
斉の景公が初めた芝罘での海上遊覧は、漢代の学者劉向の『説苑』に「斉の景公 海上に遊びて之れを楽しむ、六月にして帰らず」と記載しており、活動の広大さ、影響の深さを物語る。秦以来、転附は初めて「芝罘」と呼ばれた。秦王嬴正が戦国七ヶ国を統一してから、五度天下を巡幸したが、その内三度芝罘を訪れている。漢の武帝劉徹も何度も東巡したが、最も有名なのは太史3年(紀元前94年)に芝罘に登り、大海に臨むと「山が万歳と称した」ことである。こういう活動は、皇帝の遊覧と軍事的色彩のある政治活動であった。
これ以外にも、幾度もの重要な海上軍事活動があり、其中デモ中国史上初の大規模な渡海作戦は、芝罘に集結して、芝罘湾から出発したことはあまり知られていない。
漢の武帝はたぐいまれな才能と野心のある君主で、彼は東南沿海を統一してから、すぐさま北方の朝鮮は清に属した。前漢の初めに、遼東の古城は至水(現在の清川江)の境界に修復され、燕王の管轄に帰属した。漢の恵帝元年(紀元前194年)、燕王人 衛満学者1,000人余りの人を率いて「東走して塞ぐを出、浿水を渡り、秦の故空地 上下鄣に居」して、自ら韓王を名のり、都を王険に建てたが、史上これを衛氏朝鮮という。
前漢時代、衞氏朝鮮は(漢の)国外の臣下となり、遼東太守の管轄をうけた。衛氏王朝は第三代右渠の時に漢朝との関係を断った。また中国から朝鮮を経由して日本へ至る行路も断絶した。元封二年(紀元前109年)、漢の武帝は渉何を使者として王険に派遣して衞右渠へ帰順を勧告した。右渠は拒否し、裨王長を派遣して渉何を帰国させた。一行が須水に到着すると、渉何は従者に朝鮮の裨王長を殺害するように指示した。漢の武帝はこれを聞くと渉何を追求するどころか、遼東東部都医尉に任命したので、これは朝鮮の激怒させた。
衞右渠は兵を出し遼東郡を襲撃して渉何を殺害させた。これで戦争が勃発した。この年の秋に、漢の武帝は兵を出して朝鮮へ進攻したが、一路は楼船将軍(軍艦長)荀彘が陸軍を統率して量とを出発して渡川し、また一路は楼船将軍楊僕が海軍5万人を統率して、膠東芝罘から渤海を渡り朝鮮に上陸して王険城を直接攻撃した。
漢代の水軍は楼船軍と言った。中国の武装の編成で正式に水軍を設置したのは前漢に始まる。『文献通考・兵考八』には、「高祖 天下の郡国に命じ能く閲(関)を引き蹶張する材力武猛なる者を選び、以て軽車・騎士・材官・楼船と為し⋯⋯。平地は車騎を用い、山阻は材官を用い、水泉は楼船を用う。」と記載する。また『漢書・刑法心』には、漢の武帝が東南海沿岸の統一の戦争を発動した時に「内に七校を増し、外に楼船有り、皆歳時に讲肆して、武備を脩む。」と記載する。この二つの記録は、楼船軍は屯騎(騎兵)、歩兵など七つの校尉官の他に、河川沿海の地理条件と防備の需要に基づき設立されたもので、漢代の郡国の兵制に帰属する軍備である。郡国の軍兵は中央の王朝に属し、郡主(知事)は管轄権は行使できたが、軍を発動することはできなかった。軍を発動するには皇帝の虎符と行馭符は必要であった。
楼船の軍士は「楼船士」または「楫濯士(しゅうたくし)」「棹卒(とうそつ)」とよれば、多くは漁師や水産業の家庭出身者が任務にあった。その後服役年齢は23歳から56歳であった(『漢書儀注』)。
前述の通り、漢代の水軍は郡国の兵隊に属し自然で常任の指揮官はなかったので、『漢書』の百官表にも楼船の官職の記載はない。楼船軍の作戦を統帥する指揮官は、征戦中に臨時に任命された例えば『史記』や『漢書』の名伝記には、伏波将軍博徳・馬援・楼船将軍楊僕・段志、戈船将軍帰義越侯厳、下瀬将軍帰義越侯甲、横海将軍韓説、橫海校尉劉福らの人がいる。これらの将軍の等級や職務の大小は史書中には明確な区分が見えないが、中でも伏波将軍の職務が最も高かったと見られる。『後漢書・光武帝紀』によれば、漢の光武帝が交趾郡(こうし郡、ベトナム)に出兵した時に、楼船将軍段志は伏波将軍馬援の指揮下にあった。漢の兵制では、「素より将を立てず、擁兵専制の虞れを無くす」と規定したので、事柄により任命をし、事柄が終了すれば官職を解き、兵士は守備地に帰還させて。そのため漢代には常設の水軍部隊はあったが、水軍の将官は常設しなかった。平常時の楼船の官吏と訓練は、軍事指揮権のない官職が担当した。
