フレンドリー山東(威海李君)

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
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新発見!斥山に秦の始皇帝の行宮があった。

フレンドリー山東(威海李君)

大抵の人には図表の印章に馴染みがなく、どんな文字かも解らないであろうが、これは秦代の「封泥」である。まずはこの小さなものから話そう。封泥は、簡単に言えば古代の「文書封印」である。

紙の普及以前の秦漢時代では、人々は重要な公文書や、手紙を出す時に、竹簡や木牘に墨書して、その後縄紐で縛った。途中で秘かに開封されることを防止するために、縄紐の結び目を湿った粘土で塞ぎ、更に印章を押し、粘土が乾燥して固まったものが封泥となる。


この小さな粘土は、不正の防止ばかりでなく文書の公式性を証明しており、当時の行政活動の重要な証拠であった。現在残留している封泥は、我々が古代の歴史の謎を解読する貴重な実物資料となっている。この一枚の「坼禁丞印(せききんじょういん)」という名の秦代封泥は、嘗て斥山に秦の始皇帝の行宮が建設されていたという新たな秘密を明らかした。この「坼禁丞印」封泥では、西安の中国書法芸術博物館に収蔵されている。この封泥の最大の特徴は「坼」という文字である。「坼」という文字はこれまで発見された秦代の文字の中で初めて出現した。この「坼」と斥山との関係を疑問のに思う方もあるかもしれないが、実は古文献では一般的に見られる音通・仮借の現象である。古代の音韻で考えると「斥」と「坼」とは同一の音韻に属し、発音も大変似ており、また「坼」字は「斥」を声符とするために、この二文字は当時通用していたのである。つまり封泥の「坼」は、実は『尔雅・釈地」に記載する「斥山」であり、現在の斥山である。

秦の始皇帝の東巡の歴史に詳しい人ならば、始皇帝が六国を統一してから、何度も東巡しており、その内2回は成山に到達したことを知っているであろう。初めは紀元前219年、皇帝即位の三年目であり、当時彼は東方の郡県を行き、渤海に沿って東進し、黄県、腄(つい)県を通過して成山に行きつき折り返した。二度目は紀元前210粘土であり、彼の最後の東巡で、同様に成山を訪れだ。成山が秦の始皇帝を二度も引き付けたのは、当時の人々が「天の尽きる頭(みさき)」と見做していただけではなく、ここが「日神(太陽神)」を祭る聖地であり、不老不死と、統治を強固にすることを追求した始皇帝にとって特別な意義があったのである。

斥山と成山はほど近く、始皇帝が二度成山を訪れた際には斥山にも立ち寄った可能性があリます。「坼禁丞印」の「禁」の「字」は、古代にはいつも皇室の禁域や禁苑に関連しており、「禁丞」とは皇室施設を管理する役人である。 この封泥の発見は斥山一帯に当時「禁丞」が管轄する官庁が存在したことを示しており、秦の始皇帝の東巡という背景結び付けると、この機構は皇室の行宮を管理するために設立された可能性が高い。

『読史方輿記要』には、文登県の東180里には「秦皇宮」が存在したことが明記されており、秦の始皇帝が東遊の際に設立したという標記がある。また文登県の東北120里にも望海台があり同様に始皇帝の時代に築かれたものである。文登県と斥山・成山は山東省東部の沿岸地域に属しており、これらの記録は当時の始皇帝がこの一帯に行宮や高台を建設したという史実を裏付けており、「斥山」に始皇帝の行宮があったという推論に説得力を増していないだろうか。

小さな封泥であるが、まるで鍵のように忘れられた歴史を解き開いた。「坼禁丞印」の発見は斥山を我々の視野に入れたばかりでなく、秦の始皇帝の東巡の重要な立ち寄り場所の一つであったことを証明した。