フレンドリー山東(威海李君)

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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君も元々このような「枇杷(琵琶、びわ)」だった

フレンドリー山東(威海李君)

嘗て杜牧が詠んだ「ぶどう美酒夜光の杯、飲まんと欲すれば琵琶馬上に催す」という詩でも登場する琵琶は、誰もが知る伝統楽器です。ですが、「首が曲がった琵琶」を見たことはありますか?今回は其の「曲頸琵琶」についてご紹介します。

どうして「首が曲がった」琵琶があるのであろう?

1975年、江蘇省邗江県蔡荘の蜀崗山で、五代時代の古墓が発見されました。そこから出土したのは、他の古墓で良く見られる青銅器や金銀器ではなく、殆どが木製品でした。少量の陶磁器も見つかりましたが、特に注意されたのは、ある木彫の琵琶です。


その木彫琵琶は、素朴かつ端正なデザインで、滑らかな曲線を描き、材質は桫欏(さくら)という木。本体は中が詰まっており、全体にシンプルで飾り気のない木目が千年以上の時を経た古雅な雰囲気を称えています。

特に珍しいのは、細く長い首の部分が直角が曲がっていることです。更に、弦柱(糸巻き)も4対あり、「四弦四柱」の形式をしています。


ただし、この木彫琵琶には弦を張った痕跡がないため、実際に演奏に使われていたわけではありません。隋・唐・五代の次代に流行した胡琵琶(こびわ)を模して作られたもので、五代時代の曲頸琵琶の実物としては全国的にも非常に珍しいものです。

「琵琶には直頸(ちょっけい)と曲頸(きょくけい)がある」と聞くと、驚かれるかもしれません。

琵琶は「撥弦楽器の王」とも呼ばれる楽器で、その名の由来は、弦を外向きに弾く枇(ひ)」と、内向きにかき入れる「把(は)」という演奏法からきていますが。つまり、琵琶(ピーパ」は、その奏法を名前に冠した珍しい楽器なのです。

学術的には、古代の琵琶は大きく「直頸琵琶」と「曲頸琵琶」に分かれます。直頸琵琶は漢代に登場し、例えば「秦琵琶」は四弦十二柱を持ち、直線的な棹(さお)が特徴で、「秦漢子」(四十絃曲棹琵琶の撥奏芸妓)とも呼ばれ


五代・彩絵散楽レリーフ、撥で四弦曲頸琵琶を奏でる楽伎。河北博物館蔵

これに対して、南朝から五代にかけては、四弦四柱の「曲頸琵琶(胡琵琶)」弦主流となりました。この「胡琵琶」は、シルクロードを経由して、ペルシャ(現イラン)から新疆を通り、中原に伝わったものです。演奏時には楽器を胸の前に横たえ、撥や指で弦を弾きます。敦煌の飛天壁画や雲岡石窟に彫刻にも、この曲頸琵琶を奏でる楽師の姿が描かれています。


隋・絵彩陶伎樂女舞俑は曲頸琵琶を抱え女俑。女楽(じょがく)の俑では、跪いて座る女性が曲系四弦琵琶を抱え、優美に奏でる姿が見られます。髪を高く結い、引き締まった眉と朱の唇、微笑を浮かべるその表情には、静かに旋律が流れてくるかのような気品が漂っている。河南博物館蔵

隋唐時代になると、琵琶は楽器の中でも特に重要な存在となり、演奏家は高い社会的地位を誇りました。宮廷の女性達も、心を表現する雅趣として琵琶を愛好しました。


『韓熙載夜宴図』の中の曲頸琵琶を奏でる女子。五代・顧閎中、故宮博物院蔵

中国は古代より礼楽の邦であり、中国器楽の演奏の伝統の源流は遥か長い。上代には中国人は伝統的な古代楽器を製造材料によって金、石、陶土、皮革、糸(絹糸)、木、匏(瓢箪)、竹の八種に分類して、「華夏八音」と言った。


新石器時代・賈湖骨笛、河南博物館。

8,000年余り前、賈湖の古代人は少しずつ実験と改良を重ね、五つ、七つ、更には八つの穴のある骨笛を作り出し、中国の古代音楽の起源神話を創造した。


新石器時代・陶塤、浙江省博物館

壎(ケン、中国オカリナ)は中国最古の吹奏楽器の一つで、その音色は天然古朴、うら寂しく物悲しいので「立秋の音」と称されている。


漢・龍紋漆木瑟 長沙博物館蔵

瑟(しつ、おおごと)は中国の古い民族楽器であり、その起源は遠古の時代に遡る、音楽の表現力が豊富であり、秦漢時代には雅楽の主要な楽器となった。


戦国・曾侯乙編鐘 湖北博物館

編鐘は、大小の青銅鐘を順次編成した打楽器である。戦国早期の曾侯乙編鐘の音域はオクターブ半を誇り、中心音域には12個の半音が完備している。現代耳にする音楽の殆ど全てが演奏可能であることは、戦国初期の中国には既に12音律が実践されていたことを証明している。

