フレンドリー山東(威海李君)

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大清はなぜ北洋艦隊を救うべき人を失ったのか(「手を抜けばほらを吹き、首を絞めれば白目をむく」話)

フレンドリー山東(威海李君)

日本と中国の近代改革が成功不成功に終わった重要な原因は「外国人」に対する態度の違いであった。日本は明治維新以後ばかりでなく、幕府時代から、謙虚に助言を求めており、今でも横須賀ヴェルニー公園のように日本人の記憶に残っている。これに対して、清末の洋務派運動のために外国人官僚の経験は、往々にして双方にとって不愉快であった。最後には「西洋教師」は大清の学生を「教育できない子供」と感じ、大清側は西洋教師を「人も考えも違う」と確信しており、双方つまらぬことで別れてしまったので、百年経った今でもこれらの人々を、現在の中国人が記念したり憶えている理由はなかった。

その典型的な例が、「北洋艦隊副提督」のイギリス人ウィリアム・ラングであった。

彼の中国訪問と憤然とした離職は、実は北洋艦隊の興起と衰退に重要な役割を果たした、この作用だけだと考えられる。後世の歴史叙事ではそれは有無意識的に省略されている。

ラングは、英国グリニッジの王立海軍兵学校を卒業したイギリス海軍の将校で、1882年清国に招かれ、北洋水師の「副提督相当・水師総監」(通称「総査」)として着任しました。実質的には、北洋艦隊の海軍教官(トップインストラクター)としての役割を担っていました。

ラングの招聘には、見過ごせない時代背景があります。当時、李鴻章が主導していたのは洋務運動、西洋技術や制度を導入して近代化を進めようと言う改革でした。確かに清朝には購入資金があり、軍艦を揃えることもできれ劉歩蟾や林泰曾のように福州船政学堂を卒業し、その後イギリスへ留学した海軍士官も存在していました。しかし、創設間もない北洋水師の「ソフト面」、すなわち人材教育や指揮運用体制は混乱しており、操艦者が旗語(通信信号)や近代的な海軍の指揮システムに不慣れだったため、友軍艦との衝突寸前の事故が何度も発生していました。

とはいえ、これはさほど不思議なことではありません。よく「陸軍には30年、空軍には50年、海軍には100年かかる」と言われるように、海軍の運用とは非常に複雑で長期的な準備を要する分野です。沈葆楨が遺した福州船政学堂出身の留学生達について、李鴻章は一定の信頼を寄せてはいましたが、心血を注いで築いてきた北洋水師を彼ら「外様」に一任することには、やはり慎重でした。結果として、結果は信頼のおける腹心・丁汝昌を水師提督(司令官)に任命する決断を下したのです。


丁汝昌は忠義に厚く、部下に寛大な人物で、調整役としては悪くない人材だった。近代海軍全体を統率するという重責は、彼の能力を超えていた。

李鴻章としては、丁汝昌を補佐する副官に、軍事の専門知識を十分に備え、かつ特定の派閥に属していない人物を選ばなければ、海軍をうまく導くことはできなかった。

しかし、当時の清朝においてこれは極めて難しい課題だった。そんな中、1876年に日本が高級でイギリスのダグラス少佐率いる顧問団を招聘し、海軍兵学校(後の江田島海軍兵学校)の設立を支援させた事例が、李鴻章にヒントを与えたのかも知れない。彼はそこで、当時イギリスに駐在していた外交官・曾紀沢(そうきたく)に手紙を送り、北洋艦隊に適任の外国人顧問を探すように依頼した。最終的に、清国の税関を統括していたハートの推薦より、ラングが選ばれた。

この選択は、実際とても賢明なものだった。第一に、ラングは当時イギリス海軍の中佐であり、日本に派遣されていたダグラスが少佐だったことを考えると、その軍階は上だった。第二に、清朝は本気で日本に倣いつつも、日本を追い越そうとし、ラング一人だけでなく、イギリス海軍から50名以上の専門家を一挙に雇い入れていたのである。

