及ばないだろう。」と答えた。曹参は微笑みながら「陛下は正しいです。国家を管理する上で、私は確かに蕭何宰相には及ばない。しかも彼は既に素晴らしい規定制度があり、我々は彼の規則に従うことは職務を疎かにているとは言えないでしょう。」と言った。ここに「蕭規曹随」の由来がある。

現代でも常用される「用」字の甲骨文の本字は「甬」であり、字形の「甬」は木板にたがを掛けた樽のようなもので、中間の縦線は樽に着いた取っ手を示す。造字の本義は、木板をたがで絞めた木桶である。「用」が「施せる」の動詞を表すようになり、「木桶」の本義が消失すると、篆書には取っ手を逆さまにした「厶」を加えて新たに「甬」を作り代替した。更に「甬」も「木桶」の本義が消失して、部首専用の文字に変換した。例えば「甬」と「人」とのコンビで、貴族が殉葬に用いた「陶俑」を指し、「甬」と「力」とのコンビは特に戦える「勇士」である。このようにして人々は「甬」に「木」を加えて新たに「桶」を作り代替した。

8,000年余り前に学智利巧の水準が高まるにつれ、人々は意識的に自信の生息地を造営し始めた。当時の人口は大変少なく、野獣が至る所に生息して大変狂暴であった。人類は当時金属武器がなく棒切れや石斧を頼りに猛獣と戦っていたが当然不利であった。日中野獣が来ると、人々は協力して野獣を追い払ったり叩き殺したりしたが、夜間には防ぎようもなくちょっとの油断で野獣に傷付けられたり食い殺された。その後、人々は鳥が樹上に巣を作り安全に暮らすことを発見した。野獣は木に登れず見つめることしかできなかった。南方の一部族には「有巣氏」という人がいて、初めて木材を使って樹上に住みかを作った。そこは野獣の襲撃を防いで、悪天候の侵害もなく住み安かった。そこで「有巣氏築木して巣を為(つく)る」の伝説がある。

浙江省の河姆渡遺跡人には鳥類が樹上に営巣することから啓示を受けて、最初に木材や樹枝で樹上に居所を建造した。その後彼らは平地に木杭を打ち込み、木杭を基礎として「高床式」の建築を建造したので、後世彼らを「有巣氏」と呼んだ。所謂「高床式」建築とは、つまり住居の下部の密集した木杭を基礎として、上部に梁と柱の構造物を架けて、木杭の上部に長方形の家屋を建築するものである。こういう建築構造は、現在でも雲南省の少数民族地区で見ることができる。

西安の半坡遺跡人は野獣の啓示を受け、黄土の高い斜面に洞窟を彫って生活した。ここの治世は比較的乾燥しており、人々は地上に穴を掘り、泥壁艸屋根の半地下式の建築物を建造した。こういう住居の建造は相当簡単であり、耕作地の近くにこの「竪穴式住居」があればよかった。半坡人は地上に穴を掘り石や木で小さな壁を建造し、その後茅葺の屋根を被せて住居とした。こういう小屋にはベッドはなく寝室の床は草灰、石灰粉、粘土で製作した「三和土(たたき)」で踏み固め、その上に藁草のむしろを敷き、更に布製の布団を被せた。部屋の中央では通常、照明と暖を取るために焚火をした。部屋には煙突はなく、屋根や軒下の隙間から煙を排出した。こういう建築は簡単で効率的で、高級な原材料は必要なく、柴草や小さな木を数本切るだけで、北方の厳寒に耐えることが出来た。

家を建てるには十分な材料を用意する必要がある。基礎に使用する石塊、壁に使用する日干しレンガや屋根に使用する草藁草である。最も重要な材料は柱や屋根の梁、窓枠、出入り口、床板に使用する木材である。中国の南方と北方では、気候条件は同様ではなく、住宅建材も場所によって異なる。黄土高原では、住居は竪穴式住居であり、江南の湿潤な場所の河姆渡人は十数戸の家族を収容する高床式住居に住んだ。この住居は版築で建造され屋根は茅葺であった。最重要の建築材料は柱を建てる木の幹であった。

