一編の文章が、殷商王朝の最高軍事貴族の完全な一生を体験させる
1991年、河南省安陽で、殷墟博物館へ通じる計画公道の傍から、深さ2メートル余りの埋葬坑(訳注:考古学で遺物をたくさん含んだ竪穴)が見つかった。
後に「H号坑」と名付けられたこの深坑に埋まっていたのは、青銅器でも玉器でもなかった。
そこから出土したのは1,500枚を超える貴重な亀甲で、その内500枚以上には謎めいた甲骨文字がぎっしり刻まれていたのである。

そして発掘が進むにつれ、武丁朝の一人の最高位軍事貴族の生涯が、彼に施された「悪魔のような貴族教育」と、その一族に宿命づけられていた軍事的使命と共にまるで砕け散った破片を繋ぎ合わせるように、少しずつ姿を現しはじめた。
今日は、神権と王権が絡み合う青銅器時代へと時を遡り、殷商王朝王族の人生がどれほど残酷で、どれほど衝撃的であったのかその真実を見ていこう。
「子」の身份の謎
殷墟出土の大多数が殷王の卜辞と違って、この土坑の甲骨文は、神秘的な若者を中心として巡っており異例である。
彼は自称、あるいは「子」と呼ばれていた。

それではこの「子」は一体何者であるのか。
なぜ彼の文書が、まるで3,000年のカプセルのように、完全に保存されてきたのか。
考古学者達の追究で、この「子」の素性が立派であることがわかった。
一般的に、殷墟出土の膨大な甲骨の95パーセント以上が殷王の占卜の占辞であるという。
このように自家独自の文書を保有する貴族はまったく鳳の羽毛や麒麟の角のように珍しいものである。
これは「子」の社会的地位が大変高く、殷王武丁の弟や従弟である可能性が極めて高いのである。
更に「子」の邸宅は、王宮の南400メートル余りにあった。この位置に家を構えられることは、「子」が本当の意味で中枢に近い人物だったことを示しています。しかし不幸なことに「子」は年少の時に父が亡くなっていた。そのため我々は彼の父系の詮索や、彼の本名を突き止めることができない。

私達が分かっているのは、「子」が彼への敬称に過ぎない可能性がある。という点だけです。では、金の匙を咥えて生まれたような王族の貴人である彼の人生の出発点は、どのようなものだったのでしょうか。
剣闘士の訓練場
甲骨文には、「子」は少年時代から「往学」をしていたとあります。
己卜:子其(疫?),強(勿)往学?
「往学」とは、家を離れて専門の学校へ通う(学びに行く)という意味です。
その学校の場所も遠くなく、王宮区域の南側で、洹河(かんが)という古い川筋に隣接していました。
1996年、考古学者はそこで巨大な「凹」の字形の建物遺構群を発見しました。
研究の結果、これが殷商王室の大学だったと考えられています。
そこで教えられていた内容は、背筋が寒くなるようなものです。

例えば「舞戊」。
ここでいう「舞」は芸術の舞踊ではなく、軍事訓練、つまり青銅の鉞(まさかり)を手にした操練のことです。
占辞(占いの記録)には、「子」と同級生達が訓練中の負傷、更には死亡さえも心配していたため、ぶ頻繁に占いをしたとあります。例えば「今日は隊列の左・中央・右のどこに立つべきか」といったことです。
丁亥卜,子立于左。
甲午卜,口(勿)立中,囗(惠)学,囗(勿)示伐。
更に、「子」の甲骨文には彼が「ニ弓」、「三弓」を使って練習したとある。
ニ弓と三弓の違いは弓の強さが異なり、我々が後世言う所の「石何個の石弓」とほぼ同じ意味である。

それでは、彼らが練習した標的は何だったのだろうか。大学の軒下で考古学者は周十個の祭祀坑を発見したが、内部は全て斬首された青壮年男子であった。
其中の殆どの遺骨の太腿や肋骨には巨大の三角形の骨製鏃が突き刺さっていた。
どうして鋭利な銅の矢じりではなく骨の矢じりであったのであろうか。
骨の矢じりは練習専用であったと専門家は推測している。
青銅の矢じりは一撃で致命傷となるが、骨の矢じりには返しがなく容易に矢が抜けた。
つまり、練習台のほろは少しは生き延びて、学生は何度も射的ができたのである。
捕虜達が中庭を駆け回り、貴族の学生達が移動する標的を使って訓練する様子は、映画の『黙示録』のマヤ文明と全く一緒である。

甲骨文にはまた「商に学ぶ」と「羌に学ぶ」とも現れる。
これは多分学生達に殷商の軍隊と羌人を扮装させて軍事演習をさせたことである。
そしてこの演習での練習相手となった捕虜は、最終的に切り殺されて、祖先への供物として捧げられた。
「子」の後半生
残酷な青少年時代の訓練を過ごして、「子」は大成した。
その後彼は殷商の武丁の名声ある婦人婦好の護衛官となった。
彼の甲骨文に「婦好」が数十回出現しているのに、「王」はたったの二回しか出現していない。

甲骨文の記載では、彼は婦好が馬商人の接待や、献上品の転送を手助けしており、王后の周辺の中心的な近臣であったと言える。
また彼は、狩りや祭祀を行うことのできる領地「来鹿」を所有していた。
「子」は自身の健康に関心があり、頭痛や耳鳴り、悪夢を見た時にいつも占卜した。
彼はまた自分の馬車や馬も大切な使用人のように気遣った。
彼は嘗て白という将軍の遠征に随行しようとしたが、占卜の結果が現れず、最終的に同行しなかったのかもしれない。
ここで「子」の甲骨文は唐突に終了している。
彼のその後のは我々には不明であり、いったいどのように亡くなったのかはわからない。
更に彼の墳墓は未だ発見されておらず、あるいは盗掘者によって破壊されたのかもしれない。
しかし彼の一族の物語りはまだ終わっていない。
2001年、「子」の甲骨坑の西北数十メートルの所で考古学調査隊が盗掘されかけていた墓坑を緊急発掘した。

墓の主は35歳前後の男性で、彼は戦死した将軍であった。
彼の遺骨の上腕部には三筋の鋭利の傷跡があり、左側の肋骨(ろっこつ)は叩き斬られていた。
右の下腹部には銅矛が骨盤まで深く突き刺さり、大腿骨には深い傷跡があった。
この将軍は、死んでも指揮権を象徴する大型の青銅鉞を携え、墓中には161件の青銅の戈矛を伴って葬られていた。
更に重要なことは、多くの銅器に「亜長」と鋳込まれた銘文があったことである。
「亜」は軍事長官であり、「長」は家族の称号である。
墓坑の位置は大変接近してるので、この「亜長」は「子」の子孫である可能性が高い。
「子」は大学の訓練場で殺人術を学び、彼の子孫の「亜長」はこの家族の技術を極めたのである。
「亜長」は最終的に戦場で亡くなり、死体は馬革に包まれた。
これもまた殷商時代の軍事貴族の宿命であった。
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