しかし、李鴻章が当時気づいてなかったかも知れないのは、彼のこの決断がちょうど清国にとって外交上の「追い風」の時期に当たっていたということです。というのも、クリミア戦争後、イギリスとロシアの関係は険悪となり、イギリスはロシアの東方への拡張を牽制するために、極東で準同盟国となり得る存在を探していたのです。当時、洋務運動を進めていた清朝と、明治維新で急速に近代化を進める日本の両国が、イギリスの候補(こうほ)対象になっていました。こうした背景から、グリニッジ王立海軍兵学校で清国と日本の学生が同時に学ぶという、珍しい光景が生まれたのです。

そのため、イギリス政府も清国によるラングの招聘を快く認め、彼が現役のイギリス海軍士官という身分を維持したまま清国で任務に就くことを許可しました。

そしてラングという人物は、実際に非常に誠実で責任感の強い英国海軍の軍人でした。彼は北洋水師に赴任後、新設された海軍の為に近代的な規則体系を一から整備し、学生達にその規則の意義や運用方法を一つ一つ丁寧に指導していったのです。

丁汝昌は李鴻章に送った手紙の中で、ラングを「水師において最も有益な洋員は、総査のラングに尽きる」と称賛しています。彼は業務に勤勉で、規律にも厳しく、自ら怠ることがなく非常に律儀でした。なんと、トイレにいる時でさえ、旗信号を使って命令を出すほどだったのです。

後者の点に関しては、実際丁汝昌の発言は表面的な物に過ぎずラングの北洋艦隊に対する理念はイギリス海軍の理念を継承している。海軍にとっては、戦争はいつ勃発するのか分からないので、海軍は常時警戒し、次の瞬間に戦争が発生した時に一切の対応ができるように、ウィリアム・ラングは常に巡行中には旗信号の方法で艦隊に隊列変更を指令し、各艦の石炭消費量と速度、運行状況などの「数量」を常に質問した。そのため北洋艦隊には「丁軍門を怕れず、琅(ウィリアム・ラング)副将を怕れるに就く」の言い含めが急速に広がった。

1886年、醇親王(光緒帝の父、載灃)は命により北洋艦隊を視察したが、北洋艦隊は軍容が整粛であり、専門的な操作は称賛されたので、ウィリアム・ラングは清朝から表彰された。その後李鴻章は北洋艦隊への電報の宛先をいつも「丁・琅両提督」として、彼と丁汝昌を北洋艦隊の司令官として並列した。


1890年2月、北洋艦隊は冬季の氷結を避けるために南下しました。2月24日には、丁汝昌が「致遠」など4隻の艦船を率いて南海方面へ巡航に出発しました。一方で、ラング、劉歩蟾、林泰曽らは、「定遠」「鎮遠」などの艦船を香港に停泊させて修理を行っていました。

近代海軍においては、軍艦に掲げる旗は、艦上にいる最高指揮官の階級に応じて決まるという慣習があります。例えば、丁汝昌が艦上に入れば「提督旗」を掲げるべきですし、劉歩蟾がその場で最高位であれば、「総兵旗(副提督旗)」を掲げるべきとされています。

そのため、3月6日、劉歩蟾は丁汝昌がその場にいないことを理由に、「提督旗」を降ろして自分の「総兵旗」を掲げました。これは、自分が現時点での艦隊の最高責任者であることを示すものでした。

しかし、この行為はラングの怒りを買いました。彼はすぐに劉歩蟾を訪ねて、「丁提督が不在とはいえ、私という副提督がいるのに、なぜ提督旗を降ろすのか」と問いた出しました。これに対して、劉歩蟾は「海軍の慣例に従えば当然のことです」と答えました。

この発言は、ラングを正式な副提督として認めない姿勢と受け取られ、ラングは大いに憤慨し、李鴻章に電報を送り、事の次第に訴えました。

李鴻章の対応は、如何にも彼らしいものでした。彼は即座に、ラング専用の「副提督旗」を作らせ、軍艦に掲げるよう指示したのです。

この提案は明らかに国際的な海軍規範に反していたため、ラングは拒否しました。そして彼は、李鴻章に対して、「自分は本当に北洋海軍の副提督として認められているのかどうかを明確に説明して欲しい」と電報で強く求めました。

