威海衛の主権回復の逸話(いつわ)

1930年10月1日早朝、青島。
数百名の海軍陸戦部隊の護衛で、国民政府外交部次長の王家楨は海琛艦に乗り込んだ。数時間後には、威海衛に到着し、中国声符を代表してイギリスが32年間強制租借していたこの都市を回収する。
午前8時、海琛艦は緩やかに威海衛へ入港した。目の及ぶ限り、人々で賑わい、代表を歓迎する顔々は歓びに満ち、耳には歓呼と祝賀の声が鳴り響いた。
螺旋階段を降りると、礼帽にスーツの老人を先頭に西洋人らが進んできて、困惑気な笑顔で握手を求めていた。この老人はイギリスの威海衛駐在の行政長官ジョンストンで、嘗ては溥儀の師でもあった。王家楨は今回の握手が国家の尊厳回復の始まりであると固く信じていた。
接収儀式は僅か文間であった。
風にはためく中国国旗を眺めると、この一切は32年を費やしており、当初の租借期間よりも7年長くかかった。

別れ際に王家楨は優雅にジョンストンに歩み寄り、「昼食をとってお行きなさい。」と言った。ジョンストンは笑顔で首を振り、流暢な中国語でユーモラスに「ダメですね。中国の古いことわざに天に二つの太陽はなく、人民に二人の主人はいないと言います。正午を過ぎれば、ここはあなた方の天下となる。」
午前11時に、ジョンストン一行はまっすぐ埠頭へ行き、船艦に乗って去った。彼の背後にはユニオンジャックだけがはためいていた。これはそれの威海衛上空での最後の一日であった。
威海衛の主権の完全解決は根本的に中国自身にかかっていた。1928年12月北伐戦争の勝利は、中国政壇に新鮮な血液を注入した。南京の国民政府は中国に対する形式統一を果たし、イギリスとの交渉に強大な後ろ盾を果たした。
南京政府の外交部は不平等条約の改修と、各国との新条約締結を求める声明を何度も発布した。1928年に新条約改定運動が全面的に開始された。威海衛問題も机上に上った。これに対して、イギリスも積極的な対応を支持する声が現れた。
9月、ジョンストンはイギリス政府の植民地部に対して、中国側が1924年の『専約草案』を承認せず、また漢口と九江が疎開を喪失する類似の「耻辱」の発生を避けるために、イギリスは今の内から諦めて威海衛を主導的に返還すべきだと提案した。そしてイギリス政府の外交部部長王正廷が威海衛の回収を何度も主張したのでイギリス政府は積極な反応を示した。
実際に、第一次世界大戦後、イギリス国内は経済が低迷し、国際的地位も衰落したので、海外戦線は圧縮を迫られた。威海衛の租借は期限切れであり、返還は時間の問題であり放棄されるものであった。

1929年6月、威海衛の返還問題の詳細について、王正廷とイギリスの中国駐在大使ランプソンは正式な協議を行なった。王正廷は新条約の改定を提出し、威海衛と劉公島と全ての建築物を無条件で回収することを提案し、1924年の「専約草案」を堅持することには同意しなかった。ランプソンは駐兵権の保有と劉公島の租借継続を堅持した。双方の工匠は断続的に続いた。1930年初頭までに、ランプソンは威海衛の港湾地区のイギリス人財産の問題も譲歩(じょうほ)を打ち出し、「永久租借」の放棄にも同意し、中国側の出資で償還(しょうかん)する代わりに、劉公島の租借機関を1940年までの延長と交換した。
しかし王正廷は依然として自身の意見を主張した。「威海衛の事は、劉公島の租借帰還問題で、双方の意見は全く異なっていた。」
根本的にこの交渉は全くうまくいかないように見えたが、王正廷はそれでも譲歩した。1930年2月13日、「中英威海衛接収条約」が達成した。イギリスは同年10月10日に威海衛を返還することに承諾した。中国はイギリスに対して劉公島の租借を10年継続することを認めたが、満期後も租借を継続することは可能であるが、両国政府の同意が前提である。
王正廷の態度が急に軟化したのは、1929年から1930年にかけての蒋桂戦争、蒋馮戦争、国内大戦で、蒋介石はイギリスに対する困難には精力的に不足したのであった。消極的な政治状況を逆転する為に、蒋介石は外交戦線で何らかの成果が必要であった。この為威海衛問題の交渉は一気に加速された。
離別32年、7年も遅れて、遺憾ではあるが威海衛はやっと回復した。1930年10月1日、イギリスは立ち去り、南京政府は行政直轄により威海衛特別行政区行政役所を設立した。1940年11月15日、劉公島の10年間の継続租借期間が満了し、日本軍が劉公のへ上陸し、イギリス駐在軍はすべて撤退した。
この2年前に日本軍は威海衛を陥落した。劉公島は海面にポツンと浮かび民族復興の瞬間を待ち望んでいた
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