甲骨文の「主」は「柱」の本字で、部屋を作る時、「柱」は最重要な材料であったので、その性質を根拠に「主要」と言った。

「主」の甲骨文「主」の本義は「柱」である。文字の上の小さな円圏は断面図であり、住宅の柱の上部に横梁を架設していることを表す。下部の「」は木の幹を加工したものでこの幹は「木」の先端を切り取り梁を架けるのに用いる。先端の両側の枝は残され梁の位置を定める便を図っている。

ある甲骨文の「主」は木の先端を「」と書いて梁を架けるほぞ穴を強調している。造字の本義は屋根を架ける大黒柱である。後には「主」字は責任の決定者、核心的人物を表すようになった。大黒柱は屋根瓦の重量を支える大変上部なもので、主人が家庭を支えるようなものである。そこで男性を大黒柱という言い方がある。「主」の「柱」の本義が消失すると、篆書ではこの字に「木」を加えて新たに「柱」字を作り代替した。

立柱と横梁の構成を「才」と呼ぶ。初期甲骨文の「才」は、立柱と屋根梁の象形であり、「」は大樹の主幹と木の股を象るが、つまり古代の簡単な建築物の立柱と斜めの筋交いであり、「」は柱に掛けられた横梁を表す。造字の本義は立柱に梁を架けた建物に用いる木材である。後期甲骨文の「才」は木の叉を中の詰まった芯のある点にぼかしている。篆書の「才」は撇(ヘツ=左はらい)に変えている。後に「才」の「梁柱」の本義が消失すると、重大な作用を表す抽象的な物質を現すようになった。例えば「天才」「人才」「才能」などである。そこで、篆書の「才」字には「木」偏を加えて「材」字を作り本字に代替した。

甲骨文では「在」は「才」と同一文字である。

「在」の甲骨文字は樹木の叉に屋根梁を架けたものを象り、某所へ定住の家屋を建築したことを表す。金文の「在」は「才」の一偏に「土」字を加えて、家屋が立っている土地を強調している生活である。『説文解字』の解釈では、存は在なり(某所に存在すること)。

「存」の篆書の「存」は「才」と「子」との構成である。「才」は立柱と横梁であり、家を建て安居することで、子孫の繁栄を表す。造字の本義は、安楽に生活し家系を継承し次々と生まれ変わること。隷書の「存」は篆書の「才」を「」と書き「子」を「子」と書いている。

部屋の架設「才」に円錐形の屋根「宀」を加えたものは、古代の簡単な一本柱の建物「余」であった。この簡単な建物は通風がよく住むこともできず、雑多なものが堆積するだけなので「余計」な意味がある。

「余」の甲骨文「余」は一本柱で、壁のない尖り茅葺の建物を描く。これは簡単な建築物で一般に農業資材や雑貨を放置した。金文の「余」は一本柱の両側に支柱を加えている。この両側の支柱に建物はより丈夫になった。そこで家主は自信を持って「余は私の小屋である。」と他人に紹介した。それ以来「余」は「我」の別称となり、主に語気が比較的緩慢な文語となった。相対的に「我」の字源は平気であり、少々攻撃的とも言える。

農耕文化が出現する前には、狩人や採集者は荒々しい原野を渡り歩いていた。日中に男性は石槍や弓矢でだったの動物を借り、女性は木のみや草の種を集めて食料とした。夜間に彼らはかがり火を焚いて暖を取り、更に樹枝や獣皮で簡単の小屋を建てて避難所とした。東北部のオレチョン族の狩人が建造する簡単な建築方法の、棲息所は「仙人柱」という。まず先端に叉のある何本かの樹柱を組み合わせて円錐形の屋根として、その後横梁を柱の間へ均等に渡して、傘のような骨格を作る。表面に更にノロジカの獣皮やカバノキの樹皮を被せて夏の雨や冬の寒さを凌ぐ狩猟小屋が完成する。こういう小屋は構造が簡単で、解体も容易で、使用する材料もすぐ手に入るものであり、それはオロチョン族の生活の産物であった。

