甲骨文
車 輿 輦 服 専 転 妥 暈 民 衆 孚 俘 奚 夷 校 蔑
現代常用字
両 輌 綏 昆 隷 業 庫 軍 陣 陳 軋 連 轟 輩 庫 輔 輪 軸 轄 轂 軒 輻 軌 軽 柔 較 輸
夏王朝から、中国は階級社会に進入し、賢人が勤める「天下公平」から権力を私有する「一家独占」へと変化した。奴隷社会からが官職は全て世襲製であり、父から子、子から孫へ、子孫に能力がなくても、それがたとえ狂人であっても、愚かな者であっても、ただ出身が青銅器の楽器と食器の贅沢な王侯貴族の家庭でさえあれば、高官高給に至ることができた。このような世襲製は始まった数世代では問題ななかったが、数百年後にはさまにならなくなっていた。大部分の権勢勲臣は、皆腐敗して堕落(だらく)した飲み食いしかできない穀潰しでしかなかった。多くの社会低層に居る人は、「龍の子は龍、鳳の子は鳳、鼠の子は穴を開けるだけ」という泥沼(どろぬま)の中で、アップアップともがくだけで、根本的に真実の才能を発揮することも、進んで頭角を現すこともなかった。奴隷社会の統治者の、権力は殆ど無限で、何の制約もなかった。王侯将軍宰相の子孫が道理をわきまえた普通の人であれば、多大な混乱がなかったかもしれない。しかし、なにはばかることなく横行し、男女を凌辱(りょうじょく)する上流階級の子弟や、ならず者や親玉が統治者の地位を占拠し、思うままの無闇に任せたら、一般民達の日々はやっていけるのであろうか。
紀元前1619年、夏王朝最後の君主桀王姒履癸が即位した。桀王は文武両道で、素手(すで)で虎豹と戦えるほどであった。この方は中国の歴史上最初の暴君であり、その統治が残虐であったので後世の人に「桀(=凶暴)」王と糾弾された。
夏朝桀王はありったけの知恵と工夫で残虐な殺人と淫らな(みだらな)享楽に走った。彼は人民の膏血(こうけつ)を絞りとり、宮殿を荘厳華麗に修築し、黄金を使い果たして鋳造した柱間が、9本もあった。彼は柱に油脂を塗り、下から炭火(すみび)で炙り(あぶる)、犯人を素足でその上を歩かせる「焙烙」という極刑を考えついた。それは絶対に滑り落ち、滑り落ちれば炭火の上に転げ落ちて焼死する。夏の桀王はこのような極邢上受けた時に、阿鼻叫喚する惨状を見ることを大変好んだ。
ある日、王は(その邢を)見ながら、彼の大臣関龍逢に大変愉快で、とても面白いではないかと尋ねた。関龍逢は、「これは春の薄氷を踏むようなもので、大変危険なものです。」と答えた。夏桀王は彼が興を削いだことを嫌って、「お前は他人の危険が朝夕に迫っていれば、自分の生命も保証されないことも知っているはずだ。」と冷ややかに言った。関龍逢に焙烙での死刑を命じたが、関龍逢は中国の歴史上始めて、君主に向かって諫言(かんげん)忠告をして殺された忠臣であった。
夏の桀王が最も寵愛した妻は妺嬉(ばっき)である。妺嬉は、後の時代の『紅楼夢』の晴雯が賈宝玉の扇子を引き裂く音を好んだと同様に、絹織物が破れる時に出る「ビリ」という音を聴くのを最も喜んだ。夏桀は彼女の側で日夜絹を裂かせるように官女を派遣した。
桀王は王宮内に肉の山を積み上げ、また5平方キロメートルの巨大な池を作り、中には、なみなみと美酒を満たし、水面でボートを漕ぐ(こぐ)ことができるようにした。宴会のために、3,000人余りが、まるで牛の群れが水を飲むように、太鼓の音に合わせて一斉に池の渕から首を伸ばして牛飲した。ある人が、「あなたがもし勧告を受けないのならば、おそらく国は滅びるであろう。」と警告した。桀王は大変怒って、「休得妖言惑眾,人間有天子,猶如天上有太陽。太陽亡,我才亡。(冗談は休み休み言いたまえ、人には天子があり、天上には太陽があるのだ。太陽がなくなれば、我々も滅ぶぞ。)」と言った。そこで全国の人民が一斉に叫んで言った。「時日曷丧、我與汝偕亡」その意味は、「太陽よ、そなたはいつ滅ぶのか?我らが滅びる時はそなたも一緒だ!」である。
司馬遷は夏の桀王が「徳に務めずして武で百姓を傷付けた」というが、当時の文章を見れば、人民が受けた苦難がどれほど深かったかをすぐ想像できるであろう。
衆、初期の甲骨文の,
「衆」の「口」は、実際には刻画は円形ではなくほぼ方形の「日」を表している。
「㐺」は三人の人で、群れなす奴隷を表す。晩期の甲骨文の
「衆」は「口」を
「日」と書いて、「赤日炎炎として火焼」する場面を突出している。この字の三人の奴隷は、烈日の下で一緒に労働する苦痛の形象が最も鮮明である。
昆、金文の
「昆」は
「日」と「比」の会意文字である。造字の本義は、烈日の下で苦役する奴隷達である。
孚、甲骨文(孚)は人をつかむ手「爪」で、公道「彳」で子供(子)を捕えて奴隷している。造字の本義は、人口が部落の強弱を決めた古代に、部落間では少年や兵役男子を捕捉した。「孚」の「男子労働者捕獲」の本義が消失すると、篆書の「俘」には成年「人」を加えて、新たに「俘」を作り代替した。
捕えた青年奴隷を「奚」と言った。甲骨文の「奚」は「爪」と、「糸」、「大」の組み合わせで、首に縄を掛けられた俘虜あるいは奴隷を引きづる様子である。造字の本義は、縄で引かれた奴隷に、拷問や嘲笑をすること。隷書は金文の「大人」を「」と書いている。
金文の
「奴」は「女」と「又」の組み合わせで、「又」は手でつかむことを表している。造字の本義は、女性を捕獲、あるいは掠奪して、使役に使用した。『説文解字』に、奴と、婢は、全て古代の罪人とする。「周礼」では、これらの奴隷にされた罪人は苦役として罰せられ、男性は無償労働を監督する役人に支給され、女性は米搗きや、煮炊きと野菜栽培と採集をする役人に支給され管理された。校、甲骨文の「校」は交差した両脚「交」と木製の刑具の手かせ足かせ「木」の組み合わせで、自由な活動をさせないように、木製の手かせ足かせで両足を繋いでいる。造字の本義は、古代両足を繋いだかせである。篆書の「校」は左右の構造で書かれ、隷書の「校」は篆書の「」を「交」と書いている。『説文解字』では、校は、木材で作った囚人護送車である。