古代の人々が耳を傾けていた楽曲は、時を流れと共に消えてしまったわけではありません。現代においてもなお、幾つかの伝世の古楽を鑑賞することができ、その音楽に込められた豊かな文化的深みと、独特の東洋的な美意識を感じ取ることができます。


三伏の暑さが続く今、お勧めしたいの戦国時代の「蚊除けグッズ」!

フレンドリー山東(威海李君)

現在は三伏の時期で、蚊などの虫が活発です。花露水(虫除けスプレー)を使ったり、蚊取り線香を焚いたりしている皆さん。約2,000年前の楚の貴族は、にっこりと微笑んでこういうかもしれません。「お勧めの“蚊除けアイテム”がありますよ、しかも香り付きです」と。今回は、この「鳳紋薫杯(ほうもんくんはい)」を三つのポイントからご紹介します。

戦国時代の「蚊除け➕アロマディフューザー」、香がほのかに漂い、蚊の悩みとさようなら!

戦国時代、楚の地では夏になると蚊が大量に発生しました。そんな中で蚊の被害を避ける手段として使われていたのが「薫杯(くんはい)」です。


私達も良く知る楚の詩人・屈原(くつげん)は、『楚辞』の中でたびたび蘭(らん)、芷(し)、杜衡(とこう)、蕙(けい)、杜若(とじゃく)、辛夷(しんい)などの香料を詠んでいますが、薫杯は正にそれらの香草を燃やすための器具です。

鳳紋銅薫杯は、湖北省荊門市の包山第2号墓から出土しました。この墓の主は楚国の「左尹(さうん)」という高官で、後世で言えば副宰相のような地位にあります。杯の胴部には、絡み合う鳳凰模様が透(す)かし彫りされており、そこから「鳳紋薫杯」と名づけられました。


この鳳紋薫杯を使う際には、透かし模様が通気を助けて燃焼を促進し、青銅製であるため火の粉の飛散も防げます。香草を中に入れて点火すると、香りが孔から均一に広がり、蚊を寄せ付けない「香りのバリア」が形成されます。また、室内の空気を調整する効果もあります。


正にこれは、戦国時代版の「蚊除けグッズ➕アロマディフューザー」と言えるのではないでしょうか。


曾侯乙墓から出土した「九龍が巻き付く緑松石製の薫杯」、中に残された植物遺存物は香料であった。

曾侯乙(そうこういつ)の墓から出土した「九龍が巻き付く緑松石(りょくしょうせき)製の薫杯」は、出土時に杯の中に植物の遺存物が残されていました。検査の結果、それらの多くが香料系植物であることが判明しました。これは、長江中下流域の古代人が「香を焚く」生活習慣を持っていたことを裏付けています。

屈原の詩に登場する「香草美人」はどこから来たのか?

薫杯は香料を燃やす器具として、実用性と雰囲気作りの面で既に魅力に満ちていますが、実はそれ以上に深い文化的意味も秘めています。


私達が良く使う「香草美人(こうそうびじん)」という表現は、立派な人物(賢人・忠臣)を例える言葉ですが、その起源はどこにあるのでしょうか。実は、薫杯で燃やされていた香草と密接に関係しています。

「香草」や「美人」という言葉の最古の記録は、後漢の王逸(おういつ)による『楚辞章句』にあります。そこでは次のように記されています。

『離騒』の文は、『詩經』に倣って興(きっかけ)を得、類を引いて比喩し、よって善なる鳥や香草を忠誠に例え、悪しき鳥や悪臭を奸佞(かんねい)に例え、霊妙なる美人を君主に例えたのである。」

王逸によれば、詩人・屈原は香草を忠臣の象徴とし、美人を君主の象徴として詩を読んでおり、そこから「香草美人」という表現が広く使われるようになったのです。

実際に、屈原の詩集『楚辞』には香草や香木が頻繁に登場し、これらの植物が感情や志の象徴として使われています。例えば--「江に沿い芷を避けて歩き、秋の蘭を紐にして身に飾る」「桂を梁にし、蘭を棟に、辛夷を楣(かもい)に、薬草を壁にする」という表現があります。

