フレンドリー山東(威海李君)

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悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
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この「甲骨王子」から、漢字の起源を探ろう

フレンドリー山東(威海李君)

国語の授業では、数え切れないほどの漢字を学びますが、漢字の起源はどこかご存じですか。数万点の甲骨片の中で小屯南地2172号の「甲骨王子」を知る三つのポイント。

小屯南地2172号甲骨

これを通して漢字の起源〜甲骨文を探ろう

93個の文字が明瞭に刻まれた「甲骨王子」

殷墟遺跡が初めて紹介されてから、続々と約15万点の甲骨が出土した。この小屯南地2172号甲骨は、数万点の甲骨の中の「甲骨王子」である。


この甲骨は1973年に安陽小屯南地で発見された、牛の肩甲骨の1/3の大きさの断片である。しかしながら、表面には93個の甲骨文字が明瞭で、均一の大きさで力強く鮮明に刻まれている。


この93文字11行の卜辞は38日に渡り同一の質問を繰り返していた:「王其田(王は其れ畋=かりするか」。


その意味は、殷王の狩猟行に災難はないかである。残念なことに、この甲骨文には占辞、つまり占いの結果が発見されていない。一般的に完全な甲骨文には叙辞、占辞、験辞の四つの内容が記録されている。つまり、いつ誰が何を尋ねたのか、占いの結果はどうであったのかであり、最後は事の結果を待って験辞を刻んでその結果を検証しなければならないのである。

またこの甲骨の形状が甲骨文の「骨」という文字に酷似(こくじ)しているので、中国国家郵政局では世界に向けて記念切手として発行している。


その図形は各種の書籍の表紙や歴史教科書にも頻繁に登場している。郭沫若先生が言ったとされる「一片の甲骨で天下を驚かせた」という言葉は、この甲骨を指すのだという説も民間で広まっている。


殷墟の甲骨文は、漢字体系の基礎を打ち立てました。

殷墟の甲骨文は漢字体系の根幹を築き上げた。この「甲骨王子」には、我々は「王其田」三文字を見つけた。


そして現存している約15万片の甲骨から、甲骨文の単字4,500個余りを見つけている(注:学会の解釈を経たものは1,500文字である)。


また甲骨文字は象形文字と基礎として、指示、会意、形声を発展の基本法則としており、今日でも一部の漢字には象形の特徴を基礎として保留している。


甲骨文中の象形文字と会意文字


甲骨文中の「雪」「雨が降り「雹」

この殷墟の甲骨文字は現在中国で発見されている最古の成熟した文字系統であり、漢字体系の根幹を築き上げた。それと共に、殷商時代の最も古く、最も真実の史実情報を提供し、殷商時代のメッセージを補助して、大々的に中華文明史を引き伸ばした。

甲骨に記録された王の名は『史記』の殷商時代の帝王名と一致しており、『史記』の内容の信頼性を証明しており、中国の文字の記載の歴史を約1,000年遡らせた。


左は甲骨に記録された王の名であり、右は『史記』中の殷商時代帝王の名である。

殷商時代の田猟(野外狩猟)は当時の軍事演習であった。

この小屯南地2,172号甲骨は、「殷王の狩猟に災禍があるか」と「殷王田猟」の重要性を物語るように11度も繰り返して占っている。この甲骨ばかりでなく、殷墟で出土した15万片の甲骨で、田猟に関する卜辞甲骨は5,000片余りに上る。

トリコ石を嵌め込んだ甲骨の刻辞に「𡈼午、王 召に迍(たちもとお)りて、田(かり)を麦麓に延ばし、兕私獲(え)、亜(つぎ)に賜う」という殷王の郊外狩猟の記録15文字がある。

郊外狩猟が如何に重要であったか。殷代には古代人は自然界に対する知識が大変限られていて、占卜が大変常用視され、何事も占卜なしにはいられなかった。甲骨に刻まれた甲骨文はまた当時の社会生活をありのままに記録している。

殷商の時代には「国の大事は、祭祀と外征にあった。戦争と祭祀は最も重要な社会活動であり、外出して狩猟する隊列は当時の軍隊であった。狩猟の指揮官は作戦司令官が担当した。田猟中日、隊列は規律を遵守し、武芸などを学習した殷代の田猟は即ち当時の軍事演習であった。