蔑、甲骨文「」(蔑)は眉を挙げて軽視を表す「眉」と、死刑に臨む「人」と「戈」の組み合わせで、処刑されるものの瞳に絶望の色が現れていることを表す。金文の「蔑」は甲骨文の眉毛「」を「卄」と書いている。篆書の「蔑」は金文の形を継続している。『説文解字』に、蔑は、目を労して精無きなり。疲労して目に精彩がないこととする。
夏の桀王は石潰してで、国庫の財産を全て自分のために使って宮殿を改修し、飲食店歓楽して、次第に家臣を遠ざけた。王と各部落の首領との関係も次々決裂し、王の行為に疑問を呈する者があれば、家族まで捉えて、あるいは監禁し、あるいは殺害した。桀王が迫害の矛先を向けたのは、商部落を代表とする東夷の部族であった。桀王は商の部落の発展が急成長し、彼に対して脅威になる可能性を考え、商部落の首領湯(後の商王)を捕まえて来て、「夏台」監獄に捕えた。しばらくすると、あるいは商湯は大したものでないと考えたのか、あるいは夜な飲酒が過ぎ音楽が過ぎて気が触れたのか、夏の桀王は商湯を解放した。どんな理由で捕えられたのか、どんな理屈で解放したのか、どんな君主なのかは天のみぞ知る。
商湯は故国に帰ると、民情を考え、治政に努め税金を抑え、広く善政を敷き、生産に発展し、「見逃す」という外交手段をとって、桀王の手先を打撃し、彼らが残虐にした百姓を救い出し、周辺部落での自分の威信を強固なものにした。『詩・商頌・長発』に、この間の事を韋顧既に伐ち、昆吾夏桀)韋と顧を討伐し、昆吾と夏桀を追放した)」という、『孟子・滕文公下』に「十一征して天下に敵無し、東面して征すれば西夷怨み、南面して征すれば北夷怨み、曰く奚(なん)ぞ我を後と爲さん、民の之れを望み、大旱の雨を望むが若きなり、市に帰る者は止むことなく、芸(たがや)す者も変わらず、其の君を誅ち其の民を弔いて、時に雨降るが如く、民大いに悦ぶ(湯は十一戦して天下に敵無く、東を征服すれば西夷が怨み、南を征服すれば北夷が恨み、人民はなぜ先に私を救ってくれないのかと言って渇望することは、干魃に雨を望むようであった。桀王を討ちその国民を弔えば、時よく慈雨が降り、人民が喜ぶようなものであった)」。
商湯王はなぜ夏王桀を征伐しようとしたのか。またなぜ四方の部族への11回の征服戦は何の抵抗もなかったのか。反体に征服された地方の人々は熱烈に歓迎し、人々は商湯の大軍の到来を切望したのか。叩かれもせず不平を言い、人が来ないと怨みを言うのは、病気であろうか。実際は夏の桀王が大変道徳観に欠けているからである。孟子は葛天氏の族長葛伯に関する二つの故事を語り、一切を説明するに十分である。
第一の故事は「祭天」である。商湯が毫邑(はくゆう)にいたとき、付近にいた葛天氏葛伯(かつはく)が祖宗を敬わず、祭祀を行わず、且つ、行為が放縦(ほうゅう)、悪事の限りを尽くしていると知った。人を派遣して葛伯に問いただすと、葛伯は使者に、「小国なのでとても困っている。最初のための牛も羊もない」と嘘をついて言った。そこで消灯は葛伯に牛と羊肉を一群贈ったが、葛伯は依然として祭祀を行わず、牛と羊を全部殺して食べた。牛を食べるなんて?これは農耕文化では根性曲がりで極めて不敬であった。
第二の故事は「耕田」である。葛伯は毎日歌舞に耽溺(たんでき)し、民衆に台を組み立てさせて劇を演じさせ、狂犬病歌勁舞のお供もさせて、地に種を蒔かせなかった。商湯は見殺しにできず、住民の種蒔きを助けさせようと、人を葛天氏集落に派遣した。葛伯が、なんと耕作して植え付ける者に食事を届ける子供を殺し、食事を奪い、耕作を破壊する途中だったとは思いも寄らなかった。考えてみてください。このような政権が存在する理由はあるだろうか?そこで伊尹(いいん)は見殺しにできず、商湯に、「もし堯舜の徳が民衆に及ばないならば、天下の賢人と自負することはできません」と説いた。続いて伊尹と商王は同盟を結び、共に兵を起こし、桀を伐った。こうして商湯王の十一回に及ぶ征伐戦が行われた。そして至るところの征伐で百姓は救出された欣喜乱舞しないものはいなかった。なぜであろう。。商湯王は「その善徳の種を播」いて、暴虐を一掃したからである。紀元前1600年、商湯王は東方の十二部族で組織した連合軍で決起大会を開いて、正式に夏王桀の討伐に出兵した。商湯王の誓詞『湯誓(湯王の宣誓)』は極めて激情で哲学の理論の戦争動員令であった。湯王は、語った。「我が此処で皆さんに桀王を討つ動員令を発出したのは、この平凡卑小な人間が反乱して災禍を起こしたいわけではなく、夏王朝の主君家臣が酒色に溺れ非道であるから。我にこの太陽の無い暗黒の世界を消滅させることを求めたのは天である。我は民意を聴き、天命を畏敬、今日百姓がみな我に邪悪を一掃することを求め、天はまた我に無道の征伐を命じたが、それならば我も民意の天命である。夏の桀王征伐を共に執り行う必要かある。例え共に死んでもある。我は功有るものには褒賞を実施し、軍法に違反し、戦いから逃亡した者には懲罰するであろう。我々と共に無法者に宣戦をしよう!」
『湯王の宣誓』の鼓舞の元で、商の湯王の軍隊は激昂し、大変な剣幕で、一気に首都安邑に雪崩れ込んだ。朝廷政治を粗末にしていた夏の桀王は商湯王の一撃には叶わなかった青銅このため鳴条会戦の時、夏王軍は一戦で壊滅し、軍隊を成さなかった。