困り果てた李鴻章は、最終的に「劉(劉歩蟾)を是(ただしい)とする」と電報で返信せざるを得ませんでした。

それを聞いたラングは、激怒して即座に辞職してしまいました。

これが、北洋海軍の歴史の中でしばしば見過ごされてきた「旗降ろし事件(撤旗事件)」です。

この事件をどう見るかは興味深いところです。現在では、多くの論者が劉歩蟾を支持しています。そもそもラングに「副提督」の肩書きを与えたのは、単なる儀礼的なものであり、清朝が巨額の費用を掛けて手に入れた軍艦を、実際に外国人に指揮させるわけには行かない、という考え方があるからです。「異なる民族は信頼できない」と言った排他的な見方も背景にあります。そのため、この旗降ろし事件における劉歩蟾の行動は、清朝の立場を守り、主権を譲らなかったものとして評価されています。彼は、ラングが清国の海軍を掌握しようとする野望を打ち砕いたというわけです。

しかし、このような見方は重要な事実を見落としています。ラングが北洋海軍を指導した年月は長く、実はこの時が初めての現場指揮ではありませんでした。既に1887年には、ラングは鄧世昌、林泰曽らの将校を率いてイギリスを渡り、完成したばかりの軍艦「致遠」「靖遠」「経遠」「来遠」の4隻を引き受けました。その帰路、ラングが率いるこの艦隊は、実際に「提督旗」を掲げていたのです。

つまり、大清帝国がラングの「副提督」という肩書きを認めないつもりだったのなら、それは最も早く否定すべきだったのです。三年前には正式な提督として彼を敬い、待遇しておきながら、今になって「旗を降ろせ」という事件を起こすのはおかしな話です。当然ながら、ラング本人はそれを自分に対する侮辱と受け取りました。また、外部の人々も北洋海軍に対してこう思うでしょう。「最初は力を借りるために低姿勢で彼を迎え入れた癖に、自分達が「羽を広げた」今となっては、彼を邪魔者のように扱って追い出そうとしている」と。

では、劉歩蟾達は、なぜこのタイミングで、それまでの扱いを変えてまで「撤旗事件(旗を降ろす行為)」を起こしたのでしょうか?


その最も大きな理由として考えるのは、やはり大清で良く見られた「派閥争い」というお馴染みの問題です。

北洋海軍は建軍から僅か2年ほどしか経っていませんが、内部では既に派閥が分かれ、激しい内輪揉めが起きていました。

というのも、北洋海軍は急いで整備されたため、各艦の指揮官(管帯)には、大清で最初に設立された近代的な海軍学校「福州船政学堂」の第一期生達が任命されていました。この福州船政学堂は福建省が資金を出して作った学校だったため、「原則として福建出身者のみを受け入れる」というルールがありました。その中で唯一、例外的に入学を許されたのが、英語力に優れ、非常に努力家であった広東出身の鄧世昌だけでした。

鄧世昌は、同じ期の学員の中でも際立って優秀でしたが、外省人(=福建省以外の出身)であったため、イギリスへの留学資格を与えられませんでした。

当時の清朝では、省ごとの出身に厳しい壁があり、それはまるで身分に基づく従属関係のような扱いを受けるほど、根深いものでした。

そのため、劉歩蟾、林泰曽、方伯謙と言った福建出身の留学生達が北洋海軍で「管帯(艦長)」に就任すると、清朝において一般的だった派閥の作り方に倣って、長兄格の劉歩蟾を中心とした「閩党(福建出身者の派閥)」が自然と形成されました。鄧世昌は彼らの幼なじみでもあり、同じ学校で学んだ仲間でしたが、広東出身という理由だけで、この「閩党」から長年に渡って疎外され、批判の対象にもされてしまいます。彼は北洋海軍内で、非常に肩身の狭い思いをしていたのです。

実際、当時の北洋海軍は「閩党」を中心に、出身地に応じて派閥が分かれるという、いわば「サンドイッチ構造」を成していました。

最上層には、李鴻章とその郷里の丁汝昌という安徽省出身のトップが位置し、彼らの指揮下にある「管帯」は主に劉歩蟾ら福建出身者。そして、更に各艦で下級将校や武官を務めていたのは、李鴻章が淮軍から抜擢して安徽省出身者達でした。

