山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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小清河往事(済南)

“小清河,長又長,山東是个好地方。青山緑水好風光,出産稲麦と高粱⋯⋯”


済南は古来より河水が豊富で、百泉が涌出を争い、河川は縦横無尽に流れ、湖沼の広さが明らかである。河南済源の王屋山上に源を発し、長江、黄河、淮河と中華の「四瀆(シトク=四河川)」と並び称される古代の済水は城北を通り過ぎたので、済水の南のこの街は大いに有名となった。そして趵突泉、五龍潭等の多くの源泉は古代濼水(シャクスイ)の源泉で、伝説では春秋時代に(「(魯国の桓)公と斉国の侯が濼(水)の会」したというのはここを指し、歴下古城は先秦時期(戦国以前)にはこれによって濼邑と呼ばれた。濼水の始まりは華不注山(華山)麓から済水に注ぐ河川で、濼口、濼上台、下濼堰などの旧地名が残っている。


唐代以降、済水上流は東平以西で流れが土砂で塞がり、東平以東は徐々に北へ移動し斉水の下流は清河となったが、斉水はこれより消失した。清河の北への移動後斉水下流の旧流路は、洪水と冠水が頻繁にまた交通不便の憂慮がずっと改善されることなく、金代の天会8年から15年まで、金人に立てられた「大斉皇帝」の劉豫が華不注山の北に濼堰を築き、濼水を済水の旧水路に注いで、運河とし、小清河と名付け、北に偏った清河を大清河と改めた。これ以来、趵突の諸泉が小清河の源泉となった。


済南の民間には古くから深さの知れぬ五龍潭に海眼があり、五龍潭の地下と大海が繋がっているという意味で、当然これは美しい伝説に過ぎないが、しかし小清河の開削以後は西南の泉水が大海に通じたということは紛れもない事実である。


古代済南城の北側は、数百ヶ所の清泉の流れを集めて巨大な湖沼を形成し、城内の大明湖と呼応しており、洋々とした湖水はまっすぐ鵲華山二山の麓へ延びて、鵲山湖と称し、また湖中に蓮の花が連なり蓮子湖の名があった。風雲変幻するごとに、波頭の音が聞こえ、深い霧が立ち込める、「鵲花煙雨」は済南一の美しい風景として、無数の行楽客を引き寄せた。唐の天宝年間には、李白、杜甫と高適は北海大衆李邕を伴って大明湖に集まり、東屋を巡って詩や酒を楽しんだが、興が尽きずに。船を浮かべて蓮子湖から鵲華二山を目指した。李白は高らかに吟詩した。「初め謂(おも)えらく鵲山近しと、寧ろ知る湖水の遥かなるを」、「湖闊く数千の裏(うち)、湖光碧山を揺らす」。

1903年4月、小清河黄台埠頭に下船の威海衛英国総督ロックハート一行


清末の西護城河、小清河の帆船がここまで到着する。


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小清河開削後、蓮子湖の水位は次第に下降し、北園一帯の水田は後退し、大水田は北から南へ日ごとに増加し、溜池が基盤の布陣のように密集し、水田は鏡のようで、風は稲の波を起こし、蓮の花は日に映え、蒲や葦が群生し、湖畔の湿池の風景を現した。1855年、黄河は河南の封丘県の銅瓦工場の決壊し、江蘇の淮河から離脱して大清河の河道を奪って山東から海に入ったので、大清河はこれで消失した。そして山東地内もこれによって大小、清濁の二本の河流が連れ添えって平行し、共に大海に注ぐ奇妙な風景となった。


