山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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斉国国都臨淄


山東の臨淄は斉国の首都である。これは斉文化の主要な発祥地の一つで悠久の歴史があり、臨淄のために大量の文化財や遺蹟を残して、「地下博物館」と呼ばれる。

斉国古城博物館と鎧

斉文化の発祥地として、中国最初の経済管理学の『管子』、世界の兵法家が賞賛する「世界最初の兵法書」である『孫子兵法』、中国最初の農業家の巨書『斉民要術』、中国最初の工科巨著『考工記』は皆此処で生まれた。



斉国古城排水口

荒れた大学が密集する宮殿の建築遺蹟、神技のような旧城の排水口、壮観雄大な城壁の旧石垣、世に聞こえた東周時代の馬の殉死坑、⋯⋯300ヶ所余りの文化遺跡、基台が、臨淄の

この地上に分布している。

1990年、臨淄で春秋時代物車馬坑が発見され、一つの長さ約35メートル、幅約9メートルの春秋時代の古代墓中にあり、全て10匹の戦馬の骨格と馬車の残骸が高度の中に横たわっていた。それは順序よく整然と二列に並び、まるで時間を凍結したようであった。

二千年余りの過去に、馬車の木製の構造は早くに腐乱したが、巨大な車輪、轡の美しい貝殻、青銅の装飾品、稀覯な当時の馬隊の姿、整えられた車馬坑の規模の大きさ、時代の古さ、保存の完好さ、文化財的価値の高さは、世にも稀であった。これは文物考古界に強烈な反響と引き起こし、国家文物局が1990年の全国重大考古発見の一つとして発表した。

この文化財資源の保護と開発のために、臨淄地区では面積3,600平方メートルの古車博物館の建設に投資した。博物館には60年余りの古車の研究と考古学的成果を集中し、中国の歴代古車馬の陳列を含め東周春秋の殉死馬車展覧の二つの部分で、元のまま戦車19両を複製し、ミニチュア模型100両余りを製作、文化財、模型、説明図、名画、説明文を通じて、中国古車の輝かしい歴史と世間をリードする車両の製造技術を全面的に展示している。

臨淄の街区の中心にある斉都鎮は依然として当時の斉国古城の遺蹟を留めている。資料の記載と文物の発掘を根拠として確認すると、面積は15.5平方キロメートルの旧城は大城と小城の二つの部分に分けられる。小城は大城の西南部に位置し、これは当時斉国の国主と大臣が居住した宮殿で、大城は民衆の居住した場所である。大城と小城には城門が13あったが、現在11を究明(きゅうねい)している。大小城内に幹道10本、最も幅の広いものは20メートルあり、また鉄製、銅の精錬、戦と、銅鏡の鋳造、陶窯、骨製品などの手工業作業所の遺蹟を十数ヶ所を発見している。田斉(戦国時代の斉)の太公田和の墳墓、二王冢、四王冢と付近の数十の小墳墓が、斉王の陵墓群を組織しており、これは現在中国に現存する規模が最大の先秦(秦以前)の諸侯王陵の古墓群であり、戦国時代の王陵の典型的な代表であり、「東洋のピラミッド」と称賛されている。

貴族の墓


悠久な歴史は臨淄に及びただしい文化遺産を残した。文物(文化財)部門は、臨淄には15の大型の千年古墓、300ヶ所余りの文化遺跡が分布し、出土した鎏金(金メッキ)の編鐘など重要文化財は数万件を数え、膨大な「地下博物館」の称に堪えると称賛している。

斉国の古都では、人類の兵学聖典『孫子兵法』が誕生し、中国の最初の手工芸の著作『斉民要術』が出現し、世界最初の官営大学〜稷下学宫を創業し、姜子牙(吕尚)、管仲、孫武、孫臏等時代の発展をリードする歴史人物が輩出し、変革、開放、実務、包容的な斉文化を創造した。姜子牙はまた姜太公と称し、斉国の開国君主で、斉文化の創始者で、また有名な政治家、軍事家である。『孟子』、『史記』、『呂氏春秋』等の中国古典籍は共に対してその人事の記載があり、その開放性、包容性、人民を基本とすることを賞賛している。姜子牙は満身の戦略家の賢臣で非凡な政治家で軍事家であり、ずっと歴代の統治者が尊重し、『詩経』など唐代以前の多くの資料及び文学作品中に讃えられている。中国古代の朝自然小説『封神榜』は神化として姜子牙の美徳を記念して、また彼が当時の人々の中で中心的な崇高な地位をはっきりと見せた。

