商代の「酒壺」に、なぜ「草」が生えていたのか?

商代の「酒壺」に、なぜ「草」が生えていたのか?実はそれ、「薬酒」だった可能性も。ーー三つの注目から「馬危」折肩尊を紹介します。
なぜ商代の「酒壺」に草があったのか?

2004年、河南省安陽市の殷墟で、大司空M303号墓(馬危の墓)から、ある特別な青銅器「馬危」折肩尊が出土しました。「尊」とは商代の中型〜大型の酒器です。しかし、この尊が特別なのは形ではなく、付着物にあります。

分析の結果、この淡褐色の植物は「短梗南蛇藤(たんこうなんじゃとう)」というもので、漢方薬としてよく使われる薬草です。熱を下げ、毒を排出し、風湿(風と湿気の症状)を取り除く効果があります。このことから、「馬危」折肩尊は当時の人々が既にこの植物の薬効を理解しており、薬草を酒に漬けて「薬酒」として使っていた可能性があると考えられます。一部の専門家は、これらの植物は布巾のような役割を果たしていた可能性があり、副葬品を覆うために使われたのではないかと考えています。
小さな薬酒に秘められた知恵〜古代人こそ真の養生マスター
青銅製の尊に付着していた薬草は、当時の人々が既に「薬酒(薬草酒)」を作っていた可能性を示していますが、薬草の使用は商代に始まったわけではありません。既に8,000年以上前には、人々は既に中草薬を使っていました。

新石器時代初期の遺跡である浙江省の蕭山・跨湖橋遺跡からは、小さな陶釜(とうふ)が出土しており、その中には真っ黒で粘り気のある植物の茎や枝が、煮て柔らかくなったような状態で束ねられて残っていました。また、この陶器には煙で燻さ(いぶす)れたような痕跡が残っていました。
このことから考古学者達は、この陶釜は当時の人々が中薬を煎じ(せんじる)ていた残渣(ざんさ)が残っている器であり、中国最古の「薬草煎じ器)と見做しています。

様々な考古学的発見から分かるのは、新石器時代から商・周の時代に至るまで、中国の古代人は中薬材の扱いに非常に熟達していたということです。これは、中医学が独自の体系を持ち、連綿と受け継がれつつも常に革新されてきた証しでもあります。
また、豊かな食材に恵まれた殷・商の人々は、新たな「味覚」の世界を切り開いていました。
実際、「薬草の活用」も「薬酒の製造」も、いずれも古代人が「健康的で質の高い生活」を追求し続けていたことの証なのです。

左図は甲骨文「粟」字、右図は甲骨文「黍」字
文献記録や考古学的発見によると、商代後期には粟(あわ)、黍(きび)、稲、大豆、小麦を主とする農作物構成が形成されており、牛・馬・羊・豚・犬・鶏と言った家畜・家禽類も既に揃っていました。
これらの多様な農作物と充実した畜産体系は、殷商の人々に豊かな食料供給をもたらしていました。
そのため、人々は「どうすればもっと美味しく食べ、より良く飲むことができるか」ということに、より多くの関心と工夫を注ぐようになったのです。

M303馬危墓出土した部分的な青銅器
殷商時代において、「酒」は極めて重要な存在でした。それは、殷墟の遺跡から出土した墓の多くにおいて、酒器(しゅき)が非常に高い割合を占めていることからも分かります。例えば、「馬危」折肩尊が出土したM303号墓では、出土した青銅器のうち67%が酒器でした。また、殷墟の婦好墓では74%、亜長墓では40点の青銅器のうち62.5%が酒器でした。

「馬危」折肩尊の出土は、商代の人々が既に酒造と中医学(薬草)を結び付けていた可能性を示しています。

尊の口の部分に重なって残されていた植物の葉は、数千年前の人々が薬草を使った酒、即ち「薬酒」を調製していた痕跡であり、これは中国薬草文化の歴史的証拠とも言えるのです。


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