小清河が形成後は各時代に絶えず浚渫されたが、災害や、堆積が頻繁であった。清の光緒17年から19年(1891年〜1893年)に、山東巡撫張曜が当時登莱青道の洋務(=近代化)運動後期の代表人物盛宣懷に小清河の整備を命じ、人力や物資の不足する状況で、盛宣懷は「寄付を進めたり、労働で救済に替え、分割分断で資金繰り」する方法で、民間労働者数十万人を徴用し、銀70万両と、3年の時間を消耗し、小清河は再度浚渫後に前線開通し、船舶は寿光県羊角溝から済南府の黄台埠頭へ直通し、流域内の水害も軽減した。


20世紀20年代、小清河沿岸の風光


1927年10月、小清河に済南市初の鉄筋コンクリート構造の橋を架設し、済濼橋と呼ばれる。拱形と大小もが著名の趙州橋とそっくり、橋の総長十五米、橋げた間32米、幅10米。

1902年12月、在任僅か4か月の山東省巡撫の周馥は、山東省の情況を調査し把握するため、雪の中で、済南小清河から海の河口である羊角溝まで小型船に乗っていき、それに煙台港、威海衛、膠州湾へ行った。それから僅か4か月後、周馥の招待で、威海衛の最初の英国総督であるロックハートを含む13人が、小型蒸気機関船を使用して済南へ出発し、小清河が海に注ぐ地点から船で上流を遡って五日間航海して、1903年4月27日午後、ようやく黄台埠頭に到着した。ロックハートは次のように語っています:「小清河の始まり(下流の海口を指す)では、土地は比較的不毛で、河の両側の景色はとても美しく、まるで自分がヨーロッパにいた。」彼の側近も小清河とその道の貴重な写真をたくさん撮りました。これは、これまでに知られている外国人によると小清河への旅行でもあります。


済南府を訪問のロックハート総督

済南が1904年に開港した時、航行用の水源を補うために、済南西北の玉符河東堤に睦里閘が建設され、小清河は西に睦里閘まで延長させ、総長237キロメートルの完全な水系が完成させた

1906年4月、南は膠済鉄道黄台駅より、北は小清河黄台埠頭の間に全長6キロメートルの軽便狭軌鉄道を建設し、「清濼小鉄道」と呼ばれた。1913年、津浦鉄道が開通後、小鉄道を解体し、標準軌を敷設し、津浦鉄道濼黄支線と改称し、これから津浦鉄道、膠済鉄道と小清河、黄河の連係方式が起こり、最終的に鉄道、公道、水路が一体となった総合的交通中枢を形成した。

小清河は水路交通と洪水緩衝の重責を担い、また魯中の西部の民間人の生活を替えた。魯北の渤海の干潟では食塩の生産が豊富で、小清河は塩運水路をなり、時に「小塩河」と呼ばれ、済南も塩運の大埠頭となり、今も小清河の済南地区には「塩倉埠頭」の旧地名と遺跡が留まっていた。当時、泰安、東昌、兖州、曹州諸府の所用した食塩は濼口から転送され、木材、薬剤、毛皮などの物資もここから集散した。毎年春が始まると、渤海湾で豊富に取れる、魚、エビ、カニなどの海鮮も小清河を経て済南に運ばれ、済南人に早々と海鮮の美味を味合わせた。1920・30年代には、小清河の帆船は西護城河銅円局(造幣局)埠頭まで遡って、西北橋門には、河中に帆影が点々とし、マストが並んだ。波止埸は人が賑やかで、車馬の往来は賑やかで、繁忙の様子であった。


民国時期の小清河五柳閘段


20世紀40年代、華山麓の小清河埠頭沿岸の帆船

、川沿いは整然の塩叢

1920年代中後期、張宗昌は山東軍務督弁兼山東省省長に就任し、その後直魯聯軍総司令となり、大権を一手に握った彼は済南の「北の商業光」作りに力を入れた。小清河の航運作用を充分に発揮するため、1925年から1926年かけて、現在の天橋区内に長さ6.6メートルの人口河川を開削し、鳳凰山下に鳳凰閘門を建設し小清河と接続し、当時は新引河と称し、後に工商河と呼ばれた。河道はU字形を呈して、豊橋を界として東工商河と西工商河に分かれた。成豊橋は膠済鉄道と津浦鉄道の済南府駅の二つの大型汽車駅に近接し、ここに貨物埠頭が設置され、小清河、黄河と膠済鉄道と津浦鉄道の中枢をの間の交通連携を疎通した。河沿いの成豊街、官衙、宝化街一帯には多くの製粉所が建築され、東工商河畔には製糸業、紡績工場、染色工場などの大中型企業が建設され、また河道を利用して原料と成品を運送し、汚水を排出することもあった。


