フレンドリー山東(威海李君)

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
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2,500年余り前のファッションスタイルにはこの「鏈条包(チェーンバッグ)」が欠かせなかった

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今日は仕事初め、新年を気分良く迎えるためにおしゃれに気を使いましたか。本日はこの青銅鏈盒を通して個人的の精緻な装(よそお)いを見てみよう。


ここに精緻な青銅の「鏈条包」がある。この青銅鏈盒はりんごぐらいの大きさであるが、形成は職人の独創であり、精巧に作られている。


盒子(容れ物)全体は球形であり、丸く膨らんだ胴にどっしとした圏足である。蓋と腹部には蟠螭(バンチ=みずち)模様の隙間に、乳釘が配置され、凛々しく精緻で、精美な模様である。


蓋の上には、翼をやや広げ、躍度感のある姿の飛翔する小鳥があり、すぐにも飛びだちそうである。


素晴らしいのは腹部に環が互いに連結した鎖状の下げひもが付いており、蓋にある二つの環と繋がっており、こういう構造で蓋が紛失しないことを保証ディていることである。


小さな青銅の「鏈条包」ではあるが、凛々しく荘重さを失わなっておらず、当時最流行のアイテムだったに違いない。

古代の「オートクチュール」の宝物箱

青銅器と言えば一般に「国家の重要器物」を思い浮かべるだろうが、この青銅鏈盒は全く違っている。専門家は、これは「玩具」で、廟堂の祭祀ではなく、日常の楽しみに身近に置くものであろうと推測している。


おそらくこれは周王朝の貴族の婦人が、装飾品や化粧品を入れるのに使用したものであろう。彼女が同郷の前で衣裳を調えるたびに、青銅鏈盒を開けて額に臙翅をの色彩を付けたたり、あるいはその中の装飾を選んで襟元を華やかに彩ったのであろう。


春秋時代の骨彫香炉は、青銅鏈盒と同じ墓から出土したが、身に付けて香料を入れて香りを放つものであったと考えられている。

その発見はある古代国家の存在を証明している

1995年春に、考古学系の師弟が済南長仙人台遺跡で考古学の発掘調査を行い、青銅鏈盒を含む多数の文化財が出土したが、周代の邿(シ)国の謎にベールを解き明かした。


文献中の邿国の記録は少なく、斉国と魯国の間の一小国としか知られていない。その後内乱により魯国により消滅した。仙人台遺跡から出土した青銅器の銘文により、ここは邿国の墓地と確定され、人々の邿国に対する認識が刷新された。


仙人台遺跡から出土した器物は、その形態はもとより、装飾〜特に鳥形の装飾まで、多くの文化的特徴から、邿国の起源が古代の旧部族東夷にあった子を示している。

邿公典盤の銘文には、斉国の姜姓の女性が初めて邿国に嫁いできたことが極めてある。


時は流れ、世間も変わり、嘗て青銅鏈盒に収められていた。化粧品や宝玉の装飾品は失われたが、その美しさと美に対するこだわりには今持って感動させる。

戦国人の財布の中身は全部「刀子」なのか

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本日は世界消費権利デーである。消費と貨幣は切っても切れない関係であるが、古代人の使用した貨幣と現代のものとは全く異なっているので見てみよう。

このようなものが貨幣なのか。偽造防止のマークまである。

刀子(ナイフ)は肉や野菜を切ったり包みを開ける以外にも何かできるのであろうか。約2,400年前に解答がある。戦国後期の斉国では、形状が刀子のようであったので「刀幣」という貨幣を使用していた。


刀幣には額面がなく、大小の区分もなく個数を軽量の単位としており、関連の研究では、およそ1刀幣で60キログラムの粟(アワ)や5キログラムの塩を購入できた。


全体の様子は、切先、刀身、刀柄、刀環の四部分からなる環頭小刀を模して鋳造されている。


「斉法化」刀幣の名称は、刀身に刻まれた「斉法化」という三文字に由来する。

「斉」は斉国を表し、「法化」のニ文字は「標準通貨」の意味である。公式に認証された偽造防止の金属印である。これは斉国の貨幣制度の成熟度を表している。また斉国に一程度以上の国土内通貨の統一を達成したことを物語っている。


もともと、古代人は早くから貨幣制度と形態を制御することの重要性を認識しており、後世のために良好な見本を示したのである。

貨幣はどのように生産されたのか。古代人にも「ハイテク」ラインがあった。

貨幣はどのように生産されたのか。実に簡単であり、必要なものは陶器の型だけである。


刀幣の型は、長方形であり、砂交じりの灰陶で製作された。これは古代の刀幣を鋳造する型であり銭範という。「斉法化」刀幣の型は、3枚の銭の鋳型が刻まれ、鋳型は鋳口で連結している。正面の陶器の刀幣鋳型には陰文字で「斉法化」と刻まれる。熱々の溶銅をこの「貨幣印刷機」に流し込み、溶銅が冷却して固まるのを待てば、斉国認証の貨幣が大量生産できる。簡単な作業で効率的だあり、まさに2,400年前の「ハイテク」ラインである。


