魯迅:24歳で「鉱業」をやめ転向して医学を学び、その後また医学を捨てて、文学で泰斗(有力者)となるが、「男は錯行に入るを懼る(男は良い仕事を選ぶべき)」は今でも成立するしないのか。
魯迅先生は一生で、一度目は鉱業を捨て医学を学び、もう一度は医学を捨て文学に従うと言う、二度の転職の経歴がある。
「男は錯行に入るを懼る」と言うのは、若い魯迅が、なぜ職業の選択に腰が定まらないであろうか。
中学時代、魯迅は母の命を遵守し、南京鉱路学堂に入学し、「炭鉱夫」の指揮と計画を学んだのは、卒業後食い逸れがないためであった。
しかし24歳の時、魯迅は「鉱業を捨て医学を学ぶ」選択をした。
彼は遥か日本の仙台に行き、医学部に入り医術を学び、将来は「医学で世渡りする」ことを期待した。
話が自分の「医学の夢」に及ぶと、魯迅は「私は当時、医学を学んでから、父親のように疾病(しっぺい)で支障のある病人を救えると考えていた。若し戦争中であれば、出かけて軍医となり、軍人と民衆を塗炭の苦しみから救い、また徳を積み善行したのかもしれない。」と慨嘆している。
つまり、彼が鉱業を捨て医学を学んだことは、一に家人、二に時代の二つの原因がある。
後に、魯迅は『父親の病気』と言う文中で、父親の臨終前になって、自分がやっと父子の間の真からの血縁関係を悟ったと語った。
実弟の描写によれば、父親の周伯宜が無くなろうとした時、魯迅は感情を抑えきれず、父親が息を引き取るまで、大声で泣き喚いたと言う。
魯迅の父親は、中国医学の遅れが原因で亡くなり、その時父親はまだ37歳で、魯迅は15歳であった。
父親の亡くなった深い記憶は、魯迅が医学を学ぶ重要な原因となった。
もう一つは、魯迅が自分の学習が成功して軍医になろうとしたのは、当時の社会背景の影響があったことに因る。
アヘン戦争と日清戦争後、西洋各国は中国人の身体が虚弱と認め、中国人も傲慢な西洋人に「東亜の病人」と蔑まされていた。
このような屈辱的な時代背景の元、中国の民衆の身体を剛健(ごうけん)にする幫助は、国内の医学会は大変重要な課題となった。
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ある時各界の大人物が「軍民運動」で、健全な心身の軍人と新国民を養育する提唱を次々とした。
魯迅が軍医になる夢を抱いたのもこの時代の呼びかけがあったからである。
ある日、当時の日本の学生にとって余りに普通過ぎる時事政治の授業が、魯迅の「医学により国を救う」と言う理想を徹底的に改変した。
その日、講堂の投影フィルムに、魯迅は大変辛い一幕を見かけた。
それは日露両軍が中国の地上で戦争をして、死体が地に溢れていたのである。
日本に留学した一名の中国人留学生として、二つの強国が自国の領土を争奪しているのを見ることは、辛く堪え難いことであった。
その中の一編は、更に腹立たしいものであった。それは一人の中国人が、銃剣で脅されて、ロシア軍の探偵として、日本軍を探ることを迫られた。
しかし彼が日本軍に捕えれ銃剣で殺された時、周囲に立ち尽くして熱心に見ていた人は、彼らは皆中国人であった。
最も魯迅の感情に触れたのは、周囲視していた中国人の、顔には殆ど表情がなかった。
その中には逞しい体格の人も少なくなかったが、彼らも無関心な感情をあらわにして、まるで昔から慣れているようであった。
この身の毛も与奪ような画面は、魯迅の思想に急激な変化を与え、およそ脆弱な国民が、体格が強壮であっても一体何になるのか。彼はただぽかんと見ている観客としか成れなかった。だから、医学は最重要な事情ではなく、彼らの精進を改変する事が最も切迫していたのである。
その後、魯迅は仙台を離れ東京へ戻り、医学を捨て文学に順うことを決意した。
数年後、魯迅は『新青年』に発表した『狂人日記』で「食人」の具体的事実を暴露し、封建社会の歴史に手に汗握る概括をした。
彼の文学作品は、どれだけ多くの中国人の思想に影響したかは知れない。
今日まで、我々の小中学校の国語教科書には、魯迅の手による文章が数知れない。
数年後、毛主席も「魯迅の指し示す人物は、中華民族の新文化の方向である。」と彼を評価している。
1936年10月19日、魯迅は亡くなった。
葬儀では「民族魂」の三文字を記した白布が、魯迅の棺に掛けられ、民衆の敬意を示した。
この嘗て「胸懷苛烈」な人が、亡くなって数えて86年であるが、依然として文学史の中で生き続け、文壇の泰斗の地位としてみるに十分である。
今日我々が彼の本を再読すると、したいことは温もりを取り、彼の人格の光明を杖(つえ)と仰ぎ、自分の日々を取り込み、更に積極的に生きる意味合いと、見なすことができる。
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