漢代水軍の軍艦は、春秋戦国時代を基礎として更に発展しており、漢代の文献には、楼船、朦艟(もうどう)、先登、赤馬、斥候、檻など数種が見られる。楼船は主に兵員を輸送する軍艦であり、そのほかの船舶は補助あるいは特殊専用の軍艦である。例えば、敵の艦隊に衝突させる「艨艟」、速攻攻撃をする「先登」、先登と併用する「赤馬」である。楼船は春秋戦国時代に始まり、漢代に興隆し、宋代まで永続して使用された。『史記・南越尉佗傅』の裴駰『史記集解』には応劭の説「時に越を撃破たんと欲すれば、水に非らざれば至らざる、故に大船を作る。船上に楼を施し、故に号して楼船と曰くなり。」を引用している、『史記・平淮書』にも「是の時、越 漢と🚢を用(もち)いて戦逐せんと欲し、乃ち多いに昆明池を修し、観(たかどの)を列し之れを環らせり。楼船を治むること、高さ十余丈、旗幟を其の上に加へて、甚はだ壮なり。」という。この二つの記載の説明。1、ここで説明している楼船は民間の楼船ではなく、「戦闘」用の軍艦である。2、この船体は高大であり、上部には形状の異なる大小様々で彩色された旗幟を立てて、大変壮観であった。後漢時代になると「露橈(ろどう)」と「冒突」二種の楼船が現れ、前者は櫂を船外に露出しているので名づけられ、後者は「觸冒にして唐突に取るなり」で、つまり船首に敵船に体当たりする衝角を装備しているものである。
『後漢書・公孫述伝』に、後漢では更に「十層赤楼帛蘭船」を建造したが。この船もまた楼船である。
漢代の楼船軍は郡国の軍隊のためのもので、原則として外郡を基地としており、例えば豫章、寻阳、廬江、枞陽、会稽、句章など、主に江淮以南に配置された。しかし、北方の斉地にも楼船軍とその基地があり、例えば朝鮮に攻撃した楼船は、現在の山東半島から動員・出発した。現存史料と考察によれば、北方の海軍基地は博昌(現在の山東省博興県、小清河河口付近)に設置された。小清河は済南から高苑県から博昌を通り、莱州湾へ流れ込んでいます。済南より東、淄博より北の全ての河川は博昌に合流し、海へ流入する。およそ海上の漁獲や製塩やそ小清河と大清河の様々な産物は全て博昌に集積され、当時、博昌は北方における重要な港であった。
『漢書・卜式伝』には、「臣愿与子男的及臨淄習弩,博昌習船者請行(臣願うらくは、子男と共に淄博の習弩、博昌の習船を習う者と与(とも)に行かんことを請う」と記載しており、博昌は漢代の海軍拠点の一つであったことが伺える。
楊僕は命令を従い、まず芝罘湾に斉兵7千人を集結させ、5万の水軍の先鋒として海を渡った、彼らは列口(南浦江の河口)に上陸し、荀彘の軍が到着する前に王険城へと急行し、単独で攻撃を開始した。朝鮮の軍は当初城門を守ったが、楊僕軍の兵力が劣勢であることに気づき、反撃を開始した。楊僕の先鋒郡は大敗を喫し、その後海を渡って援軍を派遣したが、これも敗北した。彼らは山中に撤退して残兵兵力を集結させ、荀彘の軍の到着を待って再び戦闘を開始した。
荀彘の先鋒は主に遼東兵であり、主力の集結前に攻撃を先行したがこれも失敗した。その後荀彘は大軍を率いて渡江作戦をしたが再び挫折してしまった。
楊·荀両軍は王険城下で軍隊を合流し、それぞれ城南と城の西北から攻撃したが、統一の指揮に欠けて、両軍が協力しなかったので数ヶ月も攻め落とせなかった。統一指揮と両軍の行動協調のために、漢の武帝は済南太守公孫遂を統帥の担任に向かわせた。公孫遂は朝鮮に到達すると、武帝の意向に背き荀彘を持ち上げ、楊僕を投獄して、楊軍を荀軍に編入したので、深刻な結果に陥り、混乱していた漢軍を更に混乱させた。
元封3年の夏、漢軍を整理すると荀彘の指揮の元に王険城を再攻撃した。城の堀壁がせめて破られそうになると、朝鮮尼谿宰相は右渠を殺害して投降したので、朝鮮は平定された。漢の武帝は真番、臨屯、楽浪、玄菟四郡を設置し、漢朝の版図に収めた。これが明代の詩人が「玄菟」で朝鮮を表す一説となった。
2,100ねんあまりの前に、楊僕が率いた5万人の水軍の渡海作戦は、中国古代海軍の大規模な渡海作戦の先例となった。
























