マルチカルチャー(種々の文化)
威海が条約港となってから、西洋の経営、営業、文化、教育が次第に入ってきた。町の建物や社会生活は西洋色を帯びてきた。色々な西洋の観光客や居住民が威海に深く浅く足跡を残してきた。とりわけ威海の夏には西方の最新の娯楽やスポーツが人気となった。種々の民族や様々の階級の人が個々共に生活していた。当時の威海は小さく、どちらかと言えば平和で和気あいあいとした海岸行楽地であった。
総督官邸とその庭園、1904年撮影。
威海衛英国政府は西欧諸国から苗(なえ)を輸入し、英国の果物専門家ギボンズを雇って、政府庁舎の周りに様々な果物や花を植えました。
イギリス駐在威海領事官邸、1937年撮影。
劉公島英国警察総督官邸及び花園。
劉公島の洋式の避暑別荘。
劉公島東村の住宅
1918年、地方政府は劉公島の古い住宅を取り壊して、1919年イギリス海軍の夏季基地の要件に見合った東村と西村を建設した。西村は主に商人と警官のもので一方東村は一般の中国人従業員のものであった。
威海衛公報
それは元々1900年の外國人の為の威海衛琴報であったが、1901年から日刊の威海衛公報となった。1909年から再び日刊から週二度の刊行に変更された。
海浜道路の建設、1902年撮影。
威海は1901年に砂利道(じゃりみち)の建設を始めた。最初の自動車道は1928年の夏に建設され、ジョンストン(庄士敦)路と呼ばれる、1929年6月24日に完成した。
威海で最初の外國人宣教師ードイツの中国学者C.ギュツラフ。1832年7月14日、ギュツラフは東インド会社のアマースト号で威海に到着し、よく訓練されていれば次のように述べました。
“威海衛の人々は、私がであった中で最も勇敢な人々だったので、優れた戦士になることができました。

石島、1930年代撮影。
石島は中国で最大の漁港である。孫中山は石島と上海、広州と並んで中国東部の三つの主要な港だと言いました。1899年、スコットランドの宣教師スティーブンと彼の夫人は、石島に威海で最初の教会を設立し、休漁期には宣教活動を行いました。
劉公島の聖詹姆斯教堂(聖ジェームス教会)、1838年4月撮影。
友人と一緒のイギリス人宣教師J.N.ケース(中列左4)、20世紀初頭。
1892年の夏、ケースは石島から威海に来た。彼は威海の町で伝教活動をした最初の西洋人宣教師であった。

天主教堂(カトリック教会)
現在の鯨園小学校の付近にあるが。この教会は、病院、保育園、療養所や孤児院同様に、20世紀初頭にフランスカトリック教会の修道会の支持を基礎としている。
キリスト教伝道師の地方説教、20世紀初頭撮影。
キリスト教文明を促進する為に、西洋の宣教師はキリスト教を人々に教える努力を惜しまなかった。彼らは貧しい人の世話をして、公共福祉と慈善活動に熱心でしたが、威海の人々の伝統的な信念を変えることはありませんでした。
20世紀初頭の英華印刷所。
この印刷所は威海では最も早く1902年に劉公島に設立され、キリスト教兄弟会により経営された。毎年中国人の為に福音暦を提供するほか、政府には無料で、イギリス艦隊には有料には有料でサービスを提供していた。
育華中学校卒業式、1939年7月撮影。
この学校の前身は1902年に設立されたイギリス中華聖公会(安立甘堂学校)として知られていて、貧しい中国の子供達に無料で中国語と英語双方を教えていた。
劉公島の国王学校の生徒たち。
この学校は1904年にダンカン・クラークが設立し、中国の子供達に英語と、ビジネス、そのほかの教科書を無償で提供した、
溥儀皇帝が無料で、皇仁学堂の為に題した扁額を受け取るジョンストン、1927年撮影。
1904年に英国当局によって、威海衛租借期間内で唯一の無料の政府学校として設立されました。学生の歴史と地理の成績は、威海のほかの学校と同じように科学よりも遥かに優れていた。
エドワード(爱德华)港コルフ場の一角、1908年撮影。
この土地は元々明・清駐屯軍の使用する行進場であった。租界の当初、そこは5000人の観衆を入れることのできる将校の為のポロ競技場となった。後の1907年にそこはゴルフ・コースに変更された。1931年、イギリス協会と中国政府は合慶村南東部に18ホールのゴルフ・コースを建設する計画を立てたが、不当な価格の為支払いは成功しなかった。
親は子供を連れて毎年競試に参加した。租借当時、政府は中国の伝統を強調しながら同時に現代教育を奨励した。1911年から、学校は伝統的な中国科目を試験に加えて、賞を設定した。多くの学生が明瞭で簡潔な優れた小論を書き、どれも彼らの独立した思考や強い愛国心を表現していた。
劉公島のイギリス海軍クラブ、1930年代撮影。
倶楽部はイギリス起源である。租借中、エドワード港と劉公島双方で十箇所以上の中国人と外国人のクラブがあった。
劉公島のフリーメイソン会館、1911年撮影。
最初のフリーメイソン組織、ダインツリーロッジは、1902年に威海に設立された。会館は威海に唯一残存する西洋クラブの建物と中国大陸のいくつかのフリーメイソンの建物の一つとして、いまだ良好な状態である。
中国人とイギリス人の家族、1930年代中期。
主人は威海衛税関で働き夫人は広東人であった。
海辺でケース夫人とニュージーランドの宣教師A.ラウト(左)、A.G.グレシャム(中)、20世紀初頭。
A.ラウトとA.G.グレシャムは1904年に威海に来てケース夫人の経営していた女子学校を引き継いだ。彼女ら二人は37年間威海に住んだ。
ダンカン・クラーク・ジュニア、姉のジーンとアマル、1935年撮影。
クラーク氏は1935年に威海でドナルド・クラークの長男として生まれた。彼は威海をたいへん愛していたので、威海資料館に大量の家蔵写真を寄附した。彼は2006年に「威海名誉市民」が与えられた。


人力車に乗って教堂を出る新婚夫婦、1938年4月18日撮影。
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