『呂氏春秋・慎大』に、両軍合戦の時に、「刀を手合わせする前に桀は逃走した。」という。夏王桀は力が強く、素手で湾曲した鉄鈎を引き伸ばし、闘獣場で猛虎を殺すことができた。それなのに商湯王の戦車の前で、全く反抗する能力もなかった。兵は山のように倒れ、夏王桀捕虜となり、遠荖の南巣(安徽省桐城)に放逐された。
夏王朝は建国440年で、此処に消滅した。夏王朝が滅亡すると、商湯王は偃師の二里頭に築城し西の辺境を守備し、首都を鄭州に設置し、「毫」と名付けた。
後に孟子は、商湯王が夏を消滅した成功のゆえんは、四つの重大な原因があったという。
一つに当時の最も強大な有莘氏の部落と連盟を締結したことである。伊尹は賤しい身分の出身で、幼名は阿衡と言った。有莘氏の女性が商湯王に嫁いだ時に、伊尹は有莘氏の奴隷の身分として商の部落に来て、商湯王の料理人となった。伊尹は後に実家に戻り、部落の首領となった。伊尹は本来夏王朝に忠実であったが、夏の桀王は非道で暗君であったので、彼は反旗を翻し、商湯王の元に来て協力した。
二つには商湯王には遠見卓識があり、ずっと軍事の主導権を掌握していた。東方の連合軍が総攻撃をした時、ちょうど夏の都が有った伊河と、洛河の流域は旱魃で、「伊洛竭(つ)きて、夏朝が亡」ぼには、明らかに聖であった。この時商の部落地区は同時に旱魃が発生しており、その人民は危険を侵すことに反対した。商湯王は民衆を説得し、出兵を堅持した。
三つには商湯王は宣伝戦略に弔辞(弔辞)で居り、世論と道徳的な最高点を占拠した。夏桀の暴政は人民に憤懣のエネルギーを生み出させた。同時に商湯王は民心をつかむために、四方に人を派遣して自分の様々な美徳と善行を宣伝させた。例えば彼は四方をがんじがらめにはせず、「網は一面を開ける」ように規定して、左の鳥は左に、右の鳥は右に、正面と反体の鳥だけが、網にかかるように(一掃しないように)していた。商湯王は、人類に限らず、鳥類などその他の生物に対しても、慈愛を抱いていると、人々が称賛する由縁である。
四つには、絶対優勢な軍事力を占有していたことである。商王朝は、複合弓、青銅の矢じりと戈矛などの新兵器を装備した強大な武装部隊であり、石塊を放り投げるだけが主要な戦力武器であった夏王軍には抵抗するすべがなかった。鳴条会戦の時、商湯王が統率する軍隊の兵は5,000人の多きに達し、これは当時集結できる最大級の軍勢であった。更に恐ろしいことには、商の軍備には30台の威力最強の戦車を装備していた。中国の歴史上、これは戦車が初めて戦場に現れたもので、現代のタンク戦車を想像するだけでも、その驚きは多大であった。
秦朝の馬車方陣
商湯王が鳴条で夏王桀を打ち破った時、戦車は古代の敵人を追撃する「古代タンク」として初めて戦場に出現し、極めて強大な殺傷武器となった。両軍隊退陣する時、戦車に乗った戦車に座った甲冑の兵士が軍陣の中央に位置して、前面には軽装の弓矢隊が密集した。大群の長矛は戦車の両翼に方形に配置された。長矛の方陣の第一列は青銅の甲を被り、左には盾を持ち、右手には戈で重装備した歩兵であった。両軍が相互に接近した時、弓矢隊が間断なく敵に矢を打ち、敵軍の陣形を打ち崩し、その後歩兵と戦車が敵に一世攻撃をした。続いて、双方は近距離戦となり、混戦のなか双方は団子状態となり、戦士達は地上に増え続ける死体や負傷兵を踏みつけながら、太鼓を号令として、猛烈な勢いで、勇壮に前進した。皆を幸運にさせたのは、戦車が突撃すると、敵軍を恐れ慄かせた。そこで、細かく計画された戦闘はすぐさま勝者対敗者の追撃戦となった。
中国の最も古い車は、約4600年前の黄帝時代の時にもう出現していました。『古史考』に記載されているものによると:「黄帝は車を作り、重い責任を負って遠くに達しました。少昊の時代には僅かに牛が使われ、禹の時代には奚仲が馬を駆りました。」4,000年前、今日の山東薛城の奚仲の車正という職業は車作りの祖先でした。
古代人が馬を従え車を引き始めたのは、車両の発明よりも遅かった。甲骨文には、2人が前に繋がれた人力車を表す文字があります。それが「輦(れん)」です。
紀元前2100年から前1600年の夏王朝時代には、戦車が軍隊に登場していました。しかし、夏朝の戦車は、王や将軍達の移動指揮所にすぎず、車には鼓を打つ伝令兵や旗手が配備され、加えて車を運転する馬夫がいると、車は一杯になってしまいます。このような戦車はあまり役に立ちません。時も立ち、戦車の戦力は大幅に上昇し戦場の主要武器になりました。その時、一つの国が持つ戦車の数がこの国の強さを表していました。
史書によると、商人の始祖子契(しせつ)は大禹、奚仲(けいちゅう)と同じ時代に生きていた。子契の孫である相土は、四頭立て双輪の大車を製造した。相土の曾孫である王亥(おうがい)に至って、商人は「服牛」に車を牽かせることを学んだ。王亥自身は、かつて牛車を駆って、商丘から出発し、長距離の貿易に従事して現在の河北省中部の有易(ゆうてき)氏集落の境界まで赴いたところ、有易氏に殺害された。
甲骨文、甲骨文、金文、
甲骨文の「服」は会意字である。右上は一本の手であり、中央の跪座した人の頭部を押さえ、その人に方形の木枷を載せるようにしている。従って、この字の本義は「降服」である。造字本義は、捕虜、あるいは犯罪者を捕まえて、首かせをかけることである。牛馬を捕らえて人のために車を牽かせることも「服」と呼ぶ。「馴服」というわけである。『説文解字』は、「服は運用、使用なり」と説く。一説では、「服」は馬車の右側の添え車であると言う。この馬を駆って方向を変えると、馬車は右折する。