漢字は中華文明の重要な構成要素であるばかりか、中華文明の重要な担い手でもあった。甲骨文字は漢字の源流でもあり、我々が更に重視して伝承発展させるべきものである。

山東大学に収蔵されているニ羽の小鳥は2,800年余りも飛び続けている。

フレンドリー山東(威海李君)

山東大学博物館の展示ケースに、二羽の可愛いことりが青銅の立柱の上に止まっている。


これは春秋時代の青銅鳥柱であるが、何をしているのだろうか。

双鳥立柱、青銅器に見る春秋時代の美学

この青銅鳥柱は、方形の台座に立柱と飛鳥の構成である。高さ48センチメートル、方形台座の長さ16センチメートル。内部は中空で、台座上には乳丁と魚雷紋が排列されている。


題材の中心の立柱は垂直に立ち、立柱の中間と上部にはそれぞれ一羽の飛鳥が立ち止まっている。羽を広げ生き生きと飛び上がろうとしている。二羽の鳥は絶妙の距離感で配置され、この鳥柱に安定感を与えている。二羽の鳥の頭は直角に向いて、両眼にはターコイズが嵌められ、くりくりとして「きらきら輝き力強」。



この独特な「角台座-立柱-双鳥」の造形は、同時期の青銅器の中でも際立っている。春秋時代の職人は自身の芸術総力を駆使して「モンチッチ(かわいい)」的な画面構成を捉えている。

装飾品掛けか方角機器か?鳥柱の用途を大予想

こういう鳥柱はどういう使い方をしたのか。専門家はこれは貴族が祭祀やその他の儀式に使った儀礼用品であろうと推測している。また装飾品などを掛けるスタンドである可能性もある。


また学者は1990年に河南省の淅川和尚嶺二号春秋晩期墓出土の「祖槷」と刻銘のある青銅器の台座から、こういう方形台座の立柱器物は太陽の陰を計測する日時計の可能性を推測している。柱の飛鳥は太陽の運行軌道の観察点を象徴している。


戦国時代の『周礼・考工記・匠人』にこれに対する「槷(げつ)を置き以て懸け、視るに影を以てす、日出の影と日入の影を計測を識るの規と為す」の記録があるので、古代人が槷を使用して太陽の影を観測する基準柱としていたと見ることができる。


工芸的には、青銅鳥柱は分割鋳造法で製作されている。職人はまず方形台座と立柱、飛鳥をそれぞれ鋳造し、それらを「積木寄せ」のように接続した。古代人の創意工夫は、あなたはアンダースタンド?

師弟が伝承する山東省の文化史・宝蔵博物館へお招きする

1995年、山東省済南市長清仙人台王室貴族墓から貴重な文物が纏まって出土した。


1995年仙人台遺址

青銅鳥柱もその中に含まれており、その後山東大学博物館の収蔵となった。


山東大学博物館(済南)序庁

山東大学博物館は1995年に成立し、現在は済南と青島両市共同で運営しており4万600件(組)を収蔵しており、中国の大学中では唯一の歴史考古学類の国家一級博物館である。1972年から山東大学専科が設立されて以来、師弟達は長期に渡りフィールドワーク考古学に携わり、博物館のために連綿として出土品を収集しておきた。


博物館内に展示されているツルハシや洛陽シャベル、手書きの絵図面などの実物は、何代もの山東大学の関係者が受け継いできた考古学の歴史の証明である。


山東大学博物館(済南)

近年では、山東大学博物館は、「インスタ映えする博物館」として、しばしば「ブレイク」している。青銅鳥柱以外にも山東大学博物館には数多くの看板宝物がある。

山東大学丁公陶文(4,200年前後)


なんと!4,200年前の古代人がこんな斬新な文字を書いている。

これは上が広く下が狭い四角形の陶片である。磨かれた方➕面に、5列11個の連続しない文字が有り、それぞれの文字の筆画がはっきりと読み取れる。専門家はその内容の解読を進めた。

1、比較的成熟した初期文字である。

2、人々に淘汰した文字である。

3、現存資料ではなく甲骨文字との関連は判断する方法がないが、概ね「岐路に入った原始文字」である。


4、幾つかの象形文字は、殷商時代の甲骨文字と対比できる。例えば三列目の最初の文字は「鬲」と解釈できる。第二字目は「戊」と解釈できる。

5、丁公陶文と古彝文のとは密接な関係があり、卜辞の可能性が高い。どう思いますか。

甲骨卜辞(殷商時代)