大きな建物を建築するには多くの建築材料や手順も複雑となる。

初期の金文の「建」字が描写しているのは、職人が家屋を建築する施工現場の様子である。人が地上に立ち、両手を伸ばして家屋の立柱をしっかりと持つ=「執」様子である。この柱は大変重量があり、持ち上げるためには、多くの人が一緒に手を伸ばす「双」必要がある。そこで「建」字の造字の本義は、人々が力を合わせ、新しい家屋の骨組みを立てる「建前」のことである。後期の金文「建」は初期の金文字形の「」を「」と書いて、家屋の図案を省略して、手で柱を支える図形だけを残している。また柱の下部を支える手を足を「辵」と書いている。更に楷書の「建」に変化すると、甲骨文の「家屋築造」に元々あった手がかりも消失した。

古代人は一定の工程で家屋を建造することを「叙」と言い、中庭の最初のアーチを「序」と言った。

甲骨文の「叙」は三つの部分で構成されている。建物の立柱と横梁「才」に手「又」を伸ばして、尖った丸屋根を運ぶ様子である。造字の本義は、予定の工程に従って柱を建て屋根を付け家屋を建築すること。

「序」の金文「序」の主体は開放建築の「厂」であり、内部の「予」は母屋の異なる方向にあり、それぞれ異なる部屋に進入できる一組の出入り口のある回廊である。

つまり「序」は雨風を凌(しの)げるだけではなく、景観を楽しめる付属建築物である。

また金文「序」の「予」部分は「」と「」は、「幺」と「子」の混合体である。篆書の「序」は金文の「」を「予」と書いている。『説文解字』に、序は東西の牆なり(家屋の前の東西両側の門墙である)。

諺に「万丈の高楼も平地より起(た)つ」という。古来中国の大型の伝統建築は全て厚く築いた版築基礎の上に建てられ、屋根は太い木柱に支えられていた。それぞれの柱の下には大きな石をが基に置かれて「礎」または「基礎」と呼んだ。柱は燭台の蝋燭のように基礎に挿して安定させて建てた。建物の周囲の壁は、藁草を混ぜた黄土でこうちく(=突き固める)して作った。当時はレンガや瓦はまだ発明されていなかったので、屋根には瓦がなく厚く茅草で葺いた。もし帝王や将軍、宰相が建物を撚り豪華にしたいと思ったら、例えば茅葺をきれいに刈り込んだり、壁面をきれいに塗り込むなど細部を修飾するしかない。

家を一棟建てるには、土に穴を掘り、土を突き固め、基礎を打ち、柱を建て、梁を架け、屋根を被せ、土壁を作るなど一連の工程で工事を進めることが必要で、万が一にも間違ったり、逆順にはできない。『周礼・小行人』には、古代人は集会の時に、玉製の祭礼器具を持ち地位の高低に応じた自身の序列での位置を見つけ順序に従って発信すると記載されている。このように「序」字には「順序」と「叙述」と連用して、ある人の「時間、場所、登場人物、出来事、結果」が完全に揃った物語を表している。工程に関しては「工序」を借用すれば良い。古代人は建物の壁の基礎を「基」と言い、柱を建てる石の基礎を「礎」と呼んだ。

「其」は音符であり意符でもあり、つまり「箕」である。甲骨文で「」と書くのは、盛り土をする片口の竹ざるである。

「基」の甲骨文「基」は土石を盛った「土」と、竹の箕「其」との構成である。造字の本義は、竹ざるで土を運び家屋の基礎を構築すること。

「期」は元々建築工期を指す。金文の「期」は時間を表す「日」と建築労働を表す「箕」から成っている。造字の本義は、建築に要する工期である。ある金文の「期」は左右の構造で書いている。また金文の「日」は「月」と改め、月齢が30日ごとに一回転することを現し、循環して運行して、一周してまた始まることを「周期」と呼ぶ。『説文解字』に、期は、会なり(月影の満ち欠けの二つの時間が重なり合うこと。)