甲骨文にある「車」は、中国の古代統治者が狩りをし、戦車を行う時に使用する戦車を指す。この種の戦車は非常に精美で、また特別軽量で扱いやすい。高々とした車輪は、こしきの上に固定されている。車軸は車輪のこしきに通してあり、軸上には長方形の車両が装着されている。車体には三人乗れる。中央は手綱を取る御者、左側は弓箭手、右側は戈を持つ武人である。小型の戦車には2頭しか馬が馬具で繋がれていないが、大型の戦車では4頭が繋がれていて、中央の2頭は「轅馬(えんば=ながえうま)とは、轅(ながえ)を取り付けた馬。車を牽く時に主馬になる。」、轅馬の両側が「驂馬(さんば=そえうま)」と呼ばれる。4頭の馬は、省略して「しば=4頭立ての馬」と書かれ、馬力が大きく、身軽なので、この種の車は速度がとても速い。人々は「一言口に出したら、駟馬でも追い難し」と言う成句を、口にした言葉は、撒いた水のように、4頭立ての馬車でも追いついて元に戻せないのを形容するのに使う。
初期の甲骨文には、荷台を省略して、轅(ながえ)と軛(くびき)と付け加えたものがある。
「車」の前に
軛の器具を取り付け、家畜で引いていることを表示している。おそらく最古の「車」は戦争のために発明されたもので、歩兵の対陣の中で特殊な攻防で優勢を創造したものである。現代軍隊のタンク戦車の戦闘力は、軍事力、防衛能力、機動性の三つの要素を考慮している。防御力を高めるには、装甲の厚みを増す必要があるが、機動能力は低下する。そして効率の良い発動機(エンジン)が必要となる。古代の戦車の理屈も同様で、商人は牛車などの強力家畜の爆発力と持久力を利用して、戦車を早く突出し、当地の陣地に進入することができ、また車体は「装甲」を取り付け保護することができ、戈戟を手にした戦士を車に立たせ、高所から歩兵を攻撃することができ、攻撃力と防御効果を大々的に向上させた。
龍骨水車
霹靂車
現代の中国語では、「車」字には「機器」の意味がある。数千年来、灌漑用の水を運ぶのは大変な重労働で、代々の農民は精根は尽き果てていた。車輪が出現してから、前漢の天才発明家馬均は、車輪の付いた竜骨水車で揚水灌漑できることを発見した。彼はまた、石弾を連続して発射し敵を攻撃する「霹靂車」と言う、一種の車輪のある旋回式の投石機(発石車)を発明した。また車輪は風車や送風機、紡績機にも取り付けられた。これから、「車」字は、例えば「風車」「糸車」「車床(旋盤)」など、輪の付いた機器に大量に出現した。
戦車の出現と共に、「車」字は軍隊と戦争に関連していた。車と関係の字には、「軍」「転」「庫」「轟」「連」「軽」「陣」「軋」を包括し、国家の重要機密の大事と密接な関係がある。
軍、金文
の
「勻」は均等を表し、
(戦車)を四周に均等に配列することで、後に古代の武装部隊中の最高編制を借用し、それぞれの軍には均等な数量の戦車と兵士を配備した。金文は等号の「ニ」を省いて、
「勻」を
「又」と書いた。篆書
はまた金文
の
「又」を誤って
「勹(包)」と書いた。隷書の「軍」は篆書の
「勹」は「穴・宝の冠
(宀、冖)」と書いた。『説文解字』に、「軍は、圜囲なり。四千人を軍と為す。車に従い、包の省に従う。車は兵車也。」軍は、戦車を円形に囲み形成した軍人である。四千人で一軍を編成する。字形は「車」と「巳」を省略した「包」の会意である。「軍」字中の「車」が、指すのは戦車である。
軍は、音符であり、意符でもあり、取り囲むことを表す。甲骨文の
、
、
「暈」は元々太陽「日」を巡る。周囲のぼんやりとした光の輪である。篆書の
「暈」は太陽を「日」と書き、壮観な軍陣
「軍」を照らしている。この「暈」字は、光の輪を表すことから、心中に震撼を受けたりあるいは車や船の上下動によって起こる辛い嘔吐感を派生した。


太陽と月を囲う、ぼんやりとした光の輪を表す、二種類の言い方がある。左右の構造の「暉」と、上下の構造の「暈」である。「暈」は「目眩(めまい)」の感覚を表し、人々とは「暉」で曖昧模糊の光線を表した。「暉」は、篆書で
と書き、隷書は
「暉」と書き、早朝の雲の多い天気などの気象条件の下で、太陽が柔らかく光線を放散することを表している。例えば唐代の詩人孟郊の『遊子吟』の「誰か言わん寸草の心、報いて得る三春の暉き」のようである。

紡轉(転)
戦車は最も目を引く大きな車で、当時は「転」と言っていた。古文の中で、回転の「転」と「伝動」の「伝」は通用し、前者は輪の回転を表し、後者は他の力で輪を駆動して回転する事。「転(𨍭)」の本字は「専」であり、甲骨文は
「専」を書き、字形は女子が紡績に使う手動
「又(寸)」の
糸車を象る。金文
は本字
(専)の傍に
を加えて、専を代替して轉を作りました。轉の造字の本義は、車輪を、旋回、転がすことである。『説文解字』に、転は、車両を用いて運輸する。
初期の甲骨文で、井戸の水を汲む轆轤、鉱山で吊るされている滑車、女性が紡績に使う糸車など、一切の輪と関係のある物品は、みな「専」と書く。あらゆる輪の中で、戦車の車輪は最も壮観である。四字熟語の「美輪美奐=(豪華絢爛)」の輪は、壮観の意味である。
「巠」は、音符であり意符でもあり、「径(徑)」の省略形で、山道が狭くでも曲がったり迂回することなく真っ直ぐ進むことである。篆書の
「軽(輕)」は
と
「巠」の組み合わせであり、造字の本義は、戦車の負荷が少なく自由に運転進行することである。
「軋」の、篆書「軋」は「車」と「尸」の構成で、「尸」は人体を表す。造字の本義は、戦車が集団で衝突し、邪魔な敵軍の死体を轢きつぶす事。
庫は、金文「庫」は「广」と「車」の組み合わせで、造字の本義は、戦車、馬車など大型物資を専門的に駐車する広大な建築物である。