北洋海軍の下層の水兵達は、李鴻章が直隷総督に就任した後に直隷(現在の河北省)から募集された人々です。海岸部に駐屯する部隊や後方支援の部隊は、威海衛周辺で募集された郷勇で、山東省出身者が多くを占めていました。

つまり、北洋海軍の中には実に4〜5の省から来た人々が混在しており、しかも身分や階層がはっきりと分かれていたのです。これで内部に対立が生まれないはずがありません。

更に、当時の通信環境では、これらの将兵達はそれぞれ異なる方言を話しており、言葉が通じ合わないことも多々ありました。

実は、日清海戦の際、北洋海軍では命令が英語で出されていたという驚くべき事実があります。

戦後、「緊迫した戦闘中に英語で命令を出すことによって、どれほどの混乱が起きたのか」と疑問視する声も上がりましたが、実際の所、英語こそが最も誤解の少ない「共通語」を話していたとしても、安徽省出身の提督が安徽訛り(なまり)で命令を出し、それを福建省出身の士官が受け取り、更に河北や山東出身の水兵に伝えたとすれば、その間に生じる誤解も英語に勝るとは限らないからです。

言葉さえ通じ難い状況では、心の隔たりは更に大きくなります。そこへ加えて、清朝社会に根深く存在していた「目を立てる」「地元の派閥を作る」といった習慣が重なれば、内部対立は避けられないものでした。

ラングが北洋海軍に初めて赴任した際、真っ先に気づいたのが「出身地による派閥争い」の問題でした。やむなく彼は、艦内での命令は英語で行うよう指示し、また、乗組員同士の私闘を厳しく禁止しました。

しかし、こうした対処にも関わらず、ラング自身もこの問題に巻き込まれて行きます。彼は李鴻章に宛てた書簡の中で何度も、部下の「管帯」達が出身地で結託し、指示に従わないと不満を述べ、「清国に海軍を築きたいのであれば、軍艦の指揮を福建出身者だけに任せるべきではない」と警告を発しました。

ところが李鴻章は、この警告をさほど重く受け止めなかったようです。というのも、そもそも彼自身が組織した「淮軍」という軍隊も、安徽省出身者を中心とした郷党色の強いものでした。

とはいえ、仮に李鴻章が警告を真剣に受け止めていたとしても、他に選択肢があったかどうかは疑問です。なぜなら、清朝の洋務運動(西洋化、近代化政策)は、目の前の成果を急ぐ場当たり的なもので、限られた人材で何とか回すしかない状況だったからです。唯一の近代海軍の教育機関である「福州船政学堂」は、福建省の資金で設立されたため、当然ながら福建出身者が多くを占めており、他に適任者が殆どいなかったのです。

こうした状況下、ラングが丁汝昌を支持する姿勢を見せたことは、福建出身の若い艦長層- -特に劉歩蟾ら- 

の反感を買い、彼らから疎(うと)まれ,意図的に距離を置かれることになったのです。

この「撤旗事件」について、当時の関係者である姚錫光は、後に自身の回想録の中で次のように明確に記しています。ラングは訓練に非常に厳しく、それを嫌った福建出身の将校たちと対立していた。特に左翼総兵の劉歩とは意見が合わず、遂に策略によってラングを追い出すことになった」と述べています。

要するに、北洋海軍内部での結託により、「融通(ゆうづう)の利かない外部の教官」を排除しようという動きが起きたのです。自分達の上に立ち続けて命令を下すラングの存在が、彼らにとって疎ましくなったというのが真相です。

このような内輪の派閥争いは、皮肉にも海軍内だけでなく、李鴻章がいた清朝の政界にも存在していました。

当時、北洋海軍は強大な軍事力を持つに至り、李鴻章の影響力も非常に大きくなっていました。しかし、それを妬(ねたむ)んだのが、帝師翁同龢を中心とする「清流派」と呼ばれる保守的な政治勢力でした。彼らは度々上奏文を提出し、「李鴻章は国の財政を使って、自分の私軍を養っている。彼の真意は信用ならない」と糾弾しました。

清朝政府は表立ってその訴えを認めはしませんでしたが、李鴻章が政治的に攻撃対象になっていたことは、誰の目にも明らかだったのです。

この時、「撤旗事件」の報告が李鴻章の元に届きましたが、彼としても全面的にラングの側につくわけには行きませんでした。もしラングを支持すれば、「艦隊を外国人に譲り渡した」として、御史達に弾劾されるのは明らかだったからです。

