フレンドリー山東(威海李君)

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悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
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北洋水師に関わった外国人達- -イギリス人のラングとデーラー、アメリカ人のマギフィン、ドイツ人のハンナゲンについて話そう

フレンドリー山東(威海李君)


ラング

私達は歴史人物を語る時、往々にして先入観や固定観念にとらわれてしまいがちです。例えば、北洋の管帯と聞けば(悲壮」、洋人と言えば「頼りにならない」「外国勢力」、李鴻章と言えば「命を賭し(とす)ても売国」、更には「清朝末期=腐敗無能」と言った具合に、歴史を纏めてラベル付けて済ませてしまうことが良くあります。しかし、このように歴史を表面的にしか捉えないのは、極めて偏った見方だと言えます。

しかし、このように歴史をステレオタイプでざっくりと理解するのは、非常に偏った見方だと思います。

多くの人が、もうこうした大きな視点での歴史語り(マクロな叙述)に飽きてきているのではないでしょうか。歴史とは、生きた人間達の営みによって形成られるものであって、冷たい辞書の用語で片づけられるものではありません。


視点をもっと地べた(じべた)に近づけて見れば、歴史上の人物もまた、私達と同じように、欲・怒り・愚かさ・傲慢さ・疑念と言った感情を持つ、普通の人間だと言うことが見えてきます。そうすれば、彼らの行動や選択も、より自然に理解できるはずです。

そこで今日は「大きな歴史」ではなく、北洋水師に関わった外国人達の間にあった葛藤や関係、そしてその記録について、少し面白い読み物としてご紹介したいと思います。

19世紀末、当時の英国海軍は世界最強を誇っていました。北洋水師に関与した中・上級の洋人軍官の中で、最も信頼でき、また貢献も大きかったのはイギリス人達でした。特に初期のラングとデーラーは、その代表的な存在です。


デーラー

イギリス人のデーラーは、定遠艦の航海長を務め、日清戦争の際には非常に詳細な記録を残しました。彼の回想録では、丁汝昌や鄧世昌に対して高く評価していますが、北洋水師そのものについては、水兵や中堅の士官は有能としつつも、多くの艦長にはあまり良い評価をしていません。中でも、彼が記した劉歩蟾に関する内容は、中国国内で広く知られている評価とは大きく異なっており、両者の間に利害関係や権力争いがあったことが推察されます。とはいえ、デーラーの記録は当時の状況を知るための貴重な参考資料となります。

デーラーはあまり日本では知られていない人物ですが、豊島海戦の後、自ら志願して北洋水師に加わり、定遠艦で副艦長を務めました。劉歩蟾とはそりがあいませんでしたが、日清戦争後も中国に留まり続けたことから、中国事情に精通した人物と言えます。彼の回想録は非常に具体的で、歴史資料としての価値が高いです。

また、ドイツ人のハンナゲンは陸軍の技術将校であり、戦前には沿岸の砲台建設を担当していました。豊島海戦では高陞号に乗っていて、沈没時に泳いで脱出しました。その後、北洋水師の副提督に任命されましたが、これは丁汝昌と責任を分担させ、丁が清朝により軽々しく処刑されることを防ぐためだったと考えられています。

ハンナゲンは陸軍の技術士官だったため、李鴻章はデーラーを彼の海軍顧問として任命しました。この二人の関係は非常に良好で、ハンナゲンはかつて李鴻章に対し、自身の後任としてデーラーを起用するよう進言したこともあります。しかし、その提案は劉歩蟾の働きかけによって却下されたため、ハンナゲンと劉歩蟾の間には深い確執が生まれました。


アメリカ人マギフィン

一方、アメリカ海軍は当時、諸外国の中でも力が弱く、アメリカ人のマギフィンは北洋において高い地位を得ていませんでした。彼は戦前、天津水師学堂の教官を務めていただけで、本人は自らを「鎮遠艦の副艦長」と吹聴(ふいちょう)していましたが、実際には「補佐役」に過ぎませんでした。彼の言動には誇張(こちょう)が多く、信頼性には疑問が残る人物です。