連は、金文の「連」は行進を表す「辵(辶)」と「車」の組み合わせで、造字の本義は、会戦開始前に、戦車が前後接近し、縦横に一線を成すこと。
叕(ケツ、つづる)は音符であり、意符でもあり、「綴」の省略であり、元は半分に引き裂いた布を縫い合わせること。篆書の「輟」は「車」と「叕」の組み合わせで、造字の本義は、車体が散らばってもまた連接する事。隷書の「輟」は篆書の「叕」を「叕」と書いている。『説文解字』に輟は、車小欠して復た合わす者。また行軍過程で、道路の障害で、後続隊列が分離することがある。車隊は分断して二つに分かれてもまた連接する。
非は、「排」の省略であり、列を揃えることを表している。「輩」は、金文「輩」は「非」と「車」の構成で、「非」は「排」の略字である。造字の本義は、戦車で車陣を編成して、並列で前進して攻撃する。
「陳」と「陣」は来源が同じであるが、後に分化した。金文の
「陳」の
「阜」は山地を表し、
「土」は荒野を表し、
偏旁の東は、「車」字の誤写で、戦車で軍隊を指揮すること。造字の本義は、部隊は山林、曠野で、戦闘態勢を取る陣形である。金文の陳は
を書く。篆書の陳は
を書く。楷書の陳陣は
を書く。
「陣法」は実際には戦闘隊形であり、戦闘配置であり、作戦隊形である。陣地とは一体何であろうか?所謂陣地は戦闘を進行するための兵力・兵器が占める位置である。中国の軍隊は、発展するにつれて、単純から複雑へと、単兵作戦から多兵種連合作戦へと進化する過程を経験してきた。
上古時代、人々には個人間の勝負、決闘、集団乱闘があった。最も古い作戦モデルは、敵対する双方がそれぞれ地位の比較的高い人、つまり首長とか貴族であるかもしれないが、そういった人を任命して両者の手持ちの武器で決闘させ、両者の勝負で戦争の勝負を決定すると言うものであった。
奴隷時代になり、戦争の規模が拡大し、集団化すると、単兵の殺し合う威力は、グループのチームワーク力と全く食い違うようになり、応用して軍隊が出願した。当時の戦争は非常に残酷であり、都市に遠征して戦えば殺人は都市に満ち、郊外に遠征して戦えば野に満ちた。戦争で敗北した側は、軍隊は屠殺の憂き目(うきめ)に逢い、都市は破壊され、民族全体が征服された。あらゆる捕虜は、老若男女を問わずみな奴隷とされた。
商代周代には、陣形に突入する大型戦車があった。この戦車は精良な武器、重厚な甲冑、戦車の周囲には大型盾などの装甲防具を掛け、殆ど、強大な衝突威力を保有する、移動する城塞であった。しかし、戦車が牽引に使用する馬は敵人の襲撃を受け易く、しかも平坦で開けた地形では作用を発揮するが、その使用は地形、道路、天気など条件の制限を受けやすい。それでも、適合した戦機が有れば、打って付けの時間と地点で、戦車を使って突入し陣形を崩し、敵軍の兵士に突撃し轢き潰すことは、実に造作のないことであった。
戦車は機動性が強く、歩兵は根本的に同様には語れない。一方の軍隊が進行しあるいは双方の軍隊が交戦する時、戦車が発動する攻撃は敵人に途轍もない(とてつもない)心理的動揺を与え、恐怖は敵の陣に混乱を表し、兵士は逃走を始める。この時、戦闘はすぐさま追撃戦となり、逃げ延びて殺されるのを免れるのは、足の速い人だけである。通常は二つの陣が接触すれば本当の殺し合いが開始され、この残酷な過程は半日、あるいは丸一日続くこともあった。死傷者の人数の増加につれ、戦線は一方が徹底的に崩壊するまで、絶え間なく前後に異動する。失敗した知らせは迅速に敗戦者側に伝わり、この時に僅かな敗戦者だけが幸いに逃亡できるのである。
篆書の「轟」は三両の戦車の組み合わせで、車体が行進していることを表している。造字の本義は、戦車が纏まって進行する時に耳を劈く(つんざく)ようなドドドと言う音を出すこと。当時の、商王武丁が自ら率いる戦車部隊が大路に沿ってドドドと原野を射疾走する時、車輪は轟々(ごうごう)と言う音を出し、まるで空の雷鳴が大地を震撼するようであった。真っ黒な戦車が、まるで泰山の山頂を圧するように、轟々(ごうごう)と地平線を行く姿を想像しよう。初めて戦場に立つ敵軍の兵車にすれば、大変震撼したことであろう。
商王武丁の治政以前に、甲骨文には「車」の字の出現は大変少ない。しかし紀元前13世紀の初め、武丁の軍隊には大規模な戦車の陣形があり、四方を縦横に進行し、敵軍を総崩れにした。その後、戦争が勝利するにつれ、車を示す文字が噴出して、突然多くなってきた。この車の字の書き方は十数種に達し、荷台、車輪、車軸、轅(ながえ)、はたまた馬の首の「V」字形の軛(くびき)まで、「車」字の構造は本物の車のように完全に同じで、全て鮮明に描かれている。

輿の左右には板や柵があり、手すりとして使われました。前面には手摺りのような横木があり、通常は「軾」と書かれます。途中で出会った人々に決意を表するために、手摺りを掴み、頭を下げる動作も「軾」と呼ばれています。『論語・郷党篇』には、「冠を被った者や盲人に出会っても、親しくない人でも表情で挨拶しなければならない。凶服を着ている人には手摺りを掴ませ、公文書を背負っている人には手を合わせる」とあります。『礼記・檀弓下」には、「孔子が泰山を通りかかった時、ある女性が墓で泣いているのを見て、孔子は手摺りを掴み、その女性の話を聞きました」と言う話があります。また、尊敬する人々の住む場所にも「軾(ひざつき)」が必要です。『礼記・曲礼上』には、「周の天子が出かける時、多くの人々が立ち退いて、道の脇で「軾路馬(しりょうば)」になります。軾路馬とは、天子の馬のことです。王に敬意を表することは分かりますが、家畜まで光を浴びるのはやり過ぎです。