古代人は建築の版築を「基」として、柱を建てる石を「礎」と言った。

「楚」は音符であり意符でもある。元々は地名を指し、今日の湖北省や湖南省などの長江中流地域を指す。

「礎」の篆書は「」に作り、石塊「石」と地名「楚」との構成である。造字の本義は、古代に現在の湖北省、湖南省などの地域で産出した基礎用の巨大な岩石である。

中国の古代建築は全て中国の伝統的土木構造を採用しており、そこで建築工事を「大興土木(大いに土木を興す)という。「興」の甲骨文は四本の手で多くの柄のついたタコツキ(タンパー、「凡」または「井」である。造字の本義は、全員が掛け声に合わせて一斉に力を合わせてタコツキで地面を打ち付けること。『説文解字』に、興は、起なり、舁に従い同に従う。力を同じくするなり(興は、衆人と力を合わせ上げること。字形は「舁、同」の会意文字である。)

甲骨文の「共」字は「興」の字形と相似している。

「共」は「供」の本字であり、司祭が両手で物品を捧げて、神霊に「供える」ことである。後に「共同」の意味に発展した。「興」は井字形の器物を四本の手で持ち上げるので、擡(吊り上げる)、挙(持ち上げる)の意味がある。

たくさん取っ手の有るタコツキを「凡」という。大勢が号令を統一して掛け声して「凡」という。大勢が号令を統一して掛け声して「凡」を使って地固めすることを「同」という。「同」字は衆人が一致団結して物事を一緒に行うことで、例えば、相同、共同、合同、一心同体、苦楽を共にする等等である。

「凡」に甲骨文「凡」は方形の重量物の四方に本の取っ手を連接している。造字の本義は大勢で四本取っ手のタコツキを共同使用すること。『説文解字』に、凡は、最も括るなり(最大限度に縁部、一切を包括すること)。

「凡」に連結した取っ手のタコツキを「癸」という。初期の甲骨文「癸」は「乂」字形を借用して、四本取っ手のタコツキ工具を表している。後期甲骨文の「凡」には四本の握り柄の末端に淡横の指示記号を付け加えて、取っ手を表している。また甲骨文「凡」の四つの取っ手に手を付けて、取っ手の意味を強調しているものもある。造字の本義は衆人が力を合わせてタコツキ工具を持ち上げることである。『説文解字』に、癸は、冬時水土平にして揆度(きたく、測量)すべきなり。水の四方より流れて地中に入るの形に象る。癸は壬を承く、人足に象る(癸は測量しやすい水土が平坦な冬を表す。「癸」の篆書字形は、水が四方から耕地中央に流れ込む様子である。十干では「癸」は「壬」の次のあり人物の足元を象る。)

「爰」も救援の「援」の本字である。甲骨文「爰」は上部から引き上げる棒を下方の人に差し伸べ、下方の人を引き上げる様子である。造字の本義は手を差し伸ばして他人を引き上げることである。

「築」の金文「築」には、「竹片」、半築する工具を持つ「巩」、型枠「木」の三つの要素がある。造字の本義は、竹木の型板で土塀を半築すること。

土塀を突き固める工具は「杵」、つまり「午」である。「午」の初期甲骨文は「」で、字形は「糸」に相似しており、杵棒に日本の紐縄が付け加えられ穀物を臼突きする摩擦力を増加している。造字の本義は、横紐のついた臼突き某である。『説文解字』に、午は、啎(さか)らふなり。五月、陰気、陽に啎逆して地を冒して出づるなり。象形(午は、反発すること。地中では、「午」は五月を表し、その時地中では陰気が反転して陽気になり、エネルギーが地面へ噴き出すこと)。「午」の「杵棒」の本義が消失すると、篆書には「木」を加えて新たに「杵」を作り代替した。「切」は刃物で切断することを表す。