ここからは、イギリス人のデーラーとラングという二人について、更に詳しくお話ししていきます。

挫折した理想主義者:ラング

厳格で真面目➖職務への徹底的な責任感

ラングはk歴史的な記述の中で一貫して好意的に評価されてきた人物です。彼の最も顕著な特徴は、自らの職務に対する非常に高い責任感でした。
この厳格さは海軍の指揮だけに留まらず、北洋艦隊の整備や訓練にも如実に表れていました。
総督及び名義上の副提督として、ラングは厳格な軍人であるだけでなくk高い職業論理を備えた人物でもありました。
北洋海軍の基盤が脆弱(ぜいじゃく)であることを深く理解していた彼は、訓練において英国海軍の規律と条令を忠実に導入し、本格的な戦闘力を備えさせようと務めました。
彼の厳しさ、責任感、そして細部への拘りは、艦隊の将兵からの厚い信頼と尊敬を集めました。
しかしその一方で、過度な規律と訓練は一部の将兵--特に福建出身の士官達には馴染み難く、不満を抱かせることとなり、後の対立の火種にもなっていきました。

自信と頑固さ:妥協を許さない性格

ラングは、その性格においても、決して妥協を許さない信念を持っていました。
彼は30歳にして既にイギリス海軍で中佐に昇進し、卓越した指揮能力により李鴻章らからも高い評価を受けていました。
海軍は陸軍と異なり、一度大敗を喫すれば艦が沈み、乗組員全員の命が失われる可能性があります。
だからこそ、海軍には厳格な階級制度と指揮体制が必要であり、艦内での指揮官の権限は極めて重く、時には生死を左右する判断をも担います。
もしもラングが、劉歩蟾が「提督旗」を掲げたことに対して即座に対応しなかった場合、他の士官達も同様に命令に従わなくなる恐れがあり、艦内の統制が崩れる危険がありました。
それは最終的に、海軍全体の指揮体制の崩壊に繋がりかねないものでした。
その後の一連の歴史的出来事は、彼のその懸念(けねん)が現実のものとなったことを証明しています。
従って、ラングの行動は、単に劉歩蟾と権力を争ったという単純なものではなく、むしろ艦内の階級秩序と戦闘力を守るという意図が大きく、それは即ち戦時において兵士の命を守ることにも繋がっていました。

理想主義と現実の高い壁

ラングの理想主義は、北洋艦隊の士官に対して非常に高い基準を求めた点にも表れています。彼が去った数年後でさえ、清政府は彼の離任後、北洋水師の訓練が緩んだことを認めています。
それにも関わらず、黄海海戦では、北洋水師の下級兵士の能力は、日本側の新兵よりも高かったのです。こうした理想主義的な姿勢は、兵士達からの深い信頼と敬意を集める要因となっていました。
長崎事件の際、最も激しく憤(いきどおる)ったのは、実は英国人であるラングでした。彼は丁汝昌に対して長崎を砲撃するよう強く求め、更に李鴻章に対しても日本への宣戦を強く勧めました。
しかし李鴻章はこの合理的な提案を拒否し、外交交渉によって問題を収めようとしたため、結果的に日本という「虎を育てる」ことになってしまいました。
ラングは、清朝政府の妥協姿勢に深く失望しました。
なぜなら彼にとって、軍人が殺傷されるという重大な暴挙に対して、妥協や回避という形で応じたことは、中国が自らの覚悟と実力を示す絶好の機会を逸し(いっする)たことに他ならなかったからです。
李鴻章は、北洋艦隊の将来とラングの面目との間で、自身の官位(地位)を選んだのです。
「撤旗事件」は、ある意味で下克上とも言える兵士による反乱でした。ラングは、自ら育て上げた艦隊に対する理想や信念に強く執着(しゅうちゃく)していた一方で、清政府内部、特に李鴻章の置かれた微妙な政治的立場と力関係について、十分に配慮できていませんでした。
劉歩蟾が「愛国」を掲げて実行した権力闘争に対して、政治的な牽制を欠いたため、結果的にラングはその争いの犠牲者となったのです。
本来これほど重大な兵乱は、英国政府に報告して清政府と外交的に交渉すべき案件でした。しかし彼は、直接李鴻章本人に電報を打ってしまい、彼にとって極めて難しい判断を迫ることになってしまいました。
この点において、ラングは判断を誤ったと言えます。
事件の後、ラングはイギリス国内で自身が中国で受けた「屈辱」を公然と語り広めました。これにより、英国国内では世論の激しい怒りを呼び起こし、中英の事実上の同盟関係にも悪影響を及ぼしました。