群衆は統治者のする行為を大変よく見ていて、公共輿論(世論)を生み出しでいる。『左伝・襄公三十年』に、鄭国の大夫公孫僑、字名は子産を記載する。鄭の簡公23年(紀元前554年)から治政を始め、42年間の統治で、政治の業績は赫赫としていた。子産は国都と地方をすじみち通り治めて、上下大小の秩序を整然として、天地の畝と溝、家屋と井戸も整然と配列された。子産の忠誠は簡素で、民衆の敬服を教え導き彼らに親しみ、横柄で贅沢なものには、子産は彼らに懲罰した。彼は執政一年で、民衆には『輿人の歌』を作って歌った:「你拿走我的衣冠収起來,你把我的田地乱安排,誰要造反去殺子產,我們一定会幫他干!あなたは私の衣服を持って行き片付け、あなたは私の田畑の乱れを改造した。誰かが反乱して子産を殺そうとしても、私はきっと彼を助けよう。」三年目になると、『輿人の歌』は賛歌に改良された:「我有子侄、子產教他懂礼、我有田地、子產讓它豊収。倘若子產死了,誰能替他当頭!私に子や甥がいる。子産は彼らに礼儀を教えた。私には田畑がある。子産はそれを豊作にした。もし子産が亡くなったら、誰が長になるのであろう。」現代中国語の「輿論」の言葉は子産に由来しており、「輿情(=民情)」「輿誦」「輿頌』とも言う。輿人は民衆であり、輿人の歌は民衆の歌う歌であり、つまり民衆の議論である。これは古代の統治者が民衆の気持ちを試す重要な根拠であった。所謂「路遥かにして馬力を知り、日久しくて人心を見る」ことで、たった三年で、鄭国の民主は子産に対する考え方を改めた。
輿の後ろの横板やあるいは欄干を「軫(シン、よこぎ)」という。『左伝』に「張丐は殳(シュ、衝突用兵器)」を抽(ぬ)いて下がる、(公子城は)之を射って、殳を折る。(張丐)は扶伏(匍匐に同じ)して、これを撃ち、軫(公子城の車軫)を折り、またこれを撃ちて、死す。」『史記・亀策列伝』に(紂は)頭を車軫に懸け、駟馬で曳行す。」古代人は車の後部から乗車したので、軫には、車を待つための、開いた部分があった。『戦国策・趙策』に「媼(オウ、音袄。老婦人、趙威后を指す)の燕の后を送るなり、其の踵を持って之の為に泣く。」母親は車の下に立ち、軫から車輿の前に腕を伸ばしたが、娘の踵を握っただけのことで、これは車が離れようとする一瞬の情景である。
輿車には乗車の時につかまる縄が固定されており、綏(スイ、垂れ紐)という。『論語・郷党』に「車に昇(のぼる)に、必ず立正して綏を執る。」『韓詩外伝』巻ニに、「晏子起きて出で、綏を援(ひ)いて乗る。」『礼記・檀弓上』に「魯荘公及び宋人乗丘に戦い、縣賁父御し、卜国を右と為す。馬驚き、敗績し(車の転覆を指す)、公隊(墜)つ。佐車(副車)より綏を授く。」綏を使用しなければ、妥当ではなく、引きとどめないと危険であった。
「綏」字の成り立ちを見ると、「綏」の本字は「妥」である。甲骨文「妥」は「女」と「又」の構成で、男性が右側から手を伸ばし、横から粗野に女性をつかんで、逃げようとする力を放棄させることである。男尊女卑の時代には、男性は女性を支配することは理も当然と考えられていた。隷書の「妥」は篆書の「女」を簡単に「女」と書いた。後に、「妥」字は「権力を放棄する」、つまり妥協する動詞に多用された。また、穏妥、穏当のような「適当な処理して」の形容に使われた。「妥」の女子を制圧する本義が消失すると、篆書の「妥」にまた「糸」を加えて新たに「綏」を作り代替した。造字の本義は、女性奴隷を縛って、彼女の抵抗を阻止する事。内モンゴル自治区の首都フフハト子は旧称「帰綏」であるが、旧市街の「帰化」と新市街「綏遠」の組み合わせで、民族弾圧の意味が明確であったので、新中国成立後に改名された。
侖は、声符でもあり意符でもある。多くの管で構成された排笛(パンフルート)であり、多くで順序のあることを表している。輪の、篆書の「輪」は「車」と「侖」との構成である。造字の本義は、車輪の中心のハブ(輪轂、こしき)を中心として、多くのスポーク(輻条、フジョウ、車のや)が円形の放射状に排列され、ハブの中心の車軸を規制正しく回転させる事ができる。初めて車を見た人にとって、印象深いのはおそらくこの二つの不思議な車輪であり、そのため「美輪美奐(豪華絢爛)」という感嘆の熟語がある。この「輪」が、表しているのは「壮観」の意味であり、奐は、友人を読んで見に来てもらい、皆が目を輝かせ、衆目の一致するところという意味である。この四字熟語は、くれぐれも「每侖美幻」と書いては行けない。もし)侖」に交換すると、話が通じなくなる。
畐は、声符であり意符でもある。「副」の省略形であり、輔助を表す。篆書の「輻」は「車」と「畐」の組み合わせである。「車」が表しているのは車輪であり、「畐」は、「副」の省略形であり、意味は「輔助」である。造字の本義は、副輪であり、つまりハブとリムを接続し、リムを輔助し、支える作用がある。
「由」は、声符であり意符でもあり、〜から、〜によってを表す。篆書の「軸」は「車」と「由」の組み合わせで、「由」は経由、由縁の意味である。造字の本義は、車輪の中心を通して、車輪を回転させる軸棒の事。「圧軸(圧巻)」とは、(長編演劇の)最後からニ幕目の折子戱(段物)を指す。実際、圧軸子(圧巻)という。最後の一幕、大軸子と言う。
害は、声符であり意符でもあり、「割」の本字であり、分割と表す。篆書の「轄」は「車」と「害」の構成で刀で分割する意味である。造字の本義は、車軸に切り込みを入れ、車輪が車軸から脱落しないようにした鉄のピンで、後に「限定(間隔を置く、制限)」「管轄」の意味に展開した。「轄」と「輪」の摩擦に依り、ギーギーガーガーという音が出るのと、「轄(かつ)」の音は似ている。『説文解字』に、轄は、車両の運行時に発生する雑音である。