唐の太宗が即位後、外国が相侵略し、内患は未だ除かれず、政局が動乱し、国家は百乱の収まるのを待ち、百廃の興るのを待つ状況で、「人を安めて国を治める」目的に到達するため、即ち彼は姜子牙の化身を自称し、磻渓に(姜子牙の)太公廟を建て、この挙を人々に告げ、彼は周の文王に才賢と姜子牙のような賢臣良将を重要することを求め、彼は後に果たして多くの治世治国の人材を得て、終に「貞観の治」を実現した。

2014年に中国(臨淄)の斉文化祭が9月12日に臨淄で開幕した。中国大陸、香港、マカオ、台湾地区及び韓国、シンガポールなどの国家の800名余りの姜子牙の後裔が当日臨淄の祖先祭に集まり、姜太公の生誕3,151年を記念した。姜太公(子牙)の後裔は140の姓氏(姜氏、呂氏、邱氏、崔氏等)に分かれ、国内外各地に数千万の人々が分布して、邱氏一姓だけで五百万余りがいる。

注:稷下学宮(官営大学)は中国歴史上最初の政治、学術、教育を一体に集めた機構で、戦国時期の百家争鳴(諸子論争して学術繁栄したこと)の中心で、当時ほとんど全ての学派がそこにあった。斉の宣王の時「稷下の学者はまた盛んで、その上数百人いた」、荀子の『勧学篇』は稷下学宮で書かれた。孔子は嘗て斉の地で韶(美しい音楽)を聴いて、そのため「三か月間肉の味を忘れた」とした。荀子は稷下学宮で「三番は学長、一番は先生」とした。孟子は斉に居て、20年の久しきに達した⋯⋯。当時の斉文化の繁栄が十分にうかがえる。


注:臨淄は、春秋戦国時代に嘗て規模が最大の都市であった。発達した経済と人民が満ち溢れた生活は斉国を春秋五覇の一位で戦国七雄の中の強国となり、先秦(秦帝国の統一前)の遊戯の重要な誕生地で、闘鶏、六博(ボートゲーム)、蹴鞠(けまり)など伝統遊戯が当時の臨淄で既に大変流行しており、その中で蹋鞠はまた蹴鞠とも称し、その実は中国の最も原始的なサッカー遊戯であった。現代のサッカーはイギリスが起源であるが、しかしサッカースポーツの最初は中国古代の蹴鞠に起源する。蹴鞠が中国に連綿と二千年余り続く伝統的なスポーツ種目で、娯楽形式である。

2005年、臨淄サッカー博物館が完成したが、これは世界史上初の中国サッカー2,000年余りの歴史と世界のサッカー発展の風貌を全面展示した専門サッカー博物館である。臨淄サッカー博物館の面積は2,500平方メートルで、臨淄中心街に位置し、古代サッカーと現代サッカーの二大部分を10個の展覧部分で構成し、古今中外の150件余りの珍しい文化財と300余りの歴史画像、復元した場面20余りを陳列して、サッカーの起源、発展、影響と伝播の進行の歴史を、系統的に展示している。


『史記蘇秦列伝』に、多くの国家の自然風貌と風土人情描写している。だが、臨淄の言及は、主に蹴鞠(けまり)の描写である。これは当時臨淄にあった蹴鞠が蘇進(戦国時代の縦横家)の視線に進入した説明で、また臨淄は蹴鞠の活動形勢地、興盛地であり、後の伝播地であったと説明している。

臨淄で中国または世界で最初の手工業技術文献の一つ『周礼・考工記』が誕生した。これは斉の公文書で、その『攻皮』一説中で臨淄の皮革の皮なめし工芸を詳細に記載している。当時の臨淄は、皮のボールを作るのに何の技術的障害もなく、また蹴鞠が臨淄で誕生創造のために大変好ましい技術条件であった。