李鴻章がこの事件において、最終的にラングを支持しなかった理由は、おそらく北洋艦隊の行方や体制維持を優先し、ラング個人の名誉よりも自らの官職を守る道を選んだからです。
しかし、それは軍人としての誇りを何より重んじたラングにとって、理解できず、また許容し難い選択だったのでしょう。
ラングは、理想主義者であり、職務に忠実な軍人の典型でした。彼は丁汝昌の2倍の報酬を受け取りながらも、清朝の海軍建設において、自身の任務を遥かに超える貢献を果たしました。
混迷を極めた清末の時代において、彼の気高く規律ある姿勢は、より一層際立つものでした。そして彼の離任は、北洋艦隊が衰退の一途を辿る運命を決定付けたとも言えるでしょう。

こちらは、ラングを招聘した際の正式な招聘書

当時51歳の李鴻章は、自ら満ち溢れ、意気揚々としていました。


イギリス人の志願軍人、ウィリアム・フェルディナンド・デーラー(William Ferdinand Tyler)、通称「戴楽児(デーラー)は、テムズ商船学校を卒業し、豊富な海軍経験を持つ人物です。
豊島沖海戦の後、中国の戦艦「定遠艦」において副管帯(副艦長)を務め、戦後も引き続き中国海軍に使えました。中国には20年以上滞在し、1889年から1920年までの経験を綴った回顧録『我が中国海軍三十年(戴楽児回想録)』を著しました。この書物では、定遠艦に乗艦して黄海海戦に参加したことや、威海衛に包囲された状況などが詳細に記録されています。
彼は中堅士官として北洋艦隊に在籍していたため、彼の視点を通じて、当時の北洋水師内部の官兵関係を垣間(かきま)見ることができます。その記述には、私達の認識を覆す(くつがえす)ような内容も多く含まれています。
とりわけ、彼の同僚である外国人顧問達に対する評価は非常に興味深いものがあります。例えば、アメリカ人のマギフィンについては、「頭のネジが緩んでいる」「口だけの男」であり、「一緒にいたくない」と酷評しています。