甫は、声符であり意符でもあり、扶助を表す。金文「輔」は「車」と「甫」の組み合わせである。「輔」は「輔助(すけだち)」の意味である。造字の本義は、馬車の座席の左右両側の欄干である。
馬車の前面には欄干があり、直立して展望を獲るための手摺りを成している。「軒(けん)」と呼ばれ、また「軾(しょく)」とも言う。左右両側の欄干である「輔(ほ)」と比べると、軒と食は少し高くなってるようである。金文の軒は車と干が組み合わさっているが、造字本義は、「古代貴族の車輌上に架かった前方の手摺りとなる横棒」である。
車轅(ながえ)は輈(ちゅう、zhou 、周と同音)と呼ばれ、すこし湾曲した木棒である。車轅は、粗大な木材を加工して作ってあるので、湾曲の具合は丸木舟のようである。そのため、古人はこれを地上を走る船に見立てて、篆文で「輈」と書いた。「陸地を行く船」という意味である。
軌、金文「軌」は「車」と「九」の組み合わせである。「九」は「究」の本字であり、元は「手を伸ばして穴の中のものを探り出すこと」を指し、帯は手の指のことで、「加重のかかる位置」「てこの支点」の意味を派生している。造字の本業は、車輪が地面を押しつぶして残した痕跡で、車の重量を受けた場所である。二つの車輪の間の距離を軌間と言う。秦の始皇帝が天下統一をしてから、「車は軌間を同じにして、書は同じ文字を使う」ことを規定した。軌間が同じであれば轍(わだち)の幅も等しくなるので、軌間を同じにすれば公道を標準化する一種の措置であり、つまり未舗装路の時代は特に重要な事であった。派生して、車の轍も軌道と呼んだ。『説文解字』に、軌は、車の轍であり、車輪が輾圧(ひきつぶした)痕跡である。『孟子・尽心下』は、「城門の軌は、両馬の力ならんや。」と問うている。意味は縄文の孔底の和達の溝は、往来する多くの車がゆっくり熱をかけてできたもので、二頭立ての馬車一量の地からではできないと言うことえ。曹植『白馬王彪に贈る』に「中逵絶えて軌無く、轍を改めて高岡に登る」。これは長雨でどうろが抜かるみ通れなくなったので、道路を変更する事。下の句で轍を言い上の句で軌を言っているが、軌轍は同義であるので、重複を避け互換して使用している。
撤は、てったいw、離開を表し。「轍」の本字である。篆書の「轍」は「車」と「撤(の省略形)」の組み合わせである。造字の本義は、車輪が轢き潰した後に出来た痕跡である。夏王朝末期から商朝前期の偃師二里頭遺跡には、一筋、地面に残った軌道の痕跡を留めており、「轍」と呼ばれている。
『史記・殷本紀』に、武丁が嘗て夢に見た一賢人傅説の記載がある。彼は「迺ち百工を使う之れを野に営求し、傅険(傅という崖地)の中に説を得。是の時説は胥靡と為り、傅険に築く。武丁に見ゆ。武丁曰く「是れなり。」得て之れに語を与う、果たして聖人たり、挙げて以って相と為り、殷国大いに治む。故に遂に傅険を以って之れを姓とし、号けて傅説と曰う。」胥靡とは、刑徒である。傅説は捕獲された異民族で、罪人らと一緒に「傅険を建設」していたらしい。武丁は規定に拘らず、(傅説を)推挙して宰相として、殷の国を大いに治めさせた。武丁の時代には賢人能材を選定して、国政に勤務させ、殷王朝は最盛期を迎えた。
中国の古代社会では、農業は重要な生産部門であった。武丁は政を整え、国土を治め、農業を発展、牧畜生産に尽力した。農業収穫高が良好であることに非常に感心があった武丁は、毎年春耕或いは秋収の前に必ず「求年」の祭祀を挙行し、そうやって農業の豊かな収穫を祈求し、常に「受年」かどうかを占いで問うた。武丁はまた、大臣を派遣して農田、狩猟地と辺境の状況を看視させた。卜辞中に言う「省田」或いは「省鄙(しょうひ)」である。
「鄙(ひな)」は王都以外の田野を指し、武丁はいつも幾つかの農牧地域に行っては牧畜状況を視察したが、「王勿往省牛(王、牛を訪ねにいかず)」と言う記載がある。「王、牛を訪ねに行かず」は、王がこの時に牛を訪ねに行かなかったことを言っているが、王はいつもは「牛を訪ねに」行くのである。殷王朝の周囲にはたくさんの異民族の方国、集落があって、牧畜を主とし、移動は不定で、しばしば先進民俗の居住者地に行って財富を掠奪した。山西省北部の鬼方、河北省北西部の土方、陝西省六盤山付近の羌方等のように、野蛮な集落が絶えず殷王朝王畿に侵入しては略奪した。卜辞は、土方と鬼方がいつも秋高く馬肥える時に中原に侵入し、中原の田野、即ち収穫した食料と馬牛を掠奪して、我が方の居民の安全を深刻に脅かしたと記載する。そこで武丁は蛮夷諸物を征伐しようと決心したのである。
武丁は、在位期間の盛りは数十年間であるが、四夷を征服するのに多くの能力を動員した。『竹書記年』は、武丁が「三十二年、鬼方を伐ち、次いで荊。三十四年、鬼方に勝ち、氐羌(ていきょう))が客人としてきた。四十三年、王師は大彭を滅亡した。五十年、豕韋の征き、これに勝った」と言う。また「王、殷の大仁なり。努力して王道を行う。敢えて荒寧を行わず、殷邦に栄光をもたらし、大小の臣民に行届き、いかなる時も不満や怨みを言わざりき。この時、味方の範囲は東は黄河を過ぎず、西は氐羌を過ぎず、南は荊蛮を過ぎず、北は朔方(さくほう)を過ぎざれど、称える声が上がり、廃れたりし礼が復活せり。廟号は高宗なり」と言う。武丁の時代、商朝は領土を拡張し、現代中国の版図の雛形(ひながた)を定めた。この広大な土地、東は長江、淮河の河口と山東半島、西は甘粛と青海の交わる所、北は燕山山脈と内モンゴルの草原、南は湘江、贛江流域に至る面積約200万平方キロメートルである。商朝の境域は広大で、人民は安定していた。四方の藩属国は次々と殷都に朝貢に来たり、或いは朝廷に奉職したりした。