そのため、監視の目が光る中で李鴻章が取った対応は、部下に命じて「副提督旗」という中途半端な旗を急ごしらえさせ、それでラングを誤魔化そうとするものでした。これが、李鴻章がラングに示すことのできた最大限の譲歩であり、善意でもありました。

しかし、ラングには李鴻章のこうした苦境や、清国特有の複雑な派閥争いなど理解できるはずもありません。彼にとってただの侮辱(ぶじょく)でした- -「私は全力で海軍の整備に貢献して来たのに、力がついたらこの仕打ちか??やってられない!」と、怒って辞職してしまったのです。

このラングの辞職が北洋海軍にもたらした影響は、実は非常に大きなものでした。当時はあまり深刻に受け止められませんでしたが。

彼の退任こそが、4年後の北洋艦隊の敗北(黄海海戦)を予兆する出来事だったと言っても過言ではありません。

『北洋海軍章程』には本来、「総兵以下の全ての将校は年間を通じて艦に常駐し、官舎や公邸を建ててはならない」と明記されていました。ところが、ラングが辞職して以降、その規律は次第に緩み、将兵達は続々と家族を呼び寄せるようになり、夜間は岸で寝泊まりする者も増え、一隻の艦で半数近くが陸に宿泊するようになりました。

その後、北洋が氷で封鎖され、海軍が南洋に巡航に出る度に、香港や上海で博打(ばくち)に興じる(きょうじる)のが恒例となってしまい、これを憂える識者の声も当時からありました(盛宣懐の証言による)。

中には方伯謙のように、駐屯地で多数の不動産を購入し、三人四人の妻妾を持つ者さえ現れました。

このような乱れた状況に対して、提督の丁汝昌は人柄が温厚で、海軍の実務にも疎く、更に若手の留学帰りの管帯達に実権を握られていたため、全く歯止めをかけることができませんでした。

ここで補足すべきなのは、後の世でこの時代を振り返る時、しばしば鄧世昌の規律正しさが称賛される点です。彼は風紀が乱れる中にあっても、ラングが定めた規則を守り続け、汚れた環境にあっても染まらずにいたとされます。

しかし、見落とされがちなのは、鄧世昌が省籍(出身地)やその真面目な性格故に、当初から劉歩蟾らによって冷遇され、孤立していた存在だったということです。


この背景を理解してこそ、彼が同僚達が酒宴や女性遊び、アヘンに耽る中でも備えを怠ら(おこたる)ず、黄海海戦で自ら前に出て戦い、沈没の際にも救助を拒んで自決した行動の中に、ただの英雄譚では済まされない深い悲しみを感じ取ることができます。彼は、北洋海軍の中で排斥され続けた「孤高の忠臣」だったのです。

しかし、軍紀の乱れよりも、ラングの離任が北洋艦隊にもたらした最大の打撃は、外交情勢の変化にありました。先にも述べたように、19世紀のイギリスは、清国と日本のどちらを極東における対ロシア包囲網の同盟国とするか、重要な選択の時期にありました。

この時、清国でラング中佐が受けた屈辱と、日本でダグラス少佐が受けた敬意、そして彼らがそれぞれの国に対して抱いた印象や結論の違いが、イギリス政府の判断を大きく左右しました。最終的にイギリスは「清国は信頼に値せず、日本は同盟に相応しい」と結論づけたのです。

外交的な勘に優れるイギリス人は、この事件を通して、大清の制度・文化・思考様式そのものが、他国と協力や同盟を結ぶには不向きであると見抜いたのです。

ラングが帰国後、清国との関係強化を主張していた彼自身が、自らの「不当な扱い」を同胞に訴えました。その内容は英国社会に大きな衝撃を与えました。

イギリスの新聞『タイムズ』は、次のような冷静かつ的確な評価を下しましたーー「嘗て意気盛んに振る舞い、我々から学ぶことを誓った清国海軍も、他の官庁と同じく、間もなくこの古い帝国にありがちな腐敗と時代遅れの状態に戻っていくだろう。」