中国古代の完全な陶製鋳型の依存は大変珍しく、「斉法化」刀幣とセットで出題した刀幣鋳型は特に貴重である。


貝殻、鬼面銭、小型鍵⋯⋯

まだまだこのような「奇妙」な貨幣がある。
中国には5千年余りの貨幣の歴史がある。この過程で様々な貨幣が出現した。中でも「奇妙」な貨幣を見ましたか。
先秦時代には海の貝を貨幣しており、「貨貝」と言った。幾つもの貨貝繋げたものを一朋と呼ぶが、「朋」字の進化にも関係している。

楚国の「鋼鏰(こうほう、鐚銭)」は「囧」字のような蟻鼻銭となった。

殷周時代の海貝を貨幣とした習慣を踏襲しているので、見た目も貝殻に似ている。
また、小型の鍵のようなものは、実は刀幣が変化した「一刀平五千」銭である。

短小な形のそれは、僅か2枚で1斤(250グラム)の黄金と交換できた。最終的には額面金額が実際の価値を遥かに上回っていたために漢代に発行して2年で禁止された。

一貨一型、それぞれに職人の知恵が凝集されており中国貨幣の序章を物語っている。

新発見、斥山に秦の始皇帝の行宮(あんぐう=仮宮殿)があった

フレンドリー山東(威海李君)


大抵の人には図表の印章に馴染みがなく、どんな文字化も解らないであろうが、これは秦代の「封泥」である。まずはこの小さなものから話そう。封泥は、簡単に言えば古代の「文書封印」である。

紙の普及以前の秦漢時代では、人々は重要な公文書や、手紙を出す時に、竹簡や木牘に墨書して、その後縄紐で縛った。途中で秘かに開封されることを防止するために、縄紐の結び目を湿った粘土で塞ぎ、更に印章を押し、粘土が乾燥して固まったものが封泥となる。

この小さな粘土は、不正の防止でなく文書の公式性を証明しており、当時の行政活動の重要な証拠であった。現在残留している封泥は、我々が古代の歴史の謎を解読する貴重な実物資料となっている。


この一枚の「坼禁丞印(せききんじょういん」という名の秦代封泥は、嘗て斥山に秦の始皇帝の行宮が建設されていたという新たな秘密を明らかにした。この「坼禁丞印」封では、西安の中国書法芸術博物館に収蔵されている。この封泥の最大の特徴は「坼」という文字である。「坼」という文字博物館これまで発見された秦代の文字の中で初めて出現した。この「坼」と斥山との関係を疑問のに思う方もあるかもしれないが、実は古文献では一般的に見られる音通・仮借の現象である。

古代の音韻で考えると「斥」と「坼」とは同一の音𩐳に属し、発音も大変似ており、また「坼」字は「斥」を声符とするために、この二文字は当時通用していたのである。つまり封泥の「坼」は、実は「尔雅·釈地」に記載する「斥山」であり、現在の斥山(現在の赤山)である。

秦の始皇帝の東巡の歴史に詳しい人ならば、始皇帝が六国を統一してから、何度も東巡しており、その内2回は成山に到達したことを知っているであろう。初めは紀元前219年、皇帝即位の三年目であり、当時彼は東方の郡県を行き、渤海に沿って東進し、黄県、腄(つい)県を通行して成山を訪れた。成山が秦の始皇帝を二度も引き付けたのは、当時の人々が「天の尽きる頭(みさき)」と見做していただけではなく、ここが「太陽神」を祭る聖地であり、不老不死と、統治を強固にすることを追求した始皇帝にとって特別な意義があったのである。

斥山と成山はほぼ近く、始皇帝が二度成山を訪れた際には斥山にも立ち寄った可能性がある。「坼禁丞印」の「禁」の字は、古代にはいつも皇室の禁域や禁苑に関連しており、「禁丞」とは皇室施設を管理する役人である。

この封泥の発見は斥山一帯に当時「禁丞」が管轄する官庁が存在したことを示しており、秦の始皇帝の東巡という背景むすび付けると、この機構は皇室の行宮を管理するために設立された可能性が高い。

『読史方輿紀要』には、文登県の東180里には「秦皇宮」が存在したことが明記されており、秦の始皇帝が東遊びの際に設立したという標記がある。祭る文登県の東北120里にも望海台があり同様に始皇帝の時代に築かれたものである。文登県と斥山・成山は山東省東部の沿岸地域に属しており、これらの記録は当時の始皇帝がこの一帯に行宮や高台を建設したという史実を裏付けており、「斥山」に始皇帝の行宮があったという推論に説得力を増していないだろうか。

小さな封泥であるが、まるで鍵のように忘れられた歴史を解き開いた。「坼禁丞印」の発見は斥山を我々の視野に入れたばかりでなく、秦の始皇帝の東巡の重要な立ち寄り場所の一つであったことを証明した。