戦後、清朝は彼に対し「御賜双龍宝星」を授与しました。
なお、デーラーは1865年12月11日、イングランドのサマセット州ディンダル村に生まれました。彼の家庭は名門で、母親はフランスの伯爵の娘、祖父がかつてイギリス東インド会社の重役であり、多額の遺産を残した人物でした。
家が没落し経済的に困窮していたため、兄は公立学校に通うのがやっとで、デーラー自身は学校に行くことも出来ず、家庭内で父から論理学や幾何学を教わっていました。その後、親戚からの支援を受けて一年間だけ予備校に通い、航海技師になる準備を進めました。
彼は1881年から1883年かけて、テムズ航海訓練学院に在籍し、4,502トン級の一等帆船「ウースター号」で実習を行いました。そして、1883年12月にはイギリス王立海軍予備隊の見習士官となります。
1884年からは英国の商船隊で働き、帆船に乗って南アフリカ南端を経由し南米へ航海しました。
1887年以降は、イギリス王立海軍の3隻の軍艦に勤務しました。
「デヴァステーション号」(破壊号)ー9,387トンの鉄甲艦で、帆柱を持たず独立砲塔を備えた、当時としては画期的な設計の軍艦で、20世紀の主力戦艦の原型とされます。
「リアンダー号」(利安達号)ー4,300トンの二等巡洋艦で、19世紀中頃のイギリス巡洋艦の代表艦です。
「インペリウス」(専横号)ー8,400トンの装甲巡洋艦で、当時のイギリス中国艦隊の旗艦を務めていました。
これらの艦において、彼は最先端の軍艦用と技術に関する経験を積んでいきました。
1889年12月、彼は王立海軍の中尉となった。家は貧困であったので海軍の制服の代金100ポンドを多方面から工面(くめん)した。1889年に彼はイギリス人のロバート・ハートが管轄する中国税関の船上で勤務した。
1894年9月17日の黄海海戦でデーラーは旗艦定遠号で戦闘に参加した。黄海海戦に参加した唯一の海軍士官でもあった(ハンナゲンは陸軍士官であり、後に副提督を除よされた)。
デーラーの記録では、黄海海戦が海戦されて間もなく、彼は丁汝昌提督、ハンナゲンらと共に主砲の上方のブリッジで指揮をした。管帯の劉歩蟾は彼らをブリッジで見かけが、前方に発射を命じた結果、砲口の暴風でハンナゲンとデーラー、丁汝昌が負傷した。デーラーはブリッジから落ち両耳の鼓膜が破れ、片目が一時的に失明した。
戦闘開始後の半時間で、定遠号の信号ケーブルが全て撃損した。更に深刻なことに、提督が事前に旗艦を指定していなかったので、北洋艦隊の各艦は有効な指揮と協調に欠けて、独自に戦わなければならなかった。

その後彼は定遠号に戻り、威海衛陥落の全過程を過ごした。彼の記録では劉歩蟾に対する記述は不公平であり、劉歩蟾の自殺に対するでたらめな詳細など、劉歩蟾に対する多くの悪評以外は、その人物に対する回顧録を得ている。
劉歩蟾の高揚的な個性に反感していたのかもしれない。または黄海海戦の後彼が定遠号に帰った時に見聞きしたことが彼の判断に影響したのかもしれない。
彼の叙述では、定遠号は日本の魚雷に撃沈されて座礁したので、劉歩蟾は自殺して謝罪すると宣言したという。中層士官達は最後の別れを告げる為に劉歩蟾の通知を待っていたが、劉歩蟾は二度アヘンを服用した後に副官に医官の救援を求めさせたが、医官は手術に忙しくて手遅れし遂に亡くなった。
これはデーラーの回顧録に記録された劉歩蟾の悲壮な物語とは異なる。海軍軍人として彼は当然死を覚悟していたはずであるが、認識と実戦は別物である。アヘンを服用して絶命することはどうしても英雄的とは言えない。撤旗提督を討ち取った英雄の事績に対して相当風刺的である。
劉歩蟾の号令のような気炎と吹聴的な行動に対して、若い海軍軍官数名も服毒自殺を図ったことをデーラーは日記中に記録している。デーラーは将来の国家にはきっと彼らのような軍人が海岸防衛を再建する為に必要であったので若者達への懸念を表した。
あのような気炎(自殺)をするな。「我らは懸命に説得し、時には覚悟するよう叱ることもあった。」その後この二名の青年軍官は中華民国海軍の司令(薩鎮冰)と海軍総長となった。デーラーの記録では、彼は副官の李鼎新や下級の外国人船員などと仲が良く、北洋艦隊の一般官兵も称賛しており、これも中級軍官としての交流範疇に符合していた。
「愉快にしているのは、水夫達であった。彼らは斯様(かよう)に活発敏捷で、また斯様に大砲を色々な方法で装飾して大切に扱っていた。」
「軍官達は制服の長靴、ゆったりしたズボン、龍紋の腕章と彩色の階級章のある洋服を着けていた。彼らは、水夫達の欠点を良く知っていたので、不安気でもあり、また一種名状しがい大清国官僚の気風も残していた。」