その結果、1890年、イギリスは北洋艦隊の建設を支援していた30人以上の外国人教官を撤収させ、清国から海軍留学生の受け入れも拒否しました。

ちょうどその頃、当時戸部(財務省に相当)を管轄していた翁同龢が、北洋海軍の軍備調達を「一時停止」するよう命じました。これにより、北洋海軍と西洋諸国との技術的・物資的な交流は完全に途絶えました。

一方、イギリスは日本との関係を急速に深めて行きます。そして1894年7月、日清戦争が正に始まろうとしていた時期に、イギリスと日本は重要な『英日通商友好条約』を締結しました。調印式では、イギリスの外務大臣ランズダウン侯爵が、日本の駐英公使・林董(はやしただず)に向かって杯を掲げ、次のように語りました。

「清との戦争が始まろうとしていることを、もう心配する必要はありません。この協定の締結が、既にあなたの勝利を意味しているのです。」

皮肉なことに、このような動きが進む中、清朝で最も現実を理解してとされる李鴻章ですら、まだ事態を把握できておらず、イギリスが戦争の仲介として介入してくれることを期待し続けていました。

特に「高升事件」で日本軍がイギリス船籍の商船を撃沈した際には、李鴻章は、イギリスが日本に圧力をかける側に回ってくれるだろうと、本気で信じていたのです。

李鴻章が知らなかったのは、実はその4年前--あのラングという外国人教官が離任した時点で、既にイギリスは清国ではなく日本訴え選ぶ決断をしていたということです。

この点について、当時まだ清朝の総税務司長が務めていたハートは、次のように明確に総括しています。「ラングが去った後、中国人は自分達で海軍をめちゃくちゃにしてしまった。いや、実際にはラングがいた時でさえ、彼の力を有効に活用できていなかった。中国人は、自分達がなぜこの有能な人材を失ったのか、真剣に反省しようともしなかった。」


ハートはこの発信を通して、自身の将来の歴史的評価まで見据えていたのかも知れません。

実際、日清戦争の際、イギリスは「厳正な中立」を掲げてはいたものの、実質的には日本に肩入れしていました。更にイギリスは、西洋諸国全体に働きかけて、清国に速射砲や榴弾などの先進兵器を一切売らないよう仕向けたのです。

もちろん、こうしたイギリスの選択にも、国家としての利益を考えた上での合理的な理由がありました。イギリスは、極東においてロシアの南下政策を牽制するために、強力な同盟相手を育てる必要があったのです。

そして、「育てようにも清国は頼りにならない」「すぐ裏切るし、少し締めつけるとすぐ弱音を吐き、手を緩めると偉そうなことばかり言う」--そんな見限りの判断から、イギリスは最終的に「それならいっそ、日本を支援して清国に勝たせよう」と考えるようになったのです。

イギリス海軍省の記録によると、条約締結の前夜、第一海軍卿のフィッシャーは備忘録にこう記しています--「日本は、我々にとって太平洋におけるリヴァイアサン(巨大な海の力)となるだろう。」

歴史の運命の歯車とは、こうして静かに、しかし確実に回り始めるものです。二つの国とその全ての国民の未来、半世紀に渡る運命は、あのラングが中国を離れた夕暮れと共に、既に描かれていたのです。

日清戦争の敗戦後、光緒帝は勅命(上論)を出しました。「ラングは嘗て北洋にて海軍を訓練し、非常に効果を上げていた。しかし、彼が休暇を理由に帰国してから、海軍は次第に弛緩し、本年の戦争で力を発揮できなかった⋯⋯」この勅命からは、皇帝自身が北洋艦隊の敗北の主要な原因をラングの離任と見做していたことが分かります。同時に驚かされるのは、皇帝の情報が如何に閉ざされていたかという点です。

あれから既に4年が経っていたにも関わらず、光緒帝は未だにラングが「休暇で帰国した」と信じており、実際には彼が中国側の不誠実な対応に憤慨し、辞職していたことを知らなかったのです。

日清戦争が終わった後、清朝政府は一時、再びラングを招いて海軍再建に協力してもらおうと考えました。ラング本人は明確な態度を示さなかったものの、日本とロシアという二大列強はすぐにイギリス政府に正式な通達を送り、ラングが再び清国の任務に就くことを認めないよう要求したのです。