建築材料では、俗語に「秦磚(セン)漢瓦というが、意味は秦以来磚(レンガ、切り石)があり、漢代以後ようやく瓦が出てきたということ。実際は磚や瓦は既に周代にはあった。ただし、殷代以前には国王の宮殿であっても、版築壁と茅葺屋根であった。当時は磚と瓦まだ発明されていなかった。

「砌」の篆書「砌」は建築原料の石片「石」と鏨で裁断する動作「切」との構成であり、泥レンガ工が鏨で石を切り壁を積む工程を表している。

「奐」の、金文「奐」には三つの要素があり、屋上に立つ職人「人」、職人の足元の屋根「穴」、更に両手で上げる動作「双」がある。造字の本義は、家屋を建てる時に、足場の上の職人が地上の手伝いに相互に声を掛け合い上下で建材(けんざい)や工具を受け渡すことである。『説文解字』に、奐は、取奐なり。一に曰く大なり(交換する、あるいは「奐」には「大」の意味がある)。「奐」の「交換・伝達」の本義が消失すると、篆書には「手」を加えて新たに「換」を作り、また「口」を加えて「喚」を作り代替した。

「丁」の初期甲骨文は「」と書き、竹釘ヤ木釘の四角や丸い頭部を模している後期甲骨文の「丁」の字形「」は「釘」の本字であり、釘を意味する。初期の金文では「丁」は上部が大きく下部が小さい楔形(クサビ)形に描き、後期の金文「丁「は釘頭のある金属の釘を模している。造字の本義は竹木や金属で製作した頭部が広く先端が尖った釘である。篆書の「丁」は釘の頭を「人」に書いており、篆書の「丁」は首の頭を横一に書いている。古代には鉄器がなく使ったのは木釘であったので、「丁」字には「金」偏がなかった。後に人々は「丁」字を「十干」の記数記号として借用し、まあ建築労働に従事する壮年を「丁」と言った。このほかにも「丁」字は造字の部首となり、例えば篆書の「打つ」の左側は「手」であり、槌打ち、打撃する造作を表す。右側の「丁」は釘を表している。造字の本義は金づちで打撃して釘を木板に打ち込むこと。このようにして人々は建築器物を表す「釘」字を別造せざるを得なかった。

「卯」は「鉚(=リベット)」の本字である。

「卯」の甲骨文「卯」は元々二つに分かれた状態を指している。中間の二本の縦書きの指示記号は切り離された二枚の木板を表し、「」は左右両扉の板上の双頭の釘であり、古代人は太い木栓(閂=かんぬき)で、両扉にある双頭の釘の「匚」字形の通し穴から通してしっかり閉めるのである。造字の本義は、古代の本義は、古代建築では鉚釘を利用して二枚の木板を連接すること。

金文の「卯」は甲骨文の字形を継承している。篆書はやや変形し、対象になった「戸」の構成であり、匚(框=かまち)型穴の関門の用途を強調している。「卯」の本義が消失すると、「金」を加えて「鉚」字を作り代替した。

木板を繋げる単頭の釘は「丁」であり、双頭の釘が「卯」である。そのため古代人は諺でも「丁是丁 卯是卯(けじめをはっきりつける)」と言って区別した。

「入」の甲骨文は入れ物の口が下を向いており、物品を収納して封をすることである。『説文解字』に「入」は、内(い)るるなり。上より倶(とも)に下るに象るなり(内部へ入れる。字形は物品を上部から入れる様子である。)

「就」の金文「就」は高層建築「京」の屋上に動く手「又」があり、屋上にある手は、屋根の竣工を示している。陶文の「」は上下の構造の「」であり、「」を「尤」と書いている。造字の本義は、高層建築が完成することで、つまり熟語の功成名就(功成り名を遂げる)である。