この亀甲は四つの断片を繋ぎ合わせたもので、刻文の内容は、卜辞である。この甲骨卜辞は2003年に大辛荘遺跡で発見されたが、1899年の甲骨発見以来の初の殷商都城以外の地区で発見された殷商時代の卜辞であり、甲骨学史上画期的な発見と言われている。

蛋殼陶高柄杯(龍山文化時期)


この黒陶高柄杯は伝統的に酒杯であり、広く傾斜した縁、柄の上下両端は細く、柄の中部の円鼓は中空であり、透かし彫りが施され、円盤を伏せた台足である。陶器の薄さは卵に殻のようであり、内外の表面はカラスのぬれ羽のように黒光しており、非常に成功に作られている。先史時代の製陶工芸や中国の儀礼制度の起源と発展に重要な意義を有している。

彩絵陶馬(漢代)


2018年に山東省邱堌堆遺跡で出土。赤、白、黒三色を主とする全体彩色は、保存状態が良好である。

これらの文化財は古代人が残した「文化コード」であり、彼らの生活に対する愛情と好奇心が込められている。これらの数千年に渡る記憶が、あなたとの出会いを待っている。


一編の文章が、殷商王朝の最高軍事貴族の完全な一生を体験させる

フレンドリー山東(威海李君)

1991年、河南省安陽で、殷墟博物館へ通じる計画公道の傍から、深さ2メートル余りの埋葬坑(訳注:考古学で遺物をたくさん含んだ竪穴)が見つかった。

後に「H号坑」と名付けられたこの深坑に埋まっていたのは、青銅器でも玉器でもなかった。

そこから出土したのは1,500枚を超える貴重な亀甲で、その内500枚以上には謎めいた甲骨文字がぎっしり刻まれていたのである。


そして発掘が進むにつれ、武丁朝の一人の最高位軍事貴族の生涯が、彼に施された「悪魔のような貴族教育」と、その一族に宿命づけられていた軍事的使命と共にまるで砕け散った破片を繋ぎ合わせるように、少しずつ姿を現しはじめた。

今日は、神権と王権が絡み合う青銅器時代へと時を遡り、殷商王朝王族の人生がどれほど残酷で、どれほど衝撃的であったのかその真実を見ていこう。

「子」の身份の謎

殷墟出土の大多数が殷王の卜辞と違って、この土坑の甲骨文は、神秘的な若者を中心として巡っており異例である。

彼は自称、あるいは「子」と呼ばれていた。


それではこの「子」は一体何者であるのか。

なぜ彼の文書が、まるで3,000年のカプセルのように、完全に保存されてきたのか。

考古学者達の追究で、この「子」の素性が立派であることがわかった。

一般的に、殷墟出土の膨大な甲骨の95パーセント以上が殷王の占卜の占辞であるという。

このように自家独自の文書を保有する貴族はまったく鳳の羽毛や麒麟の角のように珍しいものである。

これは「子」の社会的地位が大変高く、殷王武丁の弟や従弟である可能性が極めて高いのである。

更に「子」の邸宅は、王宮の南400メートル余りにあった。この位置に家を構えられることは、「子」が本当の意味で中枢に近い人物だったことを示しています。しかし不幸なことに「子」は年少の時に父が亡くなっていた。そのため我々は彼の父系の詮索や、彼の本名を突き止めることができない。


私達が分かっているのは、「子」が彼への敬称に過ぎない可能性がある。という点だけです。では、金の匙を咥えて生まれたような王族の貴人である彼の人生の出発点は、どのようなものだったのでしょうか。

剣闘士の訓練場

甲骨文には、「子」は少年時代から「往学」をしていたとあります。

己卜:子其(疫?),強(勿)往学?