三千年を超えて、楚人の「植物との縁」は今日にまで受け継がれ、中華民族の文化的DNAに深く刻み込まれています。例えば、湖南・湖北地方の端午節では、赤い紐を身に着けたり、菖蒲(しょうぶ)を飾ったり、艾(もぐさ)を門に掛けたり、薬草を摘んで薬を作ったりする習慣が今もなお見られます。また湿潤な南方地域では、今でも伝統的な香草を使って空気を静浄にしたり、衣類に香りを移したり、蚊やゴキブリを追い払ったり風習が続いています。


楚国の貴族の生活には、儀式的で洗練された感覚が溢れていた

1965年の冬、湖北省江陵県の望山一号墓からは、春秋戦国時代の青銅製の宝剣が発掘されました。この剣こそ、国宝として広く知られている「天下第一の剣」こと、越王勾践(えつおうこうせん)の剣です。


この望山一号墓からは、鳳紋薫杯に似た青銅製で透かし彫りの薫杯も出土しています。


また、他の楚国の貴族の墓から様々な文様の透かし彫り薫杯が発見されており、「薫香」は楚国の貴族の日常生活の一部であったことが伺えます。


屈原の『離騒』には、「佩(お)び紛(まぎれて)其の繁き飾りをし、芳(こうば)しき香り満ちてその章(あや)をなす」と記されており、楚の貴族たちが如何に香りの漂う美意識に満ちた生活を送っていたかが伺えます。

薫杯から立ち上る煙と香りは、楚の魂を千年の時を超えて今に伝えています。それは、単なる蚊除けの道具ではなく、

中国人の心に深く根ざしたロマンティックな「儀式感」そのものなのです。一筋の草木の清らかな香りで混濁した世を凌ぎ、美しい器で持って身と心を癒すーー楚人の美意識が今も息付いています。


「目を銅鑼のように見開く」の、その“銅鑼そのもの”が現れました。

フレンドリー山東(威海李君)

「目を銅鑼のように見開いて、稲妻のように鋭(するど)い眼差しを放つ」--これは、多くの人の子供の頃の記憶に残る歌の一節です。その中に登場する“銅鑼そのもの”が見つかりました。

「大きな丸い目、鷲(わし)鼻」--古代蜀の人々の想像力を侮っ(あなどる)てはいけません。

銅鑼と聞いて、貴方の頭に浮かぶのはこのような形ではないでしょうか?


それは想像力が狭っているのかもしれません。3,000年以上前、古代蜀の人々が作り出した銅鑼はこのような姿をしていました。


目は丸く、鷲のように曲がった鼻が目立ち、前後には羽のような翼が付き、その両面には羽根状の模様が施されています。


牙(きば)のような形をした「鈴舌(れいぜつ)」も良好に保存されています。銅鑼を振ると、鈴舌が本体にぶつかり、鳥の囀(さえず)りのような澄んだ音を響かせます。非常に巧みな工夫が施されています。


小さな道具でも、大きな役割を果たします。

銅鑼は、中国で最も早く現れた“舌”のある青銅器であり、古代の「八音」の内「金」に属する楽器です。「八音」とは、西周時代に、金・石・糸・竹・匏・土・革・木の8種類の素材に基づいて楽器を分類した体系を指します。

1986年、三星堆遺跡の第2号祭祀坑からは、43個の銅鑼が出土しました。中には、上述の青銅器の単独で使用できる鈴も含まれています。


更に、セットで使用されたものもあります。ある青銅鈴は出土の際、銅製の吊り下げ架と一緒に見つかりました。吊り下げ架には銅鈴や銅製の札のような装飾が掛けられており、銅架・銅鈴・銅飾の三つの組み合わせて使用されていたと推測されます。


三星堆遺跡から出土した銅鈴のセットは、想像力に富んだ造形と、一定の音響特性を兼ね備えており、中国殷商時代の西南地域における例楽文明の起源研究にとって、重要な実証資料となっています。

なぜ三星堆ではなくこれほど多くの銅鈴が見つかるのでしょうか?

銅鈴は旋律性のある音楽を奏でることはできますが、鳴らした時に出る澄んだ音は、古代の人々にとって「神と通じる」「邪が祓う」「場を清(きよ)める」といった効果があると信じられていました。


専門家達は、三星堆から出土した銅鈴・銅牌状の飾り・吊り下げ架など多数の祭祀用具のセットを総合的に検討し、殷商時代の古蜀の人は、銅鈴を祭祀活動における楽器として用いていた可能性が高いと判断しています。

銅鈴の音を鳴らし、更に舞を加えることで、天地・人・神との交信を意図していたのかもしれません。

芸術的な美しさ、実用的な機能、そして義式における精神的な意味を兼ね備えた、神秘的な古蜀文明の工芸は、常に私達に驚きをもたらしてくれます