1927年10月に、成豊橋から濼口の間に敷設の義威路の全線貫通を保証するため、小清河香磨李庄河に総長15メートル、橋げた間33メートル、幅10メートルの義威橋(今濟濼橋)が掛けられ、これによって黄河に通じ、小清河沿岸と済南市街の間の陸路が連携したのも、これも済南地区最初の鉄筋コンクリート公路橋である。


1930年代の初め、韓復榘は山東省政府の主席に有った期間に、山東省建設庁に小清河管理区の設置を命じ、小清河臨時工程委員会を設立し、小清河に実地測量を再開し、『小清河整理工程計画大網」を制定したが、本流、支流、水源及び河口を包括する整備及び埠頭建設などの計画項目と実施に着手した。1931年から1933年まで、小清河五柳島から林家橋までの小清河本流を浚渫整備し、両岸に堤防を築いた。五柳と辺荘両所に閘門工事を行った。五柳閘門も山東省内最初の近代化閘門となった。


20世紀五六十年代の小清河


20世紀50年代初の工商河の浚渫工程

1960年代には我家は小清河林家橋から僅か100メートルの距離にあり、夜が更け人が眠ると北側の窓の外からははっきりと川の流れる音が伝わって来た。その頃には水はもう澄んではいなかったが、まだ少量の土砂を運ぶトレー式のはしけ船が通行していた。岸辺の楊柳の下では依然として『鵲橋秋色圖』に描かれたような漁網で魚を捕獲している。この一帯は地勢が低く、毎夏の増水期の突然の大雨で、水位が急騰し、川面は両岸の地面と同等になり、河沿いの養魚池の鯉や草魚が少なからずが河中に流されるので、この時期の網漁は自然と収穫が多い。滔々とした河水は子供らの天然のプールとなり、大胆な男児は尻まで真っ裸になり鳳凰山鉄道橋によじ登り川に「飛び込み」、見物人からもワーワーと喝采がおこった。


1970年秋、「済南市革命委員会」と「生産指揮部」は連合で文を下し、全市の力量を小清河の浚渫改修に動員した。河道の両側で赤旗がはためき、見る限り一群れづつの高校生や解放軍のおじさんたちだけが、黄色のゴム靴やゴム靴を履いて、ズボンの裾(すそ)と袖を捲り上げ、ツルハシやスコップで川床から掘り上げ、汚泥を洗面器や、水桶あるいは柳桑折に入れ、あるいは人から人へ手渡しで、あるいは肩や手で運び、あるいは小車で押し、川岸の止まったトラックに運んでいた。改修後の小清河はしばらくして清流を回復した。ほどなくひどい混濁が出現して、河水は名状しがたい鼻を突くにおいを発生した。1997年1月15日、小清河は正式に運航を停止した。


2008年、小清河の済南地区では再び浚渫され、川岸をブロック積とし、埠頭を建設し、景観照明が設置された。2011年10月1日に、五柳島から洪園節閘門の間の長さ約9キロメートルの河道は、運航停止20年余りで運航が試され、一度美しく飾られた遊覧船が通行した。


2021年の直前、済南港工事再開と小清河運行回復プロジェクトは全面竣工に及び、済南がもう一度大海原へ直通するのはもはや夢ではなく、喜ばしい待望だけがある。



作者 済南 姜路路