武丁の在位期間、商朝の国力は増大したが、軍隊は多くの戦車を南方に展開し、真っ直ぐ江南の縦深地区に割って入った。甲骨文の卜辞には、武帝の軍隊は相次いで現在の山西、陝西、甘粛、四川等の省に相当する土方、鬼方、羌方、虎方を征服したとある。承軍が出征する度に、軍隊の人数は5,000人以上、最多で13,000にも上った。1回の羌方攻撃で捕獲した捕虜が30,000人に達したこともあった。これらの捕虜の内、あるものは湖北、江西の銅鉱山送りとなって、鉱石の採掘をさせられた。ある者は殷都に残されて、放牧、農作業、築城、鋳銅をさせられた。言うことを聞かない捕虜は続々と非業(ひごう)の死を遂げた。彼らのある者は商王によって祭祖を殺され、ある者は主人の死後に殉葬(じゅんそう)させられ、甚だしい場所は新たに宮殿を建てる時の開幕式上で殺され、死者の髑髏(どくろ)を礎 石として祀ることもあった。この儀式には少なくて2人、大い時は数十人、時として百人、最多ではなんと800人もが一気に殺された。
商の最後の君主紂王も頻繁に大量の戦車を出動し、領土を長江・淮河方面に拡大した。武丁の時代に始まった商朝の戦車使用は、既に非常にありふれたものであった。車両の製造技術も非常に高度になっていて、精美な二輪車を製造できた。河南省安陽では、嘗て当該時代の馬車坑が出土した。
商周両朝の君主だけでなく戦国時代の諸侯、覇王は皆、駕車の奴隷と一緒に戦車と戦馬を埋葬するのを好んだ。三千年の歴史を持つ古墓では、車輌と戦馬、駕車人が皆王宮陵墓の周囲に埋められていた。千百年来、厚くて重い泥土にぎゅっと型押しされて、戦車の周りの泥土は石と同じくらい硬化できた。車身の木製部材と車頂の柳枝車箱が腐乱した後、泥土の中央には空洞が出現できた。そのため、泥土中には車型が出現できた。考古学者が流し込んだ液体石膏が凝固すると、古車の完全な格好が再現できたのである。
秦始皇帝は中国を統一した後、「文字を統一し、車輪の幅を統一する」という政策を実行し、車輌製造技術と工芸品に高い要求を課し、標準化された生産を行いました。秦始皇帝は5回の大規模な巡回旅行を行い、主要な交通手段は馬車でした。秦代の人々は馬車に特別な感情を抱いていたようで、現在でも秦代から残された馬車の土偶(どぐう)から、当時の戦車や輦車等の実物、実物大の人物や馬の像を見ることができます。1974年から始まった秦始皇陵の兵馬俑坑からは、既に800以上の兵士の土偶、18台の木製の戦車、100頭以上の陶器の馬、青銅製の武器や車輌が出土しています。兵馬俑の陣形を復元すれば、三つの坑にはおそらく7,000人以上の兵士の土偶、100台以上の戦車、1,000頭以上の馬がいたことになります。兵馬俑の巨大な陣容は、秦の軍隊の兵種の編成や武器車輌などを形象的に表現しています。
1980年、秦の始皇帝の兵馬俑坑から、本物の馬車や馬の1/2のスケールの、彩色された大型の同馬車を出土した。1号車は立車で、立乗りする先導車である。長さ2.25メートル、高さ1.52メートル。一本の轅(ながえ)に二基の軛(くびき)で、二頭の驂(添え馬)と二頭の軛に服役する馬の、四頭一組である。馬車は長方形で、車上に丸い銅傘を立て、傘の下に御者が立ち、両手で手綱を執っている。輿の中には銅製の角壺、弓、石弓、鏃(やじり)、盾等がある。四頭の銅馬は金銀のベールを頭に飾っている。2010年の上海万博では、秦の始皇帝兵馬俑の青銅製の馬車は、中国館の目玉展示となった。
商朝から春秋末期まで、時間では、3700年前から2400年前まで、戦車はずっと主要な戦争武器であった。戦車の車輪は1300年余りの歳月の煙火をひき潰し、轍(わだち)の跡は中国の大地を駆け巡り、武丁、周武王、姜子牙、春秋五覇等の明君、覇者を生み出したが、また無数の弱小の諸侯の国都と祖廟を粉枠してきた。戦国時代中期以後、鉄兵器の出現により、戦争形態が変化し、戦車は戦争の大舞台から消えて行った。紀元前3世紀戦国時代の趙国の趙の武霊王が「胡服騎射(乗馬ズボンでの騎射)」を提唱して以来、騎兵と石弓は戦車を取って代わり、最も威力的な軍事力となった。しかしこの時点でも、戦車は依然として歴史の舞台から完全に引退したわけではなかった。秦の始皇帝が中国を統一した戦場では、乗車した石弓兵で組織した「乗車軽装兵」は線条の重要な突撃の力のあるを出した。
漢代以降になると、戦車は戦争舞台から引退し、人を乗せ荷物を運ぶ運輸手段となった。
俞は、声符であり意符でもあり、両岸の人員と貨物の運送を表す。篆書の「輸」は「車」と「俞」の構成であり、「車」は地上運輸であり、「俞」は水上運送である。造字の本義は、車船で貨物を運送する事。


20世紀の中国の農村では、一輪車の手押し車(ネコ車)がいつも見られた。この車は、漢代にはもうあった。伝説の諸葛孔明が発明したという「木牛流馬」は、実はこのネコ車であった。中国の農民にとって、ネコ車は大変重要な生産工具であった。現在でも、その形式と構造は2,000年前と殆ど同じであり、そして依然中国の農民と建設労働者の主要な運輸工具となっている。新中国の歴史で、ネコ車も尋常ならぬ歴史的意義がある。陳毅元帥の講話を借りれば、1948年に国共両党(国民政府と中国共産党)の人民の運命を決定した淮海戦役で、共産党が拠所とした60万人の軍隊が、国民党80万人」を打ち破ったのは、民衆の支持を得たもので、これは「淮海戦役の勝利は、一般民衆がネコ車を押し出したもの」であった。
このブログへのコメントはmuragonユーザー限定です。