「往学」とは、家を離れて専門の学校へ通う(学びに行く)という意味です。

その学校の場所も遠くなく、王宮区域の南側で、洹河(かんが)という古い川筋に隣接していました。

1996年、考古学者はそこで巨大な「凹」の字形の建物遺構群を発見しました。

研究の結果、これが殷商王室の大学だったと考えられています。

そこで教えられていた内容は、背筋が寒くなるようなものです。


例えば「舞戊」。

ここでいう「舞」は芸術の舞踊ではなく、軍事訓練、つまり青銅の鉞(まさかり)を手にした操練のことです。

占辞(占いの記録)には、「子」と同級生達が訓練中の負傷、更には死亡さえも心配していたため、ぶ頻繁に占いをしたとあります。例えば「今日は隊列の左・中央・右のどこに立つべきか」といったことです。

丁亥卜,子立于左。

甲午卜,口(勿)立中,囗(惠)学,囗(勿)示伐。

更に、「子」の甲骨文には彼が「ニ弓」、「三弓」を使って練習したとある。

ニ弓と三弓の違いは弓の強さが異なり、我々が後世言う所の「石何個の石弓」とほぼ同じ意味である。


それでは、彼らが練習した標的は何だったのだろうか。大学の軒下で考古学者は周十個の祭祀坑を発見したが、内部は全て斬首された青壮年男子であった。

其中の殆どの遺骨の太腿や肋骨には巨大の三角形の骨製鏃が突き刺さっていた。

どうして鋭利な銅の矢じりではなく骨の矢じりであったのであろうか。

骨の矢じりは練習専用であったと専門家は推測している。

青銅の矢じりは一撃で致命傷となるが、骨の矢じりには返しがなく容易に矢が抜けた。

つまり、練習台のほろは少しは生き延びて、学生は何度も射的ができたのである。

捕虜達が中庭を駆け回り、貴族の学生達が移動する標的を使って訓練する様子は、映画の『黙示録』のマヤ文明と全く一緒である。


甲骨文にはまた「商に学ぶ」と「羌に学ぶ」とも現れる。

これは多分学生達に殷商の軍隊と羌人を扮装させて軍事演習をさせたことである。

そしてこの演習での練習相手となった捕虜は、最終的に切り殺されて、祖先への供物として捧げられた。

「子」の後半生

残酷な青少年時代の訓練を過ごして、「子」は大成した。

その後彼は殷商の武丁の名声ある婦人婦好の護衛官となった。

彼の甲骨文に「婦好」が数十回出現しているのに、「王」はたったの二回しか出現していない。


甲骨文の記載では、彼は婦好が馬商人の接待や、献上品の転送を手助けしており、王后の周辺の中心的な近臣であったと言える。

また彼は、狩りや祭祀を行うことのできる領地「来鹿」を所有していた。

「子」は自身の健康に関心があり、頭痛や耳鳴り、悪夢を見た時にいつも占卜した。

彼はまた自分の馬車や馬も大切な使用人のように気遣った。

彼は嘗て白という将軍の遠征に随行しようとしたが、占卜の結果が現れず、最終的に同行しなかったのかもしれない。

ここで「子」の甲骨文は唐突に終了している。

彼のその後のは我々には不明であり、いったいどのように亡くなったのかはわからない。

更に彼の墳墓は未だ発見されておらず、あるいは盗掘者によって破壊されたのかもしれない。

しかし彼の一族の物語りはまだ終わっていない。

2001年、「子」の甲骨坑の西北数十メートルの所で考古学調査隊が盗掘されかけていた墓坑を緊急発掘した。


墓の主は35歳前後の男性で、彼は戦死した将軍であった。

彼の遺骨の上腕部には三筋の鋭利の傷跡があり、左側の肋骨(ろっこつ)は叩き斬られていた。

右の下腹部には銅矛が骨盤まで深く突き刺さり、大腿骨には深い傷跡があった。

この将軍は、死んでも指揮権を象徴する大型の青銅鉞を携え、墓中には161件の青銅の戈矛を伴って葬られていた。

更に重要なことは、多くの銅器に「亜長」と鋳込まれた銘文があったことである。

「亜」は軍事長官であり、「長」は家族の称号である。

墓坑の位置は大変接近してるので、この「亜長」は「子」の子孫である可能性が高い。

「子」は大学の訓練場で殺人術を学び、彼の子孫の「亜長」はこの家族の技術を極めたのである。

「亜長」は最終的に戦場で亡くなり、死体は馬革に包まれた。

これもまた殷商時代の